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第28話 赦し

 頭を撫でる、蓮の手のひらがあたたかい。  葵はそっと身体を離して、泣き濡れた顔で蓮を見つめた。  蓮の瞳も、うっすらと潤んで揺れている。こんなにも人間らしい蓮の表情を見たのは、いつぶりだろうか。葵は泣き笑いの表情を浮かべ、そっと兄の頬にキスをした。 「兄さん、ごめん。今まで本当に、世話をかけて悪かった」 「謝ることはないよ。僕が強くいられたのは、お前のおかげだ。葵がいたから、僕はここまでやってこれた」 「でも俺は……」 「もう泣くな、葵。国城家の男だろ。いつまでもめそめそ泣いているやつがあるか」  蓮はそう言って葵の頬をぐいと拭い、普段と変わらぬ艶やかな笑みを浮かべた。葵ははっとして居住まいを正すと、ひとつ深呼吸をして、濡れた頬を手のひらで拭う。 「……すまない。つい」 「ふふ、お前は本当に純粋だな」  蓮は柔和な表情を浮かべながら、ゆっくりと首を振る。そしてふと顔を上げ、今度は結糸の方へと目線を向けた。結糸が怯えているのではないかと思い、葵はすぐに後ろを振り向いたが、結糸もまた、まっすぐに蓮を見つめている。 「君は、オメガを否定してきたと言っていたな。どういうことだ」  蓮に声をかけられても、結糸はさほど動じる気配を見せなかった。葵のジャケットを胸の前で搔き合せ、結糸は一歩二歩と躊躇いがちにこちらに近づいてくる。葵はそっと結糸の傍らに立ち、もう一度肩を抱いた。結糸はどことなくほっとしたような顔で葵を見上げ、愛らしい唇に微笑みを浮かべる。そして、とつとつと語り始めた。 「お、俺は……蓮さまのような過酷な生き方をしてきたわけじゃないし、家のこととか、葵さまのこととか、守るべき大きなものがあったわけじゃありませんでした。でも、オメガだと分かって、色んなものを諦めて、失って、これまで生きてきた自分自身が消えてしまうような気になって……すごく怖かったです」 「……そうか」 「だから……、あの、蓮さまのお気持ちが分かる、だなんて言ってしまうのはおこがましいことなんですけど。でも、……でも俺、蓮さまがアルファに囲まれながら仕事をこなしてきたってこと……すごく、すごく勇気と覚悟が必要だったんだろうなって思います。いつ気づかれるか、いつ捕食される対象になるか分からないのに。……これって、すごく怖いことだと思うんです。けどそこまでして、頑張って頑張って、一人で戦ってきた蓮さまのことを、俺……ほんと、すごいって思います。並の人間ができることじゃないし、さすが蓮さまだなって。さすが葵さまのお兄さまだなって……あの、すみません。すごいすごいって、あの、語彙力なくて申し訳ありません……」  しどろもどろになりながらも、結は一気にそう語った。必死で言葉を選んでいるせいか、結糸の顔は真っ赤だし、ジャケットを握り締める手は震えている。でも、結糸はどうしても、蓮にその言葉を伝えたかったのだろう。蓮と同じ、オメガという性と運命に翻弄されたものとして。 「あ、あの。でも俺……葵さまと出会ってから、オメガでもいいかなって思うようになったんです。これまではずっと、オメガである自分を否定し続けてきました。発情が怖くて、後先考えずに抑制剤を飲んで、変わってしまった自分の身体を忌まわしく思い続けてきました。でも……でも、葵さまが俺を求めてくれたから、俺、変わることができたんだと思うんです。葵さまは俺のことを、一人の人間として扱ってくれました。オメガだからとかじゃなくて、ちゃんと俺のことを見ていてくれた。性を偽ったことは、本当に申し訳なかったと思ってます。でも俺は、葵さまと出会えて、本当に幸せです。葵さまがいてくれたから、俺は……強くなれたんだと思うんです! ……あの、すみません。いっぱい喋って……」  熱のこもった結糸の言葉を聞き、蓮は何を思っただろう。必死で想いを言葉にする結糸を愛おしく感じながら、葵はそっと兄の表情を窺った。  蓮は静かな瞳で、真っ赤になって俯いている結糸を見つめていた。いつぞや、結糸を刺すような目つきで睨みつけていた蓮の姿は、今はもうどこにもない。結糸の言葉のひとつひとつを真摯に受け止め、心の中で反芻しているような表情だった。 「……なるほどな」  そして一言、蓮は噛みしめるようにそう言った。そして葵の方へと視線を戻し、蓮は穏やかな声でこう言った。 「……もういい、好きにしろ」 「え? 兄さん……それって」 「自由にしろ、と言っているんだ。僕はもう……疲れたよ。この家のため、葵のためと、頑なに気を張って生きてきたけど……もう、それには疲れたんだ。お前たちの行動に、いちいち目くじらをたてることにもな」 「じゃ、じゃあ……俺は、結糸と番ってもいいのか?」 「……ただ、跡継ぎはしっかり産んでもらう。君も、国城家の人間としてふさわしい品格を備えるよう、それなりの努力はしてもらうからな」  蓮はきびきびとした口調で、葵と結糸に向かってそう言い放った。 「兄さん……!」  ようやく、兄の許しを得た。安堵と高揚がないまぜになった感情が湧き上がり、葵は思わず結糸をぎゅっと抱きしめる。  結糸のそばに一生いられる。結糸のとなりで生きていくことができる。結糸を家族に迎えることができる……待ちわびていた幸福が、葵の表情を一段と明るく光り輝かせた。 「兄さん、ありがとう……! あぁ……結糸。良かった……!!」  しかし結糸は、どことなく呆然とした表情で、葵のされるがままになっている。そんな結糸の呆けた表情を見て、蓮が小さく吹き出した。 「……あの……ってことは、俺……俺……葵さまのそばにいても、いいってこと……?」 「はははっ、そうだよ! 俺たち、番になれるんだ!」 「そ、そうなんだ……。ふぁ……良かった……良かった……。俺……っ、蓮さまに反対されたら、絶対葵さまとは引き離されるって……思って……ずっと不安で……」 「もう大丈夫だよ。ごめんな、俺が不甲斐ないせいで、不安にさせてたんだな。俺、これからはもっとしっかりするから」 「い、いえいえいえいえ!! 不甲斐ないなんてとんでもないです!! あの、不安は不安でも、あの、別に葵さまを疑ってたとかそういうわけじゃなくて!! あの、こっちこそ、あの、すみませ、」 「結糸、落ち着いて」  だいぶと混乱している様子の結糸を落ち着かせようと、ぎゅっと正面から抱きしめる。結糸はしばらくわなわなと震えていたが、今度はひくひくっとしゃくりあげて泣き始めた。 「あはっ……あははっ……葵さま……っ。俺……嬉しいです……俺……っ」 「まったく。泣いたり笑ったり、忙しいやつだ」 「うぇっ……ぐ……だって……ひっぐ……ううっ……」  葵が本格的に泣き始めた結糸を抱きしめていると、蓮のため息が聞こえてきた。それは、泣きじゃくる結糸を咎めるようなものではなく、親みのこめられた、のんびりとしたため息だった。 「やれやれ、仲のいいことだ」 「うぇっぐ……蓮さま……ありがとうございます……! ありがとうございます……!!」 「……なるほど。君は腹に企みを隠し持つなんてことは不可能なようだな。疑って悪かったよ」 「へ? 腹……?」  きょとんとする結糸を見て、蓮はやれやれとまたため息をついた。そして「なるほど、教えることは多そうだ」と呟く。そんな兄と結糸の姿を見て、葵はまた声を立てて笑った。 「おおい、葵!! どこにいるんだ!!」  その時、遠くから葵を呼ぶ声が聞こえてきた。陽仁の声である。  陽仁の声を耳にした途端、蓮の表情がかすかに緊張感を帯びる。そんな兄の表情を見て取った葵は、これまで抱き続けていたもう一つの仮説に、確固たる手応えを感じていた。 「あ! 主賓がこんなとこで何やって……あっ、れ、蓮さまもおいでで……。って、結糸くん!? どうしたんだその格好!?」 「あっ……えーと……その」  結糸の格好を見た陽仁が仰天している。葵のジャケットを羽織っているとはいえ、破れたシャツや乱れた髪の毛はまだまだそのままである。陽仁は結糸の元へ歩み寄り、自分もジャケットを脱いで結糸に羽織らせ、佇む三人を順番に見比べた。 「な、何があったんだ!? お前、政界の大物と談笑してたくせに、突然に目の色変えて消えて行っちまったから、みんな結構ざわついてたぞ。今は須能くんが舞を披露していて、場はだいぶと和んでいるけど」 「あぁ……すまん」 「そういえば……。葵さま、どうして俺が襲われてるって分かったんですか?」 と、結糸が不思議そうな目つきで葵を見上げる。  結糸の危機を察知した時の、ざらりとした不穏な感覚。そして、結糸が男に襲われれていた現場の風景を思い出し、葵はかすかに身震いした。 「結糸の匂いが強くなったことに気づいて、その後、ものすごく嫌な胸騒ぎを感じたんだ」 「……そ、そうなんですか?」 「そこから先のことは、実はあまり覚えてない。気づいたら、血まみれになった男が、手に……」  葵は、すっと拳を持ち上げた。何度も何度も男の顔を殴打した葵の拳は、痛々しく皮が剥け、血が滲んでいる。ぎょっとしたように顔を強張らせた結糸がすぐさま葵の手を包み込み、「早く、手当てしないと……!」と言った。 「大したことないよ、大丈夫だ」 「何を言ってるんだ。葵、お前はその生傷をきちんと手当てしてから、パーティに戻ってこい。番を得て幸せに浸りたい気分かもしれないが、今日はお前の大切な社交界デビューなんだ。急いで戻るんだぞ」 「ああ……分かった」 「番? え? どういうことだ?」  陽仁には全く話が見えないらしい。無理もないことだと思いつつ、葵は陽仁の肩をぽんと叩く。 「陽仁。俺もすぐに戻るから、兄さんと会場へ。結糸の手当てもしてもらわないといけないしな」 「えっ!? あ、おう……うん……」  葵の台詞に、陽仁は分かりやすく動揺している。そして同時に、蓮もややぎょっとしたように表情を強張らせ、すぐさまくるりと踵を返した。 「僕は先に一人で戻る。君はついてくるな」 「え!? あの、ちょっと待ってください!! 蓮さま!!」 「うるさい! 僕はお前とのんびり話をしている暇はないんだ!!」 「そ、そんな! 待ってください! 俺はあなたに大事な話が!!」  すたすたと早足にその場を去っていく蓮の後を、陽仁が大慌てで追いかけていく。ああして素直に動揺する兄の姿が珍しく、葵は小さくふっと笑った。そして、結糸の方へと向き直る。 「……怖かったろ。すぐに手当てしよう」 「あ……はい。でも、俺……嬉しくて。襲われたことなんて、もう、どうってことないですよ」  そう言って微笑む結糸が心から愛おしく、葵はもう一度結糸を抱きしめた。するりと背中に回る結糸の手が、葵をいたわるように背中を撫でる。柔らかな髪に頬ずりをすると、結糸はくすぐったそうな笑い声をたてた。葵は目を閉じ、深く深く、結糸の甘やかな香りを吸い込む。 「……結糸。大好きだ。大切にするよ」 「っ……は、はいっ……」 「ん? 兄さんはいなくなったのに、まだ緊張してるのか?」 「いえ、なんていうか。……まだ、夢の中にいるみたいで」 「あぁ……そうだな。俺もそんな気分だよ」  身体を離して結糸を見つめる。結糸は頬を上気させ、潤んだ瞳で葵を優しく見上げていた。葵は吸い寄せられるように結糸の唇に触れ、何度も何度も、甘い結糸の唇を啄んだ。 「……愛してる」 「へっ……」 「これからもずっと、俺のそばにいてくれるか?」 「もっ……もちろんです! 俺……絶対に葵さまのおそばを離れません……!」 「ありがとう。俺は……お前が愛おしくて、たまらないよ」 「ん……」  互いに引き寄せられるように、もう一度重なる唇。  遠く、かすかに聞こえてくるのは三味線の音色。向こうではきっと、須能が艶やかな舞を舞っているのだろう。  キスの合間に、結糸は幸せそうな小さく笑い声をたてた。葵もつられて、ついつい笑みを零してしまう。積極的にキスに応えてくれる結糸の身体を、葵は強く強く抱きしめた。  ――結糸の全てが、愛おしい。  結糸の優しいぬくもりを全身で抱きしめながら、葵は紺碧色の瞳に映る夜空を見上げた。  ――必ず、守り通してみせる。結糸のことも、兄さんのことも。

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