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第31話 守るべきもの

「そうです、そうです。ここをくるっと……そうそう、葵さま上手!」 「……」  その晩、葵は自室で結糸に書き文字を教わっていた。  今はパソコンやスマートフォンがあるし、自分のサインだけは英語と日本語で書けるようになった。今は取り立てて書き文字を習得することが必要とは思えないのだが、結糸が「これだけは葵さまに教えられますよ!!」と言って目をきらめかせるのものだから、葵は渋々夜も勉強に勤しんでいるのである。 「はぁ……。ひらがなの練習なんて泣けてくる。書く方は英語だけでいいんだって」 「いけませんよ、母国語なんですから。それに、将来子どもが生まれた時、文字が書けなかったら恥ずかしいでしょ」 「……まぁ、確かに」 「はい、じゃあ次行きましょうか。は行です、は、ひ、ふ、へ、ほ」 「……はいはい」  左手にボールペンを握ってノートに向かう葵の隣で、結糸は満足げな表情を浮かべつつ自分の勉強に向かっている。こうして並んで勉強するというのもまた一興だなと思いつつ、葵はそっと結糸の横顔を見つめた。  ——セックスの時は、あんなにとろけた顔をしていたのに……。集中している時の結糸の顔、キリッとしててすごくかわいい。  ふと、そんな思考に傾いてしまえば、思い出すのはあの夜のことだ。番の契約を結んだ、あの夜の交わりのこと。  初めて結糸の姿を瞳に映しながら、セックスをしたときのことを。 「あっ、ちょっと葵さま。手が止まってるじゃないですか」 「……え? あ、うん、ごめん」 「どうしたんですか? 何か仕事のことでも考えてた?」 「ううん。……セックスの時の結糸、可愛かったなぁって」 「……へっ!?」  葵は頬杖をつき、唇に笑みを浮かべて結糸の反応を窺った。すると結糸はじわじわと顔を赤く染め上げて、ふるふると震え始める。 「な、な、なんなんですかいきなりそんな!! 涼しい顔でなんてこと考えてんすか!」 「勉強してる時の結糸も、なかなか色っぽいなぁと思ってさ」 「えっ!? ちょ、や、やめてくださいよ! そ……そんないやらしい目で俺を見ないでくださいってば」 「いやらしい目? 今の俺?」 「いやらしいですよ! もう、勘弁してくださいよ……」  結糸は真っ赤になりながら、あたふたとテキストをめくったり、葵のノートを覗き込んだり、傍らに置いていたコーヒーをがぶ飲みしたりと落ち着かない。葵は軽やかに笑いながら、結糸の頭をぽんぽんと撫でた。 「ごめんごめん、ついな」 「まったくもう! ほらほら、早く『はひふへほ』、書いてくださいよ!」 「ああ、そうだった……」  ぷりぷりと怒られることさえ楽しくて、葵はついつい笑みを漏らしてしまう。平仮名の練習をする葵の隣で、結糸の口からもまた、小さく笑う声が聞こえてきた。  開け放った窓からは、ひんやりとした初夏の夜風が吹き込んでくる。夏虫の声をBGMに、ふたりは肩を寄せ合って、もう一度軽く唇を重ねた。  唯一無二の存在を紺碧色の瞳に映しながら、葵はひそかに胸の中で誓った。  この平穏で愛おしい時間(とき)を、必ずこの手で守り抜いてゆくと。

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