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第30話 兄との対話

「なるほど、ついに番になったんだな」 「ああ、ようやく」 「……そうか。おめでとう、葵」 「ありがとう、兄さん」  一週間続いた結糸の発情期が終わり、葵は数日ぶりに、薔薇の庭で蓮と朝食を共にしている。  今回は、一週間の間、まるきり結糸とセックスに溺れていたわけではない。  番が成立したあの夜。葵の服で作られた『巣』の中で、数時間に及ぶ濃厚なセックスに溺れた。葵の愛撫に乱れ、さんざん喘がされてしまった結糸は、ぐったり疲れて眠ってしまったのである。結糸には葵ほどの体力はないため、絶頂しながら気を失ってしまうらしいのだ。  初めて結糸のヒートを目の当たりにしたあの時、葵の目は見えなかった。そのため、結糸が突然動かなくなってしまったことに仰天してしまったものだが、今はしっかりと結糸の様子をその目に映すことができるため、あの時のように動揺することはなくなったのである。  結糸が眠っている間に、葵は兄に連絡を取って事情を話し、一週間の休暇をもらう手配などを整えていたのだ。そしてまた目覚めた結糸とのんびり風呂に入り、風呂場でまた行為に及び、逆上せてしまった結糸の身体を扇で仰ぎながら、ゆったりとした語らいの時間を過ごしたりと、前回とは比べ物にならないほど、まったりとした時間を過ごしたものだった。  穏やかで、幸せなひと時を過ごせるようになったのは、番の契約を結んだおかげだろうと、葵は思う。  前回は、それまで秘めていた想いや欲望が爆発し、途方もなく荒々しく、獣じみたセックスをしてしまった。視覚が失われていたぶん、身体に感じる結糸の感触はあまりに鮮明で、淫らで、葵の全神経は完全に熱に侵されていたのだ。初めての性行為ということもあり、その甘く激しい快感はあまりに蠱惑的すぎた。本能に突き動かされた、あまりに荒々しい交わりだった。  それに比べて今回は、身も心もとろけるような、甘い甘い蜜のような時間で――……。 「こら葵、ぼうっとするな。顔が緩いぞ」 「えっ……あぁ、すまない」 「まったく……。何を考えていたんだか」  蓮はやれやれと首を振り、シンプルなオフホワイトのティーカップに注がれた紅茶に口をつけた。さらりとした白いリネンシャツに、ざっくりとした藍色のカーディガン、淡いグレーのコットンパンツという寛いだ格好をする兄と二人で、爽やかな朝のひとときを過ごしているというのに、葵の脳内はまだまだヒート時の記憶を引きずっている。葵はごほんと咳払いをして、フレッシュグレープフルーツジュースを一気飲みした。 「今……どんな気分だ?」 「え? 何が?」 「その……番を得る、というのは、どんな感じなんだろうと思って」 「……兄さんの口から、そんな質問が飛び出してくるとは、驚きだな」 「う、うるさいな。ちょっと興味があるだけだ」 「ふうん……」  葵はしげしげと兄の顔を見つめた。  少し髪が伸び、ゆるくウェーブした金色の前髪が、兄の細面と白い肌を艶やかに飾っている。今はもう筋肉増強剤の使用をやめているため、蓮は少し痩せてしまったように見えるけれど、いつになく顔色は良く、表情も柔らかくなった。そのおかげか、蓮から漂っていた頑ななオーラは、今はすっかりなりを潜めている。  葵が好まなかったあのトワレも、蓮はもうつけてはいない。まだまだ表舞台では、兄は自分の性をアルファと偽っているが、自分の家ではその仮面を脱ぐことが出来ているようだ。  最近まで葵が抱いていた蓮のイメージは、鋭い棘を持つ大輪の薔薇だった。強さと美しさを誇り、近づくものを棘で威嚇する、孤高な存在だ。しかし今の蓮からは、棘のようなものは一切感じられない。どちらかというと儚さの方が先に立ち、朝露の中でひっそりと花開く、可憐な白い蓮の花を連想させるのである。  頬杖をついた葵が、あまりにも無遠慮に視線を投げかけてくることに腹を立てたのか、蓮はちょっと眉を寄せて葵を睨んだ。 「何を見てるんだ」 「いや……兄さん、雰囲気が変わったなぁと思って」 「そうかな」 「うん。昔の兄さんに戻ったみたいで、俺は嬉しいけどね」 「……そうか。まぁ……確かにここ最近は、本来の自分を取り戻せている、って感じがするな」 「本当?」 「ああ。本当は葵との時間をもっともっと増やしたかったけど、お前はやたらと鼻が利くから、うかうか近寄れなかったし」 「俺と? もっと一緒に?」 「そりゃそうだろ。お前は僕の、たった一人の可愛い弟だもの。心底ぐったり疲れた時は、子どもの頃のようにお前のベッドで眠りたかったよ」 「兄さん……」  蓮はそう言って、ちょっといたずらっぽく苦笑する。こんなにも砕けた兄の表情を見るのは初めてで、葵は純粋に感動していた。思わず手を伸ばして蓮の手を握り、葵はじっと兄の顔を覗き込む。 「これからは、いつでも俺のベッドに来たらいいからな」 「……いやいや、本気にしないでほしいんだが」 「いいよ! 今度は俺が、兄さんを寝かしつけるから!」 「何言ってるんだ。お前にはもう、結糸がいるだろう」 「そ、そうだけど……」  口ごもる葵を見て、蓮が軽やかに声を立てて笑った。のんびりとした小鳥の声が、ぴちちと空にこだまする。 「あ、そうだ。俺、兄さんの質問に答えてなかった」 「うん、そうだな」 「番を得て、どんな気分か……か。なんていうのかな……」  葵は薔薇の庭を見回しながら、これまでのことに想いを巡らせた。  ここへ辿り着くまでに、いろいろなことがあった。  兄から注がれ続けていた、深い愛情。  閉ざされた視界の中、差し伸べられた手のあたたかさ。  結糸と出会い、育んできた穏やかな日々のこと。  生まれて初めて、この手で愛し抜きたいと願う相手を見つけたこと。  そして、その想いを貫き通すことで、須能を傷つけてしまったこと……。  永遠に続くかのような闇の中で感じていた、恐れと不安、そして諦観。  視界を取り戻し、この瞳に映してきたもの。  そこから得てきたものの全てが、葵の中に深く息づいている。  葵はきゅっと兄の手を握りながら、小さく息を吐いてこう言った。 「ようやくひとつに戻れた……って感じ、かな」 「ひとつに?」 「うん。なんというか……これまでは、もともと一つだったものが、二つに引き裂かれていたような……どことなく、もどかしいような気分だった。それがようやく、またひとつになれたっていうような感じがする」 「へぇ……なるほどな」 「兄さんにもいるんじゃないか? そういう相手」 「……はっ? な、何を馬鹿なこと言ってるんだ! いいか、国城家に男にそういうロマンチシズムは!!」 「はいはい、分かってるよ」  突然怒ったような口調になる兄を宥めすかしながらも、望まずにはいられないことがある。  これまで家のために、そして他ならぬ自分のために、命をすり減らしながらも踏みとどまってくれた兄。そんな兄を深い愛情で包み込み、安らぎを与えてくれる誰かが、現れてはくれないだろうかと。  もちろん、今後は葵が蓮を守っていく。しかし、兄弟の関係とはまた違った愛情の形を示してくれる誰かが、蓮のそばにいてくれると心強いのに……と。  しかし家族とはいえ、プライベートにずかずかと踏み込んでゆくのは野暮なことだ。葵は紅茶で唇を潤しながら、若干頬を赤らめている兄の姿をほっこりと見つめた。 「まったく、くだらないことを言ってないで、お前はさっさと結糸と子どもを作れ」 「はいはい、がんばるよ。今回はどうだろうなぁ」 「……葵、また顔が緩んでるぞ。結糸はまだ寝てるのか?」 「いや、今朝は勢田と隣町の朝市へ買い出しに行くと言って、朝の四時過ぎに出て行ったけど」 「……。……あのなぁ、葵。結糸はもう、お前の番だ。ということはつまり、国城家の人間になったんだ。いつまでも下働きをさせておくわけにはいかないんだぞ? ひょっとしたら子を孕んでいるかもしれないっていうのに、夜も明けきらないうちから朝市だと? そんな無茶を許してどうするんだ!」 「う……うん、ごめん。結糸があんまりにも楽しそうだったから……」 「はぁ……全く、お前もまだまだ認識が甘いようだな。それにだ、結糸には学んでもらわなけりゃならないことが山のようにあるんだぞ? 家のことをさせるんじゃなく、今は真面目に勉学の時間を取ることが最優先だろう! お前からも、きちんと言い聞かせておかないとだめじゃないか。きちんと自覚をもって行動してもらわな、」 「兄さん、落ち着いて。そのへんは分かってる、分かってるって」  葵はぽんぽんと蓮の背中を叩き、突然熱くなり始めた兄を宥める。蓮はまだ説教したりないといった表情だが、一応口をつぐみ、透明な皿に盛られた木苺に手を伸ばす。葵もまた木苺を口にしながら、どことなく不機嫌そうな兄を見つめて微笑んだ。 「兄さんが俺たちのことをちゃんと考えてくれてて、嬉しいよ」 「べ……別に。僕はただ、この家のためにと思って言っているだけだ」 「うん、そうだよな。ありがとう、兄さん」 「……何をニヤニヤしているんだ。いいか、僕は今説教を、」 「葵さま、蓮さま! ただいま戻りました!」  さらなる説教が始まろうとしたその時、薔薇の庭の入り口の方から元気な声が響いてきた。見ると、数十メートルほど向こうにある庭の入り口の方から、結糸が大きく手を振りながら駆けてくる。大きな麦わら帽子とラフなパーカー、そして裾を折り返して細っこい足首を見せ、足元は履き古したスニーカーという格好だ。  葵としては、結糸が珍しく年相応な格好をしていることに愛おしさを感じずにはいられないわけだが、『国城家の人間としての品格』についてはとかく口うるさい蓮に何を言われるやら……と、葵はこっそり兄の姿を盗み見た。  しかし意外なことに、蓮は穏やかな微笑みを口元に湛えている。葵はちょっとびっくりしてしまった。 「隣町の朝市、規模がすごく大きくて、珍しいものがたくさんありましたよ! ここらへんじゃ取れない珍しい野菜とか、果物とか、たくさん仕入れて来たんです! あとでみんなで食べましょう!」  そう言って、生き生きと満面の笑みを浮かべる結糸の表情もまた、さらにぐっと明るくなった。  あのパーティの日以来、結糸は蓮を闇雲に恐れることをやめ、少しずつ蓮との距離を近づけつつある。  蓮もまた、オメガという同じ宿命を背負った結糸に対し、少しずつ心を許しつつあるように見える。最愛の兄と結糸が、こうして少しずつ親しくないっていくようすを見ていると、幸せでたまらない。葵の表情も、自然と綻んでしまう。 「こら結糸、国城葵の番ともあろうものが、なんて格好をしてるんだ」 「えっ? あ……すみません! でも、朝市ですもん。いつものシャツとスラックスじゃ仕事になりませんし……あ、それよりこの果物、珍しくないですか? 南国のフルーツなんですって、そのまま食べれますから、おひとつどうぞ」 「……ありがとう」  結糸は斜めがけした布バッグから鮮やかな黄色の果実を取り出し、蓮にすっと差し出した。朝市がよほど楽しかったのか、結糸はいつになく蓮に対して気安い態度だ。蓮もこれには拍子抜けした表情で、素直に果物を受け取っている。葵は笑ってしまった。 「葵さまも、どうぞ」 「ありがとう。よかったな、珍しいものが見れて」 「うん、すごく楽しかった! 今度は葵さまも行きませんか? 早起き苦手だろうけど、きっとすごく楽しいですよ」 「ああ、そうだな。今度は俺も誘ってくれ」 「はい!」  葵を見上げる結糸の表情が明るい。そして、傍らで果物を口にしながら再び説教を始める兄の表情も、とても優しい。  そんな彼らの表情を、この瞳に映すことができる。彼らのそばで、葵も穏やかに笑っていられる。  ――幸せだな……。  口に含んだ黄色い果実はとても甘く、ほのかに異国の匂いがする。  とても、とても美味だった。

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