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2、仮初めの安堵
ある日、蓮は綾世医師の自宅に赴き、診察を受けていた。月に一度か二度、定期的に設けられたこの時間を、蓮は心から待ち望むようになっていた。ここでならば、自分をアルファと偽る必要がないからである。
「蓮さま、体調に変化はありませんか?」
蓮の白い腕に注射針を挿しながら、綾世清一医師は穏やかな声でそう尋ねた。蓮はゆっくりと首を振り、「特にありません」と単調に答える。注射器の中で嵩を増していく己の血液を見つめながら、蓮は小さくため息をついた。
「せめて、筋肉増強剤の使用はやめませんか? 頭痛と吐き気があるのでは、日常生活に支障が出るでしょう?」
「いいんです。それくらい、なんということもありませんから」
「しかし……」
「先生は、僕の意思を尊重してくださるとおっしゃったじゃないですか。僕は構いません、おかげさまで、学園内で僕をオメガと思うものは誰もいませんよ」
「……」
「それに、律先輩にも色々と助けてもらっています。大丈夫です」
「……そうですか。でも今は、これ以上強い薬は出しませんからね。検査結果次第では、投与量を減らさねばなりません。それだけは、ご理解を」
「……分かりました」
胸に、ひんやりとした聴診器の感触。蓮は深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。多少野暮ったく見える飴色の眼鏡フレームの奥で、綾世医師の目がかすかに細まる。
奥二重の物静かな目元、すっと通った高い鼻梁。綾世医師はすでに四十半ばを超えていると聞いているが、白い肌には皺一つなく、見ようによってはまだまだ二十代と言っても通りそうなほどに若く見える。
オメガが医師になる……それは、並大抵のことではない。若かりし頃のこの人の苦労を思うたび、蓮は自分も踏ん張らねばと思うのだ。
「こんなにも若い肉体に、無理をさせたくはないのですがね……」
「そういう話は無しですよ、先生。……律先輩は? 昨日から学校を休んでますよね」
「ええ、発情期なもので、自室にこもってますよ。今回もまた、学校で見つけてきたお気に入りのアルファを連れ込んでいるみたいです」
「連れ……? え? そ、そうなんですか?」
律もまた、父親に面差しのよくにた美少年である。オメガであることに関して引け目を感じている様子もなく、むしろその色気を存分に活かしてアルファの中でしなやかに生きる術を持つ、これまでにないタイプの生徒なのだ。学内では相当な人気を博しており、オメガでありながら生徒会の副会長という役柄まで得ている。
二つ年上の律は、蓮のオメガフェロモンの目くらまし役として、いつでも蓮のそばにいる。授業中はさすがに無理だが、蓮を生徒会に引っ張り込み、放課後やイベント時など教師の目が生徒から離れがちな時は必ず、蓮を守るようにそばに控えているのだ。
はたから見れば、律が蓮にべったりと惚れ込んでいるようにしか見えないだろう。学園内では『国城家の嫡男である蓮に取り入る、いやらしい軟派なオメガ』というレッテルを貼られている律であるが、本人はそのことを全く気にもしていない。律のそういう飄々とした生き方は、蓮にとっても憧れだった。
そんな律が、アルファに抱かれている。律が性に奔放であることも、アルファにすこぶるモテているということも知っていたが、まさか、本当にアルファとセックスをしているだなんて。律の淫らな一面をふと想像しまった蓮は、しばし絶句してしまった。
固まってしまった蓮を見て、綾世医師は慌てたように眼鏡を押し上げた。
「……あ! すみません。……蓮さまはもう知ってるものと……」
「い、いえ……。大丈夫です」
「すみません。我が家ではそういう話題をオープンにしているもので、つい……」
「お、お構いなく……」
綾世清一は、息子の律を自ら産んだオメガである。番う相手がいるわけではないらしいが、律を孕むに至った相手のアルファが誰なのか、綾世医師は絶対に口にしないのだ。
――この先生にも、淫らな一面があるのか……。
と、蓮は少しばかり居心地の悪い思いを感じながら、尻をもぞつかせた。
発情期を薬で抑え込んではいるものの、そのときばかりは、蓮とて淫らな夢を見る。
目が覚めると下着がべったりと濡れていて、抑えようのない高ぶりを感じて苦しかった。学校へ行く前に身体をなだめなければと思い、恐る恐る性器に触れてみることもある。
触れた瞬間蓮に襲いかかるのは、目もくらみそうになるほどの快感。自分のものとは思えないような甘ったるい声と、迸る体液。そして身体の奥に潜む甘い疼き……。
その何もかもが忌まわしいのに、どう足掻いてもアルファを求めて最奥がひくつく。欲望をコントロール出来ないもどかしさ、そして同時に蓮を苛む、堪え難い孤独の寂しさ——。そうなってしまうと、蓮は泣きながら自分を慰めることしかできないのだ。でも……。
――アルファに抱かれるなんて、真っ平ごめんだ。僕は誰よりも、アルファらしいアルファでいなければならないんだから……。
蓮は制服のネクタイを締めなおしながら、努めて冷静な声でこう尋ねた。
「律先輩も、そのうち誰かの子を産むのでしょうか……」
「さぁ、どうでしょうね。律はいつも、必ず避妊薬を飲んでいます。医師になるまでは、子を孕むことはないと思いますよ」
「医師になるまでは……ですか?」
「ええ。僕の研究を継ぎたいと言っていましてね」
「へえ」
綾世医師は微笑みながら、すっと眼鏡を外してカルテの上に置く。そしてブラインドの隙間から差し込む陽の光を眺めながら、頷いた。
「オメガがよりよく生きるために、低コストで良質な抑制剤を開発すること。そうなれば、巷で出回っている粗悪品の撤廃も進むでしょうからね」
「……ええ」
「いくらオメガ保護の法制化が進んだとはいえ、実際、社会はさほど変わっていない。相変わらず、世間は偏見に満ちていますから。人々の理解が進み、良質な薬が貧しいオメガの人々にも行き渡れば、もっと生きやすい世の中になりそうなものですがねぇ」
「そうですね……」
「それにね、律は、あなたと葵さまのためにも医師になりたいと言っていまして」
「僕と、葵のため?」
不意に弟の名前が出てきたことで、蓮は驚いたように目を瞬いた。綾世医師はゆったりと頷いて、椅子の背もたれに身体を預ける。
「今後蓮さまが第一線で活躍して行くとき、あなたの体調管理をする存在が必要でしょう? それに、今後の国城家のことを思うならば、たった一人の肉親である葵さまのご活躍を望まずにはいられません」
「ええ……でも。葵は……」
「僕の医学生時代の同期が、眼球移植手術の研究を進めているんですよ。相当に難しく、途方もなくリスクの高い手術ではありますが、動物実験では成功例も出てきている。このまま研究が進めば、きっと葵さまの視力回復の助けとなるかと思います」
「そ、そんなことができるんですか……!?」
「抑制剤の開発、そして眼球移植手術の研究……律は、この二つの研究を同時に進めていきたいと考えているようです。息子は私よりも頭の出来がいいので、ひょっとしたら、あなた方兄弟の助けとなれるかもしれませんね」
「……ほ、本当ですか? もしそんなことができるなら、僕の目を葵にあげたい! 葵が大きくなって、僕に変わって国城家の当主となるなら、僕の存在はもう不要です。僕の目を、葵に……」
思わず身を乗り出し、綾世医師の白衣を掴みながら、蓮は必死にそう訴えかけた。すると綾世医師は、大きな手で蓮の手をそっと包み込み、ゆっくりと首を振った。
「蓮さま……そんなことを言ってはいけません。葵さまにとっても、あなたはただ一人の肉親なのですよ? 兄弟が力を合わせて生きていかないで、どうするのですか」
「……でも」
「葵さまには、きっといつか、あなたの真実を語ることができるはずです。葵さまは、あなたと同じでとても聡いお方だ。きっと全てを理解して、あなたの力になってくれる」
「……でも……」
「大丈夫。微力ながら、僕らがあなたを支えます。きっと、大丈夫」
「……はい……」
綾世医師の瞳はどこまでも静かで、見つめていると心が少しずつ凪いでゆく。蓮がかくりと俯くと、綾世医師はそっと蓮の身体を抱き寄せて、暖かな体温で包み込んでくれた。
――こうしてもらってると、安心する……けど、これは仮初めの安堵だ。僕はこのひとたちに、甘えてちゃいけない。
蓮はそっと目を閉じて深呼吸をしたあと、すっと立ち上がってジャケットを羽織った。そして綾世医師に一礼し、「また来ます」とだけ告げると、綾世家の自宅兼診療所の外へと足を踏み出す。
眩しい青空が、蓮の翡翠色の瞳を焼く。眩しさに目を細めつつ、蓮はポケットから携帯電話を取り出した。
「僕だ。診察が終わった。車を回せ」
それだけ言って電話を切り、蓮はまた空を見上げた。
――アルファの顔に戻らなきゃ。僕は、国城蓮。僕はオメガじゃない。アルファなんだ……。
何度も何度も自分の胸にそう言い聞かせながら、蓮はアルファの仮面をその身に纏う。
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