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3、魂の番とは

   その一週間後、綾世律はごく普通の顔で学校にやってきた。  学園内でちらちらと目にする律の雰囲気はいつもと変わらず飄々しているが、あんな話を聞いてしまった後だからか、蓮はついつい律のセクシャルな姿を想像してしまいそうになった。そのイメージを払いのけるべく、蓮は慌てて首を振るのである。 「どうしたんです? 蓮さん」 「……別に」  そして放課後。生徒会の定例ミーティングが終わった後、律は普段と変わらぬ調子で蓮の顔を覗き込んできた。蓮はちょっとばかり気まずい想いを抱えつつ、流れるように律から目をそらす。すると律は何かに気づいたように目を瞬き、くすくすと小さく笑い声を漏らした。 「父が、何か余計なことを言ったんですね」 「べ、別にと言っているじゃないですか!」 「やっぱり。ふふ、そんなふうに僕から目をそらそうとするということは、蓮さんも人並みに、そういうコトに興味がおありということですか」 「……な、なんだと!?」  はっとして周りを見渡すも、生徒会室に残っているのは蓮と律だけであった。そろそろテスト期間が近いため、勤勉な生徒会のアルファ達は、さっさと家路に着いたようだ。蓮はちょっとホッとしたようにため息をつき、じろりと律を睨みつけた。 「こんなとこでそんな話題、やめてくださいよ」 「ふふっ、ごめんごめん。まぁ、いいじゃないですか。たまにはそういう話もしてみませんか? 気になることもおありでしょう?」 「……」  蓮は黙って立ち上がる。そして、綺麗に磨かれた窓の方へ近づくと、校舎裏にあるテニスコートで部活動に励むアルファ達を見下ろす。律は何も言わず、じっと蓮の様子を窺っているようだった。 「……い、いつから……そういうことを、してたんですか?」 「ええと確か……。最初の発情期が来て、その次の発情期の時はもうアルファに抱かれていたと思うので……十四歳、だったかなぁ?」 「えっ……? そ、そんな前から……」 「相手は中等部時代の先輩でした。たまたま父の診療を受けに来ていたところで、僕のフェロモンにあてられて……ふふっ、貴重な初めてを捧げ合ったわけです」 「……そうなんだ。その相手と、ずっと?」 「いえ、ほぼ毎回違う相手ですけど」 「えええっ……」 「今回は……ふふっ、この学校の教師です。誰とは言いませんが、なかなか燃えましたよ」 「……生徒会長のくせに」 「そこがいいんですよ。禁断の関係ほど、燃えるものはありません」 「……はぁ」  律はこともなげにとんでもないことを言い放ちながら、にっこりと艶やかに微笑んだ。予想だにしなかった返答に軽い目眩を覚えた蓮は、頭を押さえてため息をつく。 「蓮さんがどういうイメージを抱いているのかは分かりませんが、セックスってけっこう楽しいですよ?」 「えっ、た、楽しいんですか?」 「一週間ほとんど一緒にいて、身体を重ねて……これだけでも、相手との距離感はすごく縮まる気がしませんか?」 「……」 「それに、ヒートには波があるんです。落ち着いて、まともに話をすることのできる時間だってあるわけです。色々と腹を割って話しができたりすると、それまでたいして好きでもなかったアルファのことが好ましく思えたりもする。相手もそれは同じなようで、いろんなアルファから『番になって』と迫られたりしましたが……」 「番……かぁ。いい相手はいなかったんですか?」 「まぁ、彼らはそれぞれにいい男ばかりでしたから、番って不幸になるということはないでしょうね。でも、僕はそれじゃ満足できない」 「満足、ですか?」 「僕はね、『魂の番』と出会ってみたいと思ってるんです」 「魂の番? あんなの、おとぎ話とかそういうレベルのものなんでしょう?」 「まぁ、実際のあるのかどうかは分かりませんけどね。今まさに恋に落ちている二人からすれば、その相手はもう否応無しに運命の相手なのでしょうから」  律はくすりと微笑んで、父親によく似たたおやなか顔で蓮を見つめた。そして頬杖をつき、どことなく物憂げに晴れ渡った空を見上げている。 「でも、だめですね。ちょっといいなと思う相手と身体を重ねてみたとしても、運命なんて感じない。本当か嘘か分かりませんが、『魂の番』の相手と出会った瞬間、運命をより強く感じ取るのはオメガの方らしいです。運命に定められた相手の子を孕みたいと、身体の中から本能が騒ぎ、発情が促進されるとか」 「……なんだか、眉唾な話ですね」 「まぁね。けど、蓮さんにもいるかもしれませんよ? そういう相手」 「……そうかな」 「そうですよ、でもそんな相手と出会ってしまったら、あなたは自分自身の性を受け入れざるを得なくなる。それはそれで、困りものですね」 「……」  それはそうだな、と蓮は思った。もしそういう相手が現れたとしても、蓮は自分の運命以上に重いものを、すでにその双肩に負っている。運命だのなんだのというロマンチックなものに生活を左右されてしまえるほど、今の蓮には余裕がない。  それに、律はああ言うものの、自分が誰かの子を孕みたいなどと、思うわけがない――――蓮は、内心そう確信していた。  しかし、発情を抑え込むことの苦しさを知るがゆえに、律のように己を解放し、快楽に溺れることへの微かな羨望も感じずにはいられない。あの堪え難い疼きを誰かに慰めてもらえたら、どんなにかいいだろう。蓮の全てを受け入れて、身も心も包み込んでくれる誰かがそばにいてくれたら、どんなにいいだろう……と、自認したくもないような感情が微かに芽生える。  抑制剤を常用しているため、まともな発情は未経験だ。それを経験することが恐ろしくもある。もし、本物の発情に襲われてしまえば、これまで自分が頑なに守り、作り上げて来たものが、すべて瓦解してしまう。そうなれば、葵はどうなる? 国城家の未来はどうなる……そんな不安ばかりが脳内を巡り、蓮は苦しげに眉根を寄せて俯いた。 「蓮さん……そんなお顔をしないでください」  気づけば、律がすぐそばに立っている。蓮より十センチほど背の高い律は、物憂げな表情を浮かべながら蓮の頬を撫でた。綾世医師といい律といい、ふたりはいつもこうして蓮を甘やかそうとする。不意に気が緩みそうになり、蓮はとっさにその手を払いのけた。 「……僕に触るな」 「すみません。だって、そんな儚げなお顔をされると、ついつい抱きしめてしまいたくなりますよ」 「……儚げなんて、言うな。アルファには似合わない言葉だ」 「そうですね。……あなたは、誰よりもアルファらしいアルファでなければならない。すみません、つい、二人きりになると甘やかしてしまいますね」  律はそう言って、ばしばしと蓮の両肩を叩いた。目線を上げると、律は普段よりもずっと強い目線で蓮を見つめ、凛とした声でこう言った。 「僕は今年で卒業なんですよ。これからは、すぐそばであなたを守れない。そんな顔、絶対に外で見せちゃいけません。この学園の……いえ、これからあなたが対等に渡り合っていかねばならないアルファ達に、隙を見せることになるからね」 「……分かってます」 「君は国城蓮。この国を支配する、国城財閥の御曹司だ。誰よりも美しく、強くあらねばなりません。自分でも、そう思ってるんでしょう?」 「……」  ――そうだ、僕はそういう人間だ。運命だの、快楽だのというくだらないものに、踊らされている暇はない。  蓮はぐっと拳を握りしめ、すっと目を上げた。怜悧に整った顔立ちに、鋭い眼光。アルファとしての仮面。  そんな蓮の表情を見て、律は少し頬を染め、身震いをした。 「いい表情だ……はぁ……ぞくぞくします」 「律先輩。僕は、あなたの研究に期待している。どれほどの出資も厭わない。だから、必ず国城家のために成果を上げてください」 「……あ」  ゆっくりと律の腕を身体から離しつつ、蓮は律を見上げながらそう言った。その時の蓮の表情にはもう、ついさっきまでの不安定な揺らぎなどは見て取れず、国城家当主に相応しい凛としたオーラが、蓮の身体を包み込んでいる。  律は導かれるように膝を折り、蓮の手を取って指先にキスをした。若干十五歳でありながら、自然と(かしず)きたくなる何かが、蓮にはすでに備わっている。それをしかと確信した律は、蓮を見上げながら小さく安堵の笑みを浮かべた。 「仰せのままに……蓮様」

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