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4、拒絶感

   季節は巡り、蓮の高校生活もそろそろ終わりに近づき始めていた。  そんな、とある日の夕暮れ時。蓮は、屋敷に来客があることを勢田に知らされ、リビングルームの方へと歩を進めていた。招かれざる客……とまではいかないまでも、蓮にとってはあまり出会いたくない類の客であることには変わりない。  しかも間の悪いことに、今日の蓮の体調は最悪であった。四六時中気を張っていなければならない学園生活にも慣れてきてはいるものの、どうも発情期が近いようで、蓮は全身に絡みつくような倦怠感に苛まれていたのだ。こんな日は、さっさと薬を飲んで眠ってしまいたいと思っているところだが、会っておかねばならない客だ。蓮は重たい足取りでリビグルームの前まで進むと、少し背筋を伸ばして制服の襟を但し、静かにドアを開く。 「やぁ蓮。久しぶりだね」 「……お久しぶりです。政親さん」  窓辺に佇み、庭を眺めているのは、父親の従兄弟・国城政親(くにしろまさちか)。蓮が成人し、CEOとして独り立ちするまでの間、クニシロ・ホールディングスのトップを預かる男である。  政親は今年で四十八歳だが、精力に満ち溢れた若々しい容貌のなせる技か、実年齢よりもずっと若く見えた。鍛え上げられた肉体は逞しく、スーツ越しでも盛り上がった胸筋が見て取れるような、見事な体躯だ。  顔立ちにも華がある美丈夫であり、綺麗に整えられた艶のあるダークブラウンの髪の毛や、黒に近い色をした藍色の瞳が配置よく並んでいる。だが、政親の目つきにはどことなく狡猾さが見え隠れしていて、腹の中では何を考えているのか分からない男であった。  勢田が蓮の紅茶をサーブする間も、政親はじっと隙のない目つきで蓮を見つめている。観察している、と言った方が正しいかもしれない。言いようのない居心地の悪さを感じながらも、蓮は勢田をその場から下がらせた。 「もうすぐ高校も卒業だそうだね。大学へ通いながら本社の方にも顔を出すと言っていたが、大丈夫なのかな?」 「ええ。僕はすぐにでも仕事を覚えていきたいのです。役員会のほうにも、もう話をつけてありますので、どうぞよろしくお願い致します」 「……なるほど、根回しはすでに終わっているというわけか」 「(せん)だって、政親さんにはすでにご連絡していたはずですが? 何か不都合なことがありますか?」 「いいや、何もないさ。……やれやれ、君も若いんだから、もっとのんびり大学生活を楽しんでいればいいものを。私のような老いぼれには、トップを任せられないと?」 「そんなことはありませんよ、政親さんはまだまだお若いじゃないですか。それに、僕ら兄弟はあなたに感謝しています。もうしばらく、社の方をよろしくお願いいたします」 「……」  そつなく言葉を返し、蓮は作り物の愛想笑いを顔に浮かべた。じっと刺すような目つきで蓮を見つめる政親の双眸には、様々な感情が渦巻いているように見えた。  亡くなった父の腹心であった第一秘書の男の話によると、政親は自分がクニシロ・HDのトップに居座り続けたいがために、色々と策を巡らせているらしい。  しかし、政親にはいまいち商才が足りないようで、業績は年々右肩下がり。父がこれまで作り上げてきていた諸国との信頼関係を裏切るような商談を進めたり、利益の望めない新規事業に手を出したり……。高校生の蓮から見ても、政親の行動はとにかく危なっかしい。  蓮は焦っていた。早急に政親手から権力を取り上げて、自分が采配を取らねばならない、と。  そんな蓮の意図を読み取ってか、政親はここ最近、蓮のあらを探すことに精を出しているようなのだ。そんなことをしている暇があるなら、もっとやるべきことは山のようにあるだろうと思いつつ、蓮は政親の前でだけは決して隙を見せないようにと気を張り詰めている。  しかし、今日はいかんせん間が悪い。蓮は若干のふらつきを覚え、静かに目を閉じてこめかみを押さえた。ヒートを抑え込んでいるときにアルファに近寄られると、いつも以上に落ち着かない気分になる。しかも相手によっては、拒絶反応とも思えるような吐き気を覚えることすらある。  そしてこの男も、蓮にとっては拒絶の対象だ。いつも以上に政親のアルファフェロモンを濃厚に感じ、息をするだけで胸がつかえるような感覚に陥る。蓮はため息をついて、その場を早急に立ち去ろうとした。 「すみませんが、今日は少し疲れていますので」 「ほう、どこか具合でも悪いのかな?」 「ちょっと風邪気味なんですよ。そろそろ失礼いたします」 「まぁまぁ、もう少し愛想を見せてくれてもいいじゃないか。その若さで親がないのは心細いだろう? もっと私に甘えてくれたっていいんだよ?」  ふと気づくと、ソファから立ち上がった蓮のすぐそばに政親の姿がある。吐息がかかるほどに接近され、蓮の肌という肌が、ざわりと総毛立った。 「おやおや……すっかり火照っているね」 「っ……」  すっと額に当てられた手のひらの生暖かさが、ぞっとするほど気持ちが悪い。蓮は弾かれたようにその手を払いのけたが、その勢いにふらついて、そのまますとんとソファに腰を落としてしまった。政親はそんな蓮を怪訝な目つきで、また同時に、どことなく好奇の滲む粘着質な眼差しで蓮を見下ろしている。 「……どうしたんだ? 可愛い顔をして……」 「な、何がですか……」 「……蓮。具合が悪い時ほど親が恋しいだろう? ほら、もっとこっちに来てもいいんだよ? 私がそばについていてあげよう」 「っ……!」  政親はソファに倒れ込んだ蓮の上に覆いかぶさるように、ソファの背もたれに手をついた。身体こそ触れ合ってはいないというのに、政親の獣じみたアルファの匂いに、全身を舐めまわされているように感じた。その感覚がおぞましく、蓮の全身からぶわりと汗が吹き出す。  ――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……!! こいつが嫌いだ、この匂いが、大嫌いだ、大嫌いだ……!!  全身を鋭く襲う拒絶感に、蓮は思わずえずきそうになった。しかし、ここで動揺を見せてはいけない。こいつにだけは、いかなる隙も与えてはならない。蓮はぐっと奥歯を噛み締めて吐き気を飲み込むと、キッと鋭い目つきで政親を見上げた。 「そこをどいてください。悪い風邪だと、政親さんにも感染(うつ)ってしまいますよ」 「悪い風邪、ねぇ。……本当にそうなのかな?」 「他に何があるというのです。……お帰り下さい。すぐに車を呼びます」 「……」  蓮のきつい目つきにひるんだ様子を見せた政親を押しのけて立ち上がると、蓮は早足にリビングルームのドアの方へと歩いた。そしてさっと扉を開き、すぐそこに控えていた勢田に「政親さんがお帰りだ。車を」と言いつける。 「はい、車はすでに玄関につけてございます。(わたくし)がお見送りを」 「頼む」  ドアの向こうからすっと現れ、折り目正しく腰を折る勢田の姿を見て、政親が少し我に返ったような表情になった。そしてなおも訝しげに、そしてどことなく名残惜しげな目つきで蓮を見据えつつも、勢田に促されてリビングルームを後にする。 「はぁ…………」  ぞわぞわと蓮を侵していた政親の気配が消えると、蓮はようやく深いため息をついた。そしてどさりとソファに座り込むと、頭を抱えて俯いてしまう。  ――だめだ、今ばかりは、アルファの気配がおぞましい。  政親のように、成熟した雄のアルファが放つ濃厚なフェロモンが、蓮は大嫌いだった。ああいう攻撃的な匂いを嗅いでしまうと、政親にレイプされる自分のイメージが生々しく脳内に閃いて、たまらない気持ちになる。  オメガのヒートを理由に傍若無人な振る舞いをし、乱暴に蓮を犯し尽くそうとする恐ろしい男――――政親の存在は、オメガを捕食するアルファの荒々しいイメージそのものだ。  性的に貪られ、これまで周囲を欺き続けていたことを責め立てられ、社会的に抹殺される。さらには葵をも蹂躙され、必死に守ろうとしてきた家を奪われ、どこの誰とも分からないアルファの子を孕ませられる……最悪のシナリオが次々と頭を巡り、そのおぞましさと恐ろしさのあまり叫び出しそうになるのをぐっと堪え、蓮は口を押さえて乱れる呼吸を整えた。  ――落ち着け。そんなこと、起こるわけがない。これは僕の被害妄想だ。僕の弱さが見せる幻影だ。考えるな、こんなこと……。 「薬……飲まなきゃ」  ――もっと強い抑制剤が欲しい。身体だって、昔よりは逞しくなったのだ。今ならばもっと強い抑制剤を飲めるんじゃ……。  そんなことを考えつつ、内ポケットから抑制剤のタブレットを取り出す。一見するところ、それはただのミントタブレットのようにしか見えないが、これはかなりの濃度をもったフェロモン抑制剤だ。 「……はぁ……」  それを一気に十粒ほど口に入れ、奥歯で噛んで飲み下す。一度に飲む量としてはありえない量だと分かってはいるのだが、そうすることでしか安堵感は得られない。  すう……と身体中の体温が下がっていくのが分かる。嘘のように、おぞましい幻影が引いていく。しかし胃のあたりにわだかまった不快感は消えることがなく、蓮は胸元を抑えて眉根を寄せた。 「……くそ……」  気づけば、こめかみに汗が伝っている。蓮はその汗を拳で拭いながら、窓越しに夜空を見上げた。  夜色に染まった暗い窓が鏡となって、青白い顔をして座り込んでいる蓮の姿を映し出している。そこにいる自分の姿を見て、ぎょっとした。  そこにいる自分は、げっそりとやつれた蒼白な顔をしていた。まるで幽鬼のようだ。それは蓮自身が胸に抱きつづけていた、『国城家のアルファ』としての理想像とはあまりにもかけ離れている。自分自身の情けない姿を目の当たりにして、蓮は思わず息を飲んだ。 「……薬を増やさなきゃ。これじゃ、僕は何も守れない」  蓮はゆっくりと窓に近づき、もう一人の自分に向かってそう呟いた。  その声に言葉を返すものは、誰もいない。

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