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5、運命との邂逅

   そして春が来て、蓮は大学生になった。  蓮は宣言通り、大学に通いながら、クニシロ・HD本社へと頻繁に足を運び、仕事を学んでいる。  貿易に関する仕事は、思った以上に面白いものであった。  本社に勤務する社員たちは皆、蓮のことを快く受け入れてくれたし、今までは出会うことのなかった人々との関わりは、蓮にとってとても新鮮な体験だった。亡き父のことをよく知っている取引相手もたくさんいて、これまで蓮が知らなかった父の一面を知る機会にも恵まれ、父が築き上げて来た信頼関係をとても心強く感じたものだった。  そしてまた、政親の采配に不満を抱いている社員が想像以上に大勢いる、ということを蓮は知った。  早い段階で蓮をCEOへと押し上げたいという動きも活発で、無用な派閥争いのようなものが勃発しそうな気配があった。しかし蓮は、性急な動きを好まない。もちろん、政親のことは早々と遠ざけてしまいたいという思いもあるが、政親は父の従兄弟であり、そこそこに近しい関係の親戚筋だ。ここで無下に政親を遠ざけてしまうと、あとあと面倒なことになる――――蓮の登場で盛り上がる部下たちを宥めつつ、蓮は冷静に先のことを考えていた。  結果的に、蓮が成人するまでは、政親が引き続きトップに立つことになった。しかし蓮は、政親に実質的な決定権を与えなかった。政親を立てるようなそぶりをしつつ、大きな案件については全て蓮が決定を下すようになっていた。  政親は当然、蓮のそういう態度を快くは思っていなかったようだが、蓮には政親には持ち得ない、明晰な頭脳とセンスがある。蓮の判断は俊敏かつ適切で、これまで政親が頓挫させてきた仕事を、あっと今に展開していく。その歴然たる商才の差と結果を見てしまえば、政親も口答えはできないのである。  仕事という新たな経験とやりがい。  そして、様々な出会い。  それらは、これまでずっと閉ざしがちだった蓮の世界を、広く明るい場所へと解き放つものとなった。  そうして蓮は二十歳になり、とうとうクニシロ・HDのトップに立った。  蓮の美貌と有能さが世に示されるようになると、蓮のもとには当然のように、たくさんのオメガが群がった。ひとたびパーティに訪れれば、美しく秀でたオメガたちが、こぞって蓮の元へとやってくる。あからさまに誘われることもしばしばで、フェロモン促進剤を使ってまで蓮に近づこうとするものさえいた。  しかし蓮にそんなものが通用するはずもない。  蓮は多忙なふりをして(実質多忙なのだが)、群がるオメガとその背後にいる権力者たちを遠ざけた。「既に番がいるのだろうか」とか「もう子どもを設けていて、秘密裏に英才教育を施しているのだ」等々の噂が社交界に流れたが、蓮はその話題に触れることなく、国城家の権勢にあやかろうとする者たちから、付かず離れずの距離を保ち続けていた。  そのストイックな態度は、蓮の評判をさらに押し上げる結果となった。まだ二十歳そこそこだというのに、蓮は仕事においても華々しい成功を収め、きらびやかなアルファたちの中心に立つようになっていた。誰しもが蓮を仰ぎ見て、蓮の微笑みと言葉をうっとりとした表情で待つのである。  しかし、蓮の心にはいつも恐れがあった。  こうして築き上げて来た地位。  ここへ立つまでに、血の滲むような努力を重ねてきた。  自分は成功した。成功したのだ。もう、自分をオメガと疑うものなど、この世界には存在しない。  しかし、今立っている場所が高ければ高いほど、足元が崩れた時の衝撃は計り知れない。  怖かった。  蓮を恭しく見上げるアルファたちの目が、一斉に侮蔑を含んだものへと変貌する瞬間を、ついつい想像してしまう。  ――僕はアルファだ。誰よりも秀でたアルファだ。国城家当主は、誰よりも優秀でなければならない。失敗など許されない――――  仕事は楽しいし、やりがいもある。ついてきてくれる部下もたくさんできた。  が、それらがすべて、失われてしまったら?   社の未来は、葵の未来は……自分の未来は、どうなる?  抑制剤は、毎日のように注射器で投与するようになってた。筋肉増強剤も、相変わらず常用している。それと併せて、経口抑制剤をお守りのように持ち歩き、不穏な気配を感じたらすぐに服用する……そんなことを繰り返してきた蓮の身体には、細かな異変が常にわだかまるようになっていた。  頭痛、吐き気、めまい、胃の不快感……それらはいつでも蓮を苛んでいたが、そういった苦痛とは、すでに長い付き合いだ。蓮はいつでも涼しげな顔でアルファを演じた。アルファの仮面をかぶることにも、すっかり慣れた。  このまま……あと少し。  葵は、アルファだと確定した。  律先輩も、動物実験段階だが、眼球移植再生術に成功したと言っていた……。  律先輩の研究チームには、莫大な研究費を投じている。人間への適応まで、あと何年かかるのだろう。葵の視力が戻るまで、あと……あとどれくらいの時間が……。 「……さま、蓮さま? どうしましたか? 到着しましたよ?」 「えっ……?」  ふと気づくと、運転席から振り返り、こっちを見ている勢田と目が合った。勢田は眉根を寄せ、心配そうに蓮を見つめている。 「葵さまの学校です。……大丈夫ですか? いつも通り、私だけ行って参りましょうか」 「あ……いや、大丈夫だ。ちょっと考え事をしていて」 「顔色も良くないですし……。前から申し上げていますように、少し休暇を取られたらどうです? 海外を飛び回る機会も増えているんですから、たまには……」 「大丈夫だ。僕は、これくらい忙しい方が落ち着くんだよ」 「しかし……」 「母校、懐かしいな。僕が一人で葵を迎えに行く。お前はここで待ってろ」 「……はい」  今日はたまたま夕方からの予定がキャンセルになり、蓮は高校二年生になる葵の迎えに同行していたのだ。葵も十七歳になり、当然のことながら、以前のように蓮に甘えてくれなくなった。その上、蓮の多忙さもあいまって、葵とはほとんど言葉を交わすこともできていないのだ。つまりは寂しくなった、というのが本音である。  蓮はひとりで、黒塗りの車を降りた。別の車で随行していた護衛たちがひっそりと背後につくのを感じつつ、蓮は久方ぶりに訪れる母校の空気を吸い込んだ。  煉瓦造りの校舎、綺麗に整えられた花々の美しい中庭、濃いグリーンのジャケットと黒いスラックスというシックな制服を着こなした、気品のある生徒たち。蓮がいた頃の風景と今のこの学園の風景は、何ら変わるところはない。  あの頃は苦痛でしかなかった学生生活だが、今こうして振り返ってみると、それなりに学生らしい生活をしていたものだな……と蓮は思った。友人もできた。その友人たちと、今は仕事で繋がっていたりもする。楽しかったことがひとつもなかったわけじゃない。  ――けど、心底ここを懐かしいと感じられるほどの余裕は、まだないみたいだな……。  そんなことを思いつつ、蓮はスラックスのポケットに手を入れて中庭を歩いた。今日は日中からカラリとした陽気で、夕方になっても暑いくらいの気温だ。蓮は珍しくスーツのジャケットを脱いで腕まくりをし、徐々に賑わい始めた放課後の校舎を見上げた。蓮の金色の髪を吹き抜けて行く風に、はっきりとした夏の匂いを感じる。  ――久しぶりに、外の風を肌に感じたような気がするな。もうすぐ夏か。薔薇の庭に新しい品種を増やしてもいいかも……。  と、葵のために作り上げた薔薇園のことを考えながら初夏の空気を吸い込んだ瞬間、蓮の鼻腔をくすぐる甘い匂いを感じた。  その香りを吸い込んだ途端、ドクン、ドクン、ドクン……と、心臓が急速に拍動を速める。蓮は戸惑い、ぎゅっと胸を押さえた。  ――な、……何だこれは。  ざわざわと肌がざわめき、ひどく落ち着かない気分になる。その感覚は、発情が始まる時のサインとよく似ていた。蓮は慌てて、スラックスのポケットに入っていた抑制剤のタブレットを取り出そうとした。  ――おかしいな、一週間ほど前に発情期はやり過ごしたはずだ。こんな時期に発情するわけないのに……。 「兄さん……? そこにいるのか?」  錠剤を手のひらに出そうとしたその時、少し離れた場所から葵の声がした。蓮は思わずビクッとして、抑制剤をひとつぶ、ふたつぶ、地面に取り落としてしまう。  咄嗟にそれを拾い上げようとして、蓮はふと、葵の手を引いている一人の男子生徒の存在に気がついた。  視線が、吸い寄せられたといった方が正しいかもしれない。  ――ドクン……!!  蓮の胸が、ひときわ大きく高鳴った。同時に、湧き上がる不可思議な浮遊感に、軽い目眩を覚える。  葵の傍に立つのは、凛々しい体躯をした爽やかな少年だった。顔立ちにはまだどこか幼さを残しているものの、その少年には鮮烈な華やかさがあり、端正に整った男らしい容貌をしている。  くっきりとした二重まぶたの形のいい目は、その少年の快活さを表すよう。その双眸から蓮に注がれる力強い眼差しと視線が絡み合った瞬間、蓮の心臓がまたひときわ大きく高鳴った。    ――ドクン……!! ドクン……!!  熱い眼差しに全身を射抜かれる衝撃に、蓮はしばし言葉を失ってしまった。じっと蓮を見つめるその少年の眼差しにも、はっきりとした「何か」を感じた。  ――ホシイ……ホシイ、ホシイ……。  自分の意思とは関係なく、その少年のことを欲して身体が疼く。無理矢理眠らされ続けていたオメガの本能が、突然激しく暴れまわる。呼吸が浅くなり、指先が震えた。気を抜けば、その男の方へと伸びてしまいそうになる両腕を理性で押しとどめながら、蓮は努めて平静な表情を作り上げながら、つかつかと葵に近づく。 「葵、迎えに来たよ。帰ろう」 「あ、うん……珍しいな、兄さんが来るなんて」 「話はゆっくり、車でな。さあ、行こう」  葵の手を掴んで踵を返そうとした瞬間、その少年が「あ、あの!!」と声をあげた。蓮を呼び止めるその声を聞いただけで、じんと耳の奥が熱く痺れるようだ。 「あ、あの! 俺、葵の友人で、御門といいます! 俺……あなたを、」 「僕らは急いでるんだ。すまないな」 「兄さん、いいじゃないか。御門にはいつも世話をかけて、」 「いいから行くぞ!! 葵、早く車に乗るんだ」 「え……? でも兄さん、挨拶ぐらい、」 「僕らはこれで失礼する。これからも、葵のことを頼むよ」 「……は、はい……」  葵の手首をむんずとつかみ、逃げるようにしてその場を離れた。このままここにいると、自分ではない何かが姿を表してしまいそうな気がして、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。  否応無く蓮のオメガ性を揺さぶってくる、あの少年の存在。蓮の発情を促す媚薬のようなフェロモンの香り、声、そして力強い眼差し。  蓮は直感していた。蓮に突如訪れた変調の理由(わけ)を。  ――間違いない。あの少年は、僕の……。  『魂の番』。  あの少年こそ、蓮にとっての運命であると。

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