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6、疼き

「兄さん、あの態度はひどいだろ。御門は俺の友人なんだぞ」  車に乗り込むなり、葵にそう責め立てられた。無理もないだろう。葵の友人と顔を会わせるのは初めてのことなのに、あんなひどい態度を取ってしまったのだから。  しかし、胸を苛む激しい動悸のせいで、葵をなだめる余裕も持てない。蓮は手にしていた抑制剤の粒をそっと口に含むと、奥歯でそれを噛み潰した。でも、いつまで経っても薬剤の効果を感じられない。ばくばくと早鐘を打つ心臓、じんじんと熱を持って蓮を苛むおかしな熱……。蓮はすっと腕を伸ばして、隣に座る葵の手をぎゅっと握った。こうして葵に触れるのは久しぶりだ。葵の手はこんなにも大きかっただろうか。 「……すまない。また今度、埋め合わせするから……」 「兄さん……? どうしたんだよ、声が震えてる」 「ごめん、葵。……今日は、どうも体調が優れないみたいだ」 「……そうなんだ。ごめん、具合、悪かったんだな」 「一緒に食事をと思っていたんだが……今日は無理そうだ。もっと、お前と色々話したいこともあるのに」 「そんなのいいって。それより、今日は早く寝たほうがいいよ」 「ああ……そうだな」  きゅ、と蓮の手を握り返す葵の手は、ひんやりとして心地が良かった。感じ慣れない不調に見舞われていることに心細さを覚えていた蓮は、葵の手に縋るように指に力を込める。  葵は白く曇った瞳を蓮の方に向け、どことなく気遣わしげな表情をしている。この時ほど、葵の目が見えなくてよかったと思ったことはない。きっと今の自分は、途方もなく情けない顔をしているに決まってる。 「大丈夫だよ、葵。僕は、大丈夫」 「……うん」  気力を振り絞って張りのある声を出したつもりだが、勘の鋭い葵には全てお見通しかもしれないな――――と思いつつ、蓮はそっと、葵の手から指を離した。  ◇  自室に引きこもって、気が抜けてしまったらしい。  蓮は着替えをすることもままならず、ぐったりとベッドに横たわった。  思い出されるのは、あの少年のことばかり。  きりりとした、綺麗な目をしていた。その目を潤ませ、蓮をじっと見つめる視線の熱さを思い出すだけで、身震いするほど興奮してしまう。そして彼の声を思い出し、蓮はそっと目を閉じた。耳触りのいい、甘やかな低音の声だった。あの声を、もっとたくさん聞いてみたい。すぐそばで、名前を呼ばれてみたい――――自分の思考とは思えないような甘ったるい願望に意識を支配されそうになり、蓮は荒々しくため息をつく。  しかし何よりも蓮を高ぶらせたのは、あの香りだ。  今までだって、蓮の周りには山のようにアルファがいた。アルファフェロモンの香りにも、そろそろ耐性ができたと思っている。しかし、今日あの少年から香った匂いは、誰のものと比べようもなく芳しく、感じたこともないくらい、蓮の本能を揺さぶった。鼻腔の奥に、あの少年の香りが今も残っているような気がして、蓮はたまらず枕に顔を埋めてしまう。 「ん……」  考えないようにしようと努めているのに、蓮の脳裏からはあの少年の姿が消えない。ミカド、と名乗っていたあの少年のことを思うだけで、全身が熱くなる。シャツが肌に触れる感触や、スラックスの締め付けにさえ、妙な快感を拾ってしまうほどに。 「ん……は……っ……」  ベッドの上で身悶えながら、蓮はしどけないため息を漏らした。細身のシャツやスラックスが苦しくて、蓮は震える指でワイシャツのボタンを一つ二つと外してゆき、ベルトを緩めてスラックスの前を寛げる。 「……なんで、こんな……」  今までに見たことがないくらい、己の性器が硬く反りかえっている。これ以上ないというほどに赤く熟れ、先端からはとろとろといやらしいものを垂れ流すそれを見て、蓮は愕然としてしまった。  これまでも、発情を抑え込んでいる間、必要に迫られて自慰をすることはあった。でも、ふしだらなことに耽っている自分の姿というものがどうしても受け入れらず、自慰を終えた後はいつも、最悪の気分になった。そうしなければ収まらないオメガの発情というものがひどく煩わしく、自分の性を忌まわしく感じたものだった。  しかし今、蓮の全身を包み込むねっとりとした性的な熱は、蓮にそんなことを考える暇を与えない。恐る恐る屹立に触れた瞬間、全身を貫かれるような鋭い快感に目が眩んだ。自制する余裕もなく、ペニスを扱く手の動きが速くなり、蓮はベッドに横たわったまま声を殺して、一心不乱に快楽を求めて腰を振っていた。 「はぁ……っ……ンっ……あ……」  ――触れて欲しい、ここに……。  浅ましい妄想が、蓮の脳内を満たしていく。  いつしか生み出された御門のイメージが、蓮の肢体に手足を絡ませる。 「はぁっ……ぁ、や……ッ……ぁ」  ――欲しい。欲しい……。貫いて欲しい、僕を。熱を持て余すこの身体を、彼の肉体で支配して欲しい……。 「ンっ……ん、ぁ、あん、っ……」  蓮は灼熱に浮かされたような心地のまま、するりとスラックスを膝まで下げた。そしてベッドに四つ這いになると、こわごわと腕を後ろに回して、あの少年を求めてひくついてしまう後孔に指を伸ばしてみる。  こんなことは、今までに一度だってしたことがなかった。自分の体内に指を挿入するなんて、考えるだけでもおぞましい。なのに、今はどうしてか、何のためらいも感じない。  そっと指を這わせたその場所には、すでにとろりとした体液で濡れている。窄まりをなぞってみると、それだけできゅんとひくつく濡れた孔。蓮ははぁ、はぁと荒い呼吸を繰り替えしながら、ついにその中へと指を挿入させていた。 「ぁ……!! ァん……っ……」  とろりとした粘液でいやらしく潤んだそこが、きゅうっと締まる。目が眩むほどの快感を、蓮の肉体は知ってしまった。自分の身体だというのに、まるでコントロールがきかなかった。ねっとりと濡れた後孔は、自身の指でさえも奥へ奥へと引き込むように、いやらしく蠕動している。それはもう、浅ましい動きで。 「ぁ、あ、ん、んぅっ……ふっ……んんっ……!」  指を抽送してみると、ちゅぷ、ちゅく……と淫猥な音がする。蓮の胎内に、これまでに感じたことのなかった新たな快感が生まれてしまう。  ――ほしい……ほしい……。この中に、彼の熱がほしい……。めちゃくちゃに突き上げて、奥まで貫いて、からっぽの僕の中を満たして欲しい……! 「ぁ、あン、ん、ふぅっ……ンっ、ぁ……っ」  ――もっと奥に触れて欲しい。もっともっと逞しいもので、虚ろな体内を満たされたい……。足りない。指なんかじゃ届かない。もっと、もっと深く満たして欲しい。いくらでも、いくらでも、彼の精を注がれたい。  ――彼の子を孕みたい……。 「ぁ、もっと……もっと……ァ、あっ……ァんっ……!!」  欲しいとろこにまで、自分の指じゃ届かない。強く強く抱きしめられたい、もっと激しい愛撫が欲しい。なのに、求めるものはそこにはない。もどかしくてもどかしくて、蓮の目からは涙が溢れた。それでも、後ろでの初めての自慰はあまりにも刺激的だ。いくらでも快楽が溢れてきて、指も腰も止まらない。  ――抱かれたい。あのアルファに。抱かれたい……抱かれたい、欲しい……一番、奥に……!! 「ぁ、あ……っ……やだ……ぁ……っ、こんな、ァ、んっ……」  アルファとしてのプライド。アルファとしての仮面。  これまで蓮の素顔を覆い隠してきた仮面と鎧が、ぼろぼろに崩れていく。  欲しいものが手に入らないもどかしさに涙しながら、浅ましく腰を振る自分のことが許せない。なのに、止まらない。気持ちよくて、気持ちよくて、こうしていなければ収まらなくて、どうしようもない。 「ぁ、あ、や……っ……だめ……イッたら、だめ……!!」  後ろで絶頂することを覚えてしまえば、もう後戻りができなくなる……そんな気がする。でも、止まらない。御門に全身を包み込まれながら、激しく腰を打ち付けられる妄想に酔いしれながら、蓮は激しく絶頂していた。 「んんんっ…………っ…………!!」  全身が激しく震え、溢れんばかりの絶頂感に痺れてしまう。その波は(とど)まる気配を見せず、ビク、ビクっ……!! と蓮の全身を何度も何度も痙攣させた。 「ぁ、……はぁっ……ァっ……」  ゆっくりと指を抜くと、どろりとした体液が指先から滴った。それだけでなく、溢れんばかりの愛液が、こぽりと音を立てて蓮の白い太ももを伝った。  蓮はどさりとベッドに倒れこみながら、粘液でぬらぬらと濡れている白い指を呆然と見つめる。興奮の波が去り、こうして冷静さを取り戻した瞬間は、いつものことながら死にたくなるほどに虚しいものだ。  ――だめだ……こんな……。こんな状態になってしまうなんて……。  オメガの本能は、『魂の番』の子どもを孕みたいと暴れまわっている。しかし、蓮の心はそんなものを望んでいない。アルファに抱かれ、子を孕むなど、あってはならない屈辱だ。これまで積み重ねてきた努力を全て無に帰す、国城蓮にとっての失態に他ならない。  しかし、あの少年のことを思うと、どう足掻いても胸が高鳴り、性懲りも無く身体が疼く。蓮は汗ばんだ肌をシーツにすり寄せながら、唇を噛んで小さく呻いた。 「……あの男に近づくと、僕はオメガでしかいられなくなるのか……」  ――ならば、近づかなければいい。あの男に、近づいてはいけない。  それはシンプル極まりない答えだったが、蓮の心はその判断を拒否している。  ――もっと知りたい、あの少年のことを。叶うならば、もっとそばに……。  蓮はぎゅっと目を瞑り、ゆるゆると首を振った。   そんな甘い考えが、今の自分に許されるわけがないのだと、頭ではとっくに理解しているからだ。 「……もう、二度と会いたくない……」  虚ろな声で呟いたその言葉には、ひとひらの感情さえもこもっていなかった。

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