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7、露見の予感

   それから二年が経った。  葵も無事に大学へ進学し、あと三月ほどで二十歳を迎える年である。  仕事に没頭することで、御門の存在や己の性のことを考えないようにと追い詰めてきた成果か、蓮の手がける事業はことごとく莫大な収益を生むようになっていた。蓮の地位と権力はより一層盤石なものとなり、その秘密めいた美貌も相まって、誰しもが蓮に畏怖の眼差しを送るようになったのである。  そんなある日、蓮のもとにとある吉報が入る。  それは、蓮がずっと待ちわびていたものであった。 「ドナーが見つかった……!?」 「はい。国城葉常(はつね)、二十一歳。政親氏の甥御にあたる男性ですね。葉常氏のご両親が、葵さまのために眼球を使って欲しいと申し出ておられます」 「そうか……! 事故の経緯は? 被害者はいるのか?」 「いえ、単独事故です。大型バイクのハンドル操作を誤り、中央分離帯に激突したと」 「激突……目は!? 葉常の眼球は無事なのか!?」 「ええ、奇跡的にきれいなものだそうです。事故後すでに三時間が経過していますが、すぐに摘出させますか?」  人の眼球は、六時間を経過したあたりから混濁が始まり、二十四〜四十八時間を経過する頃には完全に白濁する。もし眼球自体が無傷であるならば、これ以上の好条件を持つドナーは現れないだろう。蓮はいつになく焦りを滲ませ、秘書室長のベータの男・征芭(せいば)に命じた。 「すぐに摘出させろ。そして、綾世にも連絡を。葉常の両親には、この後直接礼を言いに行く」 「分かりました。葉常氏が運び込まれたのは、綾世医師の病院です。すぐに手配いたします」 「ああ、頼んだぞ。表に車を回してくれ」 「承知いたしました」  征芭が執務室を出て行くと、蓮は大きく息を吐き、すっと椅子から立ち上がった。壁一面を覆う大きな窓に歩み寄り、蓮は眼下に広がる都会のビル街を見下ろす。そして、そこに両手をつき、大きく深呼吸をした。  三年前、綾世家が経営していた医院は社会医療法人化し、総合病院へと発展した。充実した医療、専門的かつ高度な臨床研究が行えるようにと、蓮が莫大な出資をしたのである。  蓮の一番の目的は、当然、葵の視力回復にあった。しかし、綾世家が二代にわたって研究を深めている『人体に負担の少ない、オメガフェロモン抑制剤』の開発についても、蓮は並並ならぬ期待を寄せていた。自分のように、人生を思うように生きられないオメガたちを救う手立ての一つとして、安価かつ安全な抑制剤の開発は有意義なものであると判断しているからである。  ――綾世の元に遺体が搬送されているというのなら、話は早い。眼球移植手術の場合、臓器に比べて拒絶反応は少ないと綾世は言っていたけれど、多少なりとも血縁関係がある若い男の眼球ならば、きっと葵にも適するはずだ……。 「葵の目が……治るかもしれない」  自分に言い聞かせるように小さくつぶやいてみれば、それは想像以上の期待感を持って蓮の肉体を震わせた。  もし、葵の目が光を取り戻せたならば、葵はクニシロHDのトップに立つことができる。現状、葵にはそれだけの知性と品格が備わっているし、気質的にも何の問題もない。盲目であるということ以外は、肉体的にも極めて健康だ。兄の欲目を抜きにしても、葵は二十分に優れた人材へと成長している。蓮は葵に対して、そう判断を下していた。  葵の目が見えるようになれば、その能力をいかんなく発揮できるようになるだろう。もし本当にそうなれば、これまで蓮が全て背負っていたものを、葵と分かち合えるかもしれない。  ――僕は、孤独ではなくなるかもしれない……。  蓮は呼吸を整えながら、金色味のかかった翡翠色の瞳に青空を映した。  その時、ノックもなく、執務室のドアが派手な音を立てて開いた。  国城政親が、つかつかと蓮の部屋へと入ってきたのである。清々しい気分に水を差され、蓮は珍しく不機嫌をあらわにした目つきで、政親を見据えた。 「……政親さん、無礼でしょう。ノックもなしに入ってくるとは」 「すまないね。急ぎ尋ねたいことがあってな」 「この忙しい時に何の用だ」と言いかけて、蓮ははたと口をつぐんだ。  政親の表情はひどく険しく、どろりと澱みの見える目をしていた。いつもは嫌味なほどに綺麗に整えてある濃灰色の髪の毛も、今日は少しばかり乱れている。  蓮ははっとした。亡くなった葉常は蓮から見れば遠縁にあたる存在だが、政親にとっては甥である。政親は、彼の死に心を痛めているのだろうと思い、蓮は自分を落ち着けるために深呼吸をした。 「葉常さんのこと、心よりお悔やみ申し上げ……」 「やつの眼球欲しさに、君が葉常を殺させたのか?」 「え?」  政親は蓮のすぐそばに立つと、不穏なものが渦巻く昏い目つきで、蓮を見据えた。蓮は思わず眉をひそめて、政親の視線を真っ向から跳ね返す。 「何を馬鹿なことを。僕がそんなことをするはずがないでしょう」 「どうだか。葵くんの目が善くなれば、国城家本家の君と彼で、クニシロHDを思うがままだ。そうなれば、我々分家の立場はどうなる? 本家の者ばかりが甘い蜜を啜り、我々の立場はますます惨めなものになるのではないか? それが、国城家当主のやり方なのか?」 「……落ち着いてください。あなたが何を言っているのか、さっぱり分かりません」  政親の口から出てくる卑屈な言葉に、蓮は思わず眉を寄せた。 「分家の若い者に、少しは活躍の舞台を分け与えてくださってもよろしいのでは? 君が分家の者たちを蔑ろにするから、葉常のようにバイクで暴走事故を起こすんでしょう」 「待ってください。何の根拠があってそんなことを言っているのですか? 僕が事故を仕組んだとでも?」 「タイミングが良すぎやしませんか? もうすぐ、葵くんの社交界デビューだ。それに合わせて、君は葉常の目を、」 「……いい加減にしてください、僕は何もしていない。彼は不幸な事故に見舞われただけだ。それ以上くだらないことを言い続けるつもりなら、侮辱罪で訴えますよ」  蓮が強い口調でそう言い切ると、政親は不服げに顔を歪めながらも黙り込んだ。しかしまだまだ何やら言い足らぬ様子で、絡みつくような目つきで蓮のことを眺め回している。蓮はその目線を不快に思いつつも、腕組みをして政親を見据えた。 「それに以前から申し上げていますが、僕が社員たちに求めているものは、血筋や家柄ではなく実力です。家とか血とか、僕はそんな不確かなもので人を選ばない。それに僕は、分家の者たちのことを蔑ろにしたことはありません。意欲と力のあるものは、方々で適切な職位に就かせているじゃないですか。こういったことには、もうそろそろご理解いただけているものと思っていましたが?」 「ふ……つくづく、生意気な若造だ」  政親は憎々しげにそう言い捨てると、ずいっと一歩、蓮に近づいて腕を突っ張った。思わず後ずさったものの、背後にある大きな窓ガラスに逃げ道を阻まれ、両手で囲い込まれるような格好になってしまう。  政親の尖った鼻と口がすぐそこにあり、蓮は思わずぞっとした。蓮の全身に絡みつくように香るアルファの匂いに、全身が一瞬にしてこわばるのを感じた。  しかし、ここで動揺を見せるわけにはいかない。蓮は震えそうになる声を一旦飲み込み、ぐっと下腹に力を込めた。そして鋭い目つきで政親を睨み上げる。 「何の真似だ」 「君は本当に、甘く芳しい匂いがするな。まるで私を誘っているような……」 「……え?」 「君がCEO就任後も私を遠ざけないのは、そういうことだろう? なんだかんだと反抗的なことを言いながら、私に甘えたい気持ちがあるんだね。だから、つれないことを言いつつも私を役員から外さないのだろう?」 「は? ……何を馬鹿なことを……」  政親は甘い顔立ちに卑しい笑みを浮かべ、そっと蓮の頬に触れてきた。と同時に、政親は蓮の首筋に少しばかり鼻先を近づけ、わざとらしく匂い嗅ぐようなそぶりを見せる。  ざわりと全身を支配するおぞましさに身が竦み、蓮はとっさにその手を鋭く払いのけた。しかし体格では蓮に勝る政親は、逆に蓮の手首をしっかと掴んだ。蓮はぎょっとして、奥歯を噛み締めつつ政親を見上げた。 「……離せ!! 何のつもりだ!!」 「君がそう望むのなら、私はいくらだって君を可愛がってあげるよ? そばにいて欲しいのなら、素直にそう言いなさい」  うっそりと微笑みながらそんなことを言い放つ政親の笑みに、蓮の全身が強張った。  時折脳内に閃く屈辱的なレイプ妄想が蘇り、蓮の背中を冷や汗が伝う。  弾かれたように、蓮は荒々しく政親の手を振りほどく。それでもなお、人を食ったような表情を浮かべている政親の顔に、憎しみさえ感じてしまう。蓮はすっと政親から距離を取り、むかむかと胃酸が沸いているかのような不快感を振り払うべく、大きく深いため息をついた。 「……調子にのるな。僕があなたを役員から外さなかったのは、面倒ごとを増やしたくなかったからだ。分家だ本家だと、実力のない者に限って、こういうつまらない議論をふっかけてくる。そんな与太話にのんびり付き合っている暇はないからな」 「……」  政親は無言だが、その両目には、どろどろと滾らせた怒りが見て取れるようだった。  政親への拒絶感に煽られて、これまでうまく包み隠してきたつもりの本音を、とうとう口にしてしまった。これは自分にとってのミスだろうかと、蓮は咄嗟に考えた。  いや、しかし今の蓮には、政親を完膚なきまでに遠ざけることのできる権力がある。周りを固めてくれる部下たちも大勢いる。もし政親がこれ以上面倒なことを言ってくるのならば、遠慮なくCEOの特権を行使してもいい――――蓮はそんなことを考えつつ、政親の出方を窺った。  すると、政親はすっと両手を挙げた。そして甘ったるい顔に媚びるような笑みを浮かべつつ、大仰に肩をすくめてみせる。 「……いやいや、すみませんね。甥が亡くなったことがショックでね、ついつい思ってもないことを口にしてしまいました」 「……」 「私は葬儀の手配をしてくるよ。蓮くんも、参列してくれるだろう?」 「……当たり前だ」  政親は居住まいを正し、さっと前髪をかきあげた。そして口元にあいも変わらず不気味な笑みを浮かべつつ、じっと蓮の全身を眺めている。その蛇のような目つきに、蓮はまたぞっとした。 「ふふっ、君は本当に素直じゃない。孤高な君臨者ほど、その胸に抱えた孤独は深いだろうに」  どことなく勝ち誇ったようにも見える政親の表情に、蓮の内腑がすっと冷える。  何かしらを暗喩するような政親の台詞に、とてつもなく嫌な予感を感じた。全身が凍りつくような不安が、じわじわと蓮の足元から這い上がってくる。  ――まさか……勘付かれたのか……? 「……何が言いたい」 「いいえ、別に何も」  蓮が更に口を開きかけたその時、執務室のドアが軽くノックされた。蓮ははっとして、言葉を飲み込む。 「……何だ」 「蓮さま、眼球の摘出の件についてですが……すみません、お話中でしたか」  再び部屋に入ってきた征芭は、政親を見て礼儀正しく一礼した。政親が小さく舌打ちをするのを耳にした蓮は、不安のあまり乱れそうになる呼吸を必死に宥めつつ、表面上では冷静な表情を保ち続けた。 「もういい。政親氏はお帰りだ。僕はすぐに病院へ行く」 「承知しました」 「では、失礼」  蓮は政親に向かって小さく会釈をすると、ポールハンガーに掛けてあるジャケットを羽織って身支度を整え、足早に執務室を後にした。  つかつかと早足と歩きながら、蓮はそっとこめかみを伝う汗を拭った。  握り締められた拳が、小刻みに震えている。

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