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8、会えない相手
その日、蓮は綾世の病院で諸々の手続きを終えたあと、ぐったりと疲れた体を引きずって、私室へと戻って来た。ここはクニシロHD本社最上階にある、蓮の個人的な住まいである。
ここは本社の執務室ほどの華やかさはなく、いたってシンプルな作りだ。夜景を見晴らせる大きな窓はあるが、上質なサイドボードや応接セットなども置かれてはいない。
白を基調とした広々としたリビングには、壁にかけられた大型テレビと二人掛けのソファ、小さなガラステーブルがあるだけ。ほとんど炊事などしたことのないキッチンには物がなく、作り付けられたシルバーの冷蔵庫にはペリエくらいしか常備していない。
時折、母親よろしく勢田が和食などを届けに来ることはあるが、ここは蓮のプライベートな空間だ。葵でさえ、招待したことはない。正直、たくさんの使用人達が共に暮らす本邸よりも、ここは蓮にとって落ち着く空間である。
ざっとシャワーを浴び、蓮はリビングを素通りして寝室へと向かった。そしてキングサイズのベッドに横たわり、蓮は高い天井を見上げてため息をつく。
「……手術のこと、いつ話すかな。葵のやつ、最近僕と話すのを嫌がっているみたいだし……」
葵がもうすぐ二十歳を迎えるにあたり、蓮は葵のために優秀なオメガのパートナーをあてがおうと頑張っていた。自分が子をもうけられないのだから、そこは葵に頑張ってもらうしかない。
しかしどうしても焦りが先に立ち、ついつい口うるさくパートナーの話を押しつけるものだから、葵はすっかりその話題を嫌うようになってしまった。
それでも、後継者問題については葵に頼るしかないのだ。一人でも多くのオメガを抱いてもらわねばならない。葵がどういう相手を好むのかということは、残念ながらいまいちよく分からないままだが、蓮の目から見ても見目麗しく、優れた才能を持った相手を選別してきたつもりだ。
綾世律についてもそうだ。律は容姿も優れているし、素晴らしい頭脳と才能を持っている。病院スタッフからの信頼も厚く、研究熱心だ。昔からの付き合いもあるため人となりも理解してはいるものの、若干、性に関して奔放すぎるというところは玉に瑕だ。が、もし葵が綾世を気に入るなら、二人の関係を歓迎したいと思っていた。
しかし葵は、未だにオメガを抱こうとしない。
蓮のほうはそろそろ痺れを切らしているのだが、葵は頑なに『相手は自分で見つけたい』と言わんばかりの態度だ。これにはほとほと手を焼いているのである。
「……惚れた相手でも、いるのか……? 誰だろう」
ぽそりと独り言を呟き、蓮は葵の交友関係について想いを馳せた。けれど、ここ数年まともに葵と話をしていないこともあり、葵の友人についての情報など、ほぼほぼ知らないということに気づかされる。
葵の友人という言葉で、否応なく思い出してしまうのは、御門陽仁のことだった。蓮は、ずくんと痛む胸を押さえ、ベッドの上で横向きに寝転んだ。ベッドの端に投げ出したままのジャケットと、その内ポケットからはみ出しているスマートフォンを見つめた。
「……」
一年ほど前になるだろうか、蓮は御門陽仁に多額の資金援助を行なった。
御門は大学へは進学せず、十八という若さで父親から社長職を継いだ。社長交代の挨拶という名目で、初めて御門とメールのやり取りをした時のことを、蓮はふと思い出していた。
事務的な文章と、今後展開する予定の新事業についての簡単な説明、そして今後もいい関係を続けていきたいという旨の社交辞令……たったそれだけの文言なのに、御門本人が作成したメールではないだろうと分かっているのに、どきどきと胸が高鳴って苦しくなった。
資金援助に至った理由は、『御門だから』という理由だけではない。実際、御門が添付してきたレアメタルの採掘事業に関する企画書は素晴らしいものであり、投資する価値が十分にあると踏んだからだ。
実際、彼の事業は大成功を収め、『MDC(Mikado Driling Contractor)』はここ数十年の業績不振を覆すほどの稼ぎを上げている。蓮にはそれが妙に誇らしく、また、現実的に御門の役に立てていることが、むず痒く嬉しかった。
仕事に関するやり取りが増えるうち、御門は『直接会って礼を述べたい』という旨の連絡を寄越すようになっていた。
秘書の征芭からそれを聞くたび、蓮はその申し出を断るよう言いつけてきた。自分は忙しいのだ、相手もきっと多忙だろう。無理に時間を拘束し会う必要はない——何度もそう伝えさせたのだが、御門はどうしてもといって引き下がらなかった。
するととうとう征芭の方が折れてしまったようで、勝手にスケジュールを調整されてしまった。『ここまで断り続けるのはさすがに失礼でしょう。それとも、何か理由でもおありですか? 何か事情があるのなら、私にはきちんと話していただきませんと』と小言さえ言われてしまい、とうとう御門との面会を組み込まれてしまったのだが……。
「葵の手術のこともある……僕はまた忙しくなるんだ。あの男と会う時間なんて……あるわけがない」
そうひとりごちてみるものの、御門のことを考えまいとすればするほど、その顔を思い出す。まだ高校生だった頃の御門の顔しか記憶にはないが、あの時の衝撃と芳しい香り、そして耳に残る清々しい声……それらを思い出すだけで、蓮の肉体はふつふつと高ぶり始める。
――会いたい……。どんな男に成長したんだろう。
「ん……っ……」
高ぶり始める肉体を恥じるように、蓮はぎゅっと唇を噛み締めた。頬が火照り、どうしようもなく身体の中心が疼き出す。
――会いたくない……会えるわけがない……。
「なのに……くそっ……どうして、こんな……」
硬く硬く張り詰めていく性器を持て余しながら、蓮はうつ伏せになって苦しげに呻いた。御門のことを恋しく思うのに、会ってしまえばきっと、蓮は『アルファの顔』を保ってはいられない。それだけは、どうしても許されないことだ。
「はぁっ……ぅ……っ」
しかし、拒めば拒むほど、御門を欲する本能は荒ぶる一方だ。政親に真実を嗅ぎつけられてしまったかもしれないという不安があるせいで、余計に御門を恋しく感じる。そばにいて欲しいと、心がざわつく。
御門との面会の日はすぐそこだ。
狂おしいほどの慕情を感じるというのに、その男と会うことを、自分自身に許可できない。
身動きの取れない葛藤に苛まれながら、蓮は白い指で屹立を慰めた。
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