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9、三年ぶりの再会

   そして、葵の手術は無事に成功した。  恐れていた拒絶反応もなく術後の経過も順調だと、毎日綾世が連絡をくれる。  本当ならば、離れることなく葵のそばにいたかった。だが、あいにく蓮はその時フランスで開催される会議に出席していて、葵の目が開かれる瞬間に立ち会えなかった。  そして、つい先日結んだ御門とのアポは、フランスから帰国する便の遅れによりキャンセルとなった。不可抗力なので仕方がないと安堵しつつも、心のどこかで残念に思っている自分が女々しく感じられ、情けない気分にもなる。  しかし、今は葵の目のことが何よりも気掛かりだ。蓮は帰国するやいなや屋敷に直行した。  葵はすでに退院し、自宅で静養しているらしい。早く葵の目が見てみたい。早く葵と目線を交わしたいという気持ちが逸り、蓮は車を降りるなり、屋敷の中へと早足に駆け込んだ。 「葵……!」  リビングルームのドアを開け放つと、葵がこっちを見て、すっとソファから立ち上がる。まっすぐに蓮の方へと視線を向けている葵の姿を見て、蓮は喜びのあまり胸が詰まった。 「兄さん……?」 「そうだよ。ああ……葵」  弟をしっかりと腕に抱きしめ、間近で葵の瞳を覗き込む。深い紺碧色に星空を映したかのような美しい瞳が、蓮をしかと見つめていた。  葉常の瞳は、葵の目の色とよく似ていたが、こんなにも美しい色合いの金眼ではなかった。この独特の色彩は、国城家直流の血族だけが持ちうる、金色味のかかった美しい瞳なのだ。葵の血液がその眼球に通ったせいだろうか。葵の瞳の色は、幼かったあの頃と何一つ変わらない。 「葵……綺麗な目に戻ったね」 「うん……本当にありがとう、兄さん。俺のために……」 「いいんだよ、そんなことは何も気にしなくていいんだ」 「俺のために、一人で頑張ってくれてたんだろ? これからは、俺が兄さんの力になるから」 「……葵」  そう言って蓮の顔を撫でる葵の指先。葵の瞳も、しっとりと涙で潤んで揺れていた。何よりも心強い言葉をもらって、蓮の気持ちも緩んでいく。弟のあたたかな指先を握り返しながら、蓮はそっと葵の頬にキスをした。  幼い頃は、いつでもこうして触れ合うことができたのに、今は葵の中のアルファに嘘を暴かれることが恐ろしくて、おいそれとは触れられない。  でも、今だけは葵をしっかりと抱きしめていたかった。こうしてみると、葵はすっかり背が伸びて、蓮とさほど体格が変わらなくなっている。たくましく成長した葵のことがことさら愛おしく、蓮はぎゅっと葵の背中を抱き寄せる。  しかし、葵の次の言葉に、蓮の安堵は脆くも崩れ去った。 「俺に、番いたい相手がいると言ったら、どうする」  ――番いたい……相手……?   どういうわけか、ぐらりと一瞬視界が歪んだ。  感じたのは、これまで散々葵に言い聞かせてきたことが、全て無駄だったのかという徒労感。そして同時に蓮の胸を締め上げたのは、抑えようのないほどの嫉妬と羨望だった。  ――オメガである僕はこんなにも不自由を強いられているというのに、アルファだというだけで、たやすく運命を引き寄せようとしているなんて……。  ――僕は、何一つとして自分の思うままに生きられなかったのに……。葵は自分の意志を、頑なに貫き通そうとしている。  しかし、無様な動揺を弟に見せるわけにはいかない。蓮はぐっと感情を飲み込んで、威圧的な口調でこう言い放った。 「……何度も言わせるな。番を作ることは許さないと、僕はお前に何度も言ったはずだ。番を作ってしまえば、お前はその相手としか性行為が出来なくなる。お前は、たくさんのオメガを抱かねばならないんだ、そんなことを許せるはずがないだろう」 「前から不思議に思ってたんだけど、兄さんのパートナーはどこにいるんだ?」 「え……?」  葵の目には揺らぎがなかった。すでに、蓮の秘め事を見抜いているかのような、まっすぐな視線。  蓮は思わず息を飲む。どこまでも静かな葵の眼差しに縛り付けられているかのように、全身が強張った。  ――葵にも、勘付かれているというのか……?   葵の追求に、ついつい語気を荒げてしまった自分が情けない。でもまだ、ここで真実を暴露するわけにはいかないのだ。葵がどこまで察しているかは分からないが、せめて、せめてあと少しだけ、蓮はアルファの仮面を身につけ続けなければいけない。葵が一人ででも仕事をこなしていけるだけの力を託してからでなければ……。  凪のように穏やかな葵の目線を見つめ返していると、軽い目眩がした。全てを見透かすような、美しい紺碧の金眼を恐ろしいとさえ感じてしまった。  視力を失っていたぶん、嗅覚が優れていたのは知っていた。だからこそ、蓮はオメガフェロモンを隠すために様々な努力を重ねてきたというのに……。  葵の視線から逃げるように踵を返し、蓮は早々に屋敷を離れようとした。しかし、そんな蓮の行く手を阻む男の影に、蓮は今度こそ、愕然としてしまった。 「……っ」 「すみません、扉が開いていたもので……。別に話を聞くつもりはなかったのですが」  あの涼やかな低音の声が、蓮の耳を甘くくすぐる。  突如目の前に現れたのは、これまで恋い焦がれ続けていた、魂の番だった。  ――ドクン…………ドクン…………ドクン……!  早鐘を打ち始める心臓の音がひどくうるさい。じわじわと全身が熱くなり始めるのを感じ、蓮は言いようのない焦りを感じていた。  ――どうして、こんなところで……!  呆然とする蓮の瞳を、御門の漆黒の瞳が見据えている。どことなく不安げでありながらも、言いようのない高揚を宿した熱い眼差しだった。その瞳が、あまりにも懐かしかった。  背も伸びていて、蓮よりも上背があるようだ。背丈だけではない、厚みを増した胸板や凜とした清々しい立ち姿には、一企業の長たる風格を備え始めているように見える。  スーツ姿がしっくりと似合っていて、大人としての余裕を漂わせているが、御門の目には今も無邪気な少年のように溌剌とした光が宿っていた。  面会がキャンセルになったことに安堵しきっていて忘れていたが、御門は葵の親友でもある。こうして視力を取り戻した葵を見舞って家にやってくるであろうということくらい、予想できたはずだったのに……。  葵の言葉に動揺していたせいで、蓮の心はぐらぐらと衝撃を受けていた。思わずふらつきそうになってしまった蓮の方へ、とっさに御門が手を伸ばす。  指の長い、大きな手だった。御門を欲して疼く身体を慰める時、何度となく想像していた御門の手が、すぐそこにある。この手に縋りつけたら、どんなに楽になるだろう。どんなにか、幸せだろう――不意に蓮の胸中に湧き上がる切なる願望から、蓮は必死に目をそらした。 「突然押しかける形になって、申し訳ありません。蓮さま、俺はどうしても、あなたにお会いしたいと思っていたんです。あなたが誰よりも多忙なのは承知しています。ですが俺は、」 「……どけ」 「え……?」 「いいからそこをどけ。僕は、君とのんびり話をしていられるほど暇じゃないんだ」  ――会いたかった。ずっと、ずっとずっと、会いたかった……。  本能と心がリンクして、御門を欲している。しかし、口をついて出てくるのは冷えた声と、冷徹な台詞だった。長年にわたり身につけ続けてきたアルファの仮面が、反射的に御門を遠ざける。  困ったような御門の視線が愛おしくてたまらないのに、本当は、会いたくて会いたくてたまらなかったのに……。 「そこをどけと言っているだろう!! 僕は疲れてるんだ。今は、誰の顔も見たくない」 「……は、はい……。申し訳ありません」  ――そばにいて欲しい。今すぐに、抱いて欲しい。そばにいたい、愛されたい……。  蓮を恐れるかのように目を伏せて、すっと身体をよける御門の姿を睨みつける間も、蓮の本能は御門を求めて声を上げ続けていた。  ――こっちを見ろ。その瞳で、僕を見ろ。……僕を、もっともっと、求めてくれ……。  オメガの本能を理性で黙らせ、蓮は逃げるようにその場から立ち去った。

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