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10、葵の異変

   そして、葵の誕生日を祝うパーティの日が訪れた。  その日蓮は、朝からずっと屋敷にいた。今は急ぎで対応せねばならない案件もなく、比較的仕事のほうは落ち着いている。屋敷の中はパーティの支度でどことなく忙しない雰囲気だが、今日は葵の誕生日。待ちに待った葵の成人の日だ。  蓮はどことなく逸るような気持ちを胸に抱きつつ、ゆっくりとシャワーを浴びていた。  昨晩からゆっくりと休養を取れたおかげか、いつになく身体が軽い。蓮は腰から下にだけタオルを巻いた格好で、つい先ほど勢田から受け取ったばかりの招待客リストを眺めていた。そして、そこに当然のように並んでいるあの男の名前を見て、小さくため息をついた。 「……強めの抑制剤を打たないとな」 『Haruhito Mikado』という文字を見ただけで、ばくばくと心臓が高鳴ってしまう。これまでも、何度か別のパーティで御門の姿を遠目に見つけたことはあったものの、蓮の周囲にはいつでも人垣ができていることもあり、御門と間近に接することはなかった。  だが、今日は葵の誕生日。葵と御門は親友同士だ。当然、兄である蓮との距離感も、いつもよりは近しいものになるだろう。今日のホストである自分が、招待客である御門を無下にするわけにもいかない。多少言葉を交わすことくらい、覚悟しておかねばらない。  ――大丈夫、ちょっと挨拶をするだけだ。それくらいなら、耐えられるだろう……。  濡れた金色の髪からぽたぽたと雫が垂れ、鎖骨に小さな水の球を作った。それはつうと蓮の腕を伝って、ぽたりと床に墜ちていく。  蓮は左腕を持ち上げて、腕にぽっかりと空いてしまった小さな穴を見下ろした。長年に渡って抑制剤を注射してきたことで、蓮の肘の内側には、小さな(うろ)のような注射痕がある。まるで麻薬中毒者だな、と蓮は自嘲気味に笑った。  蓮はベッドサイドに置かれたチェストに歩み寄り、一番上の引き出しをすっと引いた。プラスチックケースに収まったアンプルと、未開封の小さな注射針を見下ろして、蓮はそっと自らの注射痕に指を這わせる。 「大丈夫……隠し通せる。葵にも、あいつにも……」  自分に言い聞かせるようにそう呟くと、蓮はゆっくりとプラスチックケースを取り出した。  +  そして、きらびやかなパーティが始まった。  きっちりと正装した葵を傍らに置き、これまで懇意にしてきたアルファ達に葵を紹介する。それはとても誇らしい瞬間だった。  兄の目から見ても、葵の容姿は誰よりも美しいし、若さの割に堂々とした態度は見事なものだ。ついこの間まで目が見えなかったとは思えないほどに……いや、目が見えなかったからこそか、葵は物怖じすることなく、初対面の相手を興味深そうに見つめるのだ。  小気味の良いテンポで進む会話には、葵の知性と機転の良さが窺われる。また生真面目な会話ばかりではなく、ときにはウイットに富んだセリフで場を和ませるという話術の巧みさを目の当たりにするたび、「兄の自分には反抗的な態度をとるくせに、随分と社交的になったもんだな」と、嬉しいような悲しいような気分になった。  気位の高いアルファ女性たちを相手にするときも、葵はどこまでも紳士的でそつがなく、いつしか彼女らが葵を見つめる眼差しにはうっとりとした艶っぽさが宿るようになっていた。そんな眼差しに気づいているのかいないのか、葵は爽やかな笑顔を絶やさず、一定の距離感を崩さない。  葵の社交界デビューは大成功だ――その手応えに気が抜けた瞬間、人垣の向こうに御門陽仁の姿を見つけた。  上背があり、逞しい体躯をした御門は、招待客で賑わうパーティ会場でもよく目立つ。  いつもよりもきちんと整えられた黒髪や、嫌味なく着こなした仕立てのいいタキシード姿は、素晴らしく華がある。年の近い若い男女とシャンパングラス片手に談笑する御門の姿を見るや、蓮の心臓は激しく鼓動を増す。  周りにいるのは葵の同級生だろうか。いつになく砕けた笑顔を浮かべて楽しげにお喋りをしている御門の姿に、いいようのないときめきを感じてしまう。蓮はすぐさまそこから目をそらそうとしたものの、どうあがいても目線が御門のほうへと吸い寄せられるようだった。 「兄さん? どうかしたのか?」  庭の方でアップテンポなジャズ演奏が始まり、葵と蓮を取り巻いていた人々がふと途切れた。はっと我に返ると、葵が心配そうな目つきで蓮の顔を見つめていた。 「えっ……あ、いや。何でもないよ」 「ちょっと顔が赤いみたいだけど、大丈夫か? 酔ってる?」 「僕は下戸だ。酒は飲んでないよ。それより……今こっちに歩いてきてるあの男は、次期総理と呼び声の高い大物政治家、新藤貫太郎氏だ。何かと付き合いが多い相手だから、紹介するよ」 「わかった」  御門から視線を引き剥がし、蓮は葵を伴って新藤の元へと歩み寄った。しかし、あいも変わらず蓮の鼓動は速いままで、どうにも落ち着かない気分だった。  しかし、今ここで気を抜くわけにはいかない。国政を動かす政治家たちとの繋がりは、貿易という仕事をする上で切っても切れない関係だ。きっちりと葵との顔つなぎをしておくためにも、蓮は愛想のいい笑みを浮かべて、五十路(いそじ)がらみの政治家・新藤と握手を交わす。  そのとき、少し離れた場所からグラスの割れる音が聞こえてきた。パーティの喧騒に紛れたその音は、ほんの微かな物音に過ぎない。しかし蓮の耳に、その音は妙にクリアに響き、ざわりと胸をざわつかせる。 「ん? どうしたのかね?」  新藤が、人の良さそうなまろやかな顔に怪訝そうな表情を浮かべ、葵を見つめている。  それに気づいた蓮が葵の横顔に目線を移すと、葵の顔からは愛想の良い表情がすっかりと消え失せていた。  感覚を研ぎ澄ませるように空の一点を見つめ、何かの気配に耳を攲てるかのように、じっと微動だにしない葵の横顔は、つくりものの人形のように冷え冷えとした美しさを湛えていた。蓮は戸惑いつつも葵の表情に目を奪われてしまう。その時。 「……結糸……!!」  次の瞬間、葵ははっとしたように目を瞬き、裏庭の方へと視線を走らせた。そして、突如としてその場から身を翻し、俊敏な動きでパーティー会場から走り去ってしまったのだ。 「葵……!?」  驚いたのは蓮だけではない。新藤や、その周囲を固めていた秘書たちもまた、呆気にとられて葵の後ろ姿を見送っている。  ――ゆいと? 結糸……あの使用人のことか……?  微かな予感に、蓮は表情を険しくした。  深谷結糸。  のっぴきならない家庭の事情を哀れに思い、国城家に引き入れたベータの少年だ。彼が紹介されてきたとき、蓮はちょうど葵と年の近い使用人を探していた。「祖父の入院費を稼がねばならない」と、必死さの滲む大きな目で、まっすぐに蓮を見つめた目つきが気に入り、蓮は結糸を雇うことにした。その後も問題を起こすことなく、葵との関係も良好だと勢田から報告を受けていた。……しかし、葵のあの態度は……。  蓮はすっと表情を引き締め、新藤に深々と頭を下げた。 「大変申し訳ありません。弟が無礼な態度を」 「いや……構わんが。一体どうしたというのかな」 「何か事情があってのことでしょうが、あとできつく言い聞かせておきますので」  そう言いつつ、蓮はすっとパーティー会場に目線を走らせる。そして、すぐそばに須能正巳の姿を見つけた蓮は、そばに控えていた征芭に須能を呼びにやらせた。 「どないしはったんです?」  談笑していたアルファの会社役員からすぐに離れ、須能は蓮のもとへとやって来た。そして、須能はすぐに、蓮の硬い表情を見て何かを察したらしい。  須能は蓮に小さく頷いて見せ、新藤の方へと艶やかに微笑みかける。 「新藤様、今宵は須能流第二六代目家元、須能正巳氏をここにお招きしております。この宴席に花を添えていただこうと、わざわざ京都から来ていただきました」 「ほう! あの有名な……!」  新藤が嬉しそうに目を輝かせるのを見て、蓮は愛想よく微笑んだ。新藤が須能の舞を好んでいるということは、前々から承知していたことである。  目論見通り、新藤は須能を見てとろけそうな笑みを浮かべつつも、どことなく緊張したような表情だ。憧れを抱いていた相手がすぐそこにいるという事実に、すっかり舞い上っているようである。 「初めまして、須能正巳と申します。ささやかながら、ここで舞を披露させていただきたい(おも)てます。よろしければ、どうぞ、舞台の前の方へお越しくださいな」 「あ、ああ、いや、あははは。まさか本物の家元にお会いできるとは。あっははは」  須能に片手を取られ、新藤は純朴な少年のように照れ笑いを浮かべつつ、屋外に設置された舞台の方へと歩いていく。ちらりと背後を振り返った須能に目礼し、蓮は征芭に勢田を呼ぶように言いつけた。  ――葵……一体何を考えているんだ。僕の言いつけを突っぱねておきながら、ベータの少年に手をつけていたのか……? もしくは……逆か……?  蓮の胸をざらつかせるこの嫌な感覚は、葵への苛立ちか、結糸への疑念か……はたまたその両方か。  雅楽の音が、庭の方から聞こえてくる。  怒りを滲ませた険しい表情を隠すこともなく、蓮は早足に葵を追った。

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