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11、弟の番
突如パーティ会場から飛び出した葵を追った先で目の当たりにしたものは、おぞましいほどに予想通りの光景だった。
招待客であるアルファの青年二人が、葵の付き人・深谷結糸を暴行しようとしていたらしい。
どういうわけか、葵はそれをいち早く察知し、暴行魔と成り果てたアルファをその拳で殴り倒していたのだ。
金色に揺らめく、獣のような瞳。
これまでに見たことのない葵の冷徹な表情に、蓮は言いようのない不穏な感情を抱いた。
――なぜ、葵はこのレイプ未遂に気がついた。どうして、使用人の少年相手に、ここまで激しく暴走した……?
アルファの男の顔は、見る影もなく腫れ上がっていた。鼻も、頬骨も、おそらくは砕けてしまっているだろう。葵にここまでの攻撃性が眠っていたことに、蓮は驚きを隠せなかった。
当然、こうなるに至ったきっかけを作ったのは、軽薄なアルファの男たちだ。だが同時に、今日という大事な日を流血沙汰で台無しにしてしまった葵に対しても、言い知れぬ怒りを感じてしまう。
そして、倉庫の奥から出てきた付き人の少年の首元を見て、蓮は愕然とした。
少年の首に、オメガの証たる黒い首輪が見えたからだ。
一気に、頭に血が上った。
蓮の胸中を、どす黒い感情が渦巻いている。
性を偽って、大事な弟を誑かしたこの少年への怒りと、嫌悪感。そして、その偽りを見抜けなかった自分自身の迂闊さに、激しい怒りが燃え上がる。
しかし、何よりも一番強く蓮の胸を刺したのは、これまで蓮が言い聞かせてきたことを全て拒絶し、自分勝手に番を作ろうとしている葵への怒りだった。
少年を守るために発せられた葵の言葉には、蓮がこれまで築き上げてきたものを一瞬にして瓦解させるほどの衝激を感じた。葵は汚れを知らない、純粋無垢な存在だ。そうなるように守り育ててきたのは、ほかならぬ蓮自身。その純粋さが、今はひどく残酷なものに思われて、蓮の理性はとうとう決壊してしまった。
「どこの誰とも分からないようなオメガを、お前の番にだと!? いいか葵!! お前は何も分かっていない!! これまで僕が、どれだけ必死になってお前を守ってきたか、まだ分からないのか!?」
「……分かってる。分かってるよ! でも、」
「国城家の繁栄を妬む者はたくさんいるんだ!! いつだってそうだ、僕らを陥れようとするやつらはごまんといる。だからこそ、お前に近づく人間には目を光らせてきた! 純粋なお前が、悪意を持った誰かに騙されることのないようにな!」
「悪意? 結糸に悪意なんてあるわけないだろう!! ちゃんと話をさせてくれ! どうしていつも頭ごなしに否定するんだ!!」
「僕はお前を守りたいんだ!! どうして分からない!! ……お前の目が見えなくなったぶん、僕は見たくないものをたくさん見てきたんだぞ!? 父と、母のことも……」
「……父さんと母さん? え? 病死……したんだよな?」
抑えられない感情が爆発し、蓮は葵の前で両親の死の真相まで口走ってしまった。葵には隠し通そうと決めていたことなのに、いともあっさりとそれを吐露してしまった自分の浅はかさにも呆れてしまう。
それでももう、抑えられなかった。
これまで葵にかけてきた期待を全て裏切られたような心地がして、どうしても堪えきれなかった。
同時に蓮の心を焼くのは、深谷結糸への嫌悪感だ。
目が見えず、世間を知らず、純粋で曇りのない葵を、淫らな手段で奪い去る卑しいオメガ。それが深谷結糸に対して抱いた率直な印象だ。
自分と同じオメガが、βだと偽って、大事な弟にあっさりと取り入っていたこと――これまで必死にアルファを演じ、孤独の中で戦い続けた蓮の生き方を、全否定されたように感じた。
自分は必死に、アルファの中で戦ってきた。
魂の番に焦がれながらも、自身のオメガ性を露見してしまうのが恐ろしくて、逃げ回ってきた。
その結果が、今の孤独と疲弊なのに。身体を壊してまで、この地位を守り続けてきたのに……この少年は、いとも容易く葵を籠絡し、国城家を貶めようとしている。
愛だの恋だのと、甘っちょろい戯言を口にしてここに居直ろうとする二人への激情をなんとか呑み込み、蓮は努めて冷静な口調で少年の追放を言い渡した。しかし。
「結糸の偽りを責める資格が、兄さんにあるのか?」
「……なんだと?」
「……兄さんも、オメガなんだろう?」
初めてオメガ性を告知された時と同じ衝激が、蓮の全身を奈落へと突き落とす。
踏みしめていた足元が抜け、深い闇へと吸い込まれるような落下感を感じた。
何も言えなかった。
否定することさえできなかった。
葵の紺碧色の瞳はどこまでも静かだ。蓮の偽りなど、とっくに看破しているかのように、確信に満ちた光を湛えている。
「そうなんだろう? 兄さん」
「……」
「否定、しないのか」
沈黙、それはすなわち肯定だ。
葵の視線からそっと目線を外し、蓮は深くため息をつく。
吐いた息とともに、これまでずっと胸に押し秘めていた頑なな何かが、するりと解けてしまったような気がした。蓮は脱力し、諦観に身を委ねる。
「……さすがにもう、無理か」
蓮は、葵に全てを語ることにした。
もっとも隠しごとしたくない相手に、秘密を持ち続けることにも、もう疲れ果てたのだ。
蓮の語るこれまでの現実を聞く葵の表情が、徐々に徐々にこわばり始める。これまで、蓮ひとりに重いものを背負わせ続けてしまったということを、深く悔いるような、悲壮に満ちた表情へと変化してゆく。
しかし蓮は全てを話した。話さずにはいられなかった。
これはきっと、蓮自身が望んでいたこと。
誰かに苦しみを知っていて欲しかった。他でもない、たった一人の家族である葵に、全てを知って欲しかった。
いつしか葵の目からは涙が溢れていた。葵の涙など、一体どれくらいぶりに見ただろう。子どものように肩を震わせ、嗚咽を漏らす葵の姿がいじらしく、張り詰めていた蓮の表情もついつい綻ぶ。葵の肉体はすっかり大人へと成長を遂げているというのに、抱きしめていると、まるで幼い頃の葵を抱いているような気持ちになった。
視力を奪われた直後、「何も見えないよ」と言って泣いていた、いたいけな葵の姿を思い出す。閉ざされた視界の中で不安に襲われ、夜な夜な涙を流していたこともあった。盲目である自分を受け入れつつも、思うようにならない現実に悔し涙を流す、少年時代の葵の苦悩のことも……。
――もっと早く、葵にこの真実を伝えていれば、僕はこうも頑なな人間にはならなかったかもしれないな……。
眉根を寄せ、潤んだ瞳で蓮を見上げる葵の頬をぬぐってやりながら、蓮はそんなことを考えていた。今となってはどうしようもなかったことだが、愛おしい弟と、ようやく元の『兄弟』に戻れた喜びが、蓮の心を軽くする。
全ての仮面を脱ぎ捨て、全身から力が抜けてしまった蓮は、深谷結糸のほうへ力なく目線をやった。
深谷結糸は、ひたむきな眼差しで蓮のことを見つめていた。もの言いたげに唇は震え、どことなく泣きそうな顔をしていた。
――葵が選んだ、番のオメガ……。
葵の意思を受け止めたいと、蓮は感じた。こうまでして葵が守りたがったオメガの少年の話を、もう少し聞いてみたいと。
たどたどしく過去を語る少年のエピソードには、蓮自身のそれと重なる部分がたくさんあった。
オメガとして生まれてしまったが故の絶望と苦悩。仮面を被り、他人を、自分を、愛する人を騙さねばならなかったことへの苦痛、そして罪悪感。
深谷結糸の言葉はどこまでも朴訥としていて、悪意の欠片など感じることができなかった。ただ、この少年が葵を必要としていること、葵がこの少年を愛しているということだけが、蓮の胸中にすとんと落ちる。
ついさっきまで感じていた葵への怒りも、結糸への嫌悪感も、気づけばすべてが洗い流されているような感覚だった。
――葵の、番……か。
「……もういい、好きにしろ」
力なく呟いた台詞。それは、蓮にとっては祝いの言葉だ。
否応無く惹かれ合う気持ちは、抗いがたい力がある……今の蓮には、それが身に沁みてよく分かる。二人を結ぶ運命を邪魔立てする気分には、もうなれない。
喜びを溢れさせ、番を抱きしめる葵の表情を見るにつけ、その判断が誤りではなかったのだと、自然と思えた。弟の番、それはつまり、蓮にも家族が増えるということだ。これまでずっとふたりぼっちだった蓮と葵にとって、新たな家族を迎え入れることは、何よりも喜ばしいことである。
――家族……。
ふと、御門陽仁の明るい笑顔が脳裏に閃く。今、手を伸ばせば、届く場所に彼はいる。
蓮の、魂の番が。
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