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12、掴まれた手
「おおい、葵! どこにいるんだ!?」
声が聴こえた。
遠くから葵を呼ぶ声に、思わず身体が硬直してしまう。
――御門の、声……!?
ざ、ざ、と土を踏む靴音が近づいて来る。
そして同時に、蓮を惑わすあの香りが、蓮の全身に甘く絡みついてきた。
逃げることもままならず、蓮はただただその場に立ち尽くすばかり。そうこうしているうちに、倉庫のそばにある頼りない白熱灯の明かりの届く場所へ、御門陽仁が姿を見せた。
「あ! 主賓がこんなとこで何やって……あっ、れ、蓮さまもおいでで……。って、結糸くん!? どうしたんだその格好!?」
――どうしよう……すぐにここから、立ち去らないと……!
頭ではそう思うものの、もう少しだけ御門の声を聞いていたくて、足が躊躇う。
久方ぶりにその姿を間近で見ることのできた喜びと、すぐさまその場から立ち去ってしまいたいという気持ち。そのどちらもがあまりにも激しくせめぎ合った結果、蓮はその場から動けなかった。
深谷結糸にジャケットを羽織らせる紳士的な仕草であるとか、不意打ちで目の前に晒された広い背中、黒いベスト、光沢感のある白いワイシャツ……そして御門が身じろぎするたびにふわりと香る、甘いフェロモンの香り。
目の前で葵たちと会話をしている御門の姿に、いつしかうっとりと見ほれていたらしい。葵の「御門は兄さんとパーティ会場に戻ってくれ」という唐突な提案に仰天し、蓮はようやく我に返った。そして慌てて、その場を後にしたのだが……。
「待ってください!!」
追いすがって来た御門に手首を掴まれ、蓮はぴたりと動きを止めた。
触れ合った場所から甘い痺れが生まれ、それは一瞬にして全身を駆けめぐる。
全細胞が熱を帯び、限界まで高まった鼓動が、蓮の胸をきつく締め付ける。呼吸さえ、できなくなってしまうほどに。
「は、離っ……」
「どうして、俺を避けるんですか」
しんとした裏庭の夜風が、火照った蓮の頬を静かに撫でる。
振り返ることもままならず、手首を掴まれたまま硬直している蓮の背後で、御門が小さな声でそう問いかけて来たのだ。そこはかとなく、悲しげな声だった。
「……え?」
「俺、あなたに何か失礼なことをしましたか?」
「……そ、れは……」
恐る恐る後ろを振り返ると、凛々しい顔立ちに必死さを滲ませた御門の視線が、蓮の胸をきゅんと高鳴らせた。蓮の手を握る御門の手は大きくて、そして蓮に負けず劣らずとても熱い。この数年、恋い焦がれ続けていた御門と間近に目線を結んでいる現実が夢のようで、蓮はうまく言葉を返すことができなかった。
御門はどう感じているのだろう。
自分を見つめてやや見開かれたその瞳には、一体どのような感情が潜んでいるのだろう……御門の気持ちをどうしても知りたくて、蓮は睫毛を震わせながら恐る恐る御門を見つめた。
「あ……あの。もし、何か無礼なことを働いてしまっていたのなら、謝罪します。本当に申し訳、」
「ち、違う……!」
蓮の手首を握りしめたまま苦しげに項垂れる御門への申し訳なさが先に立ち、その場から逃げなければという意識が立ち消えてゆく。振りほどこうとしていた腕から力を抜き、蓮はごくりと息を飲み込んだ。
――大丈夫。最も効力のある抑制剤を打ったんだ。ちょっと言葉を交わすくらい、大丈夫。これ以上、御門を突っぱね続けるのは不自然だ……。
「ち……違うんだ」
「あ……」
蓮が素直に自分のほうへと向き直ったことにたじろいだのか、御門は清々しく整った両目を瞬いて、パッと蓮の手を離した。そして顔を真っ赤にしつつ、直立不動の姿勢をとる。
「……手、手を……! す、すみません……!!」
「……いや」
「あ、あの……!! 蓮さま、俺、」
「これまで何度もアポを取ってもらっていたのに、ことごとくキャンセルしてしまって、申し訳なかった」
「……え? あ、いえ……とんでもないです。すみません、蓮さまはご多忙だとよくよく承知しているのに……」
御門は真っ赤な顔をしたまま、今しがたまで蓮の手首を掴んでいた手をぐっと握り締める。そして切なげな目つきで、もう一度蓮の方を見つめた。
「……ずっと、お会いしたいと思っていました。あなたと、少しでも話をしたくて」
「資金援助の件なら、もう十分礼を尽くしてもらっているよ。君の会社は著しい成長を遂げているし、それだけで、」
「あの、そうじゃないんです……!」
もどかしげな声に言葉を阻まれ、蓮ははたと目を瞬いた。御門は微かに震える唇をぐっと引き結んだあと、強い口調でこんなことを言い出した。
「お、俺……あなたにずっと憧れていて!! あの、よかったら、一度でいいんで、俺と食事していただけませんか!?」
「……え?」
「お、おお、おかしいですよねこんなこといきなり言うの……! で、でも俺は、蓮さまを初めて見た時から……高校生の頃からずっと、あなたに憧れてたんです! 少しでもあなたに近づきたくて、父親から社長職を継いだんです。あなたの目に留まるためには、バリバリ仕事をこなせる男でなくちゃならない。そのためには、のんびり学生やってる暇なんてない、すぐに第一線で活躍できるだけの力をつけなきゃって……!」
「……ちょ、ちょっと待ってくれ。いきなりそんなことを言われても……」
突然勢い込んでそんなことを言い出す御門の押しについていけず、蓮は軽く手を持ち上げて御門を制した。すると御門は「あっ、す、すみません……!!」と大慌てしながら、がばりと勢いよく頭を下げる。
「すみません……こ、こんなところであなたと二人きりになれると思っていなかったので、緊張してしまって。む、胸が……苦しくて」
「……そう」
「き、気持ち悪いですよね、突然こんなこと言われても。でも今言わないと、もう伝える機会がないかもしれないと思うと、つい……」
「……すまない。僕がアポを蹴り続けていたせいだな」
「そっ、そうじゃないです!! 蓮さまは、俺のような若輩者が気軽に近づいていいような存在じゃありません。それは分かっているんです。しかし、だからといって、ただ遠くからあなたを見ているだけっていうのも、もう、したくなくて……」
「……」
御門がひどく緊張しているせいか、逆に蓮のほうは徐々に冷静さを取り戻しつつあった。
こうして見ていると、御門は立派な体格や華々しい外見へと成長したが、その内面は今も純朴で、初めて出会った頃の初々しさを持ち続けているように見受けられた。
思えば、御門は葵の同級生で、蓮より五つも年下だ。二十歳になったばかりで、社会人としてもまだまだこれからという若者なのだ。これまで、御門に対して自分勝手なイメージを作り上げていたことに、蓮ははたと気づかされる。
そう思うと、こんなふうに必死に追いすがってくれる姿が殊更に愛おしく、ついつい顔が緩みそうになる。
御門が自分に憧れていてくれた、という事実はとても嬉しい。だが同時に、若干の落胆を感じてしまうのもまた、事実だった。
御門が蓮に対して感じている情は、あくまでも『憧れ』。蓮が御門に抱き続けている慕情とは、やはり少し質が違うように思えた。蓮のオメガの本能は、御門が『魂の番』であると、とっくに確信を得ているというのに。
長年使い続けた抑制剤のせいか、フェロモンの香りを誤魔化すためのトワレのせいか。もしくは。
――僕をアルファだと思っているから……?
「あっ……すみません、一方的に喋ってしまって……!! しかも、蓮さまはパーティに戻らなきゃいけないってのに、」
「……いいよ」
「えっ?」
「食事。一度くらいは付き合ってもいい」
「…………え?」
終始せわしない空気を醸し出していた御門であったが、蓮のその一言に、ぴたりと硬直した。呆然とした表情で蓮を見つめる御門の顔が可笑しくて、蓮は思わず笑みをこぼしてしまう。
蓮の周りを囲む人間たちとは違い、御門の表情はくるくると変化する。一瞬たりとも目を離したくないと思わされるほどに、御門の一挙手一投足を愛らしく感じた。
そして、不意打ちの蓮の笑顔を目の当たりにした御門の頬も、みるみる真っ赤に染まっていく。そして、照れ臭そうにうなじを掻いた。
「い……いいんですか? 俺なんかと、食事だなんて……」
「そっちから誘っておいて、その言い方は何だ」
「あっ!! す、すみません……!! な、なんだか、信じられなくて……!!」
「まぁ、あまり時間は取れないがな。うちの本社ビルに入っている店を適当に予約させるよ。食べられないものはある?」
「あ、ありません!!」
「そう。……では、また連絡する。僕は先にパーティへ戻るよ」
「は、はい!! ありがとうございます!!」
ぱぁぁ、と御門は眩しいばかりの笑顔を浮かべた。つられてついつい微笑みたくなってしまうのをぐっとこらえて、蓮はすぐに踵を返し、その場から早足に歩き去った。
パーティ会場へ戻る手前、蓮は大きく開かれた大広間の扉に片手をついて、初めて大きく深呼吸をした。御門の前で気を張っていたため、まともに呼吸をしていなかったらしい。
――大丈夫、バレてはいない……でも……すぐに薬を飲まなきゃ……。
「はぁっ……はぁ……っ……」
身体中が、熱くて熱くてたまらない。
抑え込んでいた緊張と歓喜が、今になってぐるぐると派手に蓮の体内を暴れまわっている。
――このままパーティ会場へ戻ることなんて、できやしないな……。
蓮はタキシードの内ポケットに隠し持っていたタブレットのケースにそっと触れ、レストルームの方へとふらつきながら向かった。
――僕は御門に、このまま性を隠し続けるつもりなのか? ああして普通に言葉を交わせるようになったとしても、このままずっと……?
レストルームの個室に入った瞬間、腰が砕けて膝をついてしまった。それほどまでに、蓮の肉体は御門のフェロモンに侵されていたらしい。スラックスの中で、はちきれんばかりに嵩を増している性器を急いで鎮めなければと、蓮は焦った。早くパーティ会場へ戻らねば、招待客に無礼であると。
必死で声を押し殺し、壁にもたれかかりながら自慰に耽る。ついさっきまで御門の前で格好をつけていた自分がひどく滑稽なものに思えて、情けなかった。
「ん、んっ……ンぁ、はぁっ……う……っ」
――……なんて、恥ずかしい。こんな姿を御門に見られるのは、嫌だ……。
御門はどうなのだろうか。
ひた隠しにしている蓮のオメガフェロモンを、御門はわずかでも嗅ぎ取っているのだろうか。だからあんなにも顔を赤くして、たどたどしい態度を……。
――分からない……どうしたらいいのか、分からない……。
こんな痴態を見られたくないと思っているのに、蓮の本能は、御門の前で自分がオメガであると露見することを望んでいる。
――どうしたらいいんだ……僕は……。
「ぁ……っ……ぁん、ふ、ん、んんっ……!!」
つい今しがた感じたばかりの御門の匂いや、様々な表情を思い出しながら、蓮は背中をしならせて吐精した。
とろりと手のひらを汚す己の白濁と、まだまだ萎えることのない屹立を見下ろして、蓮は苦しげに目を伏せる。
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