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13、自分の幸せ?

   本社ビルで葵に仕事を教え始めて、二ヶ月ほどが経った。  いつになく新鮮な張り合いを感じながら、蓮は仕事に勤しんでいた。仕事をしている姿を葵に見せるのは初めてであるから、ちょっとでも頼もしいところを見せたくて、ついつい張り切ってしまうというわけである。  いつも蓮のそばに控えている征芭は、そんな蓮を見て何やら感慨深そうな面持ちだ。  そして御門とも、あの日以来、一週間に一度のペースで連絡を取り合っている。  ただのプライベートな会食の約束であるから、仕事用のPCから連絡を取るのもどうかと思い、蓮はプライベート用の端末(スマートフォン)で、御門と連絡を取るようになっていた。  食事の約束を交わしたはいいが、スケジュールを確認してみると、蓮が自由にできる時間は当分先までなかった。その件を謝罪するという用件でメッセージを送ると、御門はすぐに返信を寄越した。内容は、自分はいつまででも待つつもりだというものと、蓮の体調を気遣うもの。文面的にはビジネスライクなメッセージのやりとりだったが、文章の端々に御門の心遣いを感じられて、なんだかとても癒された。メールだけのやりとりだが、こうして御門の存在を身近に感じることができるようになったことが、むず痒く幸せだった。  会食の予定を決めるためにメールをやり取りしているだけのはずであったが、御門はちょくちょく仕事に関する報告のようなものを寄越してくるようになった。御門自身が推し進めているレアメタル掘削事業の件や、石油プラットフォーム建設の件で海外に出ていることも多いらしく、御門は御門で相当多忙であるようだ。  そんな中、御門は時折、目を見張るほどに美しい写真を添付して送ってくる。  大西洋のど真ん中で見た夕日の写真であるとか、船のすぐそばを泳ぐイルカの群れの写真、または船の上で仲間とジョッキを傾ける御門の手――それらを見ているだけで、蓮の胸は高鳴り、身体が軽くなるような気がしていた。  葵に真相を話せたことや、御門との関わりが増えたこと……これらの変化が、蓮の表情をいつになく柔らかいものにしているのかもしれない。 「兄さん、何かいいことでもあったのか?」  そしてとある日の昼食どき。  兄弟二人で遅めのランチを取っている時に、葵がふとそんなことを言い出した。蓮は飲み込みかけていたサンドイッチに軽く咳込み、慌ててプラカップに入ったカフェラテを飲み下す。 「べ、別に……どうしてそう思ったんだ?」 「なんだか、最近機嫌がいいなと思ってさ」 「……え? いつもの僕は、そんなに不機嫌か?」 「不機嫌ってわけじゃないけど、いつも難しい顔をしてるかな。最近はなんとなく、眉間のしわが目立たないというか……」  そう言って、葵はとんとんと蓮の眉間を指先でつついた。蓮は片目をつむって軽く顔をしかめつつ、葵の指をすっと握り込む。 「こら、やめなさい」 「薬、まだ飲んでるの?」 「飲んでるよ。そりゃそうだろ、お前に社長職を譲ったとしても、僕は抑制剤をやめられない。仕事に差し障るからな」 「でも、俺が仕事を引き継げは、兄さんは休みやすくなるだろ?」 「……そうかもしれないけど」 「早く仕事を覚えないとな。もっとスケジュールを詰めてくれても構わないのに」  葵の気遣いは嬉しいが、本来ならば学生の身分である葵を焦せらせてしまうのは心苦しい。それに、焦燥に駆られて無理に知識を詰め込もうとしても、それはかえって非効率的だ。蓮は葵の手をテーブルの上でぎゅっと握り、「急ぐ必要はないよ」と諭した。 「それに、今は結糸との時間も大事にしてやれ。この間の発情期で孕めなかったことを、気に病んでいるんだろう?」 「……あぁ、うん。そうなんだ」  発情期のオメガの懐妊率は100%ではないものの、正式な番とのセックスの場合、かなりの高確率で懐胎する傾向がある。しかし、結糸は胎に子を宿してはいなかった。  結糸の場合、肉体は若く健康だ。しかし、これまで常用してきた抑制剤の副作用が、こういった形で影響を現しているのである。「子を宿しにくい身体になっている可能性がある」――そう、綾世律は話していた。  当然、結糸はその現実にショックを受けている。しかも「蓮さまに申し訳が立たない」と言い、国城家の跡取りを孕みにくい身体になってしまった自分を、ひどく責めているらしいのだ。  これまで、蓮はやたらと葵に後継を急かししていた。ずっと葵の傍にいた結糸は、そんな蓮の姿しばしば見せつけられてきたはずだ。  蓮の真実を知るものが家族にいるという安堵感も手伝って、蓮はあの頃ほど後継問題に関して焦慮してはいない。結糸に対しても、蓮は「焦る必要はない」と伝えて来たが、素直に蓮の言葉を受け止める心の余裕はないのかもしれない。  その上、結糸は未だに身分差を気にしている節がある。そのためか、自分の存在意義が『国城家の跡取りを産むこと』へと、ずいぶん傾いてしまっているように感じられる。  葵がそんな状態の番を放っておくわけはないと分かってはいるのだが、結糸は家長である蓮の言動に対してとても敏感だ。結糸とも、一度きちんと時間をとって話をせねばならないな……と、蓮は常々考えていた。  同じオメガだということで、分かり合える部分はたくさんある。結糸には、自分の望む生き方をしてもらいたい。そういう想いがあるからこそ、蓮は今も結糸に屋敷の仕事を与えているのだが……。  ――まだまだ、やるべきことは山積みだな……。  隣で物憂げな顔をしている葵の髪をわしわしと撫で、蓮は弟を安心させるように微笑んで見せた。 「……番を守ることも、アルファの務めだろ。お前は焦せらず、いつも通りに結糸を愛してやればいい」 「うん……ありがとう」 「大丈夫だよ、葵。綾世のもとには、優秀な医師がたくさんいるんだ。お前がそんな顔をしていちゃ、結糸がまた気に病むぞ」 「……ああ、そうだな。しっかりしないと」 「弱音なら僕が聞くから。ほら、おいで」  軽く両手を広げて葵の方へ向き直ると、葵はちょっと面食らったような顔をした後、ふっと柔らかく破顔した。そしてちょっと照れ臭そうな笑みを浮かべつつ、ソファ席に並んで座る蓮の胸にぎゅっと抱きついて来た。  もたれかかってくる葵のプラチナブロンドを柔らかく撫でながら、蓮はふわりと目を閉じた。すると葵が蓮の首元に鼻を押し当て、すんすんと匂いを嗅いでいる。 「……兄さんの匂い、甘い。懐かしいな……」 「そうか? トワレをつけていても、分かるものかな」 「俺は分かるよ。ずっとこの匂いが好きだったから」 「そう」 「兄さんも……抑制剤を飲み続けてるだろ。ってことは……やっぱり、懐胎は難しい身体なのかな」 「え?」  葵はちょっと身体を離して、美しい紺碧の金眼を蓮のほうへ向けた。葵の言わんとする意味に気づいた蓮は、「あぁ……」と曖昧に言葉を濁す。 「そりゃ、そうかもしれないけど。でも僕は、子を孕む気なんてないから、何の問題もないよ」 「……でも、ひょっとしたら、これから先、兄さんが心を許せる相手が現れるかもしれないじゃないか」 「……」  ふと、御門の笑顔が、蓮の脳内に閃く。 「兄さんは、誰よりもアルファらしいアルファだと、俺は思う。でも、ずっとそのままでいいの? もし、番たいと思う相手が現れたら……」 「……もういいんだ、そういうのは。言ったろ、国城家の男に、そんなロマンティシズムは必要ないと」  蓮は葵の肩に手を置いて、自らに言い聞かせるようにそう言った。葵はどことなくもの言いたげな表情を浮かべている。 「僕には、葵がいる。葵には結糸がいる。お前たちは若いんだ。いつかきっと、二人で元気な後継者を産んでくれると思っているから」 「でも」 「葵にCEOの椅子を譲ったとしても、僕は隠居するわけじゃない。のんびり好きな仕事を続けられるなら、最高の人生じゃないか」 「……」  御門との距離が縮まったとしても、オメガであることを隠し続けていく――蓮は密かに、そう心に決めていた。  二十五にもなって、御門に対して初恋のような気持ちを感じていることは事実だが、そういう、甘くふわふわしたものに酔いしれている自分というものを、蓮はどうしても受け入れることができないのだ。 「僕は国城家の当主として、このままずっと、」 「兄さん……一旦、そういうのを無しにしてみたらどうだ?」 「え?」  ふと、葵が強い口調でそんなことを言った。語気を強める葵が珍しく、蓮は目を瞬いて弟の顔をじっと見つめた。 「そりゃ、兄さんは『国城蓮』だ。ある意味、一種象徴的な存在ではある。でも、本当に兄さんはそれだけの人間じゃないだろう。これまで俺や社のために必死で頑張って来てくれたんだ、そろそろ自分の幸せを探してみてもいいと思うんだけどな」 「……幸せって、言われても……」  ――僕にとっての、幸せ……って、何だろう。  考えれば考えるほど、分からなかった。これまでの蓮の人生における目標は、『オメガであることを隠し、アルファらしく生きること』と『葵のために家を支えること』、この二つだけだった。自分にとっての幸せがどういうものか、今までに考えたこともない。 「心を許せる相手がもしできたら、そいつと番になってみたらどうだろう。そうすれば、兄さんは抑制剤を飲む必要がなくなるだろ」 「……そう、だな……」 「誰かと番えば、兄さんのオメガフェロモンは番となったアルファだけを誘うんだ。無理に薬で抑え込む必要は無くなる。それに、俺が代表になれば、兄さんは仕事を休みやすくなる。発情期が来たって、何の問題もないよ」 「……あぁ」  熱っぽくそんなことを語る葵の表情を見つめているうち、蓮は察した。  ――ひょっとして葵のやつ、御門のことを何か勘ぐっているんじゃないだろうか。二人は親友だ。ひょっとして、御門が何か話したのかな……。  二人の間で交わされたかもしれない会話を想像し、蓮はちょっと苦笑した。そして、ぽんぽんと葵の頭を撫でる。 「まぁ、僕のプライベートなことは気にするな。僕は今、こうしてお前と働けているだけでも、十分に幸せだよ」 「兄さん……! 俺は本気で心配して、」 「お前は、結糸のことだけ心配してやればいい。……さぁ、午後の仕事だ」 「……うん」  葵は渋々と言った表情で紙コップに入ったコーヒーをくいと飲み干し、気を取り直すように深呼吸をしている。  弟の気遣いは嬉しいが、これまでずっと頑なに人と触れ合ってこなかった蓮にとって、いきなり誰かと親密な関係になることは、どことなく恐ろしいものでもある。自分がまだ気づいていない、どろりとした情念のようなものに溺れてしまいそうな気がして、どことなく、触れがたいものである。  ――いい年をして、情けないな。  隣を歩く葵と仕事の話をしながら、蓮は小さく自嘲の笑みを浮かべた。

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