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14、怖気
そして、とうとう御門と食事をする日が訪れた。
朝からどうにもこうにも落ち着かない気分だったが、食事ごときで浮ついている自分があまりにも馬鹿らしく、蓮はいつも以上にきびきびと仕事をこなした。
いつになくそわそわしつつも口調が鋭い蓮を見て何を思ったのか、葵はいつにも増して素早く仕事をこなしていく。その成果もあって、さくさくとその日のタスクは完了した。
「本当に、もうよろしいのですか?」
「あぁ、今日はもう帰っていい。葵にもそう伝えてくれ」
「はぁ、そうですか。葵さまは?」
「今は、麻倉と会議室に引きこもりだ。文字の勉強がてら、資料の整理をしているはずだ」
「左様ですか。では、そのようにお伝えしておきます」
「頼む」
「……ああ、今夜はもう、御門様との会食のご予定だけでしたね」
「そ、そうだな。……これといって重要事項を話し合うわけじゃないし、お前が気を遣うことはないよ。たまには早く帰って、赤ん坊の世話をしてやれ」
「ありがとうございます。では、失礼いたします」
征芭はベータ女性と結婚しており、子どもがすでに二人いる。征芭は有能なベータで、情緒も思考も素晴らしく安定した男だ。家庭に収まった妻と、幼い二人の子供たちを養う征芭の背中には、どっしりとした安心感がある。そういう男だからこそ、蓮は征芭を信頼できるのだろう。
蓮は執務室のハイバックチェアにもたれて、足元に広がる夜景を見下ろした。もう二十分ほどで、御門との約束の時刻である。蓮は緊張のあまり乾いてくる唇を水差しの水で潤した後、はぁ……と長いため息をついた。
――こんなに緊張するのは、生まれて初めてかもしれない。
一体どういう顔をしてレストランへ向かえばいいのか、最初にどう言葉を発したらいいのか、まるで分からない。蓮は椅子から立ち上がって窓辺に立ち、そわそわと腕時計を見下ろした。約束まであと二十分。そろそろ覚悟を決めて階下 に降りなければ……。
その時、キィ……と小さくドアが軋む音がした。征芭か葵が戻ってきたのかと思い、蓮は何の気なしに後ろを振り返った。
しかし、後ろ手にドアを閉めながらその場に立っていたのは、国城政親であった。いつものように唇に薄笑みを浮かべ、蛇のような目つきで蓮のことを見つめている。蓮は何故だかぞっとして、じりりと小さく後ずさる。
「……何の用だ」
「いえね、最近、妙な噂を聞きつけてしまったもので。蓮様に真意を訊ねてみようと思っていたところなんですよ」
「……」
政親は嫌味なほどに丁寧な口調でそう言いながら、ゆっくり、ゆっくりと蓮の方へ近寄って来る。
蓮は動揺を隠すため、煩わしげなため息をひとつ吐いた。そしてスラックスのポケットに手を入れてデスクの前に回り込むと、応接セットのソファに座って脚を組む政親を冷ややかに見下ろした。
「噂、とは?」
「心当たりは、ございませんかな? 蓮様」
「……いいえ、全く。申し訳無いのですが、僕はこれから予定があります。話なら、明日以降でお願いしますよ」
蓮は強い口調でそう言い切ると、デスクの上に置いていたジャケットを手に取った。そしてそのまま政親の背後を通って、執務室を出て行こうと思っていたのだが……。
素早い動きで立ち上がった政親に腕を掴まれ、荒っぽくその場に引き止められる。蓮はぎょっとして、政親を睨んだ。
「痛い。離せ」
「まぁまぁ……そう私を邪険にするものじゃないよ。ここまで君の会社を守ってきたのは、一体誰なのかな?」
「……それが何か? 僕が成人するまで会社を守ってきてくれたことに関する謝礼は、ありあまるほどにお支払いしたと思いますが」
「金じゃないんだよなぁ……そうだろう?」
「いっ……」
ぎりぎりとこれまでにないほどの強い力で腕を握り締められ、蓮はおもわず顔を歪めた。政親は口元に不気味な笑みを浮かべつつ、ぐっと自分の方へと蓮を引き寄せる。
「私を罷免するという話は、本当か?」
「……は?」
「これまでの恩を忘れて、私を表舞台から遠ざけるつもりなのかな? どういうつもりだ? そこまでして、君たち兄弟は国城家の名声を独り占めしたいのか?」
「そんな話僕は知らない。ただの噂話だろう。……すぐにこの手を離せ!!」
「火の無い所には何とやら、だよ。君はコソコソとそういう計画を立てているんだろう? 次の役員会で、この私をクビにしてやろうと目論んでいるんだな?」
「ぁっ……!!」
乱暴に突き飛ばされ、気づけば蓮はソファの上に押し倒されていた。政親は目を爛々とぎらつかせながら蓮の上にのしかかり、凶暴な力で蓮の肩をソファに押し付けてくる。
政親をクビに……という話は、国城家直流の血脈を持つ蓮と葵を推す一派が、願望まじりに口にしている戯言だ。葵が社に現れるようになってからというもの、一時期は大人しくなっていた一派閥が、にわかに騒がしくなっているのは事実だった。表立った場所でそういう発言は控えるようにと、蓮はしばしば釘を刺していたものだったが……。
蓮は恐怖とおぞましさに強張る心と身体を鞭打って、鋭い目つきで政親を見上げた。
「僕は、そんなことは考えていませんよ。こんな行動に出る前に、噂の真意とその出所を、きっちり確かめてから出直してきてもらいたいものですね」
「……どうだかなぁ……」
にぃ……と、政親は細い唇を吊り上げる。蓮の肩を掴む指の力が更に増し、その痛みとおぞましさ、そして身が竦むほどの恐怖を押し殺すため、蓮はぐっと奥歯を噛んだ。
「離せと言っているだろう……!! こんなことをして、ただ済むと……」
「そっちこそ、今の状況で私にそんなことを言って、ただで済むとでも思っているのか?」
「……どういう意味だ」
「早々に秘書たちを帰してしまうなんて、君は本当に迂闊者だな。……ああ、そうか。私を待っていてくれたんだね」
「な、何を言って……」
「蓮はほんとうに、素直じゃないなあ」
大きな手が、やんわりと蓮の頬に触れた。そして唐突に荒々しい動きで、硬く太い親指が無理矢理に蓮の口内に浸入してくる。
「んっ……ぐ……」
「しゃぶってごらん……そう……いい子だね」
蓮の舌を弄ぶかのように蠢く政親の指は、蓮の嫌いな煙草の臭いが染み付いている。必死に顔を背けようとするが、顎をぎりぎりと掴まれて動けない。蓮は目を見開いて両手を突っ張り、政親を突き放そうと頑張った。しかし、本物のアルファ――しかも大柄な体格をした政親の腕はビクともしない。
マウントを取られた状態で膝を割られ、抗いがたい力で押さえつけられ、息が詰まりそうだった。もがき苦しむ蓮をうっとりとした表情で見下ろす政親の目には、果てしなく残忍な色が浮かんでいる。そしてあろうことか、スラックスの上から、蓮の股間を撫で始めた。
「っ……!! ぁ、……はッ……!」
「あぁ……美しいね。君のこんな表情を、ずっとずっと見てみたかったんだ」
「ゃ……め……ッ……!!」
「ふっ……ふふ……。オメガである君が、アルファである私の力にかなうわけがない」
「……!」
――まさか……。
ぴたりと動きを止めた蓮を見下ろして、政親は確信を得たように邪悪な笑みを浮かべた。締め上げていた蓮の首を解放したかと思うと、今度は粗暴な動きで蓮のネクタイを抜き、ワイシャツの前を引きちぎる。ボタンが弾け飛び、蓮の白い肌が露わになると、政親はさらに獣じみた目つきで蓮を見据えた。そして、蓮の唾液で濡れた指を、さも美味そうに音を立てて舐っている。
「たまらない甘さだなぁ……ふふ……そうなんだろう? 君はオメガだ。私をずっと誘っていたくせに、口ではつれないことを言うんだから」
「誘ってなんか……!! それに僕はアルファだ!! オメガであるはずがないだろう!!」
「じゃあ、今ここで私に犯されても何の問題はないね? 同じアルファ同士なら、孕むこともないしな」
「ふざけるな……っ……!!」
政親の目は本気だった。本気で、蓮の身体を汚そうと盛っている。その証拠に、政親の股間は大きく膨れ上がり、浅ましい欲の滲む双眸には、けだものじみた光しか宿ってはいない。
――いやだ……!! こんな、汚らわしい男に……!!
「ふふ……孕んだっていいんだよ? 君が私の子を孕む……つまり、誰よりも純血な後継が生まれるということじゃないか。素晴らしいだろう?」
「ぁっ……!! 離せ!! 離せ……!!」
「必死で抵抗して、かわいいなぁ。子どもの頃からかわいいと思っていたが、蓮は本当にかわいいね……」
政親の舌が、蓮の首筋を舐めあげる。ねっとりとざらつくおぞましい感触に、蓮は「ひ……っ」と声にならない悲鳴をあげていた。肌という肌が粟立ち、全身が竦んで、震えが止まらない。情けなくも、両目からは涙が溢れそうになっている。
蓮は必死に身をよじりながら、助けを呼ぼうと息を吸い込んだ。が、その口は政親の大きな手で塞がれてしまい、くぐもった叫び声しか上げることができなかった。
「もし本当にアルファだったとしても構わないよ? そうだ、私の愛人になるというのはどうだろうね。パートナーを作る暇もない君を、私がしっかりと癒してあげるよ? 寂しいんだろう? ……ふふ……どうする? 私をそばに置いておく方が、君にとっては何かと都合がいいと思うけどね?」
「ぁ、あっ……やめろ、……!!」
両手を拘束され、厭らしい手つきで股間を揉まれ、首元や耳を舐めまわされる。その行為のあまりの忌まわしさに、蓮の目からはとうとう涙が溢れた。
吐き気がする。意識が遠のきそうなほどに恐ろしい。政親の獣じみたフェロモンに全身を犯されることが、内臓がぐちゃぐちゃになってしまいそうなほどに、おぞましくてたまらなかった。
――いやだ!! いやだ……!!
「ずっと、ずっと、お前をこうしたかったんだ。……ふふ……今日はもう、このフロアには誰もいない。ゆっくり可愛がってあげるよ……蓮」
「ぃ……いやだ……!!!」
蓮の精神が絶望へと染まりかけたその瞬間、腹の上にいた政親の身体が唐突に引き剥がされた。
「……ぁ……」
燃え滾る怒りに顔を歪め、政親の襟首を掴み上げる御門の姿が、涙で滲んだ蓮の視界に揺らめきながら映っている。
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