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20、誰かのいる部屋

  「……ん……」  まぶたの向こうに、明るい光の気配を感じ、蓮は小さく呻いて身じろぎをした。なかなか持ち上がらないまぶたを、ゆっくりと開いてみると、くしゃくしゃに乱れた白いシーツが見える。どうやら、うつ伏せになって眠ってしたらしい。 「……う……。身体が、重い……」  起き上がろうと身体に力を込めたものの、全身を重く縛り付ける倦怠感のせいで、どさりとまたベッドに倒れ込んでしまう。蓮は霞みがかった頭で必死に記憶を手繰り寄せ、ようやく、はっとしたように目を見開いた。  ――そうだ……僕は、御門と……。  ようやく上半身だけをベットから引き剥がすも、寝室の中に御門の姿はない。全裸の身体には薄手のタオルケットがかけられていて、蓮が起き上がった拍子にそれがするりと肩から滑った。自分の身体を見下ろしてみると、白い肌に残るいくつもの赤い痣が目に入る。  じわじわと蘇るのは、昨晩の激しい交わりのこと。肌に刻まれた情熱の残滓に、蓮は思わず頬を赤らめた。 「蓮さま? 起きておられたんですか」 「……あ」  すっと開かれた寝室のドアの向こうに、御門陽仁がいた。その姿を見ただけで、蓮の心臓は激しく高鳴り、じんわりと身体が熱くなった。 「……あ、ああ……おはよう」 「おはようございます」 「ん……」  ベッドに歩み寄ってきた御門は、優しく爽やかな笑みを浮かべながら蓮の傍に腰を下ろし、蓮の頬にキスをした。そして、愛おしげな眼差しを蓮に注ぎながら、「身体は何ともないですか?」と尋ねてくる。 「……う、うん……。ちょっとだる重いだけだ」 「そうですか。……すみません、俺のせいですね」 「い、いや……」  気恥ずかしくて、照れ臭くて、蓮はまともに御門の顔を見ることができなかった。しかし、御門が昨夜とは異なる服装をしていることにふと気がつき、蓮はまじまじと御門の全身を眺める。  御門は黒い長袖Tシャツに、濃い色合いのデニムを履いている。いたってシンプルな格好だが、御門のスタイルの良さを遺憾なく引き立てていて、ついつい目が離せなくなった。スーツ以外の格好を見るのは初めてである。  いつもはきちんと整えらえている黒髪も、今は無造作に放ってあるだけのようだ。そういう格好をしていると、御門はいつもよりぐっと若々しく見えた。 「……その格好」 「ああ、部下に届けてもらったんです。さすがに着替えが必要になりまして」 「……え?」 「蓮さまは覚えておいでじゃないかもしれませんが、あれから五日経ってるんですよ」 「……五日!?」  蓮はぎょっとして、弾かれたように枕元のデジタル時計を見た。  見れば、初めて御門をここへ連れてきた日から、確かに五日ぶん日付が進んでいる。蓮は青くなった。 「し、仕事は!? 葵はどうしてる!? た、たしか、昨日は大事な国際会合があったはず……!!」 「蓮さま、落ち着いてください」 「五日間だと!? 五日も僕は、ここでお前と……っ……お前と……」  五日もの間、ここでずっとセックスに溺れていたとでもいうのか!? とストレートに尋ねたかったが、それを堂々と口に出すのは憚られ、蓮は真っ赤になって口をつぐんだ。  すると御門は困ったような顔でうなじを掻き、「ええと……。はい、そうなんですよね……」と言った。 「蓮さま、ずっと熱に浮かされたような状態で……。あ、別に四六時中してたわけじゃないんですけど、うとうとしたり、寝たり、エッチをせがんで来られたりと……」 「こ……この僕が、そ、そんな状態に……!?」 「そんな絶望的な顔しないでくださいよ。発情期って、そういうものですから」  御門はそう言って苦笑すると、大きな手で蓮の頭を柔らかく撫でた。蓮はとっさにその手を払いのけつつ、すぐさまベッドから立ち上がり服を着替えて執務室へ……と思ったが、身体が全くいうことを聞かず、へなへなとその場にへたり込んでしまった。御門は蓮に慌ててバスローブを羽織らせ、肩を支える。 「蓮さまに許可を取っていなかったのですが、状況が状況だったので、葵には電話で報告を済ませました」 「なっ……、あ、葵に……?」 「とりあえず、蓮さまは体調不良ということで、二週間ほど休暇を取る、ということにしておくと。会合には征芭さんがサポートに入りつつ、葵が代わりに出席したそうです。皆さん、蓮さまの体調を心配されていたそうですよ」 「っ……なんてことだ……」 「むしろ、ここまでよく倒れずにやって来れたもんだと、皆さんおっしゃっていたそうです。今はゆっくり休んだほうがいいと」 「……そうなのか……」  征芭は、これまでずっと蓮の仕事をそばで見ている。征芭の助言があれば、葵もそつなく仕事をこなせただろう……と思って安堵する一方で、葵にこのことが知られてしまったということに、蓮は妙にそわそわとしてしまった。  兄である蓮が、五日間もセックスに溺れていた……弟にそんなことを知られて、平気でいられるわけがない。蓮はバスローブの腰紐をぎゅっとくくりながら、ようやくその場に立ち上がった。 「……その……葵は、なんて?」 「ええと……。『お前にしては、早かったな』と」 「え?」  葵の台詞の意味が分からず、蓮はきょとんとしてしまった。御門は若干ばつが悪そうな表情を浮かべながら、続けた。 「俺、葵に蓮さまとのことを相談してたんですよね。絶対あなたに嫌われてると思ってたから」 「嫌われてる……?」 「そりゃ、あんだけ邪険にされてりゃそう思いますよ」 「あ……そうだよな。ごめん……」 「いえいえ、その理由が分かったので、今となってはあの剣幕も可愛いとしか……。あっ、も、申し訳ありません!」  可愛いと言われることには相変わらず抵抗があるせいか、無意識のうちに御門を睨んでいたらしい。御門は即座に頭を下げて謝罪の言葉を口にした。 「それで?」 「アルファ同士でどうやったら付き合えんのかな、とか……蓮さまには決まった相手がいるのかな、とか。どうやったらオメガになれんだろ、とか」 「……ああ、それで葵にあんなことを言われたのか」 「ええ、そうなんです。俺、葵の前じゃヘタレてばかりだったから……それで『早かったな』と……」 「……そうなのか」  やはり、葵と御門は色々と通じた仲であるらしい。そういえば、いつか葵に、『兄さんも自分の幸せを探したほうがいい』というようなことを言われたことがあったっけ。なるほど、葵なりに気を回していたのか……と思うと、照れくさいながらも、くすぐったいような喜びの気持ちを感じずにはいられない。  そんなことを考えていると、ふと、こんな疑問も湧き上がる。 「そうえいば……。僕が政親に襲われてた時、どうして君はあの場にいたんだ?」 「ああ、あの日は……」  その時魔のありにしたおぞましい光景を思い出したのか、御門の表情が硬く硬く強張った。蓮よりもずっと、深く傷ついたような顔をしている。 「蓮さまとの約束の時間ぎりぎりに本社ビルに入ったら、ちょうど征芭さんと出くわしたんです」 「征芭と?」 「ええ。約束をキャンセルして続けていて申し訳ない、ということと、蓮さまは社長室で緊張しておいでですよ、ってことを言われて」 「……あいつ」 「迎えに行って差し上げてはどうですか? とも言われたので、それで、あなたの部屋へ」 「……そうだったのか」  御門はなおも少し苦しげな顔で、蓮の両肩に手を置いた。どことなく不安げな顔をする御門のことが愛らしく、蓮は思わずその頬に手を伸ばす。 「……どうして君がそんな顔を」 「そりゃ……そうですよ。あの時蓮さまに止められなかったら、俺はあの人を殴り殺していたかもしれません」 「……血の気が多いな」 「もう絶対に、あんな目には遭わせませんから。できうる限り、あなたのそばに、」 「待て、君だって多忙な身だろう。そこまで心配してくれなくても大丈夫だよ」 「いいえ、あなたは俺の番なんだ。絶対に、他のアルファには触れさせない」  爽やかな目元に、ちらりとぎらつく独占欲の光。いつになく鋭い御門の目つきに、蓮の胸はまた一層高鳴ってしまう。かっと頬が熱くなり、野性味溢れる御門の表情から、目が離せなくなる。  『俺の番』と言い切ってくれたことにも、果てのないような歓びを感じる。魂の番が、こうして強く強く蓮を繋ぎとめようとしてくれていることが、泣きたくなるほどに嬉しかった。  しかし、すんなりと甘い言葉を吐けるほど、蓮はこういう状況に慣れてはない。ついつい棘のある声で、こんなことを言ってしまう。 「僕を所有物扱いするな」 「あっ、そ、そうですよね。……すみません」 「……言われなくても、君以外のアルファに触らせるつもりなんて、もともとなかったんだ」 「へ」  ぽろりと口をついて出てきた言葉に、御門の表情がパッと輝く。ぐっと腰を抱き寄せられたかと思うと、あっという間に唇を奪われていた。 「ちょ……っ、待て!」 「はぁ…………もう、どうしてそういう可愛いことばかり言うんですか、あなたは」 「はぁ!? 僕は別に、」 「あと、どうして俺のこと名前で呼んでくれないですか、さっきから」 「え? ……ええと……」 「昨日まではあんなにいっぱい呼んでくれたのに」 「んっ……」  バスローブの襟もとに、御門が唇を寄せてくる。番の証が刻まれた蓮の首筋を甘噛みされて身悶えているうちに、しゅるりとバスローブの紐を解かれてしまった。 「こらっ……!! シャワーを、……んっ……」 「シャワーなら、何度か一緒に浴びましたよ?」 「……えっ?」 「覚えてませんか? バスルームでも求められて、俺、我慢できなくて……」 「うわあああ、聞きたくない!! 黙れ馬鹿!!」  赤くなっていいのか青くなっていいのか分からず、蓮はぐいぐいと御門を突っぱねようと頑張った。が、御門はあっさり蓮の手を握りこみ、ぎゅっと強く抱き寄せる。  その時、キッチンの方からピーピーと暢気な電子音が聞こえてきて、御門ははっとしたように顔を上げた。 「あ、そうそう。朝飯作ったんです。食べませんか?」 「え? うちには何もなかったはず……」 「一昨日だったかな、勢田さんが色々買ってきてくれて」 「勢田が? じゃあ勢田にも知られたのか?」 「いえ、一応体調不良ってことになってますが……。でも、『何卒、蓮さまを、どうぞよろしくお願いいたします』って、深々と頭下げられちゃいました」 「……なるほど」  幼い頃から世話になってきたこともあり、勢田には、薄々色々なことを察知されているような気はしていた。近いうち、勢田には全てを話してもいいかもしれない……と考えつつ、蓮は御門に誘われてキッチンの方へと歩を進める。 「……いい匂いだな」 「俺は各地の海の上に視察に出向かなきゃならないから、船旅が多いんです。それで船に乗ってる間に、料理は色々覚えたんですよね。まぁ今朝は野菜スープ作って、卵とベーコン焼いただけですけど」 「へぇ……」 「船乗りはみんな気がいいですからね。料理作りながらキッチンでわいわいしたりするのも、結構楽しいもんですよ。あ、コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」 「じゃあ、紅茶で……」  御門はからりと快活に笑ってキッチンに立つと、手慣れた動きで朝食の準備を始めた。  ――……なんか、変な感じだな。  自分ではほとんど使ったことのなかったキッチンに恋い焦がれていた御門がいて、しかもそこで料理の腕をふるっているなんて——これまでの人生では考えられなかった出来事が、今の目の前で起こっている。  ――誰かがいるって、いいもんだな。  終始にこにこしながら蓮に話しかける御門に笑みを返しながら、キッチンカウンターに備え付けられたスツールに腰掛ける。  そして蓮は、御門の初めての手料理を口にしたのであった。

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