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21、オメガ同士で
そして次の日、蓮はようやく屋敷へと戻った。
自分の家に帰るだけのことなのに、どうしてこうも気まずい思いをせねばならぬのかと思いつつ、蓮は御門を伴って、ひっそりと自宅に帰って来たのである。
しかし、大勢いる使用人達が蓮の帰宅に気づかないわけがない。玄関脇の執事室に控えていた勢田は即座に蓮の出迎えに出てくると、「おかえりなさいませ」と深々と頭を下げた。そして、背後に立つ御門を意味深な目でちらりと見遣り、「御門様も、ようこそいらっしゃいました」と歓待するのである。
そんな勢田相手に、どう事情を切り出していいのか分からず、蓮はいつになく挙動不審な態度を取ってしまった。だが表向き、御門という客を連れての帰宅であるから、さっさと自室に引きこもってしまうのは具合が悪い。
勢田に勧められるままリビングルームへゆき、そこで紅茶を振舞われているとスーツ姿の葵がひょっこりと顔を出した。窓辺に立って庭を眺めていた蓮は、分かりやすくぎょっとしてしまう。
「兄さん、御門。おかえり」
「あ、葵……ただいま。仕事は? 今日は商談に出ていたんじゃないのか?」
「その仕事は午前で終わった。全て上手く行ったよ」
「そ、そうか……」
目線を泳がせつつせかせかと言葉をつなぐ蓮に向かって真っ直ぐに歩み寄ってきたかと思うと、葵はぎゅっと蓮に抱きついた。唐突な抱擁に驚いていると、葵は蓮の首筋に顔をうずめたまま、はぁ……と深いため息をつく。
「……よかった」
「え?」
独り言のようなそのセリフに、蓮は小さく身じろぎをした。すると葵はすっと顔を上げ、美しい紺碧色の金眼にうっすら涙を溜めながら、安堵したように微笑んでいる。
「兄さんに、心休まる場所が出来て、本当に良かった」
「……葵」
「ずっと、心配だったんだ。このままじゃ、いつか、兄さんの心が折れてしまうんじゃないかって……」
「折れる?」
「家のため、俺のためって、ずっとひとりで戦って来てくれた。そんな兄さんが、本当の意味で自分自身に戻れる場所が出来ればいいのにって、ずっと思ってたから」
葵はそう言って、いつになく素直な笑みを見せた。幼い頃の面影がちらつくその笑顔に気が抜けて、蓮はふっと葵に笑みを返した。そしてもう一度葵をぎゅっと抱きしめて、スーツの背中をぽんぽんと叩く。
「……ありがとう、葵」
「いや……」
「僕のプライベートなんて、気にすることなかったのに。お前は優しいね」
「気にならないわけないだろ! それに……御門からもいろいろ聞いてたしな」
そう言って、葵はソファに腰掛けている御門の方を見遣った。御門は照れ臭そうな笑みを浮かべて、抱きしめ合う兄弟を見上げている。
「良かったな、御門も」
「……ああ、ありがとう。本当に夢みたいだよ。絶対に手が届かないと思っていた人が、こうして俺の番になってくれたんだからな」
「早まらなくてよかったじゃないか。『オメガになるための性転換手術を受けられる国があるらしい』とまで言って思いつめていたわけだし」
「……お前さ、蓮さまの前でそれを言うなよ」
「いいじゃないか、今となっては笑い話だろ」
「そうだけど」
そう言って苦笑いを浮かべる御門の表情に、蓮はついつい笑ってしまった。『葵の前ではヘタれていた』と言っていたが、まさかそんなことまで考えていたとは。くすくすと肩を揺らしていると、葵の視線がまた蓮の方へと向けられる。
「兄さん、そんな顔して笑えるようになったんだな」
「え? どんな顔だよ」
「すごく幸せそうだ。これまでは、笑っていてもいつもどこか寂しそう……っていうか」
「そうだったか?」
「そうだよ。……嬉しい、すごく」
葵はにっこり笑いながらそう言うと、蓮の頬に軽いキスをする。
「結糸も気にしてたんだ。『蓮さまは御門さんの気持ちに気づくのかなぁ』って、しょっちゅう言ってた」
「そうなのか? ……あぁ、そういえば、結糸は?」
結糸の名前が出た拍子に、蓮は例の件のことを思い出した。結糸とも、一度きちんと話をせねばと思っていたところだったからだ。
「結糸は薔薇の庭だ。さっきここへ来る前に玄関先で会ったんだけど、東屋 で勉強すると言っていた」
「……そうか。ちょっと行ってくる。話したいことがあるんだ」
「え? 俺も行くよ。何の話?」
「お前はついてくるな」
「えっ!? どうしてだよ」
葵は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、ふと何かを察したような表情になる。そして、渋々といった様子で、蓮の前に立ちはだかるのをやめ、こんなことを言う。
「いいけど……あんまり結糸をびびらせるなよ」
「何を言ってるんだ。いつ僕が結糸をびびらせたというんだ」
「はぁ……兄さんは分かってないな。これまで自分が、どれだけ威圧的なオーラを放ってたかってこと」
「威圧的……」
「こらこらこら葵、言い過ぎだって。結糸くんが可愛いのは分かるけどさ、お前はもっとこう、言葉をオブラートに包むってことを学んだ方がいいぞ」
「うるさい」
ひょいと兄弟の間に入って来た御門にそう言われ、葵はふてくされたような顔をしている。大人気ない表情をする葵を微笑ましく思いつつも、蓮はやれやれと溜息をつきながらこう言った。
「別に結糸を責め立てに行くわけじゃないよ。……オメガにしか分からない苦悩について、話し合いに行くだけさ」
蓮が自分のことを『オメガ』と称したことに驚いたのか、葵と御門がはたと黙りこんだ。蓮はぽんと葵の肩を叩き、ちょっと小首を傾げて微笑みを見せた。
「だから安心しろ。結糸は僕の義弟 なんだ。いじめたりしないよ」
「……兄さん」
蓮のその言葉に、葵はとても嬉しそうな表情を浮かべた。
+
「あっ……蓮さま」
葵の言葉通り、結糸は薔薇の庭の東屋で分厚い本を読んでいた。うとうとしていた様子だが、蓮の姿を見た途端、素早く結糸の背筋が伸びる様子を見て、蓮はやや苦笑した。
「ど、ど、どうされましたか!? お一人でこんなところに……!!」
「……楽にしてろ。別に説教をしに来たわけじゃないんだ」
「……はぁ」
結糸はいかにも気まずげに表情を曇らせて、膝の上に開いていた本をぱたんと閉じた。そして、向かいのベンチに腰を下ろして脚を組む蓮の姿を、ちらちらと気にしている。
「あの……おめでとうございます。御門様とのこと……」
「ああ……うん」
「本当に喜ばしいことですね。俺も嬉しいです」
「ありがとう」
「あ、で、でも、まだ公表はなさらないんですよね。葵さまと交代するまでは……」
「そのつもりだよ。……というか、どうしてそんなに緊張してる。僕はお前を怒りに来たわけじゃないのに」
「……はぁ」
結糸はふう、と一呼吸置き、初めて蓮の方をまっすぐに見た。そして、そこはかとなく不安げな表情で、瞬きのたびにまつげを震わせる。
「……申し訳ありません。俺、孕みにくい身体だって、綾世先生に……」
「ああ、そのことは聞いたよ。やっぱり、気にしてるんだな」
「そりゃ……気にしますよ。だって、蓮さまは俺に、そういう役割を期待してるんですよね。国城家の跡取りを産むようにと……」
結糸はおずおずとそれだけ言うと、申し訳なさそうに目を伏せる。
蓮もまた、申し訳なさを感じていた。
十七歳の少年にこんなにも暗い表情をさせてしまっている原因は、後継者を急かした自分の発言にあるのだから。蓮はすっと立ちあがり、項垂れている結糸の隣に腰を下ろした。
結糸がぎょっとして身を固くするのを感じる。さっき以上に緊張している様子が伝わって来るが、蓮はかまわず、膝の上で握られた拳の上に手のひらを重ねた。
「れ、蓮さま……」
「すまなかったな。この間までの僕は、自分がオメガであることを隠すことで必死だったんだ。後継者のことは葵に頼るしかなかったし、葵がいつまでものらりくらりとパートナーを作らずにいたものだから、ついついその話ばかりしてしまって」
「は……はい。てか、その、謝らないでください! 蓮さまのお気持ちは、よく分かりますし……!」
「そうだろうな。お前も、自分がオメガであることを隠していたわけだし」
「あっ……はい」
責めているわけではないのだが、結糸の身体は萎縮するばかりだ。そんなに自分の口調はきついのだろうかと、蓮はややショックを受けてしまう。しかし、そんなことに気落ちしている場合ではない。蓮はじっと結糸の顔を覗き込み、小さな声でこう言った。
「僕を見ろ」
「へっ……? は、はい……」
恐る恐るといった様子で、結糸は蓮と間近に目を見合わせた。
明るい茶色をした結糸の目は、若さゆえの無垢さと清純さに澄み渡っている。
葵が愛する少年の瞳をじっと見つめつつ、蓮は目を細めて、柔らかく微笑んだ。
「僕が結糸に望んでいることは、ただただまっすぐに葵を愛し、葵の支えになってやってほしい……それだけだよ」
「……え」
「過去を悔いる必要はないし、焦ることもない。ただ、お前はいつものように明るく笑って、葵のそばにいてやってくれ」
「……」
蓮の言葉に、結糸の瞳がうるりと揺れた。
そして、見る間に涙の粒が膨れ上がり、白く滑らかな頬をしとしとと濡らしていく。
蓮は結糸の頭をそっと抱き寄せ、その涙を肩口で受けとめた。結糸はしばらく嗚咽を漏らしながら肩を震わせていた。
「っ……ごめんなさい……」
「僕に謝る必要はないよ。それに、お前たちはまだ若いし、綾世という最高のドクターもついていてくれる。大丈夫だ」
「はい……っぅ……ううっ……」
涙を通じて、結糸の苦悩が伝わって来るようだった。蓮は両腕でしっかりと結糸を抱きしめながら、柔らかな髪の毛に頬を寄せる。そうしているうち、これまでは考えたこともなかった感情が、蓮の胸にぽつりと浮かび上がってくる。
――僕は、この先どうしたいんだろう。
葵から聞く限り、結糸は世間的な問題を抜きにしても、純粋に葵との子どもを欲している。それなのに、抑制剤の過剰摂取のせいで孕みにくい身体になっていると診断され、こうしてこれまでの行動を悔い、ひどく自分を責めているのだ。
――僕は御門の子どもを、孕みたいと思えるのだろうか……。
今はただただ、御門と番えたことを幸せだと感じている。これまで色恋ごとから頑なに距離を置いていた蓮にとって、想いを通い合わせ、肉体的にも強い結びつきを感じられる経験を得たことは、何にも代えがたく愛おしい現実だと感じている。
だがその先のことを、蓮はまだはっきりとは想像できないのだ。
「……す、すみません……鼻水ついちゃった……どうしよう」
そんなことを考えていると、結糸がふと身体を離し、激しく焦り始めている。蓮は笑って首を振ると、「かまわないよ」と言った。
「……結糸はどうして、子どもが欲しいと思えるんだ?」
「え? どういうことですか……?」
「ええと……なんていうか……」
蓮はちょっと逡巡したあと、たった今脳内を巡った考え事について、結糸に話してみることにした。
結糸も蓮と同様、オメガであることを受け入れられず、男性性を貫こうとしていたはずなのに、どうして心変わりしたのだろう――ということが、不意に気になったからだ。
結糸はうーんと唸りながら考え込んでいたが、ふとこんなことを言った。
「……よく、分かんないんですよね、実は」
「え? そうなのか?」
「気づいたら、自然とそう思えるようになっていたっていう感じで……。だからきっかけとかがあったわけじゃなくて……って、すみません! なんの参考にもならない返事で……」
「自然と、か……。ふうん」
「蓮さまは御門さまにカミングアウトされたばかりだし、俺とは比べ物にならないくらいアルファとして頑張ってこられたわけですから、急にはそんなふうに思えないと思いますけど……」
「確かにな……」
「蓮さまと御門さまが、どういう関係性を望んでおいでなのかは分かりませんが、もっともっと御門さまと過ごす時間が増えてきたら、きっと、自然とそう思える瞬間が来るかもしれませんよ」
「……なるほど……」
顎に指をかけて考え込む蓮を見て、結糸がまた焦った声を出す。
「あっ!! ご、ごめんなさい!! 偉そうな言いかたで……!!」
「……あのな、いちいちそんなことに気を遣わなくていいよ。さっき葵にも言ったけど、お前は僕の義弟 なんだ。もっと気楽に構えててくれないと、こっちも話しづらいんだが」
「お、おとうと……?」
結糸が目をぱちぱちと瞬かせている。かと思ったら、かーっと結糸の顔が真っ赤に染まった。その反応を見て、蓮は訝しげに眉を寄せた。
「なんだ、気に入らないのか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか……!! ま、まさか蓮さまに、弟って言ってもらえるなんて……! 嬉しくて……」
「……ならいいんだけど」
「ありがとうございます……すごく嬉しいです、俺」
「そうか」
喜びを噛み締めるようにふくふくと笑う結糸が可愛らしく、蓮は茶色い髪の毛を軽く撫でてやった。すると結糸は照れ臭そうに、にこにこと笑っている。
――自然と、か。そういえば、御門は僕にそういう役割を望んでいるのだろうか……。
ふわふわと柔らかい結糸の髪を撫でながら、蓮は内心そんなことを考えていた。
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