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1、過去の牢獄

   ――あんたはオメガや。これからは、アルファの方々によぉく尽くして生きるんやで。 『なんで? なんでオメガやとアルファの人に尽くさなあかんの?』  ――アルファは、オメガにとっては太陽や。オメガにないものをたくさん持ってる、眩しくて強い存在や。強いアルファに支配されることこそ、オメガにとっての幸せやねんよ。 『ほな、おばあちゃんは幸せなん? おじいちゃんは強いアルファなん? 僕のとうさんとかあさんは、ベータや。ベータのひとらは何?』  ――ベータ……。ベータは、関係あらへん。この世界はな、アルファとオメガが動かしてる。あたしはアルファもオメガも産めへんかった。オメガとしての失敗作や。 『……なんで?』  ――あんたは間違えたらあかん。強いアルファを選ぶんや。ええな、強く、美しく、優秀な遺伝子を持ったアルファを選ばなあかん。分かってるな。せやないと…………  そこで、目が覚めた。  久方ぶりに見た、祖母の夢だ。  祖母は須能流の先先代家元である。  彼女自身はオメガであったが、産んだ子どもは二人ともベータだった。  須能の母を産み、祖母は踊りを一度は捨てた。我が子はアルファかオメガと頭から信じ込み、思春期まで厳しく子どもを愛してきた。  なのに、判定された性別はベータだった。二人目こそはと願った子もまた、ベータ。  我が子の性別がベータと分かった途端、祖母は人を雇って育児を任せ、自身は再び舞の師範として社交界に舞い戻った。子どもなど最初(はな)からいなかったかのように振る舞い、弟子たちの教育にばかり執心していたらしい。  しかし孫として生まれた須能正巳がオメガだと分かった途端、目の色を変えて溺愛し、また同時にとても厳しく躾けた。  より良い環境で学ばせたいという理由で親元から離され、須能は、ずっと祖母の元で――須能流の稽古場で、祖母の弟子たちとともに暮らしていた。両親には、年に一度会うか会わないかという程度。厳しい祖母に逆らえない両親を恨めしく思ったこともあったが、祖母の目を逃れて舞台を観に来てくれたときは、純粋に嬉しかった。しかしそれが祖母にばれて、「あの子の邪魔をするな」と両親がひどく叱責されたこともあったようだ。  須能がオメガと判明したのは十五歳の頃。その頃から、須能の容姿は秀でて美しく、十五とは思えぬほどの色香があった。須能のあやしい色香に誘われて群がるアルファたちは後を絶たず、舞台に立つことが恐ろしくなったこともあった。  客にレイプされそうになって逃げ出した時、祖母は須能の頬をしたたかに張った。 『どうして逃げて来た。素直に抱かれていればよかったものを』『オメガは、アルファに愛されてこそ価値があるのに』と叱責され、須能は祖母の真の恐ろしさを知った。  しかしその数ヶ月後、葵とのパートナー契約の話が持ち上がったとき、祖母は狂喜乱舞していた。レイプ未遂のことなどなかったかのように振る舞い、須能の明るい未来を祝福した。葵との話がなければ、須能はとっくにどこぞのアルファの番にさせられていたことだろう。  夜這ってでもいい、他のオメガを蹴落としてもいい、どんな手を使っても、一番に葵の子を孕めと、祖母は須能に言い聞かせた。  子どもは多い方がいい、国城家の跡取り、須能流の後継者、ベータという外れも生まれるかもしれないが、数が多ければアルファやオメガも生まれるだろう――祖母の、人を人とも思わぬ考え方に、とうとう須能は我慢がならなくなっていた。  憎いとさえ、思うようになっていた。  頑なで、古い考えを持つ祖母。祖母の思想を押し付けられ、それに疑問を感じつつも、素直に従うふりをしていた。その思想に逆らえば、祖母がどういう過剰反応を示すかどうかなど、須能はとっくに学んでいた。無用な面倒ごとは起こしたくない。須能は表向き、祖母に逆らうことは一切せずに生きて来た。  それは、牢獄のような生活だった。  そんな祖母も、四年前に亡くなった。  須能が二十歳になる歳に、家元を継がせるようにと遺言を残して。  そして遺言通り、須能は二十で家元を継いだ。  ようやく、自分の意思で生きることができるようになったと感じ、自由に呼吸ができるようになったと感じた。  久々に見た夢のせいか、変な汗をかいている。 「……はぁ……」  身体はだるいが、頭は妙に冴えていた。和紙造りの洒落た電灯がぶらさがった自室の天井を見上げつつ、須能はゆっくりと身体を起こす。 「……? ヒート……か?」  須能は裸だったが、驚きはしなかった。そして、隣に誰かが横たわっていることにも驚くことはなく、ゆさゆさとその男の腰を揺すって、起床を促す。 「起きろ。……なぁ、今回はいつからこうなってたん?」 「ん……う」  濃藍色の浴衣をはだけさせて眠っていたのは、須能栄貴(えいき)。須能の兄弟子だ。  彼もまたオメガ男性で、須能流における重要な踊り手の一人。ちなみに栄貴は血縁者ではなく、須能流に憧れて外からやって来た少年だった。  二人はいつからか、発情期の燃え盛る熱を互いに慰め合う関係を続けていた。歳も近く、稽古も私生活も多くを共にしてきたためか、自然とそういう格好になっていたのである。  しかし、今の栄貴には番がいる。番を得て、須能とのこういった関係はなしにしようと約束したはずだったのに、どうしてここにいるのだろう――と、須能はぼんやりと霞む記憶を辿ろうとした。が、それはうまくいかなかった。 「正巳(まさみ)、お偉いさんに薬盛られたらしいやん」 「……え?」 「なんとかっていう高級官僚のお座敷に呼ばれて、料亭に行ったことは覚えてるか?」 「……覚えてへん、かも」 「そこで発情促進剤、飲まされたらしいで。最近ちょこちょこ聞くわ、そうやって無理やり番にしようとする奴がおるって」 「……な」 「まぁ幸い、なんも知らされてへんかった仲居の若い女の子が、急病人と間違えて人を呼んだからお前は無事やったわけやけど。そのあと、俺んとこに連絡が来たんや。早う来てくれって」 「……僕が連絡したん?」 「いや、事務所からや。ヒート起こしててどうにもならんていうから、迎えに行ってやってくれって」 「そう……なんや」  自分の身に降りかかっていた危険にゾッとしながら、須能はぎゅっと布団を握りしめた。薬を盛られるまでのことをされたのは初めてで、おぞましさのあまり鳥肌がたつ。座敷へ呼ばれるときは必ずネックガードをつけては行くため、無理に番にされることはそうそうないだろうが、レイプまでは防ぎようがない。  ここ最近、フリーの須能に対するアルファ達の過熱ぶりには辟易するものがあるのだ。ただでさえオメガは希少種で人数が少ない。その中でフリーのオメガを探すとなると、アルファとしても一苦労なのである。  しかも須能は、自ら人前に立って舞を披露する芸能人だ。  飢えたアルファからすれば、舞台の上で色気を振りまく須能のフェロモンは、撒き餌のようなものでしかないらしい。『自分から誘っておいて、どうして断るのか』という理不尽なクレームも、聞き飽きるほどに耳にして来た。  ――はぁ……なんで僕の周りには、こんなアルファばっかり寄ってくんねやろ……。  なんだか急に、葵や蓮に会いたくなった。  高貴で気高く、ほかと比べようもないほどに美しい国城兄弟を見ていると、アルファも捨てたものではないと思えるのだ。  どうも最近、アルファに強引に迫られること続きで、うんざりすることばかり。しかも極め付けは、薬を盛ってまで須能を我が物にしようとする輩がいるという始末だ。須能は長い髪をかき上げながら、どんよりとしたため息をついた。 「正巳」 「……ん?」 「お前、もう二十三やろ。番はまだ見つからへんのか?」 「うん、まぁ」 「葵様との話がなしになったんは一年近く前の話やん。その間、お前は一体何をしててん」 「はぁ? なんやねんその言い方」  栄貴の棘のある言い方に腹が立ち、須能の返事も喧嘩腰になる。栄貴はほっそりとした身体に纏った浴衣の帯を締め直すと、裸のままの須能の肩に、ふわりと羽織を羽織らせた。そして、奥二重の涼しげな目元に憂いを滲ませ、須能の目を覗き込む。 「俺はお前が心配やねん。お前には才能も華もある、それに、家元っていう派手な肩書きもな」 「それがなんや」 「せやかやこそ、強気な物言いも出来るやろう。けどな、あんまりアルファを舐めんほうがええ。俺らは、力ではあいつらに敵わへんねんで?」 「……別に、舐めてなんかない。僕の踊りやのうて、僕の身体と知名度狙いで甘い声かけてる好色親父どもに、うんざりしてるだけや」 「……」  栄貴は気品漂う眉間にしわを寄せ、じっと咎めるような目つきで須能を見据えた。負けじと見返す須能の眼差しに、栄貴はやや目を細めた。 「この世界のアルファは、葵様だけやない。もっとちゃんと、周りを見てみたらどうや。お前のことをほんまに大事と思ってくれはるアルファかて、おるやろうに」 「……別に、葵くんのことは関係ないわ。それに今は、番なんて欲しくないねん」 「でも俺は、お前を守ってくれる奴がそばに、」 「あーもうええ。おしまいやこんな話! ……ていうかお前、僕にどんなことしたん。めっちゃ腰痛いねんけど。まさか挿れたりしてへんやろうな」  須能は、ねだられれば栄貴に挿入までしていた。栄貴はもっぱら中で感じたい体質であるらしく、ペニスへの愛撫を好まなかったのだ。しかし、自分が栄貴にと思うとどうしても無理で、どんなにせがまれてもそれだけはやめてくれと言いおいてある。  栄貴はごろんと肘まくらをして須能を見上げると、艶っぽい唇を釣り上げて微笑んだ。 「俺あんま勃たへんし、指しか挿れてへんで」 「指……。……まぁ、しゃーないか……」 「ごめんな、勃起不全で。物足りひんてめっちゃ泣かれてしもたけど、俺に言われてもなぁ。今度はおもちゃ用意してこよか?」 「いらんわそんなもん!! そ、それに、僕が泣いてたとか外で言うたら破門するからな!」  羞恥のあまり枕を栄貴に投げつけると、ばふっ、と気の抜けた音が響いた。 「はいはい、言わへんて」 「くそっ……」 「欲求不満やなぁ。まじで、ええアルファいいひんの?」 「……やかましいわ」  ちら、と浮かばない顔がないわけではない。だが、葵のことを若干引きずっている今は、到底そんな気分になれそうにもないため、ずっと放ったらかしになっている。  ――今は、そんな余裕ないねん。  須能はすっと立ちあがり、浴衣をきちんと身につけて帯をぎゅっと締めた。 「明後日からの関東巡業、栄貴はついてこんでええ」 「えっ、なんでやねん」 「日程の割に舞台は少ないし、僕にとっては休暇みたいなもんや。せやから、お前はここで留守番して、いろいろ書類仕事片付けといてな」 「はぁ? なんやそれ」 「それに、栄貴の旦那は独占欲が強いやん。二週間も関東なんて、ありえへんやろ?」 「……うう」 「そういうわけやし、留守番頼んだで」 「……分かったよ」  しょぼくれる栄貴を見下ろして、須能は薄く微笑んだ。  そして、べたつく肌を流そうと、浴室へと向かうのであった。

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