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2、面倒ごと

   翌日、須能は予定通り飛行機で東京入りし、羽田空港に降り立った。  数人の弟子とマネージャー、そして黒服の護衛を引き連れて上京した須能の姿は、否応無く目立っている。  加えて、関東にいる須能のファン数十人ほどが、到着ロビーで出待ちをしていたということもあり、かなり賑やかな東京入りとなったのである。  ここ最近、テレビへの露出も増えたおかげで、日舞という古典芸能に親しむ若者が増えたように感じられている。出待ちをしているのは年代さまざまな女性ファンだが、ちらほらと男性の姿も目についた。大学生くらいの男もいれば、壮年、初老と年齢層は色々で、須能の姿を見て「おお〜」と雄々しい声援と拍手で迎え入れてくれる。  須能は顔を隠していたサングラスを外し、軽く手を上げて彼らの声援に応える。須能が薄く微笑めば、女性たちからは黄色い歓声が沸き起こり、男たちからは大きな拍手が送られる。  祖母は、こういう派手な目立ち方を嫌う人だった。しかし、あの頃と今とでは時代が違う。放っておけば廃れてゆく一方の古典芸能を生き永らえさせ、活気付かせていくためには、こういう演出も必要だと須能は考えているのだ。  効果はあったと思う。若いファンが増え、舞台へと足を運んでくれる客数はかなり増えた。古参の客と新参の客の間で若干のトラブルが起こったこともあったけれど、須能自らテレビやSNSを通じて若者に対して観劇マナーを伝える試みを行ううち、そういった衝突は起こらなくなってきた。   家元に就任して以来、年寄衆に小言を言われることも多かったけれど、彼らも今は須能の行動に対して何も文句を言わなくなった。むしろ最近では、年寄衆も趣味感覚でSNSを利用し始めるなどの変化も見られ、それをネタに若い弟子たちとの交流が生まれていたりもする。  自分の意思で行ってきた取り組みには、意味がある。須能にはその自信があった。   もう、祖母に囚われていたあの頃とは違う。  自分の意思で、自分の力で切り拓ける道がある。  その時、ふと首筋のあたりに、ちりりとした嫌な視線を感じた。  結い上げた黒髪を揺らして後ろを振り返るも、にこやかに手を振るファンの姿があるばかり。  ――何や……? 「正巳さん? どうしたんです、行きましょう」 「あ、ああ。せやな」  マネージャーのベータ女性・有栖川に促され、須能はすっとサングラスをかけて歩き出した。それでもなお、背中に感じる嫌な視線の感触は消えない。  須能は逃げるようにリムジンに乗り込み、空港を後にした。  +   「国城家のお屋敷へ行ってくれ。まずは蓮さまに挨拶したいしな」  リムジンに乗り込むなり、須能は運転席に座る黒服の男にそう告げた。男は低い声で「了解しました」と言い、なめらかに車を走らせ始める。  ――葵くん、元気かな。結糸が不妊で悩んでるて言うてたけど……一緒になってへこんでたりするんやろうか。  こうして、空港から国城邸へ行くのは何度目だろう。通い慣れた道になりつつあるその風景をぼんやりと眺めながら、須能はふと昔を想った。  国城家は、蓮が当主となる何代も前から、京都の古典芸能保存団体に多額の支援を行なっていた。その縁もあり、須能は幼い頃から蓮と顔見知りだったのだ。蓮は何度か京都の舞台にも顔を出してくれていて、その時は必ず、須能は蓮と顔を合わせていた。  蓮とは、比較的すぐに気安く言葉を交わす仲になった。年が近いという理由もあったかもしれないが、蓮は眩いばかりの美しいアルファでありながら、須能にはいつでも紳士的で優しかった。いやらしく迫ってくる嫌味なアルファたちとは一線を画する気高さがあり、そういう蓮の態度を見るにつけ、本物の一流はやはり違うものだとしばしば感じたものである。  少年の頃から、蓮は素晴らしい男だったし、こんなアルファに愛されたら幸せだろうなと思ったこともある。だが不思議と、蓮に対しては何も感じなかったのだ。蓮の立っている場所があまりにも高みにあるため、自分では釣り合いが取れないからだろうと、須能は密かに納得していた。  葵がアルファと確定した直後、すぐに須能はパートナー候補として指名された。  葵が十五歳、須能が十七歳のときのことだ。その時一度顔合わせをしたものの、当時の葵はまだ視力を失ったままであったし、蓮がいきなり引き合わせた須能の存在に、少なからず警戒心を抱いていたようにも見えた。  しかし、十五歳の葵に引き合わされた瞬間、須能は恋に落ちていた。  その時の葵は、どうも少しばかり不貞腐れているようであったが、それを他者に悟られぬようにと、美しい顔に無表情を貼り付けているように見えた。それが妙に愛らしく、美貌の陰に隠れた少年らしさをにじませる葵の表情に、須能はすぐに虜になった。  礼儀正しい口調で須能と言葉を交わしてくれはしたが、幼さゆえに硬さのある喋り方だった。容姿と態度のアンバランスさが魅力的で、可愛くて、須能はあっという間に葵に夢中になっていた。  『国城蓮の弟』という肩書きを裏切らない、透き通るような麗しさを湛えた美少年。盲目でありながら、それを弱みと感じさせない逞しさをすでに身につけているようなところが、とても印象的だったのを覚えている。  しかし当時の須能は、すでに須能流においてかなり重要な踊り手のひとりへと成長していて、多忙だった。それに祖母の身体も悪くなり始めた頃であったため、いつでも自由に葵の元へ訪ねて行けるほどの余裕はなかったのである。  葵から須能を訪ねてくるようなことも、一度もなかった。それは須能にも理解できた。  葵は若い上に盲目で、人一倍警戒心が強いのだ。アルファフェロモンやオメガフェロモンがどういうものかも知らないのだから、突然引き合わされたパートナー候補者に情が湧こうはずもない。  時折顔を合わせる蓮から近況を聞いてはいたものの、葵の存在はいつも遠いものだった。しかし、遠ければ遠いほど、葵への理想は育つばかり。  いつしか自分は、本物の葵に恋をしているのか、理想の中に作り上げた『国城葵』に恋をしているのか、分からなくなっていた。  葵の成人が迫り、焦りを感じ始めていたのは事実だ。須能はすでに家元を継いで二年が経ち、周囲からも番はどうした後継はどうしたとせっつかれるようになっていたからだ。  しかし、葵は結糸を選んだ。  須能は、最後まで葵に選んではもらえなかった。  ――……未練がましいのはかっこつかへん。けど……僕も一度くらい、葵くんに抱いてもらいたかったなぁ。  今も葵のことは好ましいが、どうしようもないことである。葵は須能の匂いを好かないと言った上、今はもう結糸の番。どうにもならないことだ。結糸は結糸で健気で可愛らしく、須能好みの頑張り屋だ。素直に頼ってくれる結糸のことを、須能は弟のようにも感じている。  葵が結糸を選んだことも、今なら理解できる。  葵が選んだ相手が、結糸で良かったと今は思う。結糸以外のオメガであったら、自分は果たして許せただろうかと……。  なんとなくへこんでいると、有栖川が、アタッシュケースの上で書類整理をしていた手を止めた。有栖川は須能が家元を継いだ日からマネージャーとして充てがわれた女だが、隠し事のできないさばさばとした性格はとても気安い。マネージャーというよりは友人に近いような親しみを感じる女である。 「ねぇ正巳さん、今、ファンレターの整理してたんですけど。また例の封書が届いてますよ」 「はぁ? また?」 「そうなんですよ。ねぇ、もうこれ何通目ですか? いい加減、警察に相談しましょうよ」 「んー、せやなぁ。でも、これだけやったら別に……」  宛名には、『須能正巳様』という達筆な毛筆文字。住所の記載はなく、差出人も白紙だ。  数ヶ月前から、ちょこちょこと届いていたこの封書は、今は三日に一度という頻度で届くようになった。  中に入った白い便箋も、いつも白紙。  不気味ではあるが、須能はそれを大して気にしていなかった。しかし、ここ最近の頻度はやはり異常である。有栖川や弟子たちなど、身近な者が気に病み始めているのを見て、須能はそろそろ重い腰をあげようかと思っているところである。 「どうせ今日も白紙やろ。僕への言葉にならへん想いが溢れて溢れてしゃーないんやろなぁ〜」 「いやいやぜんっぜん笑えないんですけど。普通に気持ち悪いですって!! 早くなんとかしましょうよ!!」 「分かった分かった。京都帰ったら警察行くわ」 「あー、全然行く気ありませんよね? まったくもう!! 何かあってからじゃ遅いんですよ!?」 「分かってる分かってる」  須能はいつものように封筒を開き、中に入っている白い便箋を取り出した。 「……ん?」  いつも通り、そこには何も書かれていない。  だが今日は違った。  便箋の真ん中に、一本の長い髪がセロハンテープで留められていたのである。 「な、んやこれ……」 「ひぃぃっ……!! 何これ!? 誰の髪!? え!? まさか正巳さんのじゃないですよね!?」 「……」  くるくると丁寧に、便箋の中に収まるよう、渦を巻くように留められた長い髪……。その色や長さは、紛れもなく自分の髪の毛のように見えた。その丁寧な仕事ぶりに、須能への異常な情念のようなものを否応無く感じさせられ、須能は今日ばかりはゾッとした。  ――なんやこれ、キモ……。 「ね、ねぇ警察に届けましょう!! DNA鑑定とかしてもらいましょうよ!!」 「そんな時間ないてゆうたやろ。関東巡業終わったら、警察いこ。な? そうしよ」 「……で、でも……気持ち悪いですよ……!?」 「ほっといたらええて。こっちがなんやかんや反応すれば、向こうが盛り上がってまうだけや。無視や無視」 「でもなぁ……」 「しばらくはこっちで過ごすんやから、さすがにストーカーも手ぇ出せへんやろ」 「まぁ、そうかもしれませんけど……」  なおも不安げに口を尖らせている有栖川の横顔を見つつ、須能はまたため息をついた。  ――なんで僕のまわりには、こんなんばっか寄ってくんねやろう……。

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