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3、叶わぬ願い

  「須能様、ようこそいらっしゃいました」 「どうも勢田さん、お久しぶり」 「蓮様のお帰りは夕刻になりますが、葵様と結糸様は、須能様をお待ちかねですよ」 「へぇ、嬉しいな。……ていうか、結糸くんのことを様づけすんの、慣れたん?」 「いいえ、慣れませんね。今でもついつい呼び捨てにしてしまうので、たまに葵様に睨まれてしまいます」 「ははっ、難しい立場やなぁ〜」  玄関先で出迎えてくれた勢田と、たわいもない話をしながら客間へと向かう。  すでに諦めた恋とはいえ、もうすぐ葵に会えるのかと思うと、須能の胸は否応無しに高鳴ってしまう。そんな自分の女々しさには辟易するが、これは抗いようのないものだ。須能は気持ちを律するために一つ大きく深呼吸をして、ドアをノックする勢田の背後に立っていた。 「失礼します。葵さま、須能様がお見えになりましたよ」  明るい光の溢れるリビングルームのソファに、葵が悠然と長い脚を組んで座っていた。陽光が葵の白金色の髪をきらきらと彩り、白い肌をまばゆく浮かび上がらせている。  手にした書物に視線を落としていた葵が、すっと目を上げて須能を見た。  金色味のかかった深い紺碧色の瞳が、まっすぐに須能を捉えている。その凛々しい眼差しを受け止めた瞬間、ばくばくと心臓が高鳴り、じわりと頬が熱くなった。 「須能、よく来たな」  きりりと怜悧に整った目元を細め、葵はふっと微笑んだ。耳に柔らかく響く葵の低音で名を呼ばれ、須能は喜びと気恥ずかしさのあまり、ぎこちない笑みを返すことしかできなかった。 「あ……うん。久しぶりやな。結糸くんは?」 「お前に出す茶菓子を作ると言って、シェフとキッチンに引きこもりだよ」 「……なんやそれ。天下の葵くんの番になったってのに、まだそんなことしてんのか」 「天下って」  ――わぁ……生の葵くんや。神々しい……。  今更、葵を相手にしてなにを緊張する必要がある、とは自分でも思う。だがこうしてゆっくりと、しかも二人きりで葵と会うのはかなり久しぶりのことだ。嬉しくて、どきどきして、でも、そんな気持ちを抱えてしまうことが結糸に対して後ろめたくて、かすかに声が震えてしまう。  須能は葵に促されるまま、葵の斜向かいのソファに腰を下ろした。ちら、とテーブルに置かれた本を見てみると、そこには『やさしい漢字練習帳』と書かれている。須能はぱちぱちと目を瞬き、漢字ドリルと葵を見比べた。  そんな須能の目つきを受けて、葵はぴくりと眉毛を動かす。そして白い頬を薄桃色に染めつつ、ぶっきらぼうにこう言った。 「……な、なんだよその顔は」 「い、いや……これ、葵くんがやってんの……?」 「そうだよ。俺、相変わらず字が下手だから」 「字が下手」 「あっ、今馬鹿にしただろ」 「してへんよ!! そんなわけないやん!」  須能はなんとなく手を伸ばして、その漢字ドリルをぱらりとめくってみた。几帳面に手本をなぞった跡や、自由記述のページに並んだ『国城葵』『蓮』『結糸』『勢田』という、がたがたと線の歪んだぎこちない書き文字を見て、須能の表情は思わず綻ぶ。 「うわ〜〜〜めちゃかわいいやん葵くん。かわいすぎるわ〜〜」 「う、うるさい。読む方はだいぶ上達しんたんだ。でも……漢字を書くとなるとすごく難しくて」 「そうやんな、漢字って難しいやんなぁ。でも、このご時世に、別にそこまで難しい漢字書けるようにならんでもいいんちゃうの」 「いや、そうもいかないよ。せめて自分と家族の名前くらい、マシな字で書けるようになっとかないと」 「まぁ、ほうやな」  こうして葵と和やかな会話ができるようになったことは、須能にとって幸せでしかない。葵もあの頃とは違い、須能に対して親しみを感じてくれているようすだ。葵が様々な表情を見せてくれていることが、嬉しくてたまらなかった。  しかし、白いページに書かれた名前を見て、須能はふと寂しさを覚えた。  もうとっくに諦めていたこととはいえ、葵の家族になれなかったことが急にリアルに感じられ、切なくなる。  須能が表情を曇らせるのを見てか、葵は小さく咳払いをした。 「ごめん。……お前に浮かれて話すことじゃないな」 「い、いやいやいや! なんでやねん! そんな気ぃつかわんといてよ!! 葵くんのことは、もうとっくの昔に諦めたんやから!」 「……うん、そうだな」 「あのなぁ、僕を誰やと思てるん? あっちでもこっちでもアルファにモテまくってて、困ってんねんで」 「ふふっ……そうだよな。いいアルファは見つかった?」  ――いいアルファ……? 変態親父に薬を盛られたりストーカーに追い回されたり、こっち気持ちなんかお構い無しに強引に迫ってきて、突っぱねられて逆ギレするようなつまらんアルファはいっぱいおるけど……。  しかし、そんな話を葵にする気にはなれず、須能は引きつった笑みを浮かべてこう言った。 「い、いや……まだピンとくる人はいいひんというか……。ほら、最近テレビとか雑誌の仕事もあって忙しいしな」 「ああ、この間みんなで見たよ。ちょっと痩せたんじゃないかって、兄さんが心配してた」 「ええ? そうやろうか」 「うん、ちょっと痩せたと思う。ちゃんと食べてるのか?」  心配そうな目つきで顔を覗き込まれ、須能の心臓は大きく跳ねた。不意打ちで、こんな眼差しを向けられてしまっては、どうしていいか分からなくなる。  しかし、ここで妙な反応をしてしまえば、また葵が気にするかもしれない。須能はぶんぶんと両手を振り、上ずった声でこう言った。 「た、た、た、たたべてるって!! 食欲有り余ってもうどうしょうもないっちゅう話で……」  そこへ、軽いノックの音が聞こえてくる。  葵が「どうぞ」と応じると、ひょいと結糸が顔を覗かせた。そして須能を見るなり表情を輝かせ、嬉しそうな笑顔を浮かべた。 「須能さん! お久しぶりです!」 「お、おお結糸くん、久しぶり。僕のためにお茶菓子用意してくれてはったんやて?」 「そうなんですよ。お口に合うといいんですけど」 「僕は好き嫌いないから大丈夫やで」 「ほんとですか? 練り切り、作ってみたんですよ」 「ほう、やるやん」  結糸は相変わらず、白いシャツに黒いベスト、そして黒のスラックスという使用人めいた格好をしている。漆塗りの盆に載せた和菓子を振る舞う手つきなど、なかなかに優雅なものだ。  一年が経ち、結糸の容姿は少しばかり大人びたようだ。ふわりと丸みを帯びていた頬が少しシャープになり、若々しさと同居していた無頓着さのようなものはなりを潜め、所作に優雅さが備わってきているように感じられた。  それは、葵から注がれる愛情の賜物だろう。  去年最後に会った時は、どちらかというとくるりと愛らしい雰囲気を身にまとっていたものだが、今は艶っぽい色香を漂わせる、いっぱしのオメガへと変貌を遂げているように見えた。 「へぇ和菓子か、珍しいな」 「うん、たまにはね。かなり難しかったけど、俺、結構才能あるかも」 「ほんとか? こないだのミートパイは派手に焦がしてただろ」 「あ、あれはちょっとタイマーの時間間違えただけだし! これは和菓子だから全然違うんだって!」 「ふふっ、ごめんごめん」  二人の会話も、あの頃と比べると随分と近しさが増しているようだ。時の流れと状況の変化を否応無く感じさせられ、須能はひどく複雑な気持ちになってしまった。  ――どないしょ……羨ましすぎてこの床のたうち回りたい気分や……。ええなぁ……僕もこんな甘ったるい会話してみたいわ……。 「須能さん? どうしたの?」 「えっ? い、いや別に。随分仲良うなってるやん」 「えっ、そ、そうですか!?」  須能の言葉に、結糸の顔が真っ赤に染まる。葵はいつもと変わらぬクールな表情だが、あたふたと挙動不審になる結糸を見つめる眼差しは、どこまでも慈しみに満ち溢れているように見えた。 「あーあ、ええなぁ。お熱いことで」 「べ、べつにそんな……」 「君が色々悩んでるて聞いて、顔見に来てみたわけやけど? そんな必要なかったかもなぁ」 「あ……そうだったんですか? ありがとうございます……」  若干ふくれっ面をしながらそんなことを言う須能に、結糸は申し訳なさそうな顔をした。その素直な反応に気が抜けて、須能の眉もハの字になる。 「元気そうでよかったわ。幸せオーラにあてられて、お茶菓子いただく前から胸焼けしそうやけど」 「うう、すみません。……いっときは、相当へこんでたけど、今は大丈夫です。綾世先生のところで治療も受けてるし」 「そっか、そうなんや」 「薬の副作用っていう理由もあるけど、俺、どうもヒートの頻度が普通のオメガの人たちより少ないみたいなんですよね。だから俺が気持ちで焦ってもしょうがないっていうか」 「へぇ、そんなんあるんや」 「蓮さまも、急がなくていいって言ってくれたので……それで、楽になったんです」 「そっか。蓮さまも理解してくれたはんねんなぁ」 「はい」  一時期、結糸は相当蓮に恐れおののいているように見えたものだが、この表情から推測するに、今は良好な関係を築いているようだ。須能はちょっとホッとして、唇を結んで微笑んだ。 「そかそか。それを聞いて安心したわ。蓮さまともええ感じなんやな」 「はい、おかげさまで」  結糸がにっこり笑うと、その背後で葵も柔らかく微笑んだ。葵と結糸の間に漂う、溢れんばかりの優しい愛情を感じて、須能の気持ちも清らかに洗われていくような気分だった。  しかし、心の隅に居座り続けるのは、『自分がそこにいたかった』という切ない願い。  須能はしんみりしそうになる気分を変えるため、結糸お手製の練り切りに、そっと竹楊枝を刺しこんだ。ほんのりとした薄桃色の練り餡で形作られた、桃の形をした練り切りである。  それはほんのりと上品に甘く、とても美味だった。

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