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4、逃げる幸せ

   その翌朝。  須能は蓮たちとの朝食の約束に備え、着替えをしていた。葵の勧めもあり、昨夜は国城邸に泊まって行くことになったのである。  須能のためにと整えられた部屋で眠る一夜は、とてもこ心地の良いものであった。上質なしつらえの部屋だから居心地がいい、というだけではない。『国城家』という何よりも強く大きなものに守られながら眠ることに、深い安堵感を感じていたののだ。  ただでさえ、須能にはアルファ運がない。その上、最近は薄気味悪いストーカーまで出現しているときた。しかしここにいれば、何人たりとも須能に手を出すことはできないのだ。  和装をしようかとも思ったが、今はただの友人としてここにいるのだから、気楽な格好でもいいような気がした。そのため、今朝はゆるりとした私服である。  てろんとした白いTシャツの上にカーキ色のシャツを羽織り、ブラックデニムと黒のスニーカーといういでたちだ。  長い髪を無造作に結わえて軽く頭を振ると、鏡の中で気だるげな表情を浮かべる自分と目が合った。  ここ最近、どことなく精彩を欠いているように見える顔色をじっと見つめて、須能は一つ溜息をついた。 「栄貴に欲求不満て言われてもたけど……確かにそんな顔やな」  多忙ゆえの疲れもあるのだろうが、自分で見ていても、今の自分にはパッと目を引くような鮮やかさが見当たらないような気がする。葵に恋をしていた頃の方がよっぽどいい顔をしていたような気さえしてくる。 「……そろそろほんまにええ相手探さなあかんにゃろか……はぁ……でもそんな元気もないねんなぁ」 と、そんな独り言をつぶやいて、須能ははっとした。  ――あかんあかん!! 何を枯れたことを言ってんねん僕は!! あぁ……あかんなぁ、しゃきっとせな……。  須能は軽く自分の頬を叩き、大きく息を吐いて部屋を出た。  +  ダイニングに降りると、すでに蓮が上座に座って脚を組み、タブレットで何かを読んでいた。  須能に気づいた蓮は、いつになくやわらかな表情で破顔する。 「久しぶりだな、須能」 「どうも蓮さま、お久しゅう。昨日は遅かったんですね。お疲れ様です」 「うん、まぁな。でも、昨日は気楽な会食があっただけだから」  蓮はそう言って、自然な笑みを浮かべた。その表情の変化に、須能はちょっと目を瞬く。  これまで蓮が身にまとっていたのは、刺々しいまでに威圧的なオーラだった。いつでも隙なく整ったいでたちで、社交辞令のためのクールな笑みを浮かべている蓮の姿は、やすやすとは近寄れないような高潔さを醸し出していたものだ。  しかし、今の蓮はそういった棘が全て抜け落ち、雰囲気が随分丸くなったような気がする。若干体つきもほっそりとしているな気がして、ひょっとして体調でも悪いのかと気になったが、表情を見ているとそういうわけでもないようだ。 「……蓮さま、何かあったん?」 「えっ? 何が」 「いや……何やろ。なんかええことでもあったんかなと思って」 「そ……そんなことはないが」  須能は蓮の斜向かいに座り、不躾なほどに蓮の全身を見回した。その目つきを嫌がっているのか、蓮はちょっと眉を顰めて、じろりと須能を見据えている。 「……見過ぎだ」 「あぁ、すんまへん」 「すまないな、のんびりした巡業のはずだったのに、パーティーの予定を組み込んでしまって」 「いえいえ、構いませんよ。蓮さまの頼みやったら、いくらでも」 「助かるよ」  明日予定されているとあるパーティで、須能は舞を披露することになっているのだ。  大物政治家・新藤貫太郎氏の長男夫婦に、初めての子どもが生まれたのである。つまりは新藤氏の初孫の誕生を祝うものであるため、プライベート色の強い会だという。  新藤氏は須能の大ファンだと、蓮からは聞いていた。そのためだろう、蓮に関東巡業の件を連絡したとき、すぐに今回の件についての打診がきたのである。新藤氏の人柄のよさについては須能もよくよく知っているため、すぐにこの依頼を引き受けたというわけだ。 「新藤さんの息子さんて、アルファなんですか?」 「ああ、長男も次男もアルファだよ。今回は長男の第一子が生まれたんだ。相手はオメガ女性だそうだ」 「ふーん、そうなんや」 「お前は最近どうなんだ。葵の件で、随分つらい思いをさせてしまったけど……」 「……えええ?」  蓮の口から、須能の気持ちを慮るような言葉が飛び出したことに仰天し、須能は目を丸くして蓮を見つめた。 「……な、なんかあったんでしょ、蓮さま……」 「えっ? だから何でだよ」 「だって、これまでのあなたは、そんな優しいこと言わはるひとじゃなかったじゃないですか!」 「……僕はそんなに冷徹な人間か」 「あ、すまんせん。ちょっとびっくりして……。でもこれまでは……まぁ、どっちかいうたらそういうイメージやったかなぁ〜……」 「……そうなのか」 「番でも見つかったんですか? ええオメガがおったってこと?」 「えっ? ……うーん」  畳み掛けるようにそう尋ねてみると、蓮はテーブルの上に片肘をつき、眉間を押さえてうなり始めた。なるほど、あの国城蓮がついにオメガを娶ったのか……それならばこの変化も頷ける、と内心納得しつつ、須能は蓮の返事を待つ。 「ま、まぁ……いずれ話す。須能は、今日はどうするんだ」 「このあと、こっちの稽古場に顔出します。ほんで、夜はこっちの歌舞伎座で一席舞わせてもらう予定なんです」 「そうか……あまりパーティの打ち合わせに割く時間はなさそうだな。よければ、今夜もこっちに泊まっていくといい」 「おや、ええんですか?」 「もちろん構わないさ。その方が、朝から色々と打ち合わせがしやすいからな」 「ほな、そうさせてもらいますわ。このお屋敷は、どこのホテルよりも居心地ええですからね」 「そうか。じゃあ、時間を見て車を手配する」 「ほんま、おおきに。ほっとしますわ、蓮さまと話してると」 「そう? どうして?」 「いえね……」  ふと、ここ最近の面倒な出来事についてついつい口にしてしまいそうになり、須能は慌てて口をつぐんだ。蓮は須能以上に多忙な身の上だ。自分の身に降りかかる災難ごとを話して、蓮の気持ちを煩わせたくはない。須能は唇をきゅっと引き結び、にっこりと作り笑いを浮かべる。 「何でもありません。まぁ……蓮さまとも長い付き合いになってきたから、かなぁ」 「そうだな。朝も稽古場まで送らせるよ。葵の車に乗っていけ」 「おや、兄弟一緒に出社しはりませんの?」 「僕は今日は午後からだ。午前中は経済誌の取材を受けることになっていてね」 「おお、そうですか。相変わらず、華やかやなあ」 「お前ほどじゃないよ」  そう言って優美に微笑む蓮の全身からは、光り輝くような色香が放たれているように感じ、須能はついついドキドキしてしまった。アルファでありながら、こんなにも麗しい空気を醸し出す男など、須能の周りには存在しない。それほどまでに、久方ぶりに出会った蓮はまばゆいほどに美しく、須能はしばらくぽうっとなって蓮に見惚れてしまった。 「……恋ってええなぁ。蓮さま、ええ相手に恵まれはったんですね」 「えっ!? あ、うーん……まぁ、そんなところだ」 「女性ですか? それとも男?」 「いや……それも含めて、いずれ話すよ」 「ええ? いいやないですか、ちょっとくらい。僕にも幸せ分けたってくださいよ」 「うう……。そんな、別に大したことじゃないんだが」  ぽ、と蓮の頬が薄桃色に染まる。本気で照れているらしい。  蓮がこんな顔をするのは初めてだ。あまりに愛らしい表情を見せつけられ、須能は全身を稲妻に貫かれたかのごとく衝撃を受けた。 「蓮さまといい、葵くんといい……はぁ……国城家には一気に春が来たっちゅうことなんやな……羨ましい」 「僕はともかく、葵は一年前からずっと春さ。ところで、遅いな、葵のやつ。何やってるんだか」  あえて話を逸らすように、蓮はそんなことを言った。すると当の葵が、パリッとしたスーツ姿で、ようやくダイニングに現れた。 「おはよう、兄さん。須能も、よく眠れたか?」 「おはよう、葵くん。結糸くんは?」  蓮の隣に腰を下ろしつつ、葵はちょっと心配そうな顔でこう言った。 「今朝はなんだか具合が悪いらしくて、しばらくそばについてたんだ」 「えっ!? ま、まさかそれって、妊……!?」 と、須能がいきりたつと、葵は薄く微笑んで首を振った。 「いや……たぶんヒートが近いんだと思う。結糸、抑制剤を常用してただろ? それをやめてからずっと、ヒートの前になると熱を出したりするようになって」 「へぇ……ほな、会社とか行ってる場合とちゃうん違う?」 「そうなんだけど、ちょっと急ぎでやっておかなきゃいけないこともあるし。それに、こうなってから三日後くらいにヒートが始まるっていう感じでペースが分かってきてるから、大丈夫」 「へぇ……」  結糸の状態をしっかりと把握し、我が事のように親身な口調でそんなことを話す葵の姿は、何だかとても大人びて見えた。番を得、仕事の方も順調にこなしている葵は、歳は若いがとても立派な男に見える。  運ばれてくる朝食に手をつけながら、葵は蓮にこう言った。 「兄さん、そういうわけだから。ひょっとしたら来週は休むことになるかも」 「ああ、いいよ。麻倉に仕事を届けさせるから、合間を見て片付けておけ」 「分かってるよ」  紅茶を飲みつつ手厳しいことを言う蓮の台詞に、葵はちょっと肩をすくめてコーヒーを飲んだ。  そして同時に、耳に入ってきた『麻倉』という名前、須能は少しどきりとした。 「……麻倉……さん。今も葵くんの秘書やねんな」 「ああ、そうだよ。世話になってる」 「ふうん……」  いつぞや、結糸らとコーヒーショップに入った時、秘書の麻倉もその場にいた。  大企業に勤めるアルファでありながら、頬を赤らめながら須能に名刺を差し出すうぶな表情が愛らしくて、新鮮で、かなり好印象を抱いたものであった。  名刺をもらったはいいが、須能はすぐに京都へ戻った。そこからどう振る舞えばいいのかが分からず、結局一度も連絡できないまま、一年近く時間が空いてしまったのだ。  そして麻倉のほうからも、何一つアクションはなかった。まぁ、須能から連絡をしない限り、麻倉には須能の連絡先など分からないであろうから、それは当然なのかもしれないのだが……。  涼やかな目元に憧れを滲ませ、じっと須能を見つめていた麻倉の目つきを思い出し、須能はまだ少しきゅんとした。しかし。 「麻倉も、半年前に番を見つけてさ。向こうはあっという間に子どもを授かって、今は何だか忙しそうなんだ」 と、葵はトーストをかじりながら、のんびりとした口調でそう言った。  ――な、なんやて……? 「つ、つがい? あの人、番がおるんや。しかも、こどもまで……?」 「ああ、同期入社のオメガにぐいぐい迫られて、いっときは困ってたみたいなんだけどな。けど気づいたら、いつの間にか番になってたんだ」 「……へ、へぇ……さすが、麻倉さんもええ男やもんな。周りがほっとかへんってことか……」 「そういうことなのかな。俺もあんまり余裕がないから、プライベートな話はあんまり聞いたことがないんだけど」 「よ、よろしいなぁ……みなさん幸せそうで……」  一瞬近づいたかに見えた幸せが一瞬で遥か彼方へと遠のき、須能はなんだかぐったりしてしまった。

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