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クリスマス番外編

〈1〉    季節がまたひとつめぐり、冬がやってきた。  今日はクリスマスイブの前日である。  蓮は、クニシロHDの本社ビルの最上階にあるプライベートルームで、例年よりも少し早めに降り出した雪を眺めていた。大きな窓に映るのは、淡灰色の曇天の空と足下に広がるビルの街。時刻は午後四時を少し回ったところで、気の早い空は少しずつ夜の気配を漂わせ始めている。 「蓮」  ふと、背後から名前を呼ばれ、蓮は窓ガラスに映った最愛の番の姿を目に映した。ゆっくりと振り返ると、白いマグカップを二つ手にした御門が、にっこり笑ってこちらを見ている。 「ココア、作ったんだ。飲んでみる?」 「へぇ、珍しいな。ありがとう」  キッチンから漂ってくる甘い匂いの正体は、ココアだったようだ。鼻歌を歌いながらここのキッチンに立つのは、もはや御門の日常である。蓮は御門に歩み寄り、カップをそっと受け取った。 「……美味い。あんまり甘くなくて」 「だろ? 甘さ控えめにしといたんだ。蓮は甘いもの苦手だもんな」 「……わ、分かったようなことを言うなよ」 「あれ? 違った?」 「……違わないけど」  照れ臭さを隠そうとするあまり、ついつい棘のある言葉を口にしてしまうのだが、御門は蓮のそういう癖などすでにお見通しのようである。愛おしげに目を細めて蓮を見つめながら、御門もココアを口にした。  クニシロHDは今日から三日間クリスマス休暇であるが、御門は通常業務だ。祝日である今日はかろうじて休みを取れたため、蓮と二人きりの時間を過ごしているというわけだ。 「蓮」 「……ん?」 「雪、好きなの? ずっと見てるな」 「あぁ……うん、まぁな。何だか、見てると落ち着くんだ」 「そっか」  幼い頃から、雪が空を舞う様子を眺めるのが好きだった。はらはら、ふわふわ、と一定のリズムで空から生み出される白い結晶を見上げていると、忙しない日々の重みを忘れることができたからだ。自分がオメガであるとひた隠しにして生きていることも、葵の目のことも、家のことも……。  今は、かつて蓮を悩ませていた事柄は全て解決したといってもいい状況だ。家族は皆、蓮がオメガであることを知っているし、葵は視力を回復した。それに、葵と結糸の間には、生まれてまもない赤ん坊がいる。  そして蓮にも、愛おしい存在がそばにいる。  焦がれに焦がれた魂の番が、こうして肩を抱いていてくれるのだ。こんなにも穏やかな気持ちで雪を見上げたことなど、これまでは一度もなかった。蓮はそっと御門の身体に身をもたせかけ、ほうと溜息をついた。 「陽仁」 「ん?」 「……明日、夜は家にいられるのか?」 「おう、もちろん!」  明日のクリスマスイブは、親しい間柄の人々だけを招いて、クリスマスを祝うのだ。国城家はクリスチャンの家系であるため、クリスマスは必ず家族で過ごす習慣がある。  これまで、蓮の家族は葵だけだった。子どもだった二人を気遣って、勢田や使用人の数人が一緒にクリスマスを過ごしてくれたことを思い出す。大きなツリーの下でおこなう、ささやかなクリスマスパーティだった。  だが今年は、家族が増えた。家族ぐるみで付き合える、親しい友人も。蓮にとってそれは、とても嬉しい変化だった。 「須能くんも来るんだろ?」 「ああ。虎太郎は大学の授業が夕方まであるらしいから、少し遅れるらしいんだけど、須能はこっちでの仕事もあって、昨日からうちにいる」 「そっか。彼も妊娠中なのに、あっちこっちで大変だな」 「大変そうだけど、昔よりずっと生き生きしてるよ」 「それならいいんだけどな。……あ、ところで」  ふと、御門が何かを思い出したような顔をした。蓮は御門に軽くもたせかけていた頭を起こす。 「なんだ?」 「須能くん、蓮がオメガだってこと、まだ知らないんだよな?」 「え?」 「彼にはいつ言うんだろうなって思ってさ。親しい仲なのに」  そういえばまだ言っていなかったっけ、と蓮は思った。  須能との付き合いは長いからだろうか。今となっては、アルファだのオメガだのという性別の差など関係なく、彼のことはただの友人のように思える。  葵のパートナー問題のことで散々気苦労と迷惑をかけてしまったことに申し訳なさばかりを感じるが、彼は若く逞しい番を得て、その身に新しい命を宿している。昔から艶のある美しい男だったが、最近の須能はこれまでにないほどに美しくきらめいているように見え、彼の姿をテレビや雑誌で見つけるたび、蓮は安堵と喜びを感じていた。 「……タイミングを逃していた。この休暇中に言うよ」 「うん、分かった。須能くん、どういう反応するんだろうなぁ」 「うーん、お腹の子に悪影響が出ないといいけど……」 「そこまでびっくりするかな?」 「僕がオメガで、しかも番がお前だと知ったら、さすがのあいつも仰天するだろ」 「それもそうだなぁ」  御門は屈託のない笑顔を浮かべて、自然な動きで蓮の肩を抱く。その温もりに甘えるように、蓮はそっと御門の肩に頭をもたせかけた。 「綾世先生、なんて言ってた? こないだ、診察だったんだろ?」 「あぁ……うん」  抑制剤の過剰摂取の影響で、蓮もまた結糸と同じく、子を孕みにくい身体になっていることが分かった。  加えて、蓮はアナボリックステロイドまで定期的に投与していたこともあり、ホルモンバランスが非常に不安定なのだ。  あれほど恐れていた発情期だというのに、いざ抑制剤をやめてみると、微弱な発情しか訪れなくなってしまった。以前まで抱えていた体調不良は無くなったものの、あれ以来、蓮はまともなヒートを経験していないのだ。時折熱っぽさのようなものを感じ、これがと思うことは何度かあったが、それはほんの一、二日のうちになりをひそめてしまうのだ。  国城政親に襲われ、御門に救われたあの日のヒートは、ようやく蓮の元に訪れた『魂の番』を逃してなるものかと、本能が危機感を抱いたが故に発生したものだったのかもしれない……と、蓮は思う。  とはいえ、今はまだ葵への引き継ぎ準備等で何かと忙しない時期でもある。だから、蓮は自分の体調にさほど頓着していなかった。だが、定期的に蓮のフィジカルチェックを行なう綾世は、会うたびに治療を勧めて来るようになった。『せっかく素敵な番ができたんだから』とか、『結糸くんのことも落ち着いたんだから、次は蓮さまが身体を整えてはどうか』などとせっつかれ、この間ようやく、蓮はこれまでよりも詳細な検査を受けた。そして、己の身に起こった新たなる問題を知ったのである。 「そっか……」  その旨を説明すると、御門はゆっくりとした動きで蓮の頭を撫でた。御門の呼吸にうっすらとした落胆のようなものを感じたような気がして、蓮はそっと顔を上げる。 「……がっかりしたか。僕がこんな身体だと知って」 「え? ううん、まさか。薬の影響があるかも、っていうのは、蓮も前から言ってたしさ」 「うん……」 「俺、蓮のために何ができるだろう」 「え?」  御門は難しい顔をして蓮を見つめたまま、物憂げな溜息をついた。 「蓮はこれまで十分頑張ったんだ。本当は、身も心もゆっくり休まる時間を過ごして欲しいと思ってる。でもまだ、蓮は何かと忙しいだろ? 仕事の上で俺が手伝えることなんかたかが知れてるし……」 「いいんだ。僕は今、じゅうぶんに幸せなんだから」 「え? ほんと?」 「当たり前だろう。お前という番を得て、僕の心はとても穏やかになった。葵の目も見えるようになった。葵にも結糸がいて、二人の間には子どもがいて……これ以上の幸せを、僕は感じたことがないよ」     生まれたばかりの甥のことを思い出すだけで、蓮の表情は柔らかくほころんでしまう。  葵と結糸の間に産まれたのは、男の子だった。  残暑の厳しい九月中旬、朝晩の風にほんのりと秋の気配を感じるようになったとある日の早朝、結糸は元気な男の子を産んだ。  普段はクールで何事にも動じない葵が、あんな顔をするのかと、蓮は密かに驚いていた。前の日の晩からずっとお産につきっきりだった葵は、赤ん坊の産声を聞いた途端、白い頬に涙を滑らせた。  そして涙声で結糸をねぎらい、赤ん坊と、疲弊した番をぎゅっと抱きしめて、何度も何度も『ありがとう』と言っていた。守るべきものが増えた弟の顔はいつにも増して頼もしく、男らしく、そしてとても美しかった。  新しい命を抱いて寄り添う家族の姿に、蓮はとても感動を覚えた。  そしておっかなびっくり腕に抱いた、生まれたばかりの命。それはあまりに小さく非力な存在だったけれど、漲るような生命力を感じた。  まだ目も開いていないというのに、四肢を震わせ、力いっぱい空気を吸い込み、己の誕生を世界に知らしめんと大声で泣く逞しさに、蓮は誇らしさを感じたのだった。  そして蓮は、その赤ん坊の名付け親になった。懐胎が分かってすぐに葵と結糸にどうしてもと頼まれていたものだから、ずっとずっと赤ん坊の名前について頭を悩ませていたのである。  その赤ん坊に与えた名は、紫苑。  葵のために整えた薔薇の庭のすぐ隣に、今が盛りとばかりに咲き誇る、紫苑の花を想起したからだ。  紫苑は華々しい花ではないが、優しい雰囲気を持った愛らしい花である。薄紫色の花弁には気品があり、その中心には鮮やかな黄色が色づく。それらが群れて咲く様は、まるで朝焼けの空にきらめく星空のよう。葵の瞳の色、そして結糸のもつ強さや優しさとも通じる部分があるように感じられ、蓮はその名を赤ん坊に与えたのであった。  しかし蓮はまだ、オメガとして生き、新たな生命を腹に宿すことへの覚悟ができていない。実感がわかない、と言った方がいいだろうか。  毎日のように腕に抱く紫苑を、愛おしいと思う。疲れた顔をしつつも満ち足りた表情を浮かべる結糸の姿を見ると、安堵の気持ちは湧いて来る。これで、国城家の跡取り問題は解決した。次世代に血を繋ぐことができたのだ……と。  だが自分が、結糸のようになりたいかというと、それはまだよく分からない。これまで、身も心も頑なにアルファであろうとしていたぶん、蓮はまだ自身のオメガ性を受け入れることができていないように感じている。  御門のことは愛おしい。なくてはならない存在だ。  はじめ不慣れだったセックスにも、だんだん慣れてきてはいる。御門はいつでも情熱的で優しく、蓮を大切に抱いてくれるからだ。逞しい肉体に支配されることに歓びを感じ、以前よりも深い繋がりを感じることができるようになってはいるが……でも、そこから先のことを、蓮はまだ想像できないのだ。    もちろん、子を産みたくないというわけではないのだ。でも、心がついていかない。蓮の抱えるこの気持ちについては、御門には何度か話したことがある。御門はいつでもゆったりと微笑んで、『いつまででも待つよ』と言ってくれるし、『今は蓮とこうしていられるだけで死ぬほど幸せ』と言ってくれる。御門にその言葉をもらうたび、蓮は安堵しつつも迷っていた。このままでいいのかと。 「陽仁は、これ以上僕に何かしてやろうなんて、考えなくていいんだ。お前は、ただ僕のそばにいればいい」 「うん……ありがとう。愛してるよ、蓮」 「……っ」  御門は蓮の手を取り、指先にキスをした。  蓮の白い指に触れる御門の唇を見つめているだけで、身体の奥がきゅんと震える。この唇で、舌で、もっと濃厚に愛されたいと、身体が騒いでしまうのだ。  蓮はふいと目線を逸らして唇を真一文字に結びながら、ふうと、一つ溜息をついた。そして、棘のある言葉を言わないように気をつけつつ、精一杯の甘い台詞で御門を誘う。 「べ……ベッドに……行かないか。す、少し、甘えたい気分なんだ」 「へっ?」 「だっ……だからっ! その……」  自分の台詞に照れてしまい、その後が続かない。居心地の悪い思いをしながら押し黙っていると、御門はひょいと蓮を抱き上げ、つかつかと寝室の方へと歩き始めた。 「もちろんいいよ! いくらでも甘えてくれよ!!」 「ちょ、自分で歩けるって……!」 「はぁ〜〜〜もう、マジで可愛い。甘えたいとか何だよそれ、可愛すぎるだろ。どうして蓮はこう俺の喜ぶことばかり言うんだろうな〜〜〜」 「う、うるさい馬鹿!」  結局悪態を吐いてしまったが、ついつい笑みがこぼれてしまう。  粉雪の降るクリスマスイブ前夜は、とても甘い時間となった。  

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