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〈2〉
「あぁ、蓮さま。おかえりなさい」
「た、ただいま……」
次の日の昼過ぎ、国城邸に帰宅した蓮をまず出迎えたのは、和服姿の須能正巳だった。紫苑を腕に抱き、日当たりのいい廊下に佇んでいたのである。
高い場所でゆるくまとめた長い髪は、あいもかわらず艶やかだ。腹の膨らみはあまり目立ってはいないものの、普段は腰のあたりできっちりと固く締められている帯は、柔らかく結わえられているだけのようである。厚手の羽織を肩に引っ掛け、腕に紫苑を抱く須能の表情には、すでにどことなく母性のようなものが宿っているように見えた。
餅のような小さな手でぐいぐい髪を引っ張られながら、須能は蓮のほうへ歩み寄って来た。
「休暇や聞いてましたけど、ずっと仕事してはったんですか? 相変わらずお忙しいんやなぁ」
「い、いや……そうでもないさ」
前日は結局夜中までねっとりと愛し尽くされてしまったため、今朝は朝寝を貪っていたのである。
早朝、御門は元気に仕事へ出かけて行った。ずっしりと重だるい身体を持て余していた蓮は、ベッドの上で半分眠りながら御門を見送ったのであった。ほんの小一時間前まで、あれだけしつこく蓮を攻め立てていたくせに、どうしてあんなにも元気なのかと、年の差を痛感した朝でもあった。
「あーぅ」
須能に横抱きにされていた紫苑が、両手両足を動かしてもぞつき始めた。三ヶ月にしてすでに葵の面影を見せるくりくりの大きな目で、まっすぐに蓮を見つめている。
「お、蓮さま見つけて喜んだはるわ。ほらほら、抱っこしてもらい〜」
「こ、こら、まだ手も洗ってないのに……」
と、ブツブツ言いながらも、ぽってりとした小さな手を伸ばして蓮を求める紫苑の愛くるしさに、ついつい顔が緩んでしまう。須能から紫苑を受け取り、慣れた手つきで縦抱きにすると、紫苑はぺたぺたと蓮の頬を叩いて機嫌のいい声を出した。
紫苑は身体の育ちもよく、すでに首が据わりかけている。何にでも興味を持ち、あれこれと見たいものや触りたいものがあるらしく、起きている間は終始なんだかんだと要求している。
そのためか、紫苑はあまり眠らない赤ん坊だ。元気すぎる紫苑の世話に明け暮れて、産後すぐの結糸はすっかりくたびれ果てていた。出産時の出血量が多く、体調がなかなか回復しなかったこともあり、結糸は一時期ひどくやせ細っていたのである。
しかも葵はここ最近、蓮に変わって海外で催される会議などにも出席する機会が増え、とても多忙だった。結糸を手助けできないこと、また、愛しい我が子と共に時間を過ごせないことにひどく心を痛めていた。
だが、この屋敷には人手だけはたくさんある。屋敷の使用人たち総出で一人の赤ん坊の世話を焼くので、結糸もようやく以前のように元気に動き回れるようになっていた。
そしてこのクリスマス休暇中は、仕事の話は一切なしだ。葵と結糸も、のんびりとした時間を過ごせるに違いない。
「あー、あぅー」
「ん? そんなに僕に会いたかったのか?」
「うぁー、だぁ」
「ふふっ、そうか。ちょっと待ってろ、着替えて来るから」
「あうー」
くりっとした大きな目は、幼い頃の葵に瓜二つだ。瞳の色は、葵の紺碧に光を溶かし込んだかのような、鮮やかなスカイブルーで、まるで宝石のように美しい。うっすらと生えたふわふわの髪の毛の色はまだよく分からないが、全体的な目鼻立ちは結糸に似ていて、くるくるとよく変化する表情がとても可愛く、いつまででも眺めていたいと思える。
蓮がそうして紫苑をあやしていると、須能が突然深く長い溜息をついた。
「はぁ〜〜〜〜……赤ちゃんあやす蓮さまが可愛いわぁ。拝んどこ……」
「なっ、何を言い出すんだ急に。やめろ、拝むな」
「だって、ちょおっと前まではあんなにツンツンしたはったのに。おいっこが生まれた途端デレデレですやんか。デレデレ……って言葉は合わへんか……なんちゅうんかな、聖母や。まるで聖母やな……」
「……。葵と結糸は?」
「たまには二人きりでのんびりお茶でもしておいでって、送り出したとこなんです」
「あぁ……そうか。虎太郎が着くのは夕方って言ってたか?」
「はい。紫苑会いたさに飛んで来ますよ、あの子も」
「やれやれ、人気者だな」
と言いながらまん丸な頬をむにむに指先で挟むと、紫苑はさくらんぼ色の小さな唇をむうっと突き出す格好になった。ちょっと迷惑そうな顔がことさら可愛くて、蓮は思わず笑ってしまった。そして、ハッとする。須能の眼差しがやたらと熱い。
「蓮さま……変わらはったよなぁ……尊いわぁ……」
「だから拝むなって」
「アルファにも母性ってあるんやろうか。ほんまに聖母や……」
「……」
目をキラキラさせながら蓮を仰ぎ見ている須能に溜息をつきつつ、蓮はふと考えた。
――別に今更。改まって言うことじゃないか……。
「須能」
「はい?」
「君にまだ言っていなかったことがあるんだ」
「へ? あぁ、番が誰かってこと? えっ? 誰? とうとう教えてくれるんですね!」
蓮が何かを言う前に、須能がさらに目をキラキラと輝かせた。
「そうそうそう、ずっと気になってたんですよ。蓮さま、なっかなか教えてくれへんし……ってまぁ、僕もなかなかのんびりこっちこれへんしで、虎太郎と誰やろな〜って話してたんです」
「……そうか」
「で? で? 誰? 僕も知ってる人ですか?」
普段は涼やかな目元を好奇心にきらめかせ、須能はぐっと蓮に迫って来た。間に挟まれた紫苑がもぞもぞと居心地悪そうに身じろぎをしたため、蓮はひょいと紫苑を抱き直す。
「僕の番は御門だよ。御門陽仁」
「……え? あー…………御門くん? え、あの御門くん?」
「ああ」
「えっ…………!? ま、まさか、彼、ホンマに性転換手術受けたんですか……!?」
「え?」
蓮は目を瞬いた。
須能は腕組みをして小難しい顔をしつつ、ぶつぶつと独り言を言い始めた。
「マジかありえへん……!! し、しかも蓮さまの番になった……って、えええ……どういうこっちゃ。僕がいいひん間に一体この二人に何が起こったんや……」
「須能」
「ちょお待ってや……ってことは、蓮さまが御門くんを抱くんやろ……? え……? えぇ……? 連さま、まじか……むっちゃ心強いやんか……いや、ああいうのが元からタイプやったんか……? うう……あんなゴッツイオメガ見たことないわ……ていうか、性転換どこでしはったんやろ。この世にそんな技術が生まれてたなんて、知らんかった……」
「須能、待て。違うから」
「え?」
ややこしげな顔を上げた須能の肩を、落ち着かせるようにぽんぽんと叩く。すると須能は小首を傾げ、答えを求めるように蓮を見上げた。
「僕がオメガなんだ」
「あ……あー……なるほど! そういうことなら分からんでもな………………え?」
目が点になるとはまさにこのこと。
須能は雅やかな目元を呆然と見開いて、たっぷり数秒、蓮の顔を見つめていた。
「ずっと隠してて悪かったな」
「あ……あ、うん。えっ? れ、蓮さま、いつからそんな冗談言わはるようになったんです? あはははは〜〜〜びっくりしますやーん。てことは御門くんが番ってのも冗談……」
「いや、冗談じゃない。まだ世間には公表していないが、僕は正真正銘オメガで、陽仁は僕の番だよ」
「……ほっ…………ほっ、ほんまに言うてんの……?」
須能はぱちぱちと忙しげに瞬きをしつつ、じっと蓮の顔を見上げている。とうとう敬語も忘れてしまったようだった。
どうも須能は芯から混乱しているらしく、蓮の顔を見たり、身体を見たり、蓮のジャケットの襟を掴む紫苑を見たりしたあと、また腕組みをしてうーんと唸った。
「……なるほど。せやから僕、これまでずっと蓮さまに何も感じひんかったってこと……!? てっきり、僕じゃ手ぇが届かへん相手やから本能が勝手に諦めてるだけやと思ってたけど、そうやなくて、蓮さまがオメガやから、フェロモン感じひんかったってこと……?」
「まぁ、そういうことになるんだろうな」
「え……? え? ほんま? けど蓮さまやで? 国城蓮やで? こ、こんなどえらいオメガがこの世に存在してるとか……えええええ!?」
今度は何かに慄くような表情で、須能は蓮を見上げている。さっきからくるくると百面相している須能のことがだんだん面白くなってきて、蓮はふっと軽く笑った。
「そんなに驚いてくれるなんて、期待以上だよ」
「えっ……マジ、ほんま、ちょお待って。ほな、どうしてはったん? これまで……」
「とりあえず、ちょっと座って話さないか。スーツがよだれで大変なことになってるし、着替えたい」
「えっ!? あ、ほんまや。と、とにかくこっちおいで紫苑」
「あーあー」
しぶしぶといった様子で須能に抱かれつつ、紫苑は須能の長い髪をぐいぐいと引っ張っている。しかし須能はそれを咎める余裕もないらしく、今もまだ蓮の全身をしげしげと見つめていた。
「オメガ……蓮さまが、オメガ……? うそぉ……」
「ちょっと待っててくれ、すぐ戻る」
「は、はい……」
ややぐずり始めた紫苑に微笑んで見せてから、蓮は早足に自室へと着替えに戻った。
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