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 悠葉は泣きじゃくりながら、紫苑との未来に不安があるのだということを、とつとつと伝えた。  紫苑は物言わぬまま体勢を変え、涙を流す悠葉を正面から強く抱きしめる。 「悠葉。俺が悠葉意外の誰かと番うわけないよ」 「でも、でもっ……!! おまえはっ、国城家の長男やろっ……!! 葵さまも蓮さまも、ほんまは紫苑をお見合いさせたくてしゃーないかもしれんやん!」 「長男っていっても、父さんは次男だし。実質、嶺と翼のほうが、トップで事業を引っ張る立場になるだろうから……」 「そんなんわからんやん! 嶺も翼も賢いかもしれんけどアホやし! 紫苑のほうが会社経営とかそういうの向いてると思うし……!!」 「アホって」  ふ、と紫苑がやや気の抜けたような笑い声を漏らす。紫苑の身体からやや緊張が解けるのがわかり、悠葉もようやく、少しだけ頭が冷えて落ち着いてきた。 「お見合いとか、そんなのないって。それに俺、父さんと母さんには悠葉のこと、もう話してるし」 「えっ!? …………はっ? は、話すってなにを!?」  がばっと顔を上げると、思いのほかすぐそばに紫苑の鼻先があって仰天する。それもそのはずだ、ずっとくっついて泣いていたのだから……。  急にバツが悪くなって、ぐいと腕を突っ張って紫苑と距離をとる。  心なしか、紫苑の頬もりんごのように赤い。今まで悠葉を抱きしめていた手をぎこちなく膝の上で握り合わせながら、ためらいがちな口調でこう言った。 「お見合いの話、ないわけじゃなかったんだ」 「ほ、ほら!! ほらやっぱり……!!」 「もちろん断ったよ! そしたら父さんに『悠葉とはどうなってるんだ』って聞かれて……」 「え」  まさか、普段さほど顔を合わせる機会のない葵に、紫苑との関係を察せられていたのかと驚いてしまった。……いや、しかし、きっと結糸から様子を聞いているのだろう。葵と結糸は今も恋人のように仲睦まじいのだ。  悠葉の両親も仲はいいが、喧嘩もよくしている。とはいえ、内容は実にくだらないことばかりだ。  言いたいことを言い合ってスッキリしたあとはケロっと仲直りしているので、あれはあれで相性がいいのだろう。……騒がしいので、もうちょっと静かに喧嘩してほしいと常々思っているが。  経済誌などに載っている葵の表情は冷え冷えとするほどに美しく、まったく隙を感じさせないほど硬く整っている。だが、子どもたちの前で結糸を見つめる葵の瞳はとても優しいし、唇にはいつも微笑みが浮かんでいる。そしてそれは結糸も同じだ。  その姿はとても尊く、紫苑の両親は悠葉にとっての理想のカップルなのだ。 「あ、葵さまに……なんて言ったん?」 「俺は悠葉が好きだって言った。だから見合いはできないって」 「そ、そ、そんなはっきり……? で、で? 葵さまは?」 「……ちょっと何か考えてる感じだったけど……。『やっぱりそうか』って」  びくびくしながら話を聞いていたが、葵はふたりの関係を頭ごなしに否定していないらしい。それを知り、悠葉は安堵のあまりはぁ〜〜とため息をついた。  だが、まだ不安は尽きない。 「けど……俺がアルファやったらどうなるん? 番えへんしさ……やっぱ、ええとこのオメガを迎えたりとか……」 「父さんは、『たとえアルファ同士でも、お互いが同じ気持ちなら好きなようにしたらいい』って言ってくれてる」 「え……ほんまに?」 「うん、だから大丈夫だよ。悠葉がどっちだったとしても、俺たちが無理に引き離されることなんてないんだ」 「……そ、そっか……はぁ〜〜〜……」  葵の許しが出ていると聞き、ようやくひとつ胸のつかえが取れた気がした。脱力すると同時に紫苑にくたっともたれかかると、そっと肩を抱かれてホッとする。 「悠葉には言ってなかったけど……母さん、もともとは使用人で、父さんの付き人だったんだって」 「ふーん。…………えっ?」 「父さん、昔目が見えなかっただろ。だから母さん、いつも父さんのそばにいて、身の回りの世話をしてたんだって」 「そ、そうやったん……?」  憧れのふたりの馴れ初めを初めて聞いた。結糸の出自については全く気にしたことがなかったけれど、まさか使用人だったとは驚きだ。  ベータと偽って、結糸は国城家で働いていた。葵は、結糸がオメガだと気づきながらもそばに置き続けていたという。 「あんまり詳しくは教えてくれなかったけど、父さんたちも身分差を超えて番になってるからかな。俺たちの気持ちを一番に考えてくれてるみたいなんだ」 「……そ、そうなんや。蓮さまも、ようお許しにならはったなぁ」 「ほんとだよね」  聞けば、葵も蓮も、婚姻という形で家同士を繋げるやり方はもう古いと考えているらしい。それを聞いた悠葉はさらに気が抜けてしまい、ぼふんとベッドに倒れ込んだ。 「……そっか、そうなんや……」 「だから俺たちのことについては、悠葉は何も心配しなくていいよ。アルファでもオメガでも、俺が悠葉を好きでいる気持ちは変わらないから」 「……うん……うん」  ホッとして気が緩み、涙目になって紫苑を見つめる。すると紫苑も悠葉の隣に寝そべって、笑顔になった。 「須能様と香純のことはしばらく落ち着かないかもしれないけど……俺でよければ、いつでも話聞くから」 「ん……ありがとう」  紫苑が頼もしい言葉をくれたこと、国城家の人々にこの関係を否定されなかったこと……それだけで、須能家の問題も何だかうまく解決できそうな気さえしていた。  悠葉は紫苑のほうへ身体を寄せ、肩先に額をくっつけた。安堵とともに、急に瞼が重くなってくる。  ぬくもりが恋しくなった悠葉は、するりと紫苑の腕に腕を絡めて、さらに身体を密着させた。……すると、紫苑の腕がぴくりと震え、ぎこちなく腕を引き抜こうとしている。 「悠葉、あの、これは……ちょっと」 「……おい、何で逃げようとすんねん」 「いや……こんなにくっつかれると、俺……」  とろんとした目で見上げると、紫苑は頬を赤らめた横顔のまま、ちらりとこちらに目線をよこす。そしてまた、すいと紫苑は天井に視線を移してしまった。  そして、ため息混じりにひとことつぶやく。 「あー…………キスしたい」 「え? …………な、なに言い出すねん急にっ!?」  突然のそんなセリフに、悠葉は仰天するしかない。真っ赤になった顔を両手で覆ってしまった紫苑が、くぐもった声で「……ごめん、本音が漏れた」とこぼす。 「本音って……。紫苑も、そんなこと考えるんやな……」 「そ、そりゃそうだよ! 俺がどれだけ我慢してると思……っ」  がばりと勢いよく上半身を起こした紫苑が何か言いかけ……そしてぱっと口をつぐんだ。頬を赤らめたまま唇を引き結び、バツが悪そうに悠葉から視線を外す。  紫苑のそんな顔は初めて見る。物珍しい上に可愛いし、胸の奥を柔らかなものでくすぐられるようかな甘さが込み上げてくる。悠葉は思わず「あはっ」と笑った。 「紫苑も、そんなふうに思ったりすんねや」 「するよ。するに決まってるじゃん。なかなか会えないし……会うたび悠葉、なんか大人っぽくなってて……」 「そうやろか。自分じゃ全然わからへんし、紫苑の変化のほうがすごいと思うけど」 「変化?」 「なんやいつのまにか立派な『国城家のアルファ』って感じやもん。……不安になるに決まってるやん」  なんと女々しいことを口にしているのかと恥ずかしく、最後のほうは蚊の鳴くような声になる。すると紫苑はもう一度悠葉の隣にうつ伏せになって肘をつき、小さな声を聞き漏らすまいとするかのように顔を寄せてきた。  間近で潤んで揺れているのは、あの空色の美しい瞳だ。長いまつ毛に縁取られた綺麗なアーモンド型の双眸が、まっすぐに悠葉を捉えている。 「俺が誰かに取られちゃうかもって思ったから、不安になるの?」 「そ……そうやけど」 「それは俺も同じだよ。悠葉、こんな綺麗な顔してるくせに、まったく自覚なさそうだし」 「……綺麗、か?」 「ほら、わかってないだろ。俺だってすごく不安だよ」  囁くような紫苑の声に、耳を淡く撫でられるようだった。微かに掠れたその声は色っぽく、聞いているだけでドキドキと鼓動が高まってしまう。  悠葉の反応を窺うように、ゆっくりと鼻先を寄せてくる紫苑の吐息を感じて、ドクンと胸が大きく震えた。 「ん……」  ふわりと軽く、柔らかなものが唇に触れた。それはとてもあたたかくて心地が良く、触れ合った場所から微かな痺れが広がってゆく。  一度離れた唇が、角度を変えて、もう一度触れる。  悠葉の弾力を確かめるように軽く啄まれ、その拍子に、紫苑の小さな吐息が漏れるのを感じた。  悠葉が紫苑のシャツをぎゅっと握ると、紫苑はさらに少し身を乗り出して、悠葉の下唇を淡く食んだ。  さっきよりも少し深く唇が重なり合い、よりリアルに紫苑の肉体と熱を感じる。ばくばくばくと、心臓はさっきから高鳴りっぱなしだ。  ゆっくりと重ね合わされていた唇が離れてゆく。だが、それがすごく名残惜しくて、寂しくて、握りしめていた紫苑のシャツを引っ張った。  上半身だけ悠葉に覆いかぶさるような格好でこちらを見下ろしている紫苑の瞳が、微かに揺れる。  無垢で爽やかないつもの紫苑からは想像ができないくらい、その空色の瞳は深く艶っぽい色を帯びていた。ドクン、ドクン、と収まらない鼓動に煽られるように、悠葉は紫苑の頬に触れ、その名を呼んだ。 「紫苑……」  柔らかな微笑みを浮かべつつ小首を傾げ、紫苑は悠葉の瞳を覗き込む。その優しい微笑みも、慈しまれるような淡いキスも、何もかもが愛おしくてたまらない。  悠葉は両腕を伸ばして紫苑の首にするり絡め、ぐいと自分のほうへ抱き寄せる。すると、肘で体重を支えていた紫苑の身体が傾いで、全身がぴったりと密着した。 「っ……悠葉」 「紫苑……もうちょっと、このままでいてほしい」 「うん……俺もそうしたいけど、でもっ……でも……!」  ぎゅう、とひときわ強く抱きしめられたかと思うと、紫苑はふたたび身体を離して上半身を起こし、悠葉の上に四つ這いになった。  紫苑の頬は、さっきよりもいっそう赤く、唇は熟れた果実のようだ。はぁ、はぁ……とやや苦しげな呼吸で、胸がわかりやすく上下している。 「こ……これ以上してたら、多分、俺、ダメだから」 「ダメって? なんで?」 「こっ、こんなことしてたら、俺……悠葉のこと襲っちゃうかもしれないし」 「へ」  また思いもよらぬ言葉が紫苑の口から飛び出すので、悠葉は目を丸くした。 「お、そう……?」 「ごめん……気持ち悪くて」 「い、いやいや! 気持ち悪いとかないし!」 「……好きなんだ、悠葉のこと。だけど、いやらしい目で見てるとかそんなんじゃなくて……いや、多分見てるんだろうけど、けどっ、もっと純粋な気持ちで悠葉に触りたくて、俺……」  ぎゅ、と紫苑がかたく目を瞑る。その表情は苦しげだが、悠葉はとても嬉しかった。  自分と触れるだけのキスをしただけでこんなにも昂り、その先を求めてもらえているのだと分かって、心臓を鷲掴みにされてしまいそうなほどにときめいた。 「気持ち悪くなんてないて! 俺だって、もっと紫苑に触りたかったし……え、エロいことだって、してみたい」 「え……エロい……こと」 「お前の言う『好き』は、俺とは違うんかなて思ってたから不安やってん。……せやし、嬉しい」 「悠葉……」  苦しげに細められていた紫苑の瞳が見開かれ、キラキラと光を宿してゆく。  その嬉しそうな表情を目の当たりにして、ああ自分たちの気持ちは全く同じなのだと感じることができ、身体の隅々までぬくもるような多幸感が込み上げてくる。  このまま抱かれたっていい。紫苑のしたいようにしてほしい。  もっといろんなところにキスをしてほしい。  誰にも見せたことがないところにだって、紫苑になら……。  だが、紫苑はまたぎゅっと目を硬くつむったあと、すいと悠葉から離れた。  これからめくるめく初めての体験が始まってしまうのかもしれない——と期待した矢先だったものだから、拍子抜けしてしまう。 「で、でも、今日はもう、これ以上はしない……! 多分、めちゃくちゃがっついちゃいそうだから……」 「……ええよ? がっついても」 「うぅ〜〜〜……だから! そういうこと言っちゃダメだって! 俺、悠葉のこと大事にしたいんだ。……だから……今日はこれ以上はしない」 「紫苑……」  少し……いや、かなり残念な気持ちはあるけれど、紫苑らしいなと思う。  悠葉は表情を綻ばせて起き上がると、ベッドにあぐらをかいている紫苑の頬に、チュッと軽いキスをした。 「っ……またそういうこと……」 「いいやん、これくらい。また何か月か会えへんわけやしさ」 「うん……」 「次会うたときは、これ以上のこと、もうちょいしよな……?」 「っ……うう。ほんとやめてそういうこと言うの」  悠葉の言葉ひとつひとつに照れて、頬を赤く染め上げる紫苑が可愛い。  悠葉が軽やかに笑うと、紫苑も眉を下げて苦笑しつつ、もう一度悠葉を抱きしめてくれた。  紫苑の体温とシャツの匂いに包まれながら、悠葉はそっと目を閉じる。  これまでよりもずっと、紫苑の存在を親しく感じる。ひとりではないのだという安堵感が、悠葉の心を強くする。  紫苑の鼓動に耳を傾ける悠葉の口元には、和らいだ微笑みが浮かんでいた。 『番外編ーchildren‘s storyー 〈悠葉目線〉』      終

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