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 その夜。  ようやくひとりになり、悠葉は天蓋つきの巨大なベッドにぼふんと倒れ込んだ。  今回は両親不在だというのに、結糸は悠葉をしっかりともてなしてくれた。しかも食事の最後のほうは、仕事を終えて帰宅した葵と蓮まで顔を出してくれたのだった。  一気に緊張感が増したが、正巳直伝の礼儀作法をフル活用してきちんと挨拶をし、なんとかその場は乗り切った。 「赤ん坊の頃から知ってるんだ。そんなに緊張しなくても良いのに」と葵は言ってくれたけれど、そんなことはできやしない。  この歳になってようやく、国城家の持つ権力のようなものが、うっすらわかるようになってきたからだ。  お金持ちだということは何となく察してはいたけれど、そんな生易しい言葉で片付けられるほど簡単なものではないということも。  世界各国の企業が国城財閥と繋がりを持っていること。葵や蓮は経済界の中心にいて、ゆくゆくはその立場を紫苑や双子たちが引き継いでいかねばならないことも。  国城家の人々とは本物の親戚以上に親しく付き合ってきたけれど、これから先もずっとこのまま、幼い頃と同じ感覚でいてはいけないのではないか……と、小難しいことを考えてしまう。  この、個人が住むにあまりに広大すぎる敷地の広さにも改めて驚かされる。  今、悠葉が過ごしている場所は、国城邸の薔薇の庭のさらに奥にある離れだ。  悠葉たちが生まれる以前から須能家は国城家と繋がりがあり、しばしば屋敷に留まることもあったらしい。正巳ひとりであれば屋敷の客間で寝泊まりをさせてもらうことができていたようだが、今や須能家も四人家族。  そこで葵は、庭園の奥まった場所にある広場に二階建ての離れを建て、そこを客人用の部屋として使うことにしたというわけである。  幼い頃は庭のあちこちを探検して回るのが楽しみだった。ここも離れが建つ前は、小さな物置とだだっ広い草原があるだけの場所だった。  さほど手入れされていない原っぱだったからこそ、小さな花をつける野草や大きなバッタ、またはカマキリなどの虫がたくさんいて、遊びには事欠かなかった。  紫苑とも土まみれになってたくさん遊んだ。あの頃は、家柄だの第二性だの小難しいことを何も考える必要もなく、ただ楽しくて……。  たくさんの幼い思い出が、ここにはある。  ふと、今日はここで一人きりなのかと思うと、急にすごく寂しくなった。 「あー……またゆっくり紫苑と話できひんかったなぁ」  ここ数ヶ月、以前よりも紫苑に会えない日々を寂しく感じるようになっている。  だけど、会える日を指折り数えて待ち侘びているというのに、いざ実物の紫苑を前にすると、照れ臭いやら恥ずかしいやら緊張する。結局、想いをうまく伝えることもできなくて、もどかしさは募るばかりだ。  それに、紫苑に会うのは決まってここ、国城邸だ。当然のごとくそこには紫苑の家族もいて、二人きりでのんびり過ごす時間などほとんどない。  ——紫苑も俺といたいって言ってくれたけど、こんなんじゃあいつもつまらんよな……。会えへんし、ろくに話もできひんし。それ以上のことも……  はじめて「好き」と言い合った日、紫苑は悠葉のこめかみにキスをしてくれた。流れるように自然な仕草だったため、紫苑は見た目に反して手の早いタイプなのか……? と勘ぐったこともあった。  けれど、それ以降はものすごく紳士で、悠葉に指一本触れてこない。(手を握られたことくらいはあるが)  ——俺への『好き』は、あいつにとってそういう関係とちゃうんかな……。……なんなんやろ、俺が勝手に盛り上がってるだけなんか?  これもここ最近、悠葉をもやつかせる要因のひとつではある。だが、こんなことを面と向かってどう訊ねれば良いのかもわからない。  ——ある日突然『悠葉、紹介するよ。俺の番だ』とかって、めちゃくちゃ高貴で美人なオメガを紹介されたらどうしよう……  国城財閥の御曹司なのに、少し気弱で、優しい紫苑。幼い頃から自然と仲良くなった幼馴染だ。  学校では言えないような悩みも、紫苑はたくさん悠葉に話して聞かせてくれた。心を開いてくれていた。  紫苑のことを、誰よりも近く、大切に思うようになったのはいつからだろう。もう思い出せないくらい昔から、自然に紫苑と心を通わせてきた。  次第に大人びて、カッコ良くなっていく紫苑は、確実に国城家の名に恥じない成長を遂げつつある。  そんな彼を前にしていると、第二性さえもわからないまま燻っている自分が情けなくなる。だけど同時に、まばゆいほどの魅力を備えてゆく紫苑から目が離せなくなり、その光に胸を高鳴らせてしまう自分もいる。  戸惑いながらも、惹かれている。  ——この先……どうなっていくんやろ、俺ら……  紫苑が悠葉に手を出してこないのはなぜなのだろう……と、考えてハッとする。いつの間にか、紫苑に何かしてもらう前提になっていることに気づいたのだ。  紫苑は優しく、遠慮がちな性格だ。何かしたくてもできないだけなのかもしれない。それならば、悠葉から紫苑に仕掛けてゆけばいいのか……? 「あああああ〜〜〜! もうっわからん! すっきりせーへんことばっかりやな……」  と、ベッドの上でじたばたしていると、微かな物音が悠葉の鼓膜を震わせた。  よく耳をすませてみると、コンコン、と密やかに出窓のガラスがノックされている。悠葉は飛び上がった。 「……紫苑!?」  まだカーテンを引いていなかったため、窓の向こうに佇んでいる紫苑の姿が見えた。悠葉は勢いよくベッドから飛び降りると、窓に駆け寄り開け放つ。  ややバツが悪そうな表情で、紫苑はにっこり微笑んだ。そして後ろ手に出窓を閉めて深緑色のドレープカーテンを引き、視線を彷徨わせつつうなじを掻いた。 「ご、ごめん……こんな時間にいきなり来て。寝るとこだった?」 「い、いや……全然。どしたん」 「父さんも母さんも、悠葉が来ると張り切って話したがるだろ。全然、悠葉とゆっくり話せなかったから……」 「あ……あー……うん、歓迎してもらえんのはめっちゃ嬉しいけど、確かに今日は全然話せてへんな」 「だろ?」  紫苑は苦笑し、ちょっと物珍しそうに離れの客間の中を見回した。ここは一階にある最も広い部屋で、洗面所もバスルームも備えてある。  高級ホテルさながらの高級な調度品や落ち着いたインテリアなど、さすが国城家と言わざるを得ない。 「わー、広っ。俺、この部屋初めて入った」 「普段はうちの父さんと母さんの部屋になるもんな、ここ。今日は俺が独り占めや」 「そっか」  まぶしそうに笑う紫苑を目の前にしていると、急にばくばくばくと心拍数が上がってきた。ついさっき、手を出すだの出さないだのという不埒なことを考えていたため、なんだか妙に後ろめたい。  ——どないしよ……。こっちから手ぇ出したろとか思ったけど、何をどうしたらいいんかわからへん……  と、またしても行動を起こせずにいると、肩の上にあたたかな手が置かれた。思わずビクッと過度に反応してしまったが、紫苑はそのまま少し身を屈めて、悠葉の瞳を覗き込んでくる。 「悠葉、何かあった?」 「えっ……? な、なにが?」 「なんか、元気がないように見えて」 「……」  心配そうな紫苑の瞳はどこまでも深く澄んでいて、悠葉を案ずる気持ちが溢れているように見えた。  あれこれ考えすぎてくたびれていた心から、途端に力が抜けてゆく。悠葉はそっと肩に置かれた紫苑の手に触れて、俯いた。 「……俺、今もどっちかわからへんて言われた」 「綾世先生?」 「うん。強いストレスのせいちゃうかって、先生は言ってはって……」 「ストレス、か。……それってやっぱり、須能様と香純のこと?」 「……」  紫苑が昔から悠葉に弱音を吐いていたように、悠葉も時折、紫苑に家族の話を聞いてもらうことがあった。  幼い頃は、ただ単に「おどりがむずかしい」「けいこがめんどくさい」「香純ばっかり上手(うま)なって悔しい」……といった程度の愚痴だった。 「香純、昔から生意気やったけど、十歳こえたあたりから何や急に大人っぽくなったやん?」 「そうだなぁ……。確かに頭もいいし気も強いから、俺も口で勝てる気がしない」 「紫苑のことは一目置いてるみたいやから、口喧嘩ふっかけるってことはないやろけど。……アルファってわかったあたりから顔つきとかにも自信ていうか……プライド? みたいなもんが滲み出てるちゅーか……そのへんから、母さんとの喧嘩がひどくなってて」 「……そうなの?」  香純の顔立ちは、正巳の師匠である先代家元・須能華州に瓜二つだ。  そのせいなのかはわからないが、稽古の最中、時折香純に対する正巳の態度が極端に厳しいことがある。  正巳と曾祖母の関係が穏やかなものではなかったらしいということは、父・虎太郎からちらりと聞いたことがある。 「昔はかなり怖い目にも遭ってたからな、正巳は」と話す虎太郎の瞳に怒りが見え隠れしていたことを、悠葉はよく覚えている。  古くから須能派を支えてきた古株の弟子たちからもそういう話を聞いてしまったことがあり、悠葉は余計にオメガになるのが嫌になったものだった。おぞましいとさえ思ってしまった。  オメガであるというだけで、理不尽な目に遭う恐怖——曾祖母は、正巳をその危険から遠ざけるどころか、アルファに媚びろと躾けてきた。その頃から抱き続けてきた反感が、香純の前では再燃してしまうらしい。  あの頃とは時代が変わり、今は自身が家元の立場にあるというのに、その当時の怒りや恨みはいまだに正巳の中で消化されてはいないらしい。  とはいえ、正巳の厳しい口調やきつい態度に負ける香純ではない。妹は妹で相当気が強いほうだから、ときに聞いていてヒヤヒヤするほどの大げんかになることもある。  アルファと確定してからこっち、ふたりの喧嘩が加熱しているような気がして、悠葉も日々落ち着かない気分を抱えている。 「……そうだったんだ。香純、須能様のことも尊敬してたし、家族みんな仲良かったのに……つらいね」 「うん……」  負けん気の強い妹だが、それでも悠葉は香純のことを可愛く思っている。兄妹喧嘩で叱られても、それが兄の務めなのだろうと心のどこかで思っていた。  それに、喧嘩をしても、怒られても、いくら稽古がきつくても、家族で過ごす日常は楽しかった。  父親が日本舞踊とは関係のない仕事をしていることもありがたい。稽古場を出て気持ちを入れ替えてしまえば、あとはごく普通の家族でいることができたから——……  そっとベッドの端に座らせられ、となりに紫苑も腰を下ろす。あたたかな手で拳を握り込まれると、なんだか急に泣きたいような気持ちになってきた。  紫苑の手は、こんなにも大きかっただろうか。こんなにも、骨張った長い指をしていただろうか。 「……せやし、今日……ひとりでここに来られてホッとしてる。父さんがいるときはマシやけど、いいひんときに家で三人で過ごしてる時とかも、ずっとピリピリしててしんどいねん」 「そう……」 「香純の八つ当たりは俺に来るしな。慣れてるっちゃ慣れてるけど……『悠葉はオメガやったらええなぁ。さっさとアルファに噛んでもうたらオメガになれるんちゃうん?』……とかなんとか言ってくんねん。それだけはちょっと……キツくて」 「……そんなことを」  悠葉はアルファになりたいという願望があったけれど、香純はその逆だった。香純はオメガになりたかった。  彼女の願いは、須能派の家元になり、世界中の人々にこの国の伝統芸能を知ってもらいたいという壮大なものだ。  だが、須能派の家元は代々オメガが務めてきた。正巳をはじめ、須能家の老人たちは後継についてまだなにも明言はしていないものの、正巳が香純に家元を継がせようと考えているようには到底見えない。  以前から、妹より覚えの悪い悠葉に呆れつつも、熱心に稽古をつけていた正巳だ。しかし、香純がアルファとわかってからこっち、悠葉への情熱の注ぎ方が明らかに変わっている。  悠葉を次期家元に推したいといわんばかりに。 「悠葉を家元に……か。それってつまり、須能様は悠葉がオメガであってほしい、と思ってるのかな」 「たぶん、そうやと思う。……けど俺は……っ」  悠葉がオメガであったとしたら、確実に家元の後継として、須能流の中での扱いが変わるだろう。そうなると、妹はどうなってしまうのだろうか。  これまでずっと須能家の中心にいて、将来への希望を誰よりも力強く胸に抱き、幼いながらも須能流への貢献を一番に願ってきたのに。  正直、悠葉も香純が家元を継ぐものだと、むしろ継いでくれたらいいのにと思っていた。キラキラと力強く前進してゆくであろう妹を支える立場こそ、自分にふさわしいような気がしていたのだ。  よちよち歩きをしていた香純の、小さな手を引いていた頃のように——  ぽろぽろぽろ……と悠葉の白い頬を大粒の涙が伝う。突然の涙だった。  だが、紫苑は驚くそぶりを見せることもなく、ぎゅっと悠葉の肩を抱き寄せた。悠葉の拳を包み込む指に力がこもる。 「……もう……わからへん……。俺がアルファになったら、きっと、母さんはもっとがっかりする。……けど、けどっ……オメガになったら……っ、香純はきっと、俺のこと嫌いになる。……憎まれる、かも」 「そんなことないよ。今はまだ香純も須能様も混乱してらっしゃるだけかもしれないし」 「っ……うん、でも、このままずっといがみ合うようになったらどないしよって、不安で不安でたまらへん……」 「悠葉……」  さらに強く抱き寄せられ、あたたかなぬくもりに気が緩む。悠葉は紫苑の首元に額を埋め、嗚咽を漏らした。 「それに……、おまえとのことも、おれ、どうしたらいいかわからへん……っ」 「えっ?」  アルファ同士でも一緒にいればいいと言ってくれたけれど、もし万が一、紫苑に『運命の番』が現れたら? 『運命の番』に出会う確率なんてほとんどゼロに近いことは知っているけれど、蓮と御門の恋物語が身近にあるため、心から安心することは到底できない。  それならばオメガであればいい……と、頭では思う。だが、いつの間にか植え付けられてしまった心理的な抵抗感は、いまも拭えないままだ。  綾世の言う『強いストレス』の正体くらい、悠葉にはとっくにわかっている。  どっちにもなりたくないという強い感情が、悠葉の第二性発現を阻害しているのだと。

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