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〈1〉
「次代、須能流二十七代目家元は須能悠葉とする」
東京での大舞台のあと、広間にすべての弟子たちが集められた。
ひとしごと終えた後だ。家元からの労いの言葉があるのだろうと軽い気持ちで集められた弟子たちの頭上に、須能の冴えた声が厳かに響く。
数秒、水を打ったようにしんと静まり返った広間の中、小さな拍手が湧き起こる。そしてそれが次第に音を増してゆく中、悠葉は音もなく立ち上がり、上座に座す須能正巳の向かいへと進み出た。
そしてぴたりと指を揃えて、深々と首を垂れる。
「拝命いたします」
先んじて須能から話を聞いていたものの、いざ、総勢五十名あまりの弟子たちの前でその事実を突きつけられると、緊張のあまり指先が小さく震えた。だが、強張った表情を誰にも悟られたくはない。
演じなければ。
須能流次期家元として選ばれたことを、栄誉と感じていると見えるように。
そしてそれを、皆の前で堂々と宣言してもらえたことを喜び、誇らしく感じている表情を、つくらなくては——……。
須能の隣へ移動し、今度は弟子たちのほうへ深々と頭を下げた。
十八歳になった悠葉の姿を見つめる兄弟子、弟弟子たちの眼差しは、幸いにも好意的だ。眩しいものを仰ぎ見るような表情を浮かべているものもいる。
だが、そんな中、ひとりだけ悠葉に刺すような視線を送る者がいた。
須能 香純 。今年で十四になる、悠葉の妹だ。
喜びの口上を述べる悠葉を、終始冷ややかな目つきで睨みつけている。
無理もない、と思う。
向上心が強く意識の高い香純は、須能流を今以上に盛り上げたいと願っている。
今のままでは届く人にしか届かない。もっと露出を増やし、新しいことにも果敢に挑み、より多くの人に須能流の踊りを見てもらいたい——……そう熱弁を振るう香純はまだ十四歳と年若いけれど、すでにカリスマ性の片鱗を備えているように悠葉は思う。
香純はアルファだ。
十四歳にしてはすでにすらりと背も高く、凛としていながらも、色香めいたものをすでに身に備え始めている。
そして香純自身も、自らの魅力を誰よりも理解していて、それを上手く使いこなすことができていた。
師匠である須能正巳が月明かりの下で艶やかに咲く月下美人だとしたら、香純は棘を隠し持ちながら堂々と花弁を広げる真っ赤な薔薇だ。
力強く華やかに舞う姿には華があり、香純の舞を気に入って支援を申し出てくる新参客も現れているくらいだ。
だが、香純のそういうやり方を、須能正巳は認めていない。
流派をどう動かしていくかという方針の違いで、香純はしばしば須能に喧嘩をふっかけては衝突してきた。
『家元を継ぐのは悠葉や』
大きな理想を持って家元を継ぎたがる香純に、須能はとうとうはっきりとそう言い切った。
夕食後の自宅のリビングで、悠葉は虎太郎と格闘ゲームの最中だった。
日常に突如持ち込まれた大きな決定事項に、悠葉の全身は硬直した。画面の中で戦っていたキャラクターも動きを止め、ハイテンションな音楽だけが虚しく部屋に響いていた。
そして香純も、呆然として正巳を見上げていた。
そこからは、いつもの香純の大癇癪がはじまってしまった。
「なんで悠葉なん!? あたしがアルファやから? いっつも悠葉ばっかりえこひいきして!」という、耳にタコができるほどに繰り返された香純の怒りの言葉たち。
それを毎回、須能は穏やかな——それでいて、断固たる口調で香純を諭してきた。
「アルファだからちゃう。悠葉をえこひいきしてるつもりもない。いつも言うてるけど、香純のそういう態度は家元として相応しくない」と。
「流派をもっと盛り立てたい、世界中の人々に日舞を知ってもらいたい……そういう強い想いは理解できる。そういう理想を抱くのはかまへんことや」
「……なら、なんで!? あたしがお家元になれば、もっともっと頑張るよ? 衰退していく文化やなんてもう誰にも言わさへんし、世界の舞台にだってもっとたくさん出ていくのに!!」
いつもはそこからああだこうだと言い合いが始まるが、後継者を悠葉だと言い切ったあとの須能は、香純にこんな問いを投げかけた。
「ほな、うちの流派の真髄とはなにか、わかるか? 僕らは、なんのために舞うてると思う?」
「え? な、なんのため……って」
静かな問いかけに、香純が詰まった。
香純にとっては初めての謎かけかもしれないが、悠葉は以前、須能から同じ問いを投げかけられたことがある。
答えを教えてもらったことは一度もないが、悠葉は折に触れ、その問いについていつも考えを巡らせていた。
踊りながら考えることが多い。
舞っているときだけ、悠葉は自由になれるからだ。
幼い頃から、「香純は上手い、悠葉のほうは覚えが悪い」と、他の弟子たちに影で言われていたことは知っていたけれど、踊っていると気持ちが良かった。昔はただ、舞うことが楽しかったから舞っていた。
何より須能の舞う姿は誰よりも美しく、悠葉はいつも見惚れていた。
雅楽に身を委ね、繊細に、表情豊かに身を翻す須能の姿に憧れた。
その気持ちは変わらない。
だが、今の自分にとっては、まぎれもなく踊りは現実逃避でしかない。ごちゃごちゃと煩わしいことを考えずに済むからだ。
須能の求める高尚なこたえになど辿り着けていない自分に、次代家元が務まるのか?
こんな自分に、須能はきっぱりと「悠葉に継がせる」と言い切った……。
深い沼に沈み込んでいくような不安が、悠葉の心を暗く翳らせている。
——これが、ひと月ほど前の出来事だった。
あれ以来、香純は悠葉とまったく口をきいていない。
それに悠葉にも、香純を宥める余裕などいっさいなかった。
関東公演の舞台が近いのだ。
稽古のときだけは必要最低限の会話を交わしていたけれど、香純が須能や悠葉に対してとてつもない怒りを燻らせていることは、瞳を見ればすぐにわかる。
だが、こうして皆の前で、とうとう次期家元の指名を受けた。もう後戻りすることはできない。
悠葉は垂れていた頭をゆっくりと上げ、隣に座る須能と視線を交わす。
年を重ねるごとに妖艶さを増す美しい相貌に、冷え冷えするほどの凄みを湛えた須能の姿が、威圧的なまでに大きく映った。
母であり、師である須能正巳は、平安時代より受け継がれてきた古典芸能を守り継ぐ、須能流二十六代目家元である。
須能流においてもっとも優れた舞手としても名高く、国内外の観客を数多魅了してきた名手。
親でありながら、抗いようのない畏敬の念すら抱かずにはいられない師だ。
「どうして俺なの?」と尋ねたかったけれど、自分を見つめる須能の眼差しを前にして、何も言えなくなってしまった。
須能は、遥か遠くを見通すような目つきをしていた。
その瞳を前にして、悠葉は疑問を呈することができなかった。
+
「やっぱりあたしの顔のせいなんかな〜」
弟子たちの祝いの言葉を笑顔で受け取ることにぐったりと疲弊した悠葉が稽古場の寝室に戻ってくると、背後から香純の声がかかった。
まともに話しかけられることが久しぶりすぎて反応が遅れ、ゆるゆると振り返った悠葉に向かって、香純はなぜか艶然とした微笑みを浮かべて近づいてきた。
「は? 顔って?」
「有栖川さんから聞いてんけどさ、お母さん、先代家元からけっこうひどい扱い受けてきたらしいやん? んで、あたしの顔、先代にそっくりやろ?」
「……そうか?」
京都にある稽古場の壁にずらりと並んだ代々家元の顔写真を、悠葉は思い出していた。
確かに、香純は似ている。
二十五代目家元、須能華州の顔立ちと香純のそれは、瓜二つなのだ。
「あたしの顔見とったら、やっぱ辛い過去とか思い出してまうんかなぁ。……いうて、それ、あたしのせいちゃうけどさ」
「関係ないやろ。お前がしつこく母さんのやり方に反対して突っかかるから、あっちもイラついてんちゃうん?」
「だって、流派を大きくしたいと思うんは普通のことちゃうん? 悠葉はそう思わへん?」
「俺はそこまでする必要ないと思ってる。むしろ、外からようわかってへんやつに入ってこられて、俺らが大事にしてきたもんをぐちゃぐちゃにされそうで、いやや」
悠葉の言葉を聞き、香純がぐっと眉をひそめた。
そしてゆっくりと悠葉に近づき、ジロリとしたから睨め上げてくる。
こうして並んでみると、香純はずいぶん背が伸びた。ついこの間まで腰のあたりに頭があったような気がするのに、今や悠葉の顎の下あたりに頭がある。
「保守的すぎひん? ていうか、俺らが大事にしてきたもんて、なに?」
「……うまく言えへんけど、あるやん。精神? みたいな」
「なんやねん、悠葉もはっきり言えへんねやんか」
「そら、言葉にするんは難しいわ。でも……お前がやろうとしてることって、単に有名になって金儲けしたいだけ、みたいに捉えられかねへんぞ」
「は? それは違、」
「わかってる、もっと大勢の人に見てもらいたいって純粋な気持ちはわかんねん。けどな、お前は外にばっかり目がいってる。がきやった頃より、今のほうが流派のことわかってへん気がする。もうちょっと落ち着いて、きちんと母さんと腹割って話したほうがええ」
「……なんやそれ。悠葉のくせに偉そうに」
いっそう香純の表情が険しくなる。こめかみに微かに青筋を浮かべながら、綺麗に整えた爪で、とんとんと悠葉の胸元を突きながら、香純は憎々しげにこう言った。
「長男やから自動的にお家元になれて、男やから母さんたちに甘やかされて、ほんっまあんたってズルいわ」
「はぁ?」
「ちっちゃい頃からあんたばっかりえこひいきされて、あたしばっかり厳しくされて……ほんっまなんやねんこの違い」
「お前が口答えばっかするからやろ。もうガキちゃうんやし、もうちょい言葉選んでしゃべれよ。そんなやから周りの空気悪くすんねん」
「あぁもう……うるさい、うるさいねん!!」
どん、と拳を胸に叩きつけられて、一瞬息が止まりそうになる。
だが、兄のプライドがある。怯んだ様子は見せたくなくて、悠葉は両足を踏ん張って香純を睨みつけた。
「痛いなぁ、何す……」
「あたしはアルファやで!? 十八にもなってどっちにもなれてへんくせに、偉そうなこと言わんといてよ!!」
「……っ」
思わず息を呑んだ悠葉を、香純はなおもきつい視線で見据えながら、唇にだけ笑みを浮かべた。
そして、指先で悠葉の首に巻きついたネックガードを思わせぶりにつつく。
「オメガでもないくせに。ネックガードなんて必要ないやろ」
「これは……っ、俺かて嫌やけど、綾世先生がつけとけってうるさいから……!」
「はいはい、せやな。どんな拍子に何が起こるかわからへんにゃもんね」
「……。うざいねん、触んな」
綾世から、”念の為”という理由で着けるよう言われていたネックガードだ。
悠葉は現状、第二性が未判定で、ノンセクシュアルというカテゴリーに入っている。
とはいえ、アルファやオメガの集う場所に行くときは必ず装着せよと言われている。アルファ用、オメガ用、両方の抑制剤さえも常に持ち歩かされている。
本当なら、ネックガードは学校でも必ず装着しておくべしと言われていたのだが、目立つのが嫌で高校にはほとんどつけていかなかった。いつかそれが綾世にバレてしまい、須能もろとも叱られた。
ごく普通のベータが通う学校だ。紫苑たちが通うような名門校ではないのだから、別にいいじゃないか——と悠葉は言い訳をしたけれど、綾世は渋い顔で『君は極めて不安定な状態なんです。どこで何が起こるかわからないんです。予防はしておくに越したことはありません』と、釘を刺してきたのだった。
そこからは、常に装着しているネックガードだ。稽古のたびに外すのも面倒でつけっぱなしにしているけれど、悠葉は、このネックガードが疎ましくて仕方がなかった。
自分をオメガと偽っているようで、恥ずかしくてたまらない。
悠葉のそういう気持ちを知ってか知らずか、アルファの香純は喧嘩のたびに悠葉のネックガードについていじってくるのだ。
香純は、きつく自分を睨みつける悠葉に涼しい笑みを見せながら、高らかに言い放った。
「どっちつかずのお家元の下につくなんて、あたしがはずかしいわ。二十歳の襲名披露の日くらいまでには、どっちかにはなっといてや」
そのままぷいと踵を返し、香純は暗い廊下の先に消えていく。
一人取り残された悠葉は、ただ拳を握りしめることしかできなかった。
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