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〈2〉

「香純なら、うちにいるから大丈夫よ」  そのまま丸一日連絡が取れなかった香純だが、居場所はわかっている。  国城邸だ。  東京で香純の行くところなど、ここしかないのだ。なのでひとまず身の危険はない。  香純を迎えにきた悠葉を出迎えたのは、国城 菊乃(きくの)。紫苑の妹である。  幼い頃は引っ込み思案で、悠葉が国城邸を訪れるときは、ほとんど遊びに交ざってくることはなかった。サッカーやかくれんぼ、虫取りなどの遊びには混ざりにくかったのだろう。  男勝りな香純は、幼い頃こそ兄たちの遊びに付き合うことはあったけれど、次第に菊乃とふたりで部屋にこもって遊ぶようになった。おっとりした菊乃と活発な香純が、いったい何をして遊んでいるのかはわからないが、性格が正反対だったからこそ、ふたりは仲良くなったのかもしれない。  その菊乃も、今はおっとりさよりも理知的な雰囲気が勝っている。  クールに微笑む静謐な佇まいは父親の葵そっくりで、たまにちょっと驚かされる。  そして菊乃も、十三歳のときにアルファだと判定が出た。  つまり国城家の子どもたちは、全員がアルファである。  紫苑の空色の瞳よりもやや夜に近いような藍色の瞳には、やはりとろめくような金色が揺れている。栗色がかったダークブロンドの長い髪はさらさらで、清楚に整った顔立ちも美しい少女だ。  学校から帰ってきたばかりらしく、制服姿を久しぶりに見た。  フォートワース学園中等部の濃紺色のブレザーを着崩すことなく身につけていて、膝丈のチェック柄スカートと紺色のハイソックスと清楚さ満点。  どことなくミステリアスな空気をも漂わせる美少女で、中等部にも高等部にも熱狂的なファンクラブが存在していると紫苑に聞いたことがある。 「また香純と喧嘩したの?」 「いや……うーん、喧嘩、ではないと思うけど。なんも聞いてへん?」 「私からはね。香純が話したくなったときは、ちゃんと聞いてあげようと思ってるけど」 「そ、そか……」  四つ年下とは思えないような返答に驚かされる。会うたび表情が大人びてゆく菊乃だが、双子の例に漏れず、面倒見のいい兄の紫苑に幼い頃はべったりだった。  そして紫苑も、やはり菊乃のことは誰より可愛いがっていた。足元にまとわりつく妹を邪険にすることもなく、優しく頭を撫で、「どうしたの?」と微笑みかけるのだ。  自分たちとは全く異なる兄妹関係のありように、いつも驚かされるばかりだった。  ふとした拍子に紫苑の笑顔を思い出してしまった。  しばし黙り込んでいた悠葉を、菊乃は気遣わしげに見上げている。 「悠ちゃん? どうしたの、大丈夫?」 「……あ、ああ、すまん。大丈夫」 「事情は聞いてないけど、しばらく京都には戻りたくないっていってるし、しばらくはうちに泊まるかも。お父様たちはそれでもいいって言ってるけど、須能さまはどうだろうね」 「まぁ……今回はしゃーないて言うんちゃうかな。菊乃には迷惑かけるけど、頼むわ」 「いいよ、任せといて」  菊乃はゆったりと目を細め、柔らかく微笑んだ。その笑い方は紫苑にそっくりで、ちくりとまた胸が痛んだ。 「悠ちゃん、また髪伸びたね」 「え? ああ……」  高校を卒業し、悠葉は本格的に日本舞踊の世界に足を踏み入れていくことになった。大学には進学せず、これからは巡業公演のための稽古に明け暮れる日々が待っている。  学びたいことがあるのなら大学へ進んでもいいと虎太郎には言われたけれど、目下踊り意外やりたいことがない悠葉は、その勧めを断った。そして高三の夏頃から、髪を伸ばし始めたのである。  普段は一つくくりにしたりハーフアップにしたりと邪魔にならないようまとめているが、今日は結い上げる気にもなれず、そのまま下ろしている。  肩の下あたりで揺れる黒髪を指先でつまみ、悠葉は少し肩をすくめた。 「くくってへんかったら、よう女に間違われんねんな」 「悠ちゃんは須能さまに似て、すらっとしてるもんね」 「そか? どっから見ても男やろて思うねんけどなー」 「ふふ、でもすごく可愛いよ? 長い髪もよく似合ってる」  桜色の可憐にしならせ、菊乃がおっとりと微笑んだ。  さすがは紫苑の妹というべきか……言葉の選び方や話し方、さらには笑い方まで紫苑によく似ているので、油断するとキュンとさせられてしまう悠葉である。  かすかに頬を赤らめながら眉間に皺を寄せ、悠葉はため息をついた。 「……なるほど、双子とは比べ物にならんくらいモテるわけや」 「ま、嶺と翼はお子様だからね〜。悠ちゃんは、紫苑を選んで正解だったと思うよ」 「んなっ」  菊乃には紫苑との関係について知られていないと思ってギョッとしたが——……双子と一つ屋根の下に住んでいるのだから、知っていて当然かと思い直す。  ひらっと手を振り、軽い歩調で日当たりのいい廊下を歩いていく菊乃の背中を見送って、悠葉はそのまま庭に出ることにした。     +  春のうららかな陽気を浴びて青々と輝く芝生を歩くうち、遠くに白い屋根の東屋が見えてくる。  そこにいたのは、国城 (れい)(たすく)。国城蓮の息子である双子たちだ。 「香純を迎えにきたのかい?」 と、さらさらのブロンドを風にそよがせながら、嶺がそう尋ねてきた。悠葉はデニムの尻ポケットに手を突っ込み、無言で頷く。 「まだ連れて帰れないだろ。わんわん大泣きしてたって勢田さんが言ってたから、まあまあ荒れてるんじゃない? いったいどんな喧嘩したわけ?」 と、翼は翡翠色の瞳に好奇心を滲ませながら、腰をずらして悠葉の席を空けた。  癖のあるブロンドヘアをさっぱりと短く整えているのが翼、サラサラの髪の毛を少し長めに伸ばしているほうが嶺である。  国城邸の広大な芝生の庭に作られた大きな東屋で勉強をするのが、双子の日課だ。  十五歳になった双子たちは、十八歳の悠葉の身長をとっくに追い越している。  悠葉がいまだ170センチ台に乗りあぐねているうちに、あっという間に175センチ近くまで身長を伸ばしている双子だ。  小さな顔、長い手脚というモデル顔負けのスタイルの良さと、蓮そっくりの美貌を受け継いだ双子はどちらもアルファ。  フォートワース学園高等部に進学し、二人揃ってなんなくトップクラスの成績を収めている。  紫苑が陰ながら努力を重ねていたことを、悠葉はよく知っている。だからこそ、この常人離れした双子たちのハイスペックさには感嘆するしかない。  学校でもモテてモテて仕方がないのだろうと悠葉は想像していたのだが……家柄も能力も完璧すぎるせいか、それともこのふたりの人柄に問題があるせいか、まったく恋愛的なアプローチを受けることがないのだという。バレンタインのチョコレートも、もらったことがないらしい。(使用人たちが哀れんで恵んでくれることはあるようだが) 「……なるほどね、後継問題か」  悠葉が事情を話して聞かせると、嶺はサラサラのブロンドヘアを耳にかけながら脚を組んだ。学校から戻ったばかりらしく、ふたりとも制服姿だ。  嫌味なほど長い脚はグリーンベースのチェック柄のズボンに包まれ、白いシャツを軽く腕まくりして、ゆるくネクタイを結えた姿は憎たらしいほど絵になっている。 「僕ら、どっちが後継者に指名されるのか賭けてたんだけど……やっぱり悠葉だったね」 「はあ? ……おい、ひとんちの問題を賭けのダシにすんなや」 「ごめん、ごめんって。紫苑には言わないで?」  嶺は悠葉に向かって合掌し、眉根を下げたあざとい顔で平謝りだ。小さい頃からよくやる嶺の常套手段である。 「わかってるて、言わへんわ」 「ったく、大事な時に恋人のそばにいないなんてなー。紫苑のやつ、ほんっと間が悪いんだから」 と、翼が芝生でサッカーボールを蹴り上げながらぼやいている。  仕方がないこととはいえ、悠葉もその意見には同意である。  紫苑が進学したのは、イギリスの由緒ある大学だ。  日本の大学に比べ休暇も多いのだが、一年生のころはさすがに大学生活に不慣れなこともあって忙しく、クリスマス休暇にしか帰国してこなかった。  今年の夏休みこそは、きっちりまるまる帰国したいと言っていたけれど、どうなるだろう。向こうでの付き合いもあるだろうから、ひょっとしたらなかなか帰ってこないかもしれない。  それに……。  ——向こうでめっちゃ積極的なオメガにつかまってしもたり、うっかり番になったりしてへんやろな……。  紫苑のことを信じているけれど、あまりにも物理的な距離がありすぎて不安が尽きない。  一緒にいられる未来を想像させてくれるような言葉をくれたし、紫苑だって本気だと思っている。  だけど、紫苑はアルファだ。十八歳にもなって第二性が判明しない悠葉とは違う。  紫苑はもう十九歳だ。  家柄など言わずもがな、柔和な美形かつ紳士な紫苑を、オメガが放っておくわけがない。  それに紫苑は、オメガにあまり耐性がないはずだ。妖艶な大学生オメガのフェロモンに誘われて理性を失い、うっかりそのまま——……ということだって、なくはないかもしれない。  不安で不安で、仕方がない。  その上、このタイミングで後継者に指名されてしまった。  紫苑がそばにいてくれて、「大丈夫だ」と微笑みかけてくれたら、どんなに心強いだろう。どんなに、頑張ろうという気持ちが湧いてくることだろう。  ——……でも、甘え過ぎはあかんよな。これはうちの問題やし……。  ここは自力で踏ん張らねばならないところだと、わかってはいる。わかってはいるのだが、悠葉の心は鉛を飲んだように重たいままだ。  須能の澄ました横顔がふと、脳裡に浮かぶ。  香純があんな調子なのに、今朝の須能は、いつもと変わらぬ調子で弟子たちの稽古にあたっていた。この状況の中、冷静でいられる須能のことを、悠葉は初めて怖いと思った。  ただ、虎太郎は悠葉と同じくこの問題に心を痛めているようだ。 「正巳とは俺が話をしとくから、悠葉は香純の様子を見てきてくれないか」といって、ぽんと悠葉の頭を撫でた。  いつも快活で頼もしい父親の瞳にも、どことなく困惑の色が強い。「流派のことだけは、俺も口出しできないからな」と、珍しく少し口惜しそうだった。 「紫苑とは話したの? こんなことがあったって」 と、サッカーボールをリフティングしながら翼がそう尋ねてきた。  悠葉は首を振り、デニムに包まれた脚を抱え込む。 「いや……電話で話せるようなアレでもないし。紫苑も今、試験前で大変そうやし」 「はあー!? 試験と悠葉とどっちが大事なんだ!? って感じだな! 俺たちが連絡しようか!?」 「アホか、絶対すんなよそんなこと」 「だってだって、悠葉がこんなに大変なのに……!」 「紫苑にはじゅうぶん相談乗ってもらってきた。あいつも今頑張りどきやし、そっとしといてやりたいねん」 「悠葉……」  うる、と翼が目を潤ませる。  癖っ毛の強いブロンドと、嶺と比べて表情豊かな翼だ。父・御門陽仁にそっくりだなと悠葉は思った。 「愛だな……愛。はぁ……まったく悠葉ってば、健気なんだから」  ハァ……と憂いのあるため息をつきつき、嶺がサラサラの前髪をかき上げている。こういうナルシストっぽい仕草のせいでモテないのだろうなと悠葉は思った。 「本当だよなぁ。どうしてそんなに一途でいられるんだろうって感じ。悠葉、高校時代はめちゃくちゃモテてじゃん? よく目移りしなかったな……って、まぁ、紫苑以上にいい男がいるわけないけど」 「それはいえてる。紫苑、気が弱いけど黙ってたらわかんないし。奥手だけど、そこは紳士的と捉えれば美点だし」 「褒めるかけなすかどっちかにせぇよ」  といいつつ、双子が紫苑を大好きなことはよく知っているので、悠葉もつい笑ってしまった。  翼はふと真面目な顔になり、東屋の方へ戻ってくる。 「俺たちは心配してるんだよ。ふたりがすれ違ったりしてないかって」 「すれ違っては……ないやろ、別に」 「紫苑だって、悠葉が一番しんどいときに支えになれないのは歯がゆいと思うんだよね。もし強がってるなら、そういうのやめて、素直に甘えた方がいいような気がするんだけど」 「……」  翼と嶺に順番にそう言われ、悠葉は抱えた膝の上に顎を乗せてため息をついた。  本音を言えば、今すぐ紫苑の声が聞きたい。  たとえ事情を伝えきれなくても、紫苑の声を聞けば安心する。そうやって力を分けてもらえたら、家族の問題だってうまく乗り越えられそうな気がする。  そして、後継者に指名されてしまったという、とてつもないプレッシャーとも、戦えるような気がする。 「でも、今声聞いてしもたら、紫苑に会いたくてどうにもならんようになってしまいそうやねん。……そうなったとこで会える距離でもないし……」  紫苑の邪魔をしたくはない。だが、今この状況で彼に縋ってしまったら、際限なく紫苑に甘えたくなってしまう気がして怖かった。  抱きしめてほしいのに、会うことができない。声だけ、映像だけで紫苑と顔を合わせても、あのぬくもりを感じることはできない。  本当は会いたい。会いたくてたまらない。  けっきょく、大学受験や留学準備などで多忙を極めた紫苑とは、キス以上のことはできていない。  だが、抱きしめられたときのぬくもりや、紫苑がそばにいてくれるときの安心感はかけがえのないものだ。  すぐ触れられる距離にいて、優しく微笑んでくれた紫苑の姿を思い出すと、たまらなく心細くなってしまう。  こんなにも弱い自分が、二十七代目を継ぐことなどできるのだろうかと……さらに不安が募ってしまう。  だからこそ、今は紫苑に連絡できない。今は自力で、香純と須能の関係を少しでもいい方向に修復したい。 「……いうて、もう二ヶ月くらいで夏休みやし、帰国してきてくれるやろし……それまではひとりで頑張りたいねん」  悠葉は、膝に顔を埋めながら呻くように本音をこぼした。言葉にしてみると、あと二か月で紫苑に会えるのだという希望も胸の中に湧き上がってくる。  ——そうや、あと二か月。夏になれば、紫苑に会える。それまでは……。  ふと、悠葉は双子が嫌に静かなことに気づいた。  少し滲みかけていた涙をデニムに擦り付けて拭い、顔を上げた。  嶺は片手で目元を押さえて天を仰いでいるし、翼はサッカーボールをひしと抱きしめて俯いている。……いったい何をしているのだと、悠葉は生ぬるい目つきになった。 「くっ……尊い……なんて尊い関係なんだ……ッ……いつまでも見守っていたい……」 と、嶺は空を拝みつつはらはらと涙を流していて、 「幸せになってほしい……ッ、この苦難を乗り越えて、絶対に幸せを手にしてほしい……ッ!!」 と、翼は拳をぶるぶると震わせながら雄々しく咽び泣いている。  悠葉は苦笑し、立ち上がってふたりの頭を順番に撫でた。 「まぁ……その、応援してくれんのは嬉しいわ。ありがとな」 「そりゃもう応援するよ。あぁ、尊いなぁ……素晴らしいよ。僕らにはどうしてそういう相手がいないんだろう」 「マジそれな」  顔を見合わせて首を傾げる双子に、悠葉は思わず噴き出していた。  こんなふうに、小難しいことを考えずに過ごせる相手はありがたい。 「……で、お前らは俺と香純、どっちが家元になるって思ってたん? てか、何賭けたん?」 「賭けは不成立だ。僕らどっちも、予想は同じだったからね」 「へぇ? そうなん?」  双子は同じ表情で悠葉を見上げ、声を揃えてこう言った。 「「悠葉が継ぐと思ってたからね」」と。 「……え?」  てっきり香純を選んだのだろうと思っていたから、ふたりの答えは心底意外だった。  目を丸くする悠葉を見上げて、またふたりは同時に微笑む。 「誰の目から見ても歴然だろうさ。自分でもそう思ってたんじゃないの?」 「ああ、そうだな。日舞に詳しくない俺たちの目から見てもわかる」  さも当然と言いたげな笑みを浮かべながら、双子は顔を見合わせて頷いた。 「現に、お弟子さんたちは誰も文句言わなかったんだろ?」 「……いや、俺は……なんやかんやいうて香純のほうが向いてんちゃうかなて思ってたけど……」 「悠葉の舞は須能様そっくりだ。……いや、技術なんかはまだまだ足元にも及ばないほどなんだろうけど、よく似てる」 「そうかぁ?」 「そうだよ。なんていうか、表情かな。同じものが宿ってる……っていう感じがするんだ」  思いがけず鋭いことを言われたような気がして、虚をつかれてしまう。  悠葉が目を見張っていると、遠くから「おーい」と御門の声が聞こえてきた。  そろそろ夕暮れだ。夕飯の刻限だろう。 「父様だ。夕食には香純もくるかな。あいつ、食い意地も人一倍張ってるから出てくるかも」 「しかも今日は香純の好物だろ? 匂いにつられて出てくるかも」 「……あのなぁ、うちの妹をなんやと思ってんねん」  双子を嗜めながら、悠葉は暮れなずむ空を見上げた。  こういうやりとりはこれまで通りなのに、心が重く沈んで浮上しない。  決定的に何かが壊れてしまった感覚が、悠葉の胸を重くする。  昨日の今日で香純は悠葉を許すわけがないし、家族関係も、これまで通りというわけにはいかないだろう。  ——紫苑。……紫苑、会いたいなぁ。  会いたくてたまらない。今すぐに、抱きしめてほしい。  空に浮かんだ一番星を見上げていると、涙が溢れそうになる。  悠葉はそれをぐっとこらえて、小さく拳を握り締めた。

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