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〈4〉
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それから一週間ほどが経ち、香純はようやく京都の自宅に戻ってきた。
だが、あいかわらず家族と口をききたくないらしい。
ブスッとした表情のままさっさと自室にこもり、食事もひとりで取っているという状態だ。
こんな態度で家元に選ばれるわけがないだろうと呆れながらも、一応は帰ってきたので、悠葉はひとまず安堵していた。
「なぁ、あれ。ほっといて大丈夫なん?」
ある日の稽古の合間、悠葉は須能にそう尋ねた。
稽古中は敬語で話すべしと言われているが、今は周りに誰もいないし、これは家族の問題でもある。
須能があまりにも香純を放置し過ぎているように見えるため、文句の一つでも言ってやろうと思っていたのだ。今は香純は学校へ行っているため、話を聞かれる心配もない。
須能はやや面食らった顔をしていたが、ふっと表情を和らげる。
そして、悠葉を誘って稽古場の縁側に腰掛け、汗を拭いながらこう言った。
「大丈夫。香純はあれで、自分でちゃんと考えられる子やからな」
「そうかぁ? 一週間も葵さまんとこに迷惑かけといて、帰ってきてもあの調子やで?」
「葵くんも結糸も、こっちの事情はようわかってくれてはる。悪いとは思うけど、そのへんは甘えさしてもろてんねん。菊乃もおるし」
「そりゃ、うちより断然居心地いいかもしれへんけど」
素直に思ったことを言うと、須能は「ははっ、聞き捨てならへんな」と笑った。
「香純はようわかってると思うねん。本気で流派を継ぐ覚悟なんて、自分にはないってこと」
「えっ……!? いやいや、ありまくりやん。ゴリッゴリにありまくりやろ」
「……あのなあ悠葉。外でそんな言葉遣いせんといてな」
「せーへんわ」
須能は肩をすくめ、よく澄んだ空を見上げた。
四十を過ぎても毛穴ひとつ見当たらない白い肌が、陽の光でほの白く光って見える。
「いうたら、香純がやりたいんはマネジメントや。弟子をとって踊りを教えて、後世に継いでいく……ってのとは全く違う」
「あー……なるほど」
「僕の弟子でおるより、有栖川の弟子になったほうがええんちゃうかと思うわ」
「……でも、あんなに上手く踊れるのに。俺より、ずっと華やかで、人目も引くし」
幼い頃から抱いていた小さなコンプレックスが、ぽろりとこんなところで顔を出す。
しかも須能は無言だ。
いたたまれなくなった悠葉は、そのまま黙ってその場を去ろうとした。
「うちの流派は、上手くて華があればええってもんとちゃうねん。もっと深い部分で須能流の真髄を理解しているかどうか。そこが一番大事やねんで」
「……でも俺、そんなはっきりした答えなんてわかんらへんよ」
「言葉にできひんのやとしても、悠葉は小さい頃からそれを理解できてる。だから僕は」
ぽん、と頭の上に須能の手のひらが乗った。
びっくりして隣を見ると、いつの間にか目線がほぼ同じ高さになっていることに気付かされる。
「だから僕は、悠葉を後継者に指名した。それだけや」
「……そんなん言われても、わからへんわ。なんではっきり教えてくれへんねん」
「ま、考え続けることにも意味はある。ほら、稽古の続き、戻ろか」
「……」
須能は少しニヒルに微笑んで、すっと立ち上がった。
悠葉も首を傾げつつ立ち上がり、軽く袴の皺をはらった。
「ああ、そや」
稽古場に戻りかけていた須能が、ふと何かを思い出したように手を叩く。
「僕は今年、夏の園遊会に招ばれてんねん」
「ん? うん、知ってるけど」
「夜のパーティには悠葉も一緒に連れてくしな」
「はっ……!? お、俺も!?」
園遊会とは、皇族主催の社交会のことだ。
この国の中心人物が一同に会す盛大な宴席で、国を代表する文化継承者として、須能はこれまでに何度も招かれている。
そして園遊会開催日の夜には、招待者が縁者を伴って参加できるパーティが催される。格式高く、伝統的な社交場だ。そんな場所に、まだ十八歳の自分が顔を出すのかと思うと、一気に気が重くなってきた。
「襲名披露は二十歳を待ってから行う予定やけど、それまでに顔見せはしておきたいからな」
「顔見せかぁ。……それこそ、そういう場所には香純のほうが似会いやん」
「いずれは香純と悠葉がふたりで招ばれることになるわ。そのときの練習と思って、しっかり場に慣れておくことやな」
須能はそう言い置いて、先に稽古場に戻って行った。
——気ぃ重……。これから先は、ただ好きで踊ってるだけじゃあかんてことか……?
社交界にも顔を出さねばならないのかと思うと、一気にプレッシャーが激増だ。香純ならば喜んで参加していきそうなところだが、悠葉はそうそうそんな気持ちにはなれなかった。
そういう場に現れる人々は、いわばトップクラスのアルファたちだ。
まだ何でもない自分が、彼らと対等のような顔をしてそこにいてもいいのだろうか。
どちらでもないうちはいい。もし、ベータだったらどうなるのだろう。
須能は悠葉に継がせる気まんまんだが、ベータの家元などこれまでに存在したのだろうか?
香純にはあって、自分に足りない華やかさ。……それは第二性によるフェロモンの影響も大きいのではと、つい考えてしまうことがある。
ベータ性を否定するわけではないけれど、芸能の世界において、やはりアルファとオメガの人々はひときわ艶やかな空気を身に纏っているものだ。
だが自分にはそれがない。ベータ性という判定さえ出てこない悠葉の身体は、いったい何になろうとしているのだろう。
ふと、何年か前の診察のときのことを思い出す。
採血から戻った悠葉は、綾世が難しい顔で数値を見つめながら「ノンセクシュアル……という可能性もあるか。いや、でもまだわからないしなぁ……」と呟いているのを聞いてしまったのだ。
悠葉がそこにいることに気づいた綾世は、すぐに表情を緩めて普段通りの態度に戻った。その頃はまだ、悠葉も「そのうちわかるやろ」と気軽に構えていたから大事には捉えなかったが、十八になった今、”ノンセクシュアル”という言葉が心に重くのしかかってくる。
第二性がない——別に、そんなものはなくてもいい。
昔の自分なら、軽くそう言い切ることができたかもしれない。
だが今は……ただただ不安だ。何にもなれていない自分は、誰しもが持っているものが決定的に欠けている。
家元を継ぐ立場となり、紫苑との未来に不安ばかりを抱くようになった今、それが情けなくて、恥ずかしくてたまらないのだ。
「……はぁ……もう、どうせぇっちゅうねん」
前髪をくしゃりと掴んでかき上げながら、悠葉は苛立ち混じりのため息を漏らした。
くすんで鬱々とした悠葉の心とは裏腹に、春の空は鮮やかに青く広がっている。
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