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〈9〉

 目を覚ますと、真っ暗な部屋の中にいた。  夢現のなか、ぼんやりとした頭のままあたりを見回すと——……そこは、あのホテルの一室だった。 「……あれ……? 夢?」  紫苑に愛され、夢のような幸せの中にいたはずだった。  互いに想いを伝え合い、焦がれていた紫苑の愛撫に蕩けさせられ、うなじを噛んでもらったはずだったが……あれは、夢だったのだろうか。  そのとき、もぞりと隣で誰かが身じろぎする気配がした。  同時に、ふわ……と甘く芳しい芳香が、悠葉の鼻腔いっぱいを満たす。  これまでに嗅いだことのないような、いい香りだ。包まれていると心地が良くて、ふわふわと身体がゆるんで蕩けてしまいそうになるほどの、甘い芳香だった。  目を閉じて鼻を小さくひくつかせていると、「……あっ、悠葉!? 起きた!?」と紫苑の声が聞こえてきた。  ぱち、とベッドサイドのランプが灯り、眩しさに目を細める。  バスローブ姿で、心配そうに眉を寄せた紫苑が、悠葉の肩をしっかりと掴んだ。よく見ると、悠葉も同じバスローブ姿だ。 「え……紫苑……?」 「大丈夫? 悠葉、丸一日眠ってたんだ」 「眠って……?」 「あのあと悠葉、気を失っちゃって。だから綾世先生に来てもらった」 「綾世先生が……?」  綾世が何をしに来たというのだろう。未だクリアにならないままの頭でぼうっと紫苑を見つめ、悠葉は小首を傾げた。 「須能様もすごく心配してるけど、とりあえずうちに泊まってる。ひとまずこの部屋で様子をみようってことになったんだ」 「……そうなん? ……あかん、なんかめっちゃ頭、ぼーっとしてて……」 「大丈夫。綾世先生が言ってたけど、身体の急激な変化で、脳の処理が追いつくまで時間がかるらしい」 「急激な、身体の変化……?」 「そうだよ」  ふと、紫苑の表情が眩いほど明るく輝いた。  スタンドライトの灯りを受けて輝く空色の瞳が、金色にとろめいている。  こんなにも清々しい紫苑の笑顔を見たのはいつぶりだろう。  戸惑いつつも、紫苑が笑っていると幸せな気分になる。悠葉もつられて、わけもわからぬまま首を傾げた。 「どした、紫苑……」 「見て、これ」 「ん?」  すっと差し出されたスマートフォンの画面には、今や見慣れた血液検査の結果が表示されている。細かく整列した罫線の一番上の箇所に、毎回『判定不能』という文字が表示時されたそれを、何度も何度も、飽きるほど目にしてきた。 「……え……」  だがそこには、今回違う文字が表示されている。  くっきりと明確でいて、無機質なフォントで、『Ω』という文字が——……。 「は……? え? ……なん、これ」 「悠葉の血液検査の結果だよ!」 「え、だって、オメガって……うそやろ、だって俺……」 「嘘じゃない。悠葉の第二性はオメガだ。……オメガに、なったんだよ!」 「……は……」  これまで悠葉の心をがんじがらめにしていた重い鎖が、音を立てて砕け散った。  差し出された紫苑のスマホを震える手で受け取り、何度も何度も目を瞬きながらその文字を確かめる。 「……オメガ? 俺……」 「そうだよ! だから俺たち、番になれるんだ!」  紫苑に手を取られ、そのままぎゅっと抱きしめられる。その拍子に悠葉の手からスマートフォンがぽろりと落ちた。  今もまだ微かに震える手を持ち上げて、悠葉は紫苑の背に手を回した。そして、バスローブの背中を、強く、強く握りしめる。 「信じられへん……ほんまに? 俺、オメガになれたん……?」 「そうだよ」 「紫苑が……俺をオメガにしてくれたってこと……? すごい……すごいやん、紫苑」 「いや……うん、そういうことで、いいのかな」 「あはっ、それ以外なにがあんねん! ……あぁ、紫苑」  控えめでいて、照れくさそうな紫苑の物言いが可愛くて、おかしくて、悠葉は泣き笑いをしながら腕の力を強くした。  同じ力で抱き返してくれる紫苑のぬくもりを、これまで以上に近しく感じる。愛おしさがさらに募る。  ふと抱擁が解かれ、額に軽いキスが触れた。紫苑の優しい微笑みが目の前でほころぶのを見るや、悠葉の胸もいっぱいになってしまい——……そのまま飛びつくようにキスをして、その勢いのままベッドに紫苑を押し倒した。 「うわっ……悠葉、っ」  真上から紫苑の唇を啄み、下唇を軽く食む。紫苑の腹の上にまたがる格好で、何度も戯れのようなキスを繰り返し、間近で見つめ合いながら笑い合った。 「ここ噛んでくれたやつで、もう俺ら、番になれたんかな」 「いや、まだだ。あれは、悠葉の身体に変化を与えるきっかけになっただけらしいから」 「へぇ、そうなんや。ほな、もう一回噛んでもらわなあかんな」 「う、うん……そうだね」  紫苑の頬がぽっと赤く染まる。昨晩、あんなにも雄々しく悠葉に迫った勢いはどこへやらといった奥手な態度に、悠葉は思わず笑ってしまった。  もっとからかってやろうと身を起こしかけたそのとき、ドクン……! と心臓が大きく跳ねた。驚いて胸を押さえるていると、拍動に合わせて徐々に体が熱を帯びてゆくのがはっきりとわかった。 「悠葉?」 「……なんやろ、なんか……熱い。脈も変な感じするし……」  くて、と紫苑に覆い被さりながら脱力すると、下から腕が回ってしっかりと抱きしめられる。身体に何が起きているのかわからず不安だが、紫苑に抱かれていると安心できた。 「綾世先生が言ってた。ここ数日はヒートみたいな症状が出るかもって」 「ヒート? こ、これが、噂の……?」 「噂のって」 「オメガの人らがめっちゃ苦労してはるあれやろ?」 「そう、それ。しんどい?」 「いや……」  ——ヒートって……ことは、つまり……。  悠葉ももう18だ、そういう知識だけはある。  ヒート状態のオメガが、アルファをどういう状態にしてしまうかということも。その先に、どんな出来事が待ち構えているのかということも……。  ——昨日は途中までやったけど、今度こそ、抱いてもらえる……?  そんなことを思いついてしまうと、どきどきどき……とさらに胸が騒がしくなった。そのせいなのかなんなのかはわからないが、さっきから悠葉の鼻腔をふわふわとくすぐっていた甘い香りを、いっそう強く感じ始める。  鼻からするりと忍び込み、脳をやわらかくくすぐるような香りだ。悠葉は目を閉じ、紫苑の首筋に鼻を寄せた。 「さっきから、紫苑めっちゃええ匂いする……」 「そ、そうなの? ……ていうか、俺もなんか、そんな感じ」 「これがフェロモンてやつ……? 紫苑、こんなええ匂いプンプンさせてオメガもおる学校行ってたん?」 「させてないよ。俺、向こうじゃ定期的に抑制剤飲んでたし」 「……は? アルファやのに? なんで?」  なぜアルファなのに抑制剤を? 驚いた悠葉は肘を突っ張って上半身を起こし、紫苑の上になったまま顔を覗き込んだ。 「昨日も言ったけど、俺はフェロモン値が高いんだ。そういうアルファは、不用意にオメガのヒートを誘発することがあるらしくて」 「え!? そんなことあんの!? てか抑制剤なんて、いつから飲んでたん?」 「高校上がったタイミングで。初めは少しぼーっとしたり吐き気があったりしたけど、今は問題ないよ」 「高校って……そんな前から!? しかも体調悪なってるやん! なんでそんなこと……!」  理由を問おうとして、ハッとした。  紫苑も悠葉が察したのを理解したらしく、ちょっと気恥ずかしそうに苦笑している。 「俺のため……?」 「う、うん。悠葉以外の誰かと、どうこうなりたくなかったから」 「な……なんやそれ、そうやったん? だ、だったらなんでそれ、俺に言わへんねん!」 「いや、そこまでしてるの知られたら重いかな〜と思って」 「いや重いわ、重すぎるやろ! でも……めっちゃ重いけど……けど……!!」  悠葉は笑顔を弾けさせながら紫苑に抱きつく。悠葉が肩を震わせて笑っていると、紫苑は「笑いすぎだろ」と言いつつ破顔した。 「ありがとう、紫苑。俺のために、そこまでしてくれてたなんて……」 「これくらい、なんでもないよ」 「紫苑……」  紫苑はこともなげにそう言って、普段通りの優しい微笑みをくれた。  きっと紫苑は、悠葉の身体にずっと変化が生じなかったとしても、いつまでも抑制剤を飲み続けていただろう。ホルモン剤の長期服用がその身体にどんな弊害をもたらすかもわからないのに、悠葉のために……。  さらりとした栗色の髪に指を通し、そっと唇を重ねる。  紫苑の唇は気持ちが良く、いつまででもこうしていたくなってしまう。やがて舌と舌が濃密に重なり合い、濡れた水音と熱い吐息が部屋の中に響き始める。 「っ……ん……」  すっと持ち上がった手が、バスローブから剥き出しになった悠葉の太ももに触れた。紫苑の上に跨ったままの格好で無防備に開かれた脚を、さらりと撫でる。

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