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〈11〉

 そして、一週間後。  悠葉は病室で、紫苑の迎えを待っていた。  ヒートは三日ほどで収まったのだが、そのあとは精密検査などを受けるために綾世のもとで入院していたのだ。  紫苑は葵と結糸、そして蓮にこれまでの説明しなければならなかったし、悠葉は悠葉で、その後の体調の経過をチェックしてもらう必要があったのである。  そうして病室にいるあいだ、悠葉にはいろんな変化があった。  +  まずは須能が病室に駆けつけてきて、「ど、どういうことやねん!! なにどうなってそうなってん!?」と混乱をそのままぶつけられた。  綾世からおおまかな事情については聞いていたようだが、ノンセクシュアル状態だった悠葉が一晩でオメガに変化したということが信じられなかったのだろう。  事情を聞いて驚くやら感心するやら安堵するやらと情緒の忙しそうな須能を、綾世が代わりに宥めてくれた。  そして綾世は興味深そうに「いやはや……都市伝説かと思っていましたが、まさか本当にこんなことがあるんですねえ……国城家にはドラマがいっぱいだ」とうっとりしながら頷いていたものである。  須能もようやく、胸のつかえがとれたような表情をしていた。 「ノンセクシュアルならそれでもええと思ってたけど、悠葉自身も悩んでるみたいやったし、よかったな。紫苑と番えて」と、いつになく柔らかく微笑んで、悠葉をぎゅっと抱きしめるのだった。  そしてその日の夕方には、虎太郎とともに香純が病室にやってきた。 「体調どうだ? 平気か?」と、いつもと変わらぬ調子で顔を出した虎太郎の背後で、物言いたげな目つきで睨みつけてくる香純だ。  オメガになりたい、オメガになってお家元を継ぎたい——熱意を持ってそう望んでいた幼い頃の香純の顔を思い出し、ああとうとう自分は、香純にとって憎しむべき存在になってしまったのかと悠葉は思った。  だが、虎太郎に背中を押されて仏頂面で悠葉の前に進み出てきた香純はひとこと、「……デリカシーのないこといっぱい言ってごめん」と謝ってきた。 「……は? どないしてん急に」 「悠葉が悩んでんの知ってた。あたしだって心配やったけど、カーッとなったら、つい弱点突くようなこと、口が勝手に言うてまうねん」 「弱点……まぁ、確かに」 「……喧嘩のあと、いつも反省してた。……ごめん」  そう言って、香純はうるっと涙ぐみ、口をへの字にして虎太郎にしがみつく。そしてそのままぷいっと悠葉に背を向け、ぱたぱたと病室から出ていった。  いやに素直な態度に呆気に取られて虎太郎を見上げると、父は眉根を下げて肩をすくめ、ベッドに浅く腰掛けて微笑んだ。 「いじっぱりだからな、香純は。正巳に似て」 「うん……まぁ、せやな。けどどしたんやろ、急に謝ってくるなんて逆に怖いわ」 「ああ」  悠葉の問いに虎太郎は鷹揚な笑みを浮かべ、ベッドサイドに浅く腰掛けた。 「正巳と香純、ずっとギスギスしてただろ。もう見てられなくて、ふたりに腹割って話すように勧めたんだ」 「え、そうなん?」 「正巳は正巳で悩んでたからな。香純が先代の家元にそっくりで、しかも、こうと決めたら頑として譲らない性格も似てて、思い出したくないことを思い出してしまうってさ」 「ああ……それ、ほんとだったんだ」  香純自身、母であり師である須能から、親子の情意外のなにかを向けられていることを察していた。それはやはり、気のせいではなかったらしい。  須能は香純に対して、ようやく心のうちを吐き出せたようだ。  香純を可愛いと思う気持ちはもちろんある。向上心が強くて努力家なところも、同じ舞手として尊敬してる。……だが成長するにつれて、いずれ須能流を継ぐのは自分だといわんばかりの振る舞いを見せるようになってきたことは腹立たしかった。流派の意義も理解せずに、我流で突っ走っていく香純にブレーキをかけなければ、取り返しがつかなくなると悩んでいた——……と。 「だからこんなに早く、俺を後継者に指名したってこと?」 「そういうこと。それに、悠葉の将来のことも、正巳はずっと心配してた。だからつい、悠葉のほうに目がいきがちになるだろ? 香純はそれが、ずっと寂しくてたまらなかったらしいんだ」 「寂しい……」  強気な性格で、容姿も大人びて、すっかり大人の仲間入りをしているかのように見えた香純に、”寂しい”という言葉はひどく不似合いに思えた。  小さい頃からしっかりもので、頭が切れて、口喧嘩では悠葉を言い負かす妹だ。  だが、そういう強気な面の裏側にはきっと、もっと、幼く素直な感情が隠れていたに違いない。 「……寂しかったんか、あいつ」 「”自分のことを全然みてくれなかった”、”おかあさんは悠葉のことばっかり”、”踊りをがんばればもっと褒めてもらえると思ったのに、否定されてばっかり”、”なんであたしのことが嫌いなの!?”って、泣きながら正巳に食ってかかってた」 「うわ、まじか……」 「正巳も泣いてた。何度も何度も謝ってたよ。香純を抱きしめて、何度もごめんって。ふたりでしがみつき合って、わんわん泣いてた」  そして今、香純は幼児返りのような状態で、家にいるときは須能にべったりくっついているらしい。寝るときも一緒の布団に入り、正巳の腕にしがみついて眠っているという。 「想像できひんな……、香純がそんなんするなんて」 「バランスとって俺は香純を甘やかしていたつもりだったけど、本当にあいつが甘えたい相手は正巳だったんだよ。正巳のことが大好きだから、認められたい、褒められたい……小さい頃から、それを素直に言えなかったんだよな」  悠葉はぎゅっと、膝の上の布団を握りしめた。  自分の問題にばかり目が向いて、香純が抱えていた寂しさに気づいてやることができなかった。悠葉がごく自然と受け入れていた正巳からの関心も、干渉も、当たり前のものだと思っていた。  だが、それらを向けてもらえない香純が感じていたのは、深い疎外感だったのだ。 「……ほんっまいじっぱりにもほどがあるわ。寂しいなら寂しいて言えばええのに……あのアホは」  今までの強硬な態度は、孤独を表に出せないがゆえだったのかと思うと、香純がいじらしくてたまらない気持ちになった。悠葉が軽く鼻を啜っていると、ぽんと虎太郎の手のひらが頭の上に乗る。 「泣くなよ。お前が責任感じる必要はないからな」 「は? 泣いてへんし」 「それにな、香純もよくわかってたらしいぞ。流派を継ぐのは自分じゃなくて悠葉だって」 「そ、そうなん?」 「香純は小さい頃から、俺の前ではよく言ってたよ。正巳と悠葉の舞はよく似てる、でも自分のは違う。ただの踊りでしかない……って」 「えぇ? うそやん。いっつも俺のことヘタクソヘタクソってこきおろしとったくせに」 「羨ましさの裏返しだと思うぞ。小さい頃は、稽古のあと、しょっちゅう俺に泣きついてきてたし」 「えええ!? なんそれ、そうなん? なんで教えてくれへんかってん!」  悠葉はがばりと起き上がり、虎太郎に詰め寄った。  すると虎太郎は苦笑して、「娘からぜったい秘密にして! なんて言われたら、逆らえないよ」と言った。  悠葉は脱力して、ベッドにどさりと横たわる。  香純の言葉にあっさり翻弄され、劣等感を抱いていたことが急にバカらしく思えてきた。 「なんや……」 「”母さんと悠葉は、どこか同じ場所を見ながら舞うてる”って、言ってたな。”あたしにはわからへん、お客さん見てるほうが楽しいもん”とも言ってた」 「同じ場所……」 「俺も思うよ。正巳も悠葉も、舞ってるときの二人はどことなく別人みたいに感じるんだ。うまくいえないけど、踊りに身体を貸している、って感じかな」 「……」  虎太郎はそう言ってぽん、と悠葉の頭を撫で、立ち上がった。 「今日はゆっくり身体を休めろよ。おやすみ」 「ああ……うん、おやすみ」  虎太郎が出ていった扉の方をしばらく眺めたあと、カーテンの閉じられた窓のほうを見やる。  静止した白いレースカーテンを眺めながら、悠葉は思案の中に沈み込んだ。  須能流は、はるか昔に失われたとある神楽にルーツがある。  神へ捧げる舞から始まったものだと、正巳から聞いたことがあった。 『神を招き、神と人とが享楽を共にする。そして人は神の力を借り、豊穣を招いたり厄災を追い払ったりしてきたんやで』——……と、幼い頃におとぎ話として聞かされたことをふと思い出す。  虎太郎が言っていたことが、不意にすとんと腑に落ちてきた。  舞手は、身体を貸すだけ。大切なのは踊りそのもの。  かつて神に捧げた舞をもとに作り上げられた数々の踊りを、次世代に継いでいくこと。  自分という人間が前に出るのではなく、ここまで脈々と受け継がれてきた大きな流れを次世代へ継いでいくことが、舞手に求められていることなのかもしれない。 「それが須能流の真髄、ってやつ……か」  神への祈り、人への祈り。  それが、悠葉が受け継ぐものの正体なのかもしれない。  + 「へぇ、香純がそんなことを?」 「そうやねん。父さんもさぁ、娘にええ顔ばっかせんと俺にも話してくれたら良かったのにと思わへん?」  勢田の運転する黒塗りのリムジンの後部座席で、悠葉は紫苑にそう捲し立てていた。  いつになく早口になってしまうのは、照れていることを知られたくないからだ。  数日離れていただけなのに、今、目の前に紫苑がいるという現実があまりにも夢のように感じられて、さっきから顔が熱い。  すると紫苑はおっとりとと微笑んで、シートの上で悠葉の手をそっと握った。驚いて肩を揺らすも、悠葉の手を包み込む大きな手のぬくもりが心地よく、悠葉はいよいよ照れてしまう。  ぷい、と窓の外に目をやった悠葉の手を、紫苑は少し強く握りしめてきた。 「父さんも菊乃にはベタ甘だもん。娘はやっぱ可愛いんじゃない?」 「葵さまが菊乃に……? うそお」 「ほんとほんと。ちっちゃい頃なんか、もーすごかったよ。んで、俺は拗ねてた」 「紫苑が拗ねる?」 「そりゃそうだよ。ごめんごめって謝ってくるんだけど、こっちも意地になっちゃってさ、素直になれなかったりするんだよね」  そう言いつつも、紫苑の口元には幸せそうな笑みが浮かんでいる。  奥手で控えめだった紫苑だが、今は全身にどっしりとした余裕が漂っていた。  その変貌っぷりに悠葉がやや驚いているあいだも、紫苑はさらにこう話す。 「まぁ俺長男だから、ちゃんと立派な後継ぎに育てなきゃって思いがあったんだろうけどね。なんとなく、今ならわかるよ」 「へ、へぇ……」 「最近は父さんと仕事の話もできるようになってきて、昔よりも仲良くなれてて……ん? 悠葉、どうしたの?」 「えっ?」  車窓を眺めながら穏やかに語る紫苑の横顔に、いつしか見惚れていたらしい。悠葉はハッとして、「別に」と言った。  そのとき、運転席の方からずずっ……と鼻をすする音が聞こえてくる。どういうわけか、勢田が涙ぐんでいるのだ。ふたりは顔を見合わせ、運転席のほうへ身を乗り出した。 「どうしたの、勢田さん」 「いえね。昔、葵さまと結糸さまを、このようにお屋敷へお連れしたことがありまして。なんだか、急に懐かしくなってしまって」 「父さんと母さんを?」 「葵さまが視覚再生手術を終えて、初めてお屋敷に戻るときのことですから、もうずいぶん前のことになります。……そして今は、番になられた紫苑さまと悠葉さまを乗せている。感慨深いなぁと思いましてね」  勢田はそう言ってルームミラーごしに紫苑と悠葉を見つめ、微笑んだ。 「おめでとうございます、おふたりとも」 「……うん、ありがとう」  小さい頃から、勢田にはよく遊んでもらった。幼い頃からふたりを知る勢田からの、あたたかい祝福の言葉だった。  胸が熱く、いっぱいになる。紫苑もまた、同じ気持ちでいるのだろう。空色の瞳が微かに潤み、きらめいている。  悠葉は紫苑の手を握り返して、勢田に向かって笑顔を返した。

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