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エピローグ
ひと月が過ぎた。
その間、悠葉は京都の実家には戻らず、国城邸でひと夏を過ごしていた。
病院から国城邸へとやってきたその日。
葵と結糸、そして蓮と御門からも祝福を受けた。すでに家族の一員のような扱いをしてもらえることが、悠葉は幸せでならなかった。
なかでも結糸は特に安堵したようすだった。
「ああ〜〜〜〜よかった……!! 外野からあれこれ心配されるのも負担かと思って黙ってたけど、きっと悠葉、いろんなことで悩んでるんだろうなと思って、ずっと気になってたんだ」と涙ぐまれて、ぎゅうぎゅうと強く抱きしめられた。
結糸は紫苑を見上げて微笑み、そうしてもう一度悠葉を見つめ、「本当によかった。これからも、ふたりで支え合っていくんだよ。おめでとう」と、祝いの言葉を贈ってくれた。
印象的だったのは、葵の眼差しだった。
「おめでとう。これからも、紫苑のことをよろしく頼むよ」と、葵から穏やかな微笑みを向けられて、背筋が伸びる想いを抱いていた悠葉だ。すると、そのサファイア色の瞳の奥に、ふと、懐かしげな表情が見え隠れした気がしたのだ。
遠い過去を懐かしむような、どこか切なげな不思議な表情だった。
とはいえ、それはたった一瞬のことだった。不思議に思い、目を瞬いたほんのひとときのあいだに、葵はすぐ、何ごともなかったように普段どおりの穏やかな眼差しに戻っていた。
ちなみに、国城邸に滞在しろといってきたのは、綾世だった。
悠葉の肉体に起きた変化はかなり珍しい現象らしく、定期的な体調チェックが必要だというのである。
ついでに綾世は、「番がそばにいるときといないときでのホルモン値の変化をぜひとも観察したい! 紫苑くんが大学に戻っちゃったあとのデータも欲しいところですね!」と言い始め、夏の間は紫苑と離れることなく過ごすようにという、謎の指示を出してきた。
前から変な医者だとは思っていたが、別に断る理由もない。
むしろ願ったり叶ったりの指示だった。
「とかなんとかいって、綾世先生の粋な計らいかもしれないね」
「そうに違いない! だって、紫苑の留学はあと二年も残ってるし、その先もどうなるかわからないもんなぁ」
須能家のために建てられた離れの庭の木陰にピクニックシートを敷き、のんびり読書をしながら、嶺と翼がそんなことを話している。
ライトグリーンの布製シートの上でまったりと過ごす美しい双子の姿は絵になっているが、読んでいる本はそれぞれ、『モテる男の仕草100選』『素の自分で愛されろ! 気取らない会話術』といったもので——……国城家のアルファでありながらどうしてこうなってしまったのかと、悠葉は首を捻らずにはいられない。
「お前ら……そんなん読まなあかんくらいモテへんの?」
「ふん、べつにモテたいと思ってるわけじゃないさ。雑学として頭に入れておこうとしているだけ」
と、嶺。
「そうそう。ほら、俺たちもそろそろ社交界デビューだし。初対面の相手との会話を盛り上げるために予習してるだけだし」
と、翼。
と言いつつ、文字を追う二人の視線はガチである。すると、悠葉の隣で大学の課題に勤しんでいた紫苑がふと笑ってこう言った。
「菊乃に彼氏ができたから焦ってるんだよね」
「えっ、そうなん!?」
「可愛い感じのオメガ男子でさ、クールな菊乃もいつになく楽しそうで、ふたりとも羨ましくなっちゃったらしい」
「へぇ〜」
悠葉が感心していると、嶺がつと顔をあげ、唇を突き出してブスッとした顔をした。
「菊乃のやつ、夏休み直前に十五人くらいから告白されてたんだ。あいつがひとりでモテまくってるから、僕らの魅力が霞むんだよ」
「すごいな、十五人も!? ……まあ、わからんではない。菊乃は可愛いし、優しいし、なんや男前な感じもするし」
「あっ、悠葉までそんなこと言って!」
と、翼がむうっと頬を膨らませた。
「アルファの男にまで告白されてたんだぞ!? 菊乃のやつ、今やすっかり中等部の女王様みたいになっちゃってて、俺らなんて『菊乃様のご親戚』みたいな立ち位置なんだぞ!?」
「じょ、女王様……さすがやな。さすがすぎるわ」
モテの全てを菊乃にかっさらわれて、双子は立つ瀬がないようだ。
兄としてはどう受け止めているのだろう……? と思い実の兄のほうを見やるも、紫苑はのほほんとにこにこしている。
「紫苑はイラついたりせーへんねんな」
「そりゃね。菊乃は可愛いから、まわりがほっとかないのはわかってたし」
「変な虫がついたらどうすんねん。心配にならへん?」
「まぁ、ちょっとはね。でも菊乃は賢いから、大丈夫だよ」
「おお……」
妹への信頼感がすごい紫苑である。ここまでくると感心するしかない。
すると嶺がごろりと仰向けなり、細身のデニムに包まれた悠葉の太ももに頭をのせ、翡翠色の瞳で見上げてきた。
「悠葉だってひとごとじゃないだろ? 香純もそのうち誰か連れてくるかもよ?」
「あんなじゃじゃ馬、もらってくれる相手に感謝しかないわ」
「またまた、強がっちゃって」
「強がってへんし」
「ふーん? ほんとかなー?」
膝枕の上でくりっとした上目遣いをしてくる嶺である。木漏れ日を受けて黄金色に輝く金色の髪の毛を何気なく見つめていると、すっとそこに影が差した。
隣に寝そべっていた紫苑が、悠葉と嶺の間に割って入ってきたのである。
紫苑らしからぬわかりやすい行動だ。悠葉が目を丸くしていると、急に膝枕をすげかえられてしまった嶺も目を丸くしている。
「嶺、悠葉に甘え過ぎ。膝枕なら俺がするよ」
「……えっ、なに紫苑? なに? 僕が悠葉に膝枕してもらってるのがいやだったの?」
「い、いやっていうか、……その」
「えーっ!? 紫苑ってそういうことしちゃうタイプだっけ?」
紫苑に膝枕をされながら、嶺がキラキラした瞳をさらにまばゆくきらめかせている。
すると翼も嶺の隣に寝そべって紫苑の膝に頭を乗せ、同じ表情でこう言った。
「紫苑、嶺がごめんな! 大事な大事な番の悠葉にベタベタして……!!」
「そうだよね、悠葉は紫苑の番だもん。僕としたことが、紫苑の目の前で膝枕なんて! 本当にごめん!!」
あえてのように番の部分をハキハキと発音する双子に見上げられ、紫苑は気恥ずかしそうに頬を赤らめている。さすがの紫苑も怒るのか……? と思いつつ、悠葉も内心照れているので見守るしかない。
すると紫苑は、頬を薔薇色に染めたまま、苦笑を浮かべてこう言った。
「そうだね、悠葉は俺の大事な番だから。いくら嶺と翼でも、ちょっと妬けるよ」
「「「ふぇ………………」」」
紫苑のストレートなセリフがあまりにも尊くて、悠葉と双子のため息が同時に漏れた。
+
「紫苑もやきもちとかやくねんな」
「え? ああ……」
本邸での双子や菊乃たちとの夕食を終え、離れでふたりきりの時間となった。
ようやく終わりが見えてきたらしいレポートが表示されているパソコンを一旦閉じ、紫苑は伸びをしながら苦笑した。
先にシャワーを浴び、ベッドでスマホをいじっていた悠葉の隣にやってきた紫苑のキスが、額に触れる。
「さっきのこと?」
「うん。双子がベタベタしてくんのは昔からのことやし、気にせぇへんのかと思ってた」
「まぁ、昔から実はちょっと妬いてたんだけどね」
「そうやったん?」
「そりゃそうだよ。でも、俺は一番年上だし、みんなで仲良くできるならそのほうがいいよな〜とか思って、我慢してたんだ」
「しっかりものの長男気質やなぁ」
悠葉は笑いながら仰向けになると、両手を広げて紫苑を見上げた。素直に身を寄せてくる紫苑を抱きしめ、まだ夏の匂いのする栗色の髪に鼻先をくっつけた。
紫苑の香りは心地いい。ぬくもりも、重みも、触れた肌の感触も、なにもかもが愛おしい。
番になってからこっち、これまで重ねてきた我慢をすべて解き放ってしまいたいといわんばかりに、紫苑は悠葉を何度も抱いた。離れていた時間、そして、これから再びやってくる離れ離れの時間を埋めるように。
「ん……ぁ、」
こうして今日も戯れあっているうちに、自然と唇が重なって、互いの身体に熱が燻り始めるのを感じ取る。
シャワーを浴びたばかりの悠葉のシャツの中に手を忍ばせ、紫苑の唇によって開かれてしまった胸の尖りを指先で弄び、紫苑はキスをしながら囁いた。
「悠葉は……もう不安じゃない?」
「……へ……? なに、が……?」
「もうすぐ俺、大学に戻るから」
「そら寂しいし、嫌やけど……不安ではないよ」
悠葉がそう呟くと、紫苑の愛撫がふと止まり、じっと瞳を見つめられた。悠葉は微笑み、紫苑の頬を両手で包む。
「紫苑の番にしてもらえたんやもん。俺は大丈夫」
「……うん」
「踊りにも集中する。流派を継ぐにふさわしい舞手になれるように、頑張るよ」
「悠葉……」
決然とした口調とともに明るく笑って見せると、紫苑の笑顔もひときわ輝く。
ベッドの上でぎゅっと強く強く抱きしめられ、そのまま今夜も、情熱的な愛撫で理性を砕かれ、我を忘れてしまうほどに激しく甘く抱かれてしまうのかと思っていたが——……。
「あっ、そうだ。悠葉に渡したいものがあったんだ」
「え?」
紫苑はひょいと起き上がり、床の隅に広げていたトランクのほうへと駆けて行ってしまった。一瞬がっかりはしたものの、紫苑が自分になにを贈ろうとしているのだろうと考えると、ドキドキしてきた。
ひょっとして指輪だろうか? 離れている間も身につけていられる何かを、悠葉にプレゼントしてくれるのだろうか……?
「遅くなったけど、誕生日プレゼントだよ」
「でかっ」
すっと渡されたもは、想像していた指輪の小箱よりも、かなり大きな紙袋だった。
よくよく見てみると、その紙袋には悠葉の好きなスポーツブランドのロゴがくっきりとプリントされているではないか。
「えっ、それ!」
期待感が一気に高まり、紫苑からそれを受け取るやいなや、ガサガサと袋をひっくり返す。
袋の中の箱に収まっていたのは、紺色ベースにスポーティな白いラインの入ったスニーカーだ。悠葉は目を輝かせた。
「うわぁ〜〜、めっちゃカッコええ!」
喜びと驚きとでまん丸になった瞳で紫苑を見上げる。紫苑は照れくさそうに、「よかった、喜んでくれて」と微笑んだ。
日舞で着物を着る機会が増えたとはいえ、少年時代と変わらずスポーティなファッションを好む悠葉にとっては、これ以上ないというほど嬉しい贈り物だ。
悠葉は紫苑に飛びつき、頬に何度もキスをした。
「めっちゃ嬉しい! ありがとう、紫苑!」
「ううん。よかった、喜んでもらえて」
「さすがすぎるやん。いっぱい履くわ、ありがとうな!」
「へへ、どういたしまして」
悠葉に褒められて、誇らしげに笑う紫苑が可愛い。
子どもの頃と変わらない紫苑の朗らかな笑顔がすぐそばにありつづけることが嬉しくて、心がくすぐられるような愛おしさが込み上げてくる。
こうして笑いあう時間が積み重なってゆくたび、この先何があっても、どんなことが起きても、ふたりで乗り越えていけるに違いない——……。
月影さやかな夏の夜に、ふたりのくつろいだ笑い声が軽やかに響いている。
『Blindness』 完
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