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第1話

『続きましては……市の……さん、……町内会……、マノンのモモさんご出資による……』 気が狂いそうなほどの喧騒の中、わんわんとアナウンスが響く。 いっそ全て聞き取れなければいいのに、その名前だけははっきりと耳に飛び込んできた。 趣味の悪い洋楽のBGMに合わせて、小ぶりの花火が次々に打ち上がる。 まだ夜と呼ぶには明るく、空は群青と薄闇がマーブル状に交わっている。花火大会の序盤で、しかも個人や小さな団体の出資で打ち上げられる地味な花火となると、注目する見物客は多くない。 そんな花火の一つ、博也(ひろや)が夏のボーナスを全額注ぎ込んだ小ぶりのしだれ柳は、風が止んだせいで空中に留まった煙に遮られ、ほんのわずかしか見えなかった。 それを一緒に残念がってくれる人は隣にいない。 初めて自分で買った浴衣に身を包み、一人空を見上げてそっと目を閉じてみる。 モモを喜ばせようと上げた花火は、他の花火や陽光の名残に負けて、瞼の裏に残像すら残さなかった。 「博也さん!」 人ごみを文字通り掻き分けてやってきた男に見覚えがあった。名前は確かコータだ。モモと同じくクラブ《マノン》のホストで、モモよりかなり後輩に当たる。 一度だけヘルプについてくれたことがあったが、他の席についているモモを目で追うのに夢中で、コータとは何を話したか少しも覚えていない。モモとは違う派閥だが、その日は人手が足りなくて仕方がなく席に呼んだと言っていた。 そんなあまり馴染みの無い後輩をわざわざ寄越したということは、モモはもちろん派閥の後輩も全て出払っているということだった。 それもまぁ当然だろう。花火大会といえば、ホストにとっては客とデートをして機嫌をとるための、大切なイベントなのだから。 「コータくん、だよね。ごめんね。わざわざ来てくれなくても良かったのに」 実際、来てもらっても申し訳ないだけだ。先輩ホストにすっぽかされた客のアフターケアなど、労力の割にリターンが少なすぎる。しかも、同性のホストに嵌まって三日と空けずに一人で店に通う男の客など、気持ち悪い以外の何ものでもないだろう。 《指名客に偶然会っちゃって、どうしても撒けなそう。そっち行けそうにないわ。ほんとごめんだけど、とりあえず後輩向かわせるから一緒にマノン行っててよ。マジでごめんな》 と、焦りを装ったメッセージを最後に、モモからの連絡は途絶えていた。 色恋百(いろこいもも)などという源氏名を名乗る通り、自他共に認める色恋営業でナンバー入りしたホストだ。その彼が、金の尽きかけた年上の男客相手に、貴重な花火デートの機会を費やすはずがなかったのだ。 『俺、金色のがいっぱい降ってくるみたいなやつが一番好きだな。博也と一緒に見たいから、浴衣着てさ、一緒に花火見に行こうぜ』 そんな誘い文句を真に受けて、花火大会の一般出資の募集にモモの名前で内緒で申し込み、六桁の金を振り込んだ。 しだれ柳という名のその花火は、金の光一色なのが潔く、広がる様は煌びやかだが、最後は無数の流れ星のように夜空に溶けていく儚さがいい。 モモはもっと派手な色合いを好みそうなタイプなので、そんな侘しさに注目するのは意外だった。だが、モモのお気に入りで、博也自身もいいと思える花火を自分のお金で上げてもらえるなんて、とても素敵だと思ったのだ。 デパートに浴衣一式を買いに行き、綺麗に着られるように、動画を見ながら着付けを練習した。花火を見やすいスポットを調べ、下見もした。 そして今博也は、夕暮れの空に一瞬にして飛び散ったボーナスの光の残像を追って、一人立ち尽くしている。 見物客の中には、今日恋人に振られた不幸な人もいるだろう。だが、この無数の人の中で一番惨めなのは、おそらく博也だ。 同性のホストの色恋営業に嵌まって有り金を全て注ぎ込み、花火にまで出資して、初対面同様の若い男の子に気まずい思いをさせているのだ。祭りに浮かれた格好をしているのも、余計に痛々しい。 つまり、先輩に呼び出されたコータは、そんな惨めな男の相手をしなければいけないというわけだ。 ホストというのは、しみじみ大変な仕事だと思う。 「あーっ……と……モモさん、しつこい客に捕まって、全然抜けられないみたいで……」 気まずそうに目を逸らすコータは、店で会った時よりも遥かにラフな服装で、ファッション誌から抜け出してきたかのようだった。 だぼっとしたズボンにタイトなTシャツ。その胸元には、ブランドモチーフらしいチェスのナイトの図柄が刺繍されている。 多分高価なものだろう。店の客からのプレゼントかもしれない。気取ったブランドのTシャツなど、博也のセンスにもクローゼットにも存在しない、別世界の品物だった。 しかし、コータには嫌味なほどによく似合っている。いかにも女の子にモテそうだ。キャバ嬢がくれたと言ったとしても、世の大抵の男はイケメンは得だなと鼻白みはするが、直接当てこすりを言ったりはできないだろうと思えた。 だが、よりチャラチャラした見た目のモモよりも、ホストとしてのプロ意識は低いらしい。モモはどんなに客が不機嫌でも、気まずそうな顔は見せない。全力で自分のペースに取り込みにかかる。 コータの方が一般的には受けが良さそうな容姿だが、モモの方が遥かに売れているという事実は、ホストクラブに行ったことのない女の子にもすぐに察せられただろう。 「うん、聞いてる。ごめんね。大丈夫だって送ったんだけど。コータくんは店外の予定なかったの?」 ホストが客と店の外で会うのは、本気だからじゃなくて営業なんだってわかっている、と匂わせて問う。 卑屈っぽいとは思うが、こんな若い、しかも一度席についただけのホストに、恋人はこちらに来たいけれどどうしても来られないのだと本気で思っている痛い男だとは思われたくなかった。 まぁもちろん、こんな浮かれた格好をしていれば、それも無駄な足掻きにすぎないのだが。 「俺、客と外で会うの苦手なんすよね……あ、自分の指名客にって意味ですけど。ていうか、博也さん何も悪くないでしょ。謝んないでください。もう切り上げてマノンでモモさん待つんですよね?とりあえず、駅行きましょっか」 モモであれば迷い無くタクシーを探すところを、コータは当然のように駅へ向かって歩き出した。ちらりと博也の下駄履きの足元を確認し、ゆったりとした歩調で一歩前を歩く。 背の高いコータの背中に隠れるように歩くと、花火を見上げて急に立ち止まる無秩序な人々にもさほど煩わされずに進むことができた。 モモと腕を組んで歩く喜びとは比べるべくもないが、人ごみを泳ぎ切る気力がわかない今の博也には、たまにちらりと振り返ってくれるコータの背中が確かにありがたい。 気落ちの原因を作ったのはモモなのに、コータを寄越してくれたことに感謝の気持ちすら湧いてきて、博也はその盲目さに小さく自嘲の笑みを浮かべた。 花火大会終了後の混雑を避けようと早めに切り上げて来た人の波で、逆に駅はごった返し、入場規制が敷かれていた。 慣れない服装と人ごみと、何より精神的に疲れ、博也はその場にしゃがみこみたくなってしまう。 この場にモモがいれば、疲れなんて感じなかったのだろうか。 そう思って、肩甲骨の浮き出たコータの広い背中を見つめるが、博也は思い直して小さくかぶりを振った。 モモがいても、別の意味で疲れたかもしれない。 ホストクラブに通い詰めて半年。 博也は収入が平均を少し下回る程度の平凡なサラリーマンだが、親しい友人もいない無趣味の独り身のため、目的もないままそこそこの金額を貯めていた。だから、モモと出会って初めてお金の使いどころを知って、浪費するのは楽しかった。 浪費といっても、モモに強制されたわけではない。博也が普通のサラリーマンだと知っているモモは、高いシャンパンを無理に注文させるようなことは決してせず、「博也が楽しめる範囲でいいよ」と言って安いボトルを一緒に飲んでくれた。 ホストクラブのシャンパンは高い。一番安いもので一万五千円だが、手の空いたホストが集まってシャンパンコールをしてくれるのは三万円以上のオーダーからだ。 シャンパンコールがあれば店内は華やぐし、何よりモモの株が上がる。だから、喜んで欲しくて、ことあるごとに勝手にシャンパンを入れた。一晩で月給を超える金額を使ったこともある。 そんな大きな出費はもちろん、アフターでの食事代やホテル代も、積み重なれば財布を圧迫する。 そこそこの額だったはずの貯金は、あっという間に底をついた。気付いたときには博也はもう、借金しなければ来店ペースを保てないところまできていたのだった。 俗に一部営業と呼ばれる日の入りから終電前まで開いているホストクラブは、週に一回一時間だけ店に行き、安い焼酎を飲むのであれば、サラリーマンにだって意外と払い続けられる金額設定だ。 だが、そんなケチな、業界用語で言えば「細い」客で許されるのは、若くて可愛いまっとうな仕事の女の子だけだろう。 三十路の暗い男が一人でやって来て、安ボトルの減り具合に戦々恐々としながらちびちび飲むなど考えただけで惨め過ぎるし、指名しているモモにまでみっともない思いをさせるのは耐えられない。 それにそんな細客では、常にナンバー3以内に入っているモモには同伴もアフターも望めない。 それはつまり、モモとセックスができなくなるということだった。 博也は、初めてで唯一の相手であるモモとのセックスにどっぷりと溺れていた。 子供の頃からホモと蔑まれ、同性を好む男たちが集まる場所に行く勇気もなかった博也にとって、モモは本当に唯一自分を否定せず、肌を触れ合わせてくれるかけがえのない存在だ。 それがホストと客という、金銭がなければ成り立たない関係であることは百も承知だし、それがかえってありがたい部分もある。 金を払っているのだから捨てられることはないと、安心してその腕の中で寛げるからだ。 だから博也は、誰が何と言おうと、今まで生きてきた中でこの半年間が一番幸せだった。 だが同時に、目に見えて減り続ける通帳の残高は、予想以上に博也の精神を蝕んでもいた。 モモとの関係を続けられるなら借金したって構わない。 そう思いはするが、金がないという現実は、足元に真っ暗な穴が開いているような不安感で博也を揺さぶる。 金が無ければ自分の家賃や生活費を払えないのはもちろん、離れて暮らす両親の老後への備えもできない。 何より、もうモモの側にはいられなくなってしまう。金の切れ目が縁の切れ目という言葉を、これほど端的に表す関係もなかなかないだろう。 モモには、もうお金がないなんて絶対に言えない。 けれど最近は、モモとキスをしながらも、借金の二文字ばかりが頭を回っていた。 そんな状況だったから、今日はモモと会えなくてかえって良かったのかもしれない。 もしこの場にモモがいれば、「せっかく上げた花火も見えなかったし、気晴らしに夜景がいいレストランにでも行こっか」などと無理に笑って、財布と心を更に磨り減らしていただろうから。 「顔色よくないみたいですけど、気分悪いですか?まだしばらく改札通れなさそうだし、駅から離れます?」 物思いに沈みがちな博也に、コータが気遣わしげな様子で声をかけてくれる。 モモほどではないとはいえ、やっぱりホストだ。ちゃんと客の様子を見てくれている。 人でごった返すこんな場所に呼びつけられた上に、辛気臭い男の相手までさせられているのに、イライラしたりふてくされたりしないところは素直に偉いなと思う。 客商売だから当然とはいえ、態度に全く出さないのは意外と難しいものだ。特に、常に他人の顔色を伺って生きてきた博也のような人間にさえ苛立ちを読み取らせないのは、素晴らしいプロ意識といえるだろう。 博也は内心でコータのホストとしての評価を大幅に上方修正し、手に持っていた巾着袋から長財布を取り出した。 「ごめんね、ちょっと人酔いしたみたいだから、今日はこのまま帰るよ。お店には明日行くから。ここまで送ってくれてありがとうね」 言いながら一万円札をさりげなく握らせようとしたが、コータは手を開こうとはしなかった。 拘束時間も短かったし、まだ日が暮れたばかりだから、タクシー代を含めてもこれくらいが相場かと思ったのだが、足りなかっただろうか。 ちらりと視線を上げてコータの表情を伺うと、さきほどまでの心配げな表情とは打って変わって、今にも舌打ちしそうな表情で押し付けられた札を見下ろしていた。 焦ってコータのゆったりとしたズボンのポケットに札を捻じ込み、もう一枚出そうと財布を開く。 だが、その手首はコータの大きな手で鷲掴みにされた。 上から押さえ込むように強い力を込めたその手の平は、しっとりと汗ばんでいた。 「博也さん昼職でしょう。そんなとこばっか夜っぽい感覚身につけるの辞めたほうがいいです。あと、いちいち謝らないでください」 コータは掴んだ手を離さず、そのまま引いて改札へ向かう人の流れを逆流し出した。 博也はつんのめるように下駄を鳴らしながら歩き、怒りを感じさせる背中と掴まれた腕の間で視線を落ち着き無く上下させる。 ふと周囲の視線が気になって左右を見ると、タクシー乗り場の長蛇の列が目に入った。 本当に、なんて要領の悪い。 「あの、あれじゃタクシー乗れないよね。ごめんね、気付かなくて……」 ちらり、というより、ぎろりと一瞬見下されて、いちいち謝るなと言われたことを思い出す。 「ご、ごめ……」 思わず更に謝りそうになって、慌てて口をつぐむ。後にはもう、何も言うべき言葉が出てこなかった。 「ちょっと歩いて、タクシー拾えるとこまで行きましょう。あんたその状態で満員電車なんて乗れるわけないでしょ」 先輩の客に向かってあんたとは、と驚くが、腹は立たない。むしろ、忍耐強い子をそれだけ苛立たせてしまったのだなと申し訳なくなった。 手を引かれるまま、無言でカコッカコッと下駄の音をさせて歩く。 人でごった返す商店街を脇道に逸れると、比較的裕福な層が住んでいそうな住宅街が広がっていた。よく知る道なのだと、迷いの無いコータの足どりが物語る。 祭りの中心部の喧騒が遠ざかり、花火が弾ける音がより強調されて、胸にどぉんと響く。 ふと振り返ると、高層マンションに阻まれて半分欠けた大玉が見えて、あのサイズだとドンペリ何本分かな、と考えた。 湯水のように金を使うと言うが、花火のように金を使うと言う方が更に贅沢さは増すだろう。 何しろ、腹も膨れず酔えもせず、湯水と違って生きるのに何ら必要の無い火の玉だ。そう考ると、これこそが最高の贅沢なのは明白だと思われた。 だがその贅沢さを実感できるのも、目玉となるような大きな花火やフィナーレで畳み掛ける連続打ち上げだけの話なのは言わずもがな。煙に隠れた小さなしだれ柳など、誰にも、何の意味も無いと言えた。 それでも、好きな人と一緒に見られたなら、自分にとってだけは宝物になったはずなのに。 慣れない下駄の鼻緒が足の指の股を擦る。初めは小さな違和感だったものが、もう我慢できないほどの痛みに変わっていた。 靴擦れや鼻緒擦れは、見た目は大したことがなくてもなぜこんなにも痛むのか。 答えは簡単だ。自覚している違和感や小さな痛みに目を瞑り、何の対処もしなかった罰なのだ。 博也は突如として立ち止まり、いまだに手首を握っていたコータの手を振りほどいた。 「っ……すみません、手、痛かったですか?」 コータがはっとしたように振り返る気配がするが、博也は顔を上げられないでいた。視線は自分の足元に落ちている。 そんな博也の両腕が、さっきまでよりもっと強い力で掴まれた。 「足!皮ベロベロじゃないですか!」 返事をしないでいると、コータはしゃがみこみ、「肩に掴まっててください」と言ってそっと足に触れてきた。 博也は動けず、そのまま立ち尽くす。 動かない博也に焦れたのか、コータは断りも無く足首と下駄を掴み、そうっと、まるで溶けかけたオブラートを剥がそうとでもするかのように、慎重に下駄を脱がせた。 博也からその表情は見えなかったが、「うわ、やばいなこれ」という声音で、コータが傷の具合に慄いている様子が伺える。 次いで独り言のように漏れた、 「こんなに取り返しがつかなくなる前に、痛くてもう歩けないって言ってくれればいいのに」 という言葉に、博也の中で何かがふつりと切れた。

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