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第2話

「言えるわけないだろ!履いた瞬間から痛くなるだろうなってわかってて履いてきたのに!こんなの自業自得だ!」 突然の激昂に、ばっと顔を上げたコータの目が見開かれている。 博也はその手から痛む足を乱暴に抜き取り、汚れるのも構わずに裸足のままアスファルトに足の裏をつけた。反対側の足も下駄を蹴り飛ばして脱ぎ捨て、両足で地面を踏みしめる。 太陽光を存分に吸い込んだアスファルトは、日が暮れてもまだ熱をもっていた。 だがその熱は火傷しそうなほど熱くはなく、傷つき疲れ切った博也の足の裏をじんわりと暖めてくれる。 まるでアスファルトだけが優しく激情を宥めてくれているように感じられて、博也の喉にぐっとこみ上げるものがあった。 真夏であれば、この時間でも地面はまだ火傷するほどの熱さだったはずだ。 空気はむしむしと暑く、博也の浴衣の胸元には汗が伝っていたが、夏は確実に終わりに近づいていた。 ぽたり、ぽたりと、博也のつま先辺りに雫が二粒落ちて、アスファルトが濃い色に変わった。 また一粒ぽたり、続けてぽたりぽたり。 博也の目から溢れた雫が地面を濡らし、鼻緒で擦れてぐちゃぐちゃになってしまった指の間にも滴る。 覆いを失った真っ赤な真皮に落ちる熱い雫は、震えが走るほど酷く沁みた。 涙ってしょっぱいもんな、そりゃ生傷には沁みるだろう。 そう冷静に思った瞬間、博也は弾かれたようにわあっと声を上げ、しゃがみこんで泣き出した。 わあーん、わあー、と、わざとらしいほどに声が出た。顔を両手で覆い、嗚咽を押し留めることも思いつかずに迸らせる。 こんな風に泣いた記憶なんてない。感情が堰を切って流れ出した。 意味を成さない慟哭の叫びの間に、悲しいよぉ、もうしんどいよぉ、と、単純すぎる言葉が口から勝手に漏れる。 それを自分で聞いて、あぁ悲しいんだな、もう辛いんだなと、他人事のように理解した。 モモの口から滑らかにこぼれる「好きだよ」という言葉に、少しくらいは本当の気持ちが入っているんじゃないかと信じていた。 いや、今の今でも信じている。 ただ、自分はモモにとってたった一人とか、一番ではないだけで。 モモは自分を指名してくれる客の全員が好きだと言った。どんなに面倒くさい相手でも、男でも女でも、自分にお金を使ってくれる人は皆好きだと。 中でも博也のことは本当に好きだし、すごく可愛いと思っていると言ってくれた。 キスもセックスもしてくれた。人目のあるところでも腕を組ませてくれたし、手料理を食べさせてもくれた。博也がずっと夢想していた、恋人ができたらしてほしいと思っていたほとんど全てのことをしてくれた。 ただそういう相手は自分だけじゃないし、そうしてくれるにはお金が必要というだけだ。 モモは優しい。お前に金が無くなっても一緒にいる、なんて絶対に言わない。 たとえ会話の九割が嘘だったとしても、客ではないと思い込ませるような、本当の意味で酷い嘘だけはつかない。 色恋営業ばかりで、客と寝て稼ぐ色枕ホストと揶揄されていても、ほんのわずかだがぶれない誠実さがあるところに酷く惹かれているのだ。 だから博也は、何も考えずに生活を切り詰めてお金を作り続ければいいだけだ。そうすればモモは側にいてくれる。 けれど、けれど……。 心も財布もとっくに断末魔の悲鳴を上げていた。 見ないふりをして今日まできたが、皮膚と一緒に擦り切れてしまった。 もう、これ以上続けられない。一歩たりとも歩けそうになかった。 「ったく、だから嫌だったんだ」 低い声を残してコータが立ち上がり、博也の前から気配が消えた。 面倒をかけて申し訳ないと思うが、嗚咽するばかりで言葉が出てこない。 迷惑をかけている相手はコータだとわかっているのに、こんな風に泣いたらモモなら側にいてくれただろうかなどと最低なことを考えている。 モモが好きだった。 自分だけを見てくれなくても、お金が必要でも、モモの腕の中に納まっている時が一番幸せだった。 けれど借金するのは怖い。 稼ぐより使うペースが速いのだから、返せる当てなんてない。首が回らなくなるまで借りたって、モモが自分だけのものになるわけじゃない。一緒にいられる時間がほんの少し延びるだけだ。 もし今夜を一緒に過ごせたら、あの花火をモモが喜んでくれたら、博也はその足でカードローンを申し込みに行っていたかもしれない。もう少し頑張れたかもしれない。 けれど今ここに、モモはいない。 不安に抗いながら奈落へ突き進む意思が、ぽきりと折れてしまっていた。 その時、涙で霞む俯いた視界に、スニーカーのつま先がにゅっと現れた。 スニーカーをお洒落に履きこなすのって、身長が高くないと厳しいよなぁとぼうっと考える。 しゃくりあげ涙を止め処なく流し続ける体と思考はちぐはぐで、博也は自分がばらばらになってしまったように感じた。 「消毒薬塗るとかえって傷の治りが遅れるんですって。洗って清潔にして、瘡蓋(かさぶた)ができるのを待つのが今は常識らしいっすよ。ついでに、こういう高いばんそこが効くって。ネット情報ですけど」 白いスニーカーと博也の裸足の足先との間に、ビニール袋から取り出した物が次々と置かれる。 ペットボトルの水、柔らかい絆創膏の箱、ポケットティッシュ、場違いな室内用の使い捨てスリッパ。 そしてその横に、先ほど博也が蹴り飛ばした下駄。 「近くに靴屋無くてまともなサンダル無かったんですけど、下駄よりマシだと思って我慢してください。ほら、この上に座って」 コータは取り出したティッシュを三枚重ねてアスファルトの地面に敷き、博也を抱えるようにしてその上に座らせた。 口調はぶっきらぼうなのに、抱えてくれる腕は慎重で、堪えられずにその剥き出しの腕に涙を落としてしまう。 「うっ……ごめ……ごめん……迷惑、かけて……ひっ……うぅ……」 「だーかーら、謝んないでくださいってば。ずっとそればっか。俺が卓についた時も、男の客でごめんね、安いお酒でごめんねって。モモさん他の指名卓に行ってばっかですみませんって俺が謝っても、気を遣わせてごめんねって逆に謝って」 コータは不機嫌な口調で言いながら、ペットボトルの水を博也の鼻緒擦れに少しずつ垂らす。 傷が刺激される痛みはあったが、冷えたミネラルウォーターは汚れと一緒にまとわりついていた涙も押し流してくれて、沁みはしなかった。 コータは足首を掴んで軽く持ち上げ、足の裏も注意深く流し、指先で汚れを軽く拭ってくれる。 両足を流し終わるとまたポケットティッシュを取り出し、傷に触れないようにそっと水分を吸い取ってくれた。 「ばんそこ貼るから、ちょっと頑張って指開いててください」 大きな手が器用に剥離紙を剥がし、博也の足先で待ち構えている。 その甲斐甲斐しさと、絆創膏を「ばんそこ」と発音するのがおかしくて、博也はほろほろと涙を流しながらも鼻をすんっとすすって素直に指の股を開いた。 赤剥けた傷は見るからに痛々しいが、血が出ているわけでもなければ、当然回復不可能な損傷なわけでもない。また下駄を履きさえしなければ、痛みは数日で引くだろう。 コータはその傷にそうっと、恐らく大きなその手にとって可能な限りの繊細さで、薄いベージュの皮膜を被せた。 中心にガーゼのないタイプの分厚くて柔らかい絆創膏は、ぴったりと張り付いて、優しい感触で傷口を覆った。 うっすらと透けてはいるが、生々しい赤みはぼやけ、優しい薄桃色になっている。 興味本位で軽く触れてみると、痛みは鈍く遠い。 不恰好なスライムがその身を挺して守ってくれているように見えて、なんだかとても健気で、博也は傷口の上からそっと撫でた。 「ばんそこ気持ち悪いですか?こういうの高いから自分じゃ使わないんですけど、瘡蓋の代わりになって、傷口も守るし治りも早くしてくれるらしいですよ。放っといてもその内治るんだろうけど、わざわざこれ以上痛い思いする必要もないし、治るの早いにこしたことないでしょ」 絆創膏を気にする様子の博也をどう思ったのか、コータは言い聞かせるように話す。 嫌がってるわけじゃない、むしろこんなに優しくしてもらって嬉しいと伝えようとしたが、その前に再び取り出したポケットティッシュで少し乱暴に目元を拭われてしまった。 「俺が言えた立場じゃないですけどね、モモさんは止めときなよって思ってました。博也さんはどう見ても上手く遊べるタイプじゃないし、失礼だけどすごくお金持ちって感じにも見えなかったから。 モモさんの客は、キャバの子ですら風俗に落ちたりするんです。最初から風俗だった子も、もっとハードな業種に変わったりしてる。モモさんはそんなこと一言も頼んでないのに、自分から勝手に。ほんと、天性のホストですよ」 はい鼻ーと言いながらティッシュをあてがわれ、摘んで鼻水まで拭われる。 子供にするように世話を焼くコータは呆れたような口調ではあるが、遊び慣れない博也を心配してくれていたことは伝わった。 普段であれば、わかってて指名してるんだから自分の勝手だろうと思うところだが、悲しい辛いと大泣きした後では自分自身にすら意地が張れない。 博也はコータの手から残りのティッシュを受け取ると、また溢れてきた涙を自ら拭い、思い切り鼻をかんだ。 「うん。僕もそう思う。モモを指名するのは、遊びだって割り切って無理の無い範囲で通える人か、十万二十万ははした金だと思えるくらい稼いでる人じゃないとダメだよね。……わかってたんだけど、ね」 それから博也はアスファルトの上に敷かれたティッシュに座ったまま、小さな声で話し出した。 物心ついた時から、好きになるのは同性ばかりだったこと。勇気を振り絞って初めてハッテン場に入ろうとして、その目前でモモに声をかけられたこと。自分がゲイであると初めて言葉にして、それを優しく受け止めてもらったこと。恥ずかしいと断ったのに、気にせずに大通りで腕を組んで一緒に歩いてくれたこと。マノンで初めてシャンパンを入れたら、とても喜んで初めてキスしてくれたこと。何度もセックスしたこと。今日、モモに喜んでもらいたくて、しだれ柳を上げたこと。 そして、もうお金がないこと。 なぜモモが好きか、どんな風に好きか、そして、なぜ辛いのか。 いつのまにか夢中になって話していた。 話はあちらこちらに飛んだし、時には言葉にならなくて声を詰まらせることもあったけれど、コータは向かい合わせでしゃがんだまま辛抱強く聞いてくれた。 くだらない話にいちいち小さく頷いてくれるコータの瞳は、敷かれたティッシュ越しに伝わるアスファルトの熱と同じくらいじんわりと温かかった。 これまで誰にも話したことがない、モモとのあれこれを言葉にする内に、徐々に頭の中が整理されてくる。 最初はごちゃ混ぜになっていた感情と理屈と建前がするすると解け、本当は自分の中にあったはずの結論が自然と見えてきてしまった。 それは、相談したり愚痴を聞いてもらったりする友人がいない博也にとって、初めての経験だった。 もっと早く、誰かに話をしてみればよかった。 友人はいないが、会社の同僚にも信用できそうな人間はいるし、話を聞いてほしいと頼めばきっと快く受け入れてもらえただろう。 そんな勇気がなかったとしても、便利屋を雇って話を聞いてもらうだけでも随分と効果があったに違いない。 そうすれば、もっと早く、この結論に辿りつけていただろうに。 「……だから、ね。まだモモが好きだけど、ここが潮時ってやつなんだね」 言葉にすれば、あまりにも陳腐で、簡単だった。 潮時。 限界でもあり、破滅へ転がり落ちる直前の、踏み止まれるギリギリの好機。 本当にそれが見えなくなっていたのか、見えないふりをしていたのかは今となってはわからない。 終わりはもう揺るがない結論で、博也の中にはいつの間にか、どんな言葉でモモにありがとうとさようならを伝えようかという、切なく静かな思案さえ生まれていた。 「話聞いてくれてありがとうね、コータくん。心配しててくれてたことも、怪我看てくれたことも、全部ありがとう。僕、もうマノンには行かないよ」 泣きすぎて酷いことになっているだろうが、しっかりと顔を上げてコータを見た。 少し、笑うことさえできた。 勝手な想像だが、コータもきっと微笑み返してくれるだろうと思いつつ。 だが、コータは至極複雑そうに眉根を寄せていた。 その表情を見て、ようやく自分の失敗に思い至る。 「あっ!そうだよね!ごめんね。自分がフォローに行って先輩の客が切れたってなったら、コータくんの立場が悪くなるよね。気付かなくてほんとごめん。とりあえず明日マノン行くね。いや、せっかくだから、月末の締め日に行ってシャンパンの一本でも入れた方が綺麗に終われるかな」 焦って言い募ると、コータは深いため息をついた。 「この天然貢ぎマシーンめ」などと、とても失礼な呟きが聞こえたのは気のせいだろうか。 「ついさっきお金が無いって泣いてたばっかりじゃないですか。店は来ちゃダメです。直接お別れ言いたいからって、モモさんと外で会うのもダメ。最後の思い出にとかってホテル行って、骨抜きにされるのが目に見えてます。あんたさっきの話の三割はセックスのことだったの自覚ないでしょ」 呆れたように言われた最後の内容に、博也の頬が急激に染まる。 ほとんど自分と対話するように吐き出していたから、完全に無意識だった。 「うそ……そんなこと言ってた?」 「言ってたも何も。モモはアソコまでかっこいい、モモはゲイじゃないのに僕で勃ってくれるの嬉しい、モモのを舐めたら喜んでくれる。あまつさえ、モモがしたいって言ったプレイは何でもしたし全部気持ちよかったとか言ってましたよ」 穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。 恥ずかしくてたまらないが、それ以上に、コータが神妙な表情で、男同士のそんな話を辛抱強く聞いていてくれたのだと思うと眩暈がする。 「ほんとごめん。頭の中にあったこと全部吐き出しちゃったみたい。できれば忘れて……」 先ほどまで涙に暮れて覆っていた顔を、今度は羞恥で覆う。 そんな博也の足に、コータがすぽっと使い捨てスリッパを履かせた。 そして手を引き、「よいしょ、あー足痺れた」と軽々と立ち上がらせる。 「ごめんはもういいですって。真っ白な相手を自分好みに仕込むとか、男のロマンですし。自分とのセックスの何もかもが気持ちいいってうっとり語ってもらえるなんて、男冥利に尽きるでしょ。 博也さん、それだけ一人の人間に夢中になれるのも、尽くせるのも一種の才能ですよ。相手がモモさんだっていうのは不幸の香りしかしないんで、もう少し尽くしがいのある男にした方がいいとは思いますけどね」 立ち上がっても尚、博也の両手はコータにぎゅっと握られていた。 下駄より遥かに薄いスリッパに履き替えたことで、さっきまでよりコータの顔が随分上の方にある。 格好いいという形容詞が最も適切だろう若い男にじっと見下ろされると、ついおたおたと視線をさ迷わせてしまう。 だが、ホスト通いを辞めたらこんな格好いい子と正面切って見詰め合える機会も無くなると思うと、もったいないという気持ちが勝って、結局上目遣いでコータの視線を受け止めた。 じっと見下ろしてくる顔は文句無く素敵で、免疫がない博也は簡単にぼうっとなってしまう。 これまでは同性の視線に心が華やぐ瞬間を必死で押し隠していたが、ゲイだと言ってしまった今は隠す必要もないと思うと、随分と気が楽だった。 「そんな財布の紐ゆるゆるどころか付いてないかもレベルな博也さんが、モモさんに金を使わなくなる秘策があります。真面目で義理堅いあんたには難しいかもしれませんが……」 コータが言葉を切り、しばし花火の音だけが空間を満たした。 いつのまにかフィナーレになったのか、連続する炸裂音は恐ろしいほどだ。 コータは強い意志を思わせる真っ直ぐな目をしているのに、同時に口元には逡巡を滲ませるという器用な表情をしていた。 打てば響くような軽快な会話ばかりのホストクラブとは違う無言の間に、ふとこの子は随分と年下なのだと思い出す。 社内で元気一杯に先輩の御用聞きをしている新人君たちとそう変わらない年齢のはずだ。 そんな子がプライベートの時間を裂いて真剣に自分の話し相手をしてくれていると思うと、今まで以上に申し訳なく、それでいて心がじんわりと温かくなった。 「秘策、教えて?コータくんのアドバイス通りにするよ。ごねたりしない。ちゃんとモモから離れる」 握られっ放しだった手を、初めて自分から軽く握り返す。 同時に、足のつま先もきゅっと丸めてみた。 鼻緒擦れは痛んだが、ぴったりと素肌に張り付いた絆創膏のおかげで、刺激から守られている感触を味わえる。 ふにふにとしたこの優しい肌触りがあれば、コータのアドバイスがどんなに自分にとって苦痛でも、きっと気持ちを強くもてると不思議と信じられた。 コータはしかし、決意を漲らせる博也とは逆に、少し困ったように眉尻を下げた。 どこか寂しそうで、途方に暮れているようにさえ見える。 「俺は、何者でもない。何もかもが中途半端で、モモさんみたいに確信をもってホストやってる人には絶対に敵わないですけど」 自分を卑下する言葉を口にするコータは苦しげで、博也は握った手に力を込めた。 自分自身を中途半端だと認めるのは勇気がいるということくらい、人付き合いの苦手な博也にだってわかる。 大人びた気遣いのできるコータもまた、何らかの葛藤の中にいるのだろう。 コータはハッと短く息を吐いてから、怒っているのかと思うほどの真剣さで一息に告げた。 「俺に指名替えしてください」

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