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第3話

「はい、おんぶ」と向けられた背は流石に断ったが、差し出された手を拒むことはできなかった。 コータは博也の手を握り、先ほど座り込んでいた場所より更に細い路地へと曲がる。 室内用のスリッパで歩くのは恥ずかしかったが、下駄を持って歩いていればすれ違う人にも足が痛いのだと気付いてもらえるだろう。 とはいっても、花火会場にほど近いというのに、人通りはほとんどなかった。 花火の音はいつの間にか止んでいた。 駅付近は今頃さらに混雑しているだろうが、夜半の住宅街は静かなものだ。 博也はそんな場所を、自分が指名替えしたらしいホストに手を引かれて歩いている。 「俺がもうマノンに来るなって言ったって、博也さんは俺の立場に気を遣うでしょ。だったらいっそ俺に指名替えしてください。そしたら自動的にモモさんの指名も外れるし。 あんたは指名してる俺を差し置いて、隠れて外でモモさんに会うような不義理はしないタイプだし、万事解決。 あ、もちろん貯金が元の金額に戻るまで店には来させませんから。それまでは店外デートで我慢してください。博也さんが行きたいところ、全部行きましょう。割り勘でね」 貯金を元の金額に戻すなんて、一年や二年では到底無理だ。それは実質、指名替えというようなものではなく、プライベートで会おうという誘いでしかない。 それ以上ホストに金をつぎ込むのはやめろと止めてくれるだけでもかなり親切なのに、コータがなぜそこまでしてくれるのかわからなかった。 博也がモモのナンバーを支えられるほどのいわゆる太客であれば、その博也を店から遠ざけることでナンバーの変動も起こりうる。 だが、残念なことに、そして離れようとしている今となってはありがたいことに、博也はモモの客の中では中の上程度の貢献度でしかない。 つまり、コータにとっては何の得にもならない申し出なのだ。 ゲイとは思えないコータが、年上の冴えない男をモモから横取りしたがっているなどと考えるほど、博也はうぬぼれてはいない。 というか、そういう自惚れができるタイプなら、ホストに嵌まる前に恋人の一人や二人はできていただろう。 だが、コータの言葉で、彼も何かしらの岐路に立っているのだと察せられた。 「一緒に行って欲しい場所があるんです。一人で行く勇気はなくて、でも一緒に行ってくれる人も思いつかなくて。 大好きなモモさんを諦めようって決められた博也さんと一緒なら、俺も現実を受け止められる気がするんです」 途中のコンビニで缶ビールを買ったコータに連れて行かれたのは、こぢんまりとしたカフェだった。 こんな時間に?と思って入り口を覗けば、案の定closedの看板がかかっている。 だがその横には狭い階段があり、コータに手を引かれるまま上れば、そこは小さな映画館になっていた。 「博也さんの分は俺が出すんで、俺の分は出してほしいんだけど、いい?」 それは結局割り勘なのでは、と思いながら、断る理由もないので頷く。 指名客にはタメ口だからと言われた通り、コータの口調はフランクなものにガラっと変わっていたが、どうにも慣れなくて落ち着かない。 コータは自分の財布から出した札でチケットを一枚買って博也に渡し、博也が駅でポケットに無理矢理捻じ込んだ一万円札でもう一枚チケットを買った。 受付ブースに座る若い男は無愛想で、涙の気配を色濃く残す博也に目もくれない。 コータはチケットと一緒に、釣りを全て返してくれた。 対等な関係であれば当たり前のそんなことが、ひどく新鮮だった。 少し緊張した面持ちできゅっと唇を引き、コータは博也を伴って暗い場内に入った。 客は片手で足りるほどで、お世辞にも繁盛しているとは言えない。 場内に入る前にチケットと一緒に渡されたペラのチラシに目を走らせたが、聞いたこともないタイトルと監督名が三つ並んでいるばかりだった。 コータが迷い無く一番後ろの列の真ん中の席に導いたので、並んで腰を下ろす。 他の客は前方にいて、博也たちの座る列にもその前の列にも他に座っている人はいなかった。 かなり古いタイプの座席は、前の席の背面に後付けと思われるドリンクスタンドがついているだけの、ごくごくシンプルなものだった。 長い年月を経て押し潰されたのだろう座面は座り心地がいいとは言えず、すっかり皺になってしまった浴衣の尻をもじもじと動かす。 座席同士を隔てる肘掛けは、貸切バスのように上下に動かせる作りになっていて、ポップコーンを置くためのテーブルはついていない。 もちろん狭い場内にはポップコーンなど売ってはいなかったが、昼間は階下のカフェで飲み物と軽食を買ってこられる仕様なのかもしれない。 「三十分程度の自主制作の映画が三本、オールナイトでエンドレスで流れてるだけだから。気楽に見てて。眠かったら寝てていいよ」 小声で手短に説明され、取り出した缶ビールを渡されて小さく乾杯をする。 涙と汗で水分が搾り出されていた博也の体に、心地よい苦味が染み渡った。 500ml缶、280円。中瓶一本2000円の、財布の中身を気にしながら飲むホストクラブのビールよりも遥かにおいしい。 最近はマノン以外で酒を飲む機会もなかったから、酒そのもののおいしさをすっかり忘れていたことに、遅まきながら気がついた。 映画は、正直よくわからなかった。着席したのは上映の途中だったし、それでなくてもストーリーが読み取れないほど抽象的で小難しい。 だが、田舎の風景を捉えた映像は鮮烈で、強烈な郷愁に胸をぎゅっと締め付けられた。 博也は田舎の生まれではないし、休日に自然と戯れるようなアクティブな趣味もない。 だが、川底に張り付くように泳ぐ小さな川魚や、夕日で黄金に染まる稲穂、青々とした山の麓の小さな墓と、日本人としての原風景とでもいうべき景色は、博也の心をわけもなく揺さぶった。 中でも、画面いっぱいに打ち上げ花火が映し出されるシーンには、心臓が一瞬鼓動を止めたかと思われるほど心を掴まれた。 花火が打ち上げられる甲高い笛の音、ぶわっと広がる光の粒、そして遅れてやってくる撃ち抜かれるような爆発音。 しかもその音が、途中から映像とずれ始めた。 スクリーンでは畳み掛けるように大玉の花火の光が弾けているのに、スピーカーからは一発一発ゆっくりと、ひゅーん、どぉおおおぉっと打ち上がり散る音が流れている。 弾ける色とりどりの光の中に、博也は地味で小さなしだれ柳を見た。 映像は花火大会のフィナーレで、大玉が無数に炸裂して画面を覆い尽くし、光と煙で目を覆うばかりなのに、スピーカーからは相変わらず、ひとつひとつの火薬玉を惜しむかのように、ひゅーん、どぉおおおぉっという音が流れていた。 光の方が音より速いことは知っている。けれどそれは誤差の範囲かと思っていた。 本当は、これくらい時差があるんだろうか。起こっている出来事が、胸にどぉんと響くまで、時差があるのと同じように。 かと思えば、眩い光も胸に迫る爆発音も掻き消え、スクリーンの中央で蝋燭の火に翳された繊細な線香花火がぽっと燃え上がった。 パチパチパチと軽やかな音を立てる小さいが眩い炎は、ほとんど光と音が一致しているように見えた。ほとんど。ほんの少しのずれはあったが。 その炎の中に、博也はモモとの日々を確かに見た。 そういう力のある映像だった。 ふと気付くと、流しつくして枯れたかと思っていた涙が両目からほろほろと流れ落ちていた。 コータが隣で微動だにせずにスクリーンを見つめている気配がして、涙を拭う身じろぎもためらわれる。 だがコータはじっと涙を流す博也の手を取り、慰めるように、わかるよとでもいうかのように優しく揺すった。 コータもこの線香花火の金の光の中に、儚く眩い何かを見ているのだろうか。 線香花火は徐々に火花が勢いを失い出し、じっ、じっ、と途切れ途切れのまろやかな火に変化する。 控えめに光が飛び散る様子は断末魔というにはあまりにも静かで、今にも火の玉が落ちそうなのに、足掻いているようにも見えない。 すぐ先にある終わりを従容(しょうよう)と受け入れている。勢いを失った老境の美しさがあるがままで灯っているようだ。 そして最後に、小さくなった火の玉がころりと落ちた。 涙のような形をしているのに、軽やかで、あっけらかんとして、楽しげでさえあった。 そこに予想していたような悲壮感はなかった。 だってしっかり燃やし尽くしたもの、とでも言うような、晴れ晴れとした寂しさがあった。 そのシーンを最後に、エンドロールが流れた。 低予算の映画なのか、ローマ字で書かれたスタッフの名前は驚くほど少なくて、あっという間に流れていってしまう。 監督の名前が流れたところで、コータが小さな声で言った。 「河辺敦彦。俺の大学の同級生」 驚いて隣を見ると、コータの視線は正面を向いたままだった。 その表情に釘付けになる。 スクリーンの光にほのかに照らされたコータの顔には、痛みとしか呼べないような色が浮かんでいた。 「すごいね。僕はあんまり映画観ないから全然わからないんだけど、すごい映像だったと思うよ」 門外漢であってももう少しましな表現があるだろうと思うが、博也には他に言葉が思いつかなかった。人に何かを伝える努力を怠ってきた付けが回っている。 だがコータは気を悪くした様子はなく、むしろ「やっぱすごいと思うよな」と呟いた。 「河辺も俺も映像学科でさ。自分で言うのもなんだけどそこそこ有名な大学で、映像撮ったり構成勉強したりしてんのね」 まぁ俺は休学してホストなんてやってるわけだけど、と皮肉げに唇を歪めたコータの口から出たのは、そこそこどころか誰でも知っている私立大学のトップ校の名前だった。 ひどく驚くと同時に、納得もする。 優秀な大学の学生が作ったのだという前提で思い返せば、さっき見た映像には奇をてらってやろうという下世話さがなく、どことなく知性が感じられた。 それを最初から指摘できるほどの洞察力は博也にはないが、なるほどとは思う。 だが、頭いいんだねという言葉はすんでのところで飲み込んだ。 それは、皮肉げな表情をしているコータにとっては、褒め言葉ではない気がしたから。 「それなりの大学に入ったのにわざわざマイナーな映像学科に進む奴らって、かなり本気で映像に賭けてるんだよな。映画千本観たなんて何の自慢にもなんないレベル。 そんな奴らが集まる中でも、あいつの撮った映像は一年の頃から頭一つ抜けてて、教授の評価も高かった。 けど、そんな評価とかなかったとしても、俺はあいつの撮る絵には力があると思った。俺がどんなに工夫しても映像に宿せない、力が」 つまり、それがコータの屈託なのだ。 言葉少なに語ったコータの横顔は、ホストではなく学生のそれだった。 夢を見て、努力をして、そして自分より才能溢れる同世代に出会う。 漫然と学生時代を過ごした博也には覚えがないが、本気で目指すものがあって進学した学生なら、その多くがぶつかる壁なのだろうと思う。 ありがちな挫折だ。 だが、当人にとってはありがちでは済まされない。 慰める言葉も励ます言葉も、博也は持っていなかった。 だから握られたままだった手を握り返し、コータの言葉を繰り返す。 「うん。河辺君の撮る映像には力があるんだね。見たことない場所なのに懐かしくて、線香花火しか映ってないのに泣けるって、力があるってことなんだね」 エンドロールが終わり、場内が少し明るくなる。 無愛想な男性の声で、次の作品は十分後に放映開始するとアナウンスが流れた。 客は誰も席を立たない。先ほどの映像の余韻の中にいるのか、眠ってしまっているのか、一番後ろの席からでは判断がつかなかった。 「俺、高校のころ部活で映画撮ってて、結構評判よかったんだよね。自己流だったけど色んな本読んで勉強したし、映画もかなり観たし。映画マニアの教師にセンスがあるなんて言われて、天狗とまでは言わないけどちょっと自信はあった。自分はまだまだだけど、大学でもっとちゃんと勉強したら、もっといい絵を撮れるようになるはずって。 だけど、そういうことじゃなかった。一年の発表会で河辺のショートムービー見て、あぁ俺才能無いわってはっきり気付いたんだ。河辺は映像を撮るってことと魂から結びついてるんだなってわかったっていうか。 俺は映画って体裁に自分の映像を当てはめようとしてたけど、河辺は自分が撮った物が何て呼ばれるかには興味がなくて、撮りたいから撮ってるんだって叫んでるみたいだった。あ、こいつ天才ってやつだわって、ちょっと笑えた。 それから一年間は俺もなんとか足掻いたけど、親の会社が倒産して学費厳しくなったのをいいことに、休学して今に至る、と。青い春だろ」 最後には冗談めかしてはいたが、触れるのが躊躇われるような、まだ瘡蓋もできていない生傷なのだろう。 博也はここへ来る前にコータが言っていた言葉を思い出していた。 モモを諦めると決めた博也と一緒なら、自分も現実を受け入れられそうな気がすると。 「さっきの見て、何かわかった?」 遠慮がちに問いかける。コータはやっと博也の方を向き、小さく笑った。 「やっぱ俺、河辺の撮ったもん好きだわ。すげえと思う。俺が撮りたいってイメージしたもんをそれ以上の形で見せてくれるんだから、もう俺が撮る必要ってないよな」 博也は泣きたくなった。 そんなことないよと言ってあげたい。コータ君にしか撮れないものがあるよと。 きっとそれは事実だ。一人ひとり違う人間なのだから、少しずつ違う物が撮れるだろう。 ただ、違うというだけでは価値がないのだ。 少なくとも、その道を志した青年にとっては。 「僕は、モモのことは一生好きだと思う。自分の全てを差し出すほどの強い想いじゃなくなっても、他の人を好きになっても、多分時々思い出して泣いちゃうくらい、好きなままだと思う」 博也は唐突にモモの話をして、二人の間で繋がれていた手を持ち上げ、両手でコータの手を包んだ。 少し怪訝そうだったコータの顔に、次第に理解の色が広がる。 博也には夢も趣味もこれだと確信をもてる何かも無いけれど、モモへの気持ちだけは唯一自信をもって、これまでの人生で一番手放すのが苦しい大切なものなのだと言えた。 「関わり方が変わっても、一生映画を好きでいたらいいって?」 少し、コータの目が潤んでいる気がしたが、薄暗い照明の下でははっきり見えなかった。 夢を諦めることについて語る言葉などもっているはずもなく、博也はコータの問いには答えないまま言葉を続けた。 「僕は、モモが嫌いで離れるわけじゃない。嫌いになれるわけないよ。苦しいこともあったけど、楽しくて、嬉しくて、幸せな瞬間の方が多かったんだから」 映画のことも、コータがどれほどの想いだったかもわかりようがないから、博也は自分がわかることだけを真摯に話した。 俯いてしまったコータの肩が小さく震えている気がする。 だが、大きく溜息を吐いてから顔を上げたコータの目元に涙はなく、代わりにからかうような笑みが浮かんでいた。 「それに、気持ちいい瞬間が沢山あったし?」 混ぜ返されて苦笑する。 「そうだよ。すごーく気持ちよかったんだから」 開き直ってつんと顎を逸らして見せたところで、再び客電が落ちた。 先ほどの作品の終わりの静謐さとは打って変わって、情熱的で力強い和太鼓のリズムがスピーカーから響いてくる。別の監督の作品が始まったのだ。 するとコータは急に手を解き、座席の間にあった肘掛を持ち上げると、博也に覆い被さるように抱きついてきた。 驚いて固まってしまったが、耳元で囁かれた声が少し震えているように思えて、博也は全身の力を抜いた。 「博也さん、やっぱり俺より大人なんだね。俺、超慰められちゃった。ありがとう」 大人なわけがない。 恋愛も、ひたむきな努力も、コータの方がよほど経験してきただろう。 ただ、将来の夢という言葉を口にできる年齢ではなくなった分、それを失っても生きている人たちを沢山見てきただけだ。 だがもしコータから見て自分が大人で、それで彼の傷ついた心が少しでも慰められるというのなら、今だけはもっともっと大人になりたかった。 博也は抱きついてきたコータの背に両手を回し、大袈裟にならない程度にそっとさすった。 大丈夫だよ、泣いていいよ、と気持ちを込めて。 「博也さんて、男を甘やかして駄目にするタイプだよね」 生意気なことを言われても、鼻声だから腹も立たない。 「駄目になるかもと思える人間は、取り返しがつかない程には駄目になったりしないから、安心して甘えなさい」 自分にこんな年上ぶった口がきけることに内心驚いたが、甘やかしたいという気持ちが勝手にあふれ出してしまうのだ。 モモも年下だが、こんな風に甘やかしたいと思ったことはなかった。 モモに何かしてあげたい、喜ばせたいと常に思っていたが、今考えるとそれは自分の何かを切り取って差し出したいという気持ちだった。 こんなに身を切っているんだから、側にいて、愛してと、全身で叫んでいた。 それは今みたいに、自分がもっと大きくなって包み込んで、空隙を満たしてあげたいというような気持ちでは決してなかった。 「どっちかって言うと、健気でかわいそうなあんたを俺が守ってやりたいと思ってたんだけどなー」 コータが顎を押し当てた肩口で、少し不満げに一人ごちる。 その拗ねた声音がすごく可愛くて、思わず笑ってしまった。 「守ってやりたいなんて今時の男の子でも思うんだねぇ。そういう気持ちは可愛い女の子相手にとっておいて、今はお兄さんに素直に甘えときなさい」 年下の男に健気でかわいそうだから守ってやりたいだなどと言われたら、普通の男なら腹を立てるのだろうか。 胸が温かくなったのは、自分がゲイだからなのか、博也にはわからなかった。 だが、同情や憐れみからくるものだったとしても、誰かを守りたいという気持ちは、とても優しい強さなのだと思う。 モモに恋してボロボロになっていた自分に、そんな気持ちを向けてくれる人がいたと知っただけで、博也は惨めさから救われた。 なんていい子なんだろうと思った。 だが、博也が暖かい気持ちでコータの背を撫でていられたのはそこまでだった。 コータの唇が、急に博也の耳に押し付けられたのだ。 「じゃあ、甘やかしてよ、お兄さん」

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