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#1 受験の話

 兄がいる。俺には、意地悪な兄がいる。  捉えにくい飄々とした態度、傍若無人な性格、ゲラゲラと品のない笑い方、そしてそれらのマイナス要素を全て帳消しにするほどの顔の良さを持つ兄は、ある側面で俺にとって目の上のたんこぶと言っても過言ではなかった。  どういう意味か。  歳の近いモテる兄を持つ弟という存在がどれほどいるのか分からないが、お仲間には理解してもらえるだろう。何の取り柄もない弟の苦労を。  勉強も運動も、兄は何気ない顔で俺をひょいと上回る。二歳差だから義務教育は同じ学校にならざるを得ないし、あちらがやたらに目立つので、先生やクラスメイトは何かに付けて俺と比較する。  色恋に関して言えば、小学校からの思い出は、ラブレター・バレンタインチョコの運搬、伝書鳩、『好きな女の子が兄に憧れているらしいと風の噂で聞いて人知れず失恋』など。甘酸っぱい思い出なんてない。全て塩辛い思い出だ。  他にも沢山あるのでまたの機会に嫌というほど語りたいと思うが、ともかく俺の少年時代はそんな褪せる前からセピア色みたいな思い出ばかりだった。  だからだ。  俺が、電車で一時間半かかる場所にある、自分の偏差値を軽く飛び超えるその高校に受験を決めたのは。  有り体に言えば、もう兄と同じ学校に行きたくなかったのだ。  兄は偏差値平均ほどの近所の高校に進学した。そもそも兄こそ俺が進学を決めた高校に受かるレベルの偏差値があったはずなのに、通うのが面倒という理由だけで志望校のランクを下げたのだから腹立たしい。  まぁでも、後出しで学校を決められるのは弟の強みだ。俺が頑張れば高校は別な訳なのだから。  折角自分で学校を決められるんだから、わざわざ辛酸を舐める選択肢を選ぶ理由はない。  俺は今度こそ、兄を知る者のいない学校でしがらみのない高校生活を送るんだ!  そんな想いで受験勉強に励んでいた中三の夏の話だ。 「今週の土曜日、高校見学行ってくるから」 「あぁ、第一志望の?遠いでしょ、気を付けてね」  夕飯の唐揚げをつつきながら俺が言うと、父は優しい声音でそう言った。  すると、隣で白飯を咀嚼していた兄が口を挟んでくる。 「深更(しんこう)高校ってどこだっけ?」 「正子(しょうし)駅。電車乗り継いで一時間半」 「遠」 「やかましわ」 「何キレてんだよ」  お前のせいでそんな遠い学校志望する羽目になったんだからな。  そんな気持ちを込めて意趣返しとばかりに兄の唐揚げに箸を伸ばすと、カッ!と箸で止められた。宮本武蔵か。 「暮方(くれがた)高校にしたらいいのに~。お兄ちゃんいた方が安心じゃない?」 「お兄がいた方が安心できないよ!」 「いや俺いた方が安心だろ」  な、と含みのある視線を向けられ、思わず言葉に詰まる。  ――冒頭で『ある側面で兄は俺の目の上のたんこぶだ』と述べたが、それと同時にもう一つの側面において、俺は兄に頭が上がらないのだ。  『安心』というのも、父の言う意味でなら堂々否定させてもらうが、兄の言う意味でなら俺は正直頷かざるを得ない状況がある。  が。それとこれとは別の話だ。 「深更行くんです~もう決めたんです~」 「まぁ、陽向たくさん勉強して頑張ってるもんなぁ。それだけ行きたいんだね」 「ぶっちゃけ受かんの?」 「……ダメそーだから頑張ってんだよ」 「朝旦(ちょうたん)行けば?」 「いや市内屈指の不良校!行く訳ねーだろ!さすがにそこまで偏差値低くねーわ!」  これ以上いじられたくないので「はいもうこの話終わり!」と言い放つと、兄が耳を疑うようなことを言い出した。 「俺も行こうかな」 「は?」 「高校見学」 「はぁ!?」 「冗談だよ」 「当たり前だっつの!大概にしとけ!」  ばーか!と思い切り兄の肩をグーで殴ると、テーブルの下で弁慶の泣き所を蹴られて軽く泣いた。  風呂から上がり、あとは寝るだけだと部屋へ向かう。と、 「ひなぁ」  ちょうど兄が自室から出てきた。 「うん?」 「深更の近くに墓地あんの知ってる?」 「えっ。……知らない」 「周辺が事故物件の集合地だってのは?」 「しっ、知らない……」 「じゃあ深更の怪談も?」 「知らないです……」  そう言うと、兄はニヤ~ッと意地の悪そうな笑みを浮かべた。そして一言。 「何もないといいな」  ポン、と俺の肩を叩いて通り過ぎる兄。  俺はしばらく固まった。ハッと我に返って後ろを振り向いたが、兄はもう廊下にいなかった。  ☆  土曜日。アラーム通りの時間に起きられたのは良かったが、少し憂鬱な目覚めだった。  兄の話を聞いてからずっと見学に行くのをやめようかと迷っていたのだが、結局出した結論は、『受かったら毎日通うんだから、今行かなくてどうする』だった。  腹を括って出かける準備をする。制服を着て、ひとつ深呼吸。 (いや、大丈夫大丈夫。心霊スポットだって騒がれてる場所、意外と何もいないとかザラだし。もし何かあってもお兄に……いやいやいや、お兄は頼れないんだって!家まで電車で一時間半!な、何かあったら……いや、自分で何とかできる!うん!俺はできる!ていうか絶対何もないし!多分!)  自分に言い聞かせて部屋を出る。朝食を摂るために居間へ行くと、父がコーヒーを飲んでいた。兄はまだ眠っているらしい。  父が用意してくれた朝食を食べ、俺は家を出た。 ☆ 「――で、こっちが体育館ですね~」  40代くらいの女性教師の先導で、制服姿の中学生達がぞろぞろと体育館へ入っていく。  先程まで視聴覚室に集められて軽く説明を受けていたのだが、今は校内見学の時間だ。  進学後の部活などにも既に意識を向けている生徒は興味津々に案内を聞いているが、俺は気もそぞろに昨日聞いた兄の言葉を反芻していた。 『じゃあ深更の怪談も?』 (深更の怪談って何だよ!!)  不審にならない程度に、辺りをキョロキョロ見回す。が、ここに来てから特にこれと言ったものは見当たらなかった。  墓地や事故物件があるというのは本当らしく、駅に降り立ったときからちらほらとそういった類のものが "視" えてはいたが、皆、害のありそうなものではない。  校内も、特におかしなところはない。  すると、真後ろの女子生徒達のひそひそ話が耳に届いてきた。 「この体育館、『出る』らしいよ」 「えっ、『出る』って……幽霊?」 「そう。深更の七不思議のひとつ。夜中に体育倉庫からボールの『テイン……テイン……』ってバウンド音がずっと聞こえてくるんだって」 「えぇっ、何それ。他は?」 「全部は知らないけど……音楽室から夜な夜なピアノの音が聞こえるとか、三階の奥の階段にだけついてる鏡はあの世と繋がってるとか、一階の女子トイレには霊が住み着いてるとか」 「えー、ほんと~?」 「さぁ。でも先輩方の間でも結構噂になってるらしいよ。実際に見た人もいるらしいし」 「えぇ~」  ……何だ、そんなもんか。俺は心の中で乾いた笑みを浮かべた。  なぁにが深更の怪談だよあのヤロー。どっかで聞いたようなのばっかじゃんか。  うちの中学にも体育倉庫がどうとか音楽室がどうとか何か似たような話あるけど、びっくりするくらい何もないぞ。うちの家のがよっぽど怪現象起こるっての。  どうやら深更の怪談とやらは眉唾物らしいと分かり、俺はあからさまに胸を撫で下ろした。  と、そのとき。  ヒヤリと上から冷たい風が流れてきた。  顔にまとわりつくような冷気に『冷房かな?』と何気なく上を向く。  すぐに、見なきゃ良かったと後悔した。  体育館の高い高い天井。  その骨組みで、人が首を吊っていた。  死体は、風に煽られでもしているようにぷらぷらと揺れている。  目を逸らしたいのに、逸らせない。身体が固まってしまっている。心臓がバクバクと急速に鳴り出すが、死体はそれを嘲笑うようにゆっくりゆっくり左右に揺れる。  ギィ、ギィ、と、高いところで木の音が鳴っている。    ギィ、ギィ、ギイ、ギイ、ギイイ、ギイイ。  ――揺れが、だんだん大きくなってきてないか?  ギイイ、ギイイ、ギイイイ、ギイイイ、ギイイイッ、ギイイイッ、ギイイイッ!  ブランコのように死体が激しく揺れる。あまりの勢いに俺は唖然と口を開けて天井を見続けていた。  と、そこで案内の先生が「はーい、それでは次に行きますよ」と声を上げた。  反射的にそちらを向く。 「次は二階に上がって美『バタン!!』」  先生の声をかき消すほどの凄まじい音が体育館中に鳴り響いて、俺はヒュッと息を吸い込んだ。  何かが床に思い切り叩きつけられたような、激しい音。それなのに先生や他の生徒達は何ら気にせず踵を返す。  ぞろぞろと体育館から人波が出ていく中、俺は恐る恐る首を動かした。ゆっくりと視線を床に這わせる。  ……そして、見えた。見えてしまった。  今になって思うが、何故俺はこのとき知らん振りをして体育館を出るという選択肢を取らなかったのだろうか。  考えるより先に身体が動いた気がする。愚かな怖いもの見たさか、『気のせい』を祈ったのか、それとも、何かの引力か。  床には、千切れたロープ。そして、そのロープを首に巻き付けて横たわる、中年男性の姿があった。  ビクンッ、ビクンッ、と男の体が跳ねたかと思うと、唐突に男の瞳が開いた。 「!」  視線がかち合ったその瞬間。  男が、這った蛙のような体勢になり凄まじい勢いでこちらへ迫って来た。 「うそ、く、来んな、来んな!」  目を疑うほどの速さで地を這う男に、俺は慌てて駆け出した。  いつの間にか周りには人ひとりおらず、皆とっくに二階へ上がってしまったのだと頭の片隅で悟る。  それならば二階へ上がる訳にはいかないと思い、俺は無我夢中で一階の廊下を走った。後ろは一切振り返らなかったが、男の四肢が地を蹴る音がずっと聞こえてくるので、嫌でもそこにいることが分かった。 (どうしようどうしようどうしようどうしよう!)  泣きそうになりながら、ひたすら頭の中に『どうしよう』が巡る。  このまま走り続けてもキリがないし、全力疾走で俺の体力もどんどん削られている。  でも、足を止めたら終わりだ。一体どうすれば……――そのとき、ヤツの意地悪な顔が頭に浮かんだ。 『何もないといいな』  そうだ。ここに通うなら、ヤツは頼れないんだ。ひとりで何とかできるようにならなければ……!  俺はキュッと踵を返すと、立ち止まって男に向き合った。  瞬間、ぞわりと泡立つ。究極的な悪寒。  ――対峙した男から、凄まじい勢いで死の香りが迫り来る。  暴力的なほど強く色濃いそれを感じ取ったとき、俺の本能は一瞬で『どうにもできない』と察した。  反射的に足が地を蹴る。俺は再び、男から逃げ出した。  走っている間にも、寒気が止まらない。震える足が縺れそうになるのを必死で抑えた。  呑まれる前に我に返った自分を自分で褒め称えたい。 (く、……っそ!)  めちゃくちゃ癪だが、やはり俺が頼れるのはあいつしかいない。  俺は走りながら必死でポケットのスマートフォンを取り出し、ある番号に電話をかけた。  三コール目で取られた電話は、小憎たらしいニヤケ声に繋がった。 『お~お~どうしたどうした』 「おにっ、たす、たすけっ!」 『あ?ごめんよく聞こえないわ』 「~~っ!」  どうせ分かっている癖に意地悪なことを言う兄に、大声で『ばか!!』と言ってやりたくなったが、グッと堪えた。  そんな俺の様子を電話越しに感じ取ったらしい兄は、「嘘嘘」と軽やかに笑った後、はっきりとした口調で言った。 『今、深更の近くにいんだわ』 「……へっ!?」 『近所に新しく出来たモールあんの分かる?父さんが行きたいっつーから着いてきたんだけど』 「え、えっ、ほんと!?」 『ほんとほんと。いやー良かったな。つーことだからまぁ、あとは簡単だろ』  後ろから迫る男の足音の隙間を縫って、兄の言葉が耳に入ってくる。 『ここまで走って来いよ』  プツリ。ツーツー……。  俺は、通話の終わったスマートフォンの画面をただ見つめた。  は、走って来いってお前。近所っつったってすぐそこにある訳じゃないだろうが。 「……っちくしょー!」  でも、言われた通りにやるしかない。  俺は止まりそうな足を叱咤して、走る速度を速めた。 ☆ 「はっ、はぁっ!はっ……みえ、た……!」  学校を出て、何分走っただろうか。  深更を出ても後ろから迫る音が止むことはなかった。恐らく、地縛霊ではなく浮遊霊の類なのだろう。  男の霊を背に無我夢中で走り続け、俺はやっと件のショッピングモールが見えるところまでやってきた。  安心感に少し脱力すると、忘れていた足の疲労や擦り切れそうな喉の感覚がじわじわ蘇ってくる。やばい、しんどい。  と、ポケットのスマートフォンがブブーッブブーッと震えた。電話だ。急いで取り出して画面を見ると、兄だった。 「もしもし!?」 『着いたら正面入口左手の男子トイレな』  それだけ聞こえてくると電話はすぐに切れた。ツー、ツー、と鳴るスマホを耳から離し、片手に握り締める。 (正面入口、正面入口……!)  頭の中で反芻しながら走る。ずっと走りっぱなしで足がガクガクしている。喉も痛い。  ふと思い立って、何となく後ろを見遣った。 「ひぃ!」  男は俺のすぐ後ろまで迫っていた。手を伸ばされでもしたら届いてしまいそうな距離。まずい、まずい!  力の入らない両足を何とか動かすと、ようやくショッピングモールの正面入口に辿り着いた。  言われた通り左手に足を向けると、確かに男子トイレがある。……『清掃中』の立て札があるが、入ってもいいのか?  後ろを見遣ると、男は閉じた自動扉の壁をすり抜けてこちらへ這い寄って来ていた。  ――考えてる暇なんてない!  縺れそうになる足を引き摺って、トイレの扉を押し開けた。 「っ!お兄!」  扉のすぐそばで兄が壁に寄り掛かって立っているのが見えて、俺はトイレに飛び入るのと同時に思い切り兄の胸に飛びついた。 「うおっと」  バランスを崩しながらもしっかり俺を受け止めた兄は、ひとつ笑い声を上げるとそのまま俺を背に隠した。  兄が俺の開けた戸を足で閉めたのと同時に、バン!と何かが戸に叩きつけられるような音がした。  すぐに、バンバン!バンバンバン!と連続して戸を叩く音が鳴り響く。 「ひぃーっ!」  兄の着ていたTシャツを掴み悲鳴を上げる。そんな俺に構うことなく、兄は思い切り戸を蹴り飛ばした。  ガンッ!という激しい音に「ひっ!」と再び悲鳴を上げたが、バンバンと戸を叩く音はふと途切れた。  静寂。 『……チッ』  扉の向こうから、舌打ちのような音が聞こえた気がする。ビクリと肩を強ばらせ、またしばらく。  ……もう、音も何もしない。どうやら男は去ったらしい。 「あ、相変わらず粗い祓い方……」 「何だ?文句か?」 「めっ、滅相もない!」  首をブンブン左右に振る俺に、兄がケラケラ笑う。  はぁ~っ、と大きく長い溜め息を吐くと、一気に脱力して思い出したように疲労が襲いかかってきた。あまり衛生的ではないが、我慢できずその場にしゃがみ込む。 「つかれた……」 「がっこー見学は?」 「それどころじゃないよ~……多分もうそろそろ終わる頃だろうし、このまま一緒に帰る……」 「そ」 「父さんは?」 「靴見てる」 「そ……俺は疲れたからその辺のベンチ座って待ってる。帰るとき連絡ちょうだい」 「ん、じゃあ俺は戻るわ」 「んー」 「立てるか?」  兄が差し伸べてくれた手を掴んで、何とか立ち上がる。すっかりガクガクの足を何とか運びながら、男子トイレから出た。  『清掃中』の立て札をさりげなく中へ引っ込めた兄を見て、『お前か……』と思った。 「ふぅー……」  兄と別れて空きベンチにドサリと腰掛ける。身体が疲労からじわじわと解放されていく感覚が心地良い。  必死のあまり気付かなかったが、着ていた半袖のワイシャツが汗まみれだ。 (うぅ~、気持ち悪い……)  襟ぐりを掴んでパタパタと扇ぎながら何となしにモール内を見渡す。  新しく出来たとあってやはり人は多く、皆楽しそうにそこらを歩いている。俺もこんな満身創痍じゃなきゃ色々見て回りたかった。  はぁ、とひとつ溜め息を吐いたそのとき。  ガッ! 「!?」  放り投げていた両足を、すごい力で掴まれた。突然のことに思わず肩が飛び跳ねる。  両の足首にギリギリギリ……と凄まじい圧が加わっていく。  何事かと確かめずにはいられず、俺は恐る恐る下を向いた。  ベンチの下から、俺の足を鷲掴む生白い二本の腕と、長い長い縮れた茶髪がはみ出ていた。 「ひっ、ひいいい!」  人目も気にせず立ち上がる。  渾身の力で腕を振り払うと、俺は兄と父に合流するべくモール内を再び全力疾走した。 ☆ 「だから俺がいた方が安心だっつったろ?」  リビングのソファにふんぞり返った兄が底意地の悪そうな笑みを浮かべる。  俺は言い返そうにも一向に言葉が浮かんでこず、兄の前でフローリングに膝をついてただ唸る他なかった。  ――結局あの後、帰るまでに三回怪異に襲われた。  ベンチの下の霊から逃げて兄達と合流し、店を流し見している道中で無邪気な子供の霊にまとわり憑かれ、フードコートでおやつタイムを楽しんでいるときにベンチの下から霊(二回目)(以下略)て、最後は父の運転する車に轢かれた霊がそのまま家まで引き摺られて来て最終的に俺に憑いた。  全ての霊をその場で造作もなく追い祓ってくれた兄に、俺は今日寝るまで頭が上がらない訳である。 「『超霊媒体質』」 「うっ」 「自分のこと忘れた訳じゃねーよな?」 「じゃねーです……」 「分かってんならいいけど。それで?本当に三年間あんな異常な街に足踏み入れんの?」 「うっ……」  兄にスパンと言われ、俺は視線をさ迷わせる。  確かに、正直うんざりした。今日一日で何回霊を見た?目にするだけならもう慣れっこだからいい。問題は、怪現象に見舞われたときだ。悔しいが、俺ひとりでは本当にどうしようもないことを今日改めて思い知った。  ……それに、あれだけ頑なに『深更に行く』と言っていたが、実は正直なところ迷っていたのだ。  だって遠いんだもん!今日ひとりで行ってみて改めて思ったよ!あれ三年間はキツいって!あと普通に偏差値が足りてない!まだ夏だからとか言ってらんないレベルで足りてない!  いっそ全てを我慢して暮方高校に……と何度考えたことか。  そんな俺の心情を知ってか知らずか……いや、どうせ知ってんだろうな。こいつはそういう奴だ……。  兄は俺の顔を覗き込んで目を細めた。 「ひーな」  視線がかち合って、何となく居心地の悪さからじと~っと睨みつける。  くそっ、こいつの鼻があと少しでも低ければ、俺の歴史は変わっていたのに。 「……ま、まぁ。学校で説明聞いて何かちょっと合わないかもなって思ったし」 「ふーん?」 「友達もいないし、制服ないから毎日服考えんの面倒だし……」 「へえ?」 「……やっぱ、通学しんどそうだし」 「素直に『お兄と一緒の学校行きたい!』って言やいいのに」 「それだけは絶対にないから今すぐ訂正して」 「んだとコラ」 「うぐええええやめろやめろギブギブ!」  兄が思い切りヘッドロックを決めてきて、俺はバシバシ床を叩く。  緩んだ腕の中で「鬼、最低、DV男」などとボヤいていると、兄が小さく呟いた。 「……俺が近くにいたって、絶対手が届くとは限んねーんだから」 「うん?」 「うるせー」 「うぐぎぎぎギブギブギブだっつってんだろ!!何もうるさくしてねーし!!」  肩を殴りつけてやると兄はケラケラ笑い出した。笑い袋みてーだな。  意地悪で、いつも飄々としていて、傍若無人で、品の欠片もない笑い方で、それらのマイナス要素を全て帳消しにするほど顔の良い兄。  俺の学校生活を色褪せさせるという面において、ずっと俺の目の上のたんこぶだった。  そしてまた別の面では、『超霊媒体質』である俺の霊的なトラブルを解決してくれるという意味で、頭の上がらない存在。  ――そんな兄と俺の話を、これから思い出していこうと思う。

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