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#2 家
俺と兄は、義兄弟だ。欠片も血は繋がっていない。
ちょっと話がややこしくなるのでさらっと流してもらって構わないのだが、まぁ要は俺が6歳、兄が8歳のときに、俺と俺の母が柳家の一員になったという話だ。
母さんは、所謂シングルマザーだった。実父についてはとりあえずノーコメント。嫌いなんだ。
兄の実母は、兄が5歳のときに交通事故で亡くなったらしい。
数年後、何やかんやあって母さんと今の俺の父さんが一緒になることになり、俺と母さんは二人で暮らしていたアパートから、父さんと兄と亡くなった兄の実母が三人で住んでいた一軒家へと引っ越したのだった。
かくして四人家族の生活が新たに始まり、順風満帆で幸せな毎日を送っていた訳だが、俺が11歳のときに母さんが病気で倒れた。
しばらく入院していたが、俺の卒業を待たずして、母さんは逝ってしまった。
以来、俺と兄と父さんの男三人暮らしとなった。
今回は、そんな少し複雑な事情のある我が家で起こったことについて。
小学生の頃、まだ柳家に越して来たばかりの頃の話だ。
母さんは女手一つで育ててきたのがやっと一緒になれる人を見つけて、毎日すごく幸せそうだった。
が、俺は慣れない生活に子供ながら四苦八苦していた。
何故か。理由は簡単だ。兄が粗暴だったから。
「ひなたー、リモコンー」
「え、お兄ちゃんの方が近い……」
「動きたくねーんだもん」
「……」
「立ったついでに飲みもん取ってきて」
「…………」
兄は、引越し直後こそ初対面らしく余所余所しい振る舞いを見せていたが、三日も過ぎればこんな調子で俺を子分扱いだった。
それまで母さんと二人穏やかに緩やかに暮らしていた俺はそんなクラスのガキ大将みたいな兄に苦手意識を持つようになり、また当時は人見知りだったことも相まって、兄は俺の中で完全に『接しづらい義兄』という立ち位置になっていた。
そんなある日の夜。自室として与えられた二階奥の部屋で寝ていた俺は、ふと尿意を催し目を覚ました。
ベッドの中でもぞもぞと布団を体から剥いでいると、寝ぼけ眼に真っ黒い影のような何かが映った。
思わずビクッと固まり静止すると、ベッドのスプリングが僅かにギッと鳴った。その音に釣られたように、黒い影がもぞりと蠢く。
髪のような影が、さらりと揺れた気がした。
心臓がドコドコ鳴り始め、息が荒くなる。俺は咄嗟に布団を頭まで被り直した。
謎の影に気付かれないように、じっと必死で息を潜める。
どれくらい経っただろうか。体感では5分にも10分にも感じられた。もう大丈夫かな、と恐る恐る布団から頭を出す。
外気に触れた額に、細くて柔らかい何かが触れた。
こそばゆい感覚に目を細めたのも束の間。
視界いっぱいに、長い髪を垂れ下げた顔が広がっていた。
「うわああああ!」
反射的に布団を剥いで部屋を飛び出す。
真っ暗な廊下へ出て、自室の扉をガチャンッ!と閉じた。扉の前にへたり込み、上がる息に喘いでしまいそうな口を必死に手で抑え込む。
先ほどの光景が何度もフラッシュバックして、身体がガタガタ震え出す。あれは何、誰、……顔は、部屋の暗さと長い髪が邪魔でよく見えなかった。それが余計に怖くておぞましくて、泣き出しそうになる。
不意に、隣の部屋の扉が開いた。ビクッと肩が大きく跳ねる。
「っせーなぁ……」
恐る恐るそちらを見ると、兄が目を擦りながら部屋から出てきた。
思わず、自分が兄に苦手意識を抱いていたことも忘れて縋りつく。
「おにいちゃ、へや、へやに、おれのへや、」
「あ?何?部屋?」
兄のシャツの裾を掴み、ボロボロ涙を零す。
兄はそんな俺を見下ろすとポリポリ頭を掻いて、「ゴキブリでも出たんか」と呟きながら俺の部屋へ歩き出した。
腰にしがみついて引きずられながら自室の扉の前へ立つと、兄がガチャッと扉を開ける。あまりの躊躇いのなさにビクッとして、俺は兄の背中へ隠れた。
電気をつけようと壁に伸びた兄の手が、ふと止まった。恐る恐る兄の背中から顔を覗かせる。
ヒュッ、と喉から息が漏れた。
先ほど見た長い髪の影が、暗い部屋の中を見渡すようにゆっくり蠢いていた。
再び背中へ引っ込みガタガタ震え始めた俺に、兄がぽつりと呟く。
「お前、"視"えんのか」
"視"える、というその言葉に、俺はハッと我に返った。
咄嗟に兄に縋ったが、俺は"それ"が所謂『お化け』であることを分かっていた。
何故なら、今までもずっと『お化け』を見て生きてきたから。
そして『お化け』を"視"える人と"視"えない人がいることも、幼ながらに分かっていた。"視"えない人に"視"えているものについて話すと、変な目で見られるから。
幼少期の体験でしっかり身に染みていたはずなのに、必死のあまりすっかり忘れて兄に縋ってしまった。
一瞬青ざめて、すぐに(あ、)と思う。
『"視"えんのか』ということは、兄にも、 "視"えるのだ。
俺と、同じ。
無言でぶんぶん首を縦に振る。涙が空に散るほど頷いていると、兄が呆れながら「首ちぎれんぞ」と言った。それは勘弁なのでピタッと静止する。
「ちょっと待ってろ」
そう言って兄は腰に回っていた俺の手を解き、部屋の中へ歩き出した。
解かれた手を虚空にさ迷わせたまま一人その場に取り残された俺は、急激に心細くなった。
目の奥にまたぐるぐるとした熱が渦巻く。
潤む視界の中で、兄が影に顔を寄せ何かを語りかけている。影は細長く、兄よりもだいぶ背が高いようだった。……大人の、女の人?
内緒話をするように潜められたその声は、ここからだと何も聞き取れない。
しばらくして兄が立ち上がる。すると同時に、影はスーッ……と煙のように揺らめきながら消えていった。
呆然と立ち尽くす俺を置いて、兄が部屋の電気を点ける。
自分の部屋のようにドサリとベッドへ腰かけると、俺の方を向いて「ん」と顎をしゃくった。
座れということらしい。おずおずと兄の横へ腰かけると、兄はゲラゲラ笑い出した。
「ひっでー顔」
直球な言葉に「う、」と声を詰まらせ俯いていると、兄は勉強机の上に置いてあったティッシュ箱を持ってきて、俺の顔を乱雑に拭いた。
涙や鼻水もまとめて拭われ、「わぶ」と変な声が出る。
雑な手つきに文句を言いたい気持ちも生まれたが、それ以上に、まるでお兄ちゃんのようなその振る舞いに俺は感動した。当時は本当に、兄をジ●イアンか何かだと思っていたのだ。
少しばかり心が開いたので、使用済みのティッシュをゴミ箱へ放る横顔に俺は声をかけた。
「お、お兄ちゃん。お兄ちゃんも"視"えるの?」
「あ?さっき見てたろ。"視"えるよ」
「じゃあ、『おはらい』もできるの?」
「お祓い?」
先ほど、見事あの影を消した兄の姿を思い出して目を輝かせる。
俺は"視"えはしても、祓うことなど一度も出来なかった。怖いものが苦手な俺にとって霊を祓うという能力は羨ましくもあり、憧れでもあった。
身を乗り出す俺に兄は「あー……」と言葉を濁した。
「正直、俺のやってんのが『祓う』って言える行為なのかは分かんねんだよな。お祓いの方法なんか知らねーし」
「ふーん……?」
「第一、さっきのは祓った訳じゃない」
「えっ」
その言葉に、俺は固まる。
兄は、言おうか言うまいかという様子で数秒ほど視線をうろつかせてから、意を決したように口を開いた。
「あれ、俺の母さんなんだ」
今度は「えっ」とすら言えなかった。
兄の、お母さん。この家へ来る前に、母さんから話は聞いていた。交通事故で亡くなったのだと。
二の句を継げずにいる俺に、兄は真っ直ぐな眼差しを向ける。
「だから、多分俺には祓えない」
それを聞いて、俺はごくりと生唾を飲んだ。
そりゃ、そうだ。幽霊とは言え、自分の母親を祓うなんて出来ないだろう。
「さっきのはとりあえず別のとこに行ってもらっただけだ。母さんはこの家のどこかに必ずいる。姿を現すときもあれば現さないときもあるけど、死んでからずっと、"い"るんだ」
兄は続ける。
「でも、文字通り"い"るだけだ。何の害もない」
「そっ、か」
……なら、いいか。
怖いものは怖い。正直、兄の母だと分かっても思い出すと背筋が震えてしまう。でも、害がないなら……まぁ。
少しホッとする俺に、兄は「つーことだから」と部屋を出ていった。
この部屋にまた一人になるのかと考えて少し怖くなったが、害がないならまた現れても大丈夫だと自分に言い聞かせて再び眠りに就いた。
が、しかし。
後に『超霊媒体質』と兄に称される俺は、とにかく怪異に巻き込まれることが多かった。
以後度々目にすることとなる兄の実母の姿とは別に、俺はあらゆる霊的トラブルに巻き込まれ、その度に兄を頼った。否、頼らざるを得なかった。
最初は「またかよ」とうんざりした様子だった兄も、そのうち「はいはい」と軽く助けてくれるようになって、いつの間にやら俺達兄弟はすっかり打ち解けていった。
助けてもらうようになってから分かったのだが、兄はとんでもなく霊感が強い。俺も結構視えるので霊感は強い方だと思っていたが、兄は次元が違った。
簡単に言えば、歩く空気清浄機だ。いわゆる低級霊などは兄がそこにいるだけでどこかへ逃げていってしまったりする。大抵の霊は兄に太刀打ちできないのだ。
それこそお祓いとも言えるようなことだってしていた。……と言っても、確かにそれは本人の言う通りお祓いなどという高尚なものではなく、教室の戸を塞ぐクラスメートに『邪魔』と言って退かせるような、シンプルかつ粗暴なものだったのだが。
とまぁ、そんな感じで、やたらと怪異に巻き込まれる俺とそれをさくっと解決する兄、という構図が出来上がってしばらく。
母が病に倒れ、入院。そして冒頭で言った通り、俺が小学校を卒業する前に逝ってしまった。
――その頃からだ。それまで片手間程度に俺を助けていた兄が、俺を気にかけるようになっていったのは。
ひとつ、忘れられない記憶がある。
母が亡くなってすぐ、俺が抜け殻のようになっていた時期のとある日のことだ。
学校に行く気にはなれず、父に休みの連絡を入れてもらい、ひとり家でボーッと過ごしていた。
用意してもらったご飯は喉を通らず、点けっ放しのテレビの音も耳には入らず、ただただ、ソファに座っていた。
そのまま何時間と経ち、夕方頃。
流れていた報道番組の音が、不意にプツッと途切れた。ややあって、どうやらテレビの電源が切れたらしいと頭の隅で理解する。
突然降った静寂は、『何故』という疑問を湧かせるよりも、ただただ俺を心細くさせた。
もう一度テレビを点けるために、テーブルの上のリモコンへと手を伸ばす。
すると、首筋にこそばゆい感覚が落ちてきた。
伸びていた手が止まり、俺はそのまま固まった。
すぐ背後に、気配を感じる。
うなじに垂れた髪の毛先が、肌を擽る。
俺はそのとき、愚かにも『母が会いに来てくれた』と思ってしまったのだ。
期待を抱きながら振り向いて、すぐに落胆と納得が降り落ちる。
("おかあさん"だ……)
そこにいたのは、この家に来てから何度も目にした兄の実母だった。長い髪の毛が覆う顔は、鼻先数センチの距離でも見えない。
それなのに、どうしてか、彼女は笑っているような気がした。
彼女が、ゆっくりと俺の顔に手を伸ばす。
不思議といつもの恐ろしさはなかった。諦めていたのかもしれない。
彼女の手が、俺の頬へと伸びていく。もう少しで指先が触れる――俺は、ゆっくり目を瞑った。
そのとき。
グイッと強い力で腕を引っ張られたかと思うと、もっと強い力で抱き締められた。
ぎゅうっと、痛いくらいの力だった。
嗅ぎ慣れた香りが鼻腔いっぱいに広がって、安心感に脱力する。
すぐそばで、兄の声が響いた。
「頼む、母さん、……もう、連れてかないで……っ」
途切れ途切れのその声は、震えていた。初めて聞いた兄のそんな声音に驚きも大きかったが、それ以上に何だか胸の奥が締め付けられて痛くなったのを覚えている。
ふと気がつくと、 "おかあさん" の姿はもうなかった。
力が少し緩まった兄の腕の中、視界の端でそれを確認して、俺はそのままゆっくり眠りに落ちた。
母が亡くなってから寝不足が続く日々の中、久しくまともに眠れた瞬間だった。
――あのとき兄が来なかったら、何が起きていたのだろう。今でも考える。
もしかしたら、何も起きなかったかもしれない。でも、兄の必死さがその可能性を否定している気がした。
その後も兄の実母の姿は度々目にしたし、怪異も相変わらずだった。兄の意地悪さも、変わらず。
ただひとつ、『害はない』と言っていた兄が、兄の実母から俺を引き離そうとするようになったこと以外は、何もかもが相変わらずだった。
あの頃兄に、俺に、柳家に、何が起こっていたのか。全てを知るのはまだ随分先のことだ。
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