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#39 作戦(中)
「陽向くん、お兄ちゃんのこと好き?」
「ぶへッ」
他愛もない話が一段落した途端に投げつけられたその問いに、俺は口に入れていたモンブランをベチャッと皿の上に戻した。
飛び出た汚い一口にギャーッと悲鳴を上げながら、雪見さんに見えないように手で覆い隠す。
「な、何ですか急に」
「聞いてみたかったから」
ミルクレープをフォークで綺麗に切りながら言う雪見さんに「えぇ……」と困惑して、汚いモンブランを口の中へ戻す。うわぁ、生温かい。一度完全に咀嚼されきった感触がする。
「ほら、言っちゃ何だけど、夕影くんと比べられることも多かったでしょう?特に学校が同じだと、色々大変な思いもしたんじゃない?」
「そりゃそうですよ!」
ダン!と、思わずフォークを握った手で机を叩いてしまった。ハッと我に返って「失敬」と改まる。
「勉強も運動もその他諸々、細々としたことまであいつは全ッ部俺の先を行くんです。兄弟だからって比べられて、『ほんとに兄弟か?』とかからかわれて、何よりあの野郎が率先して意地悪するから!俺はもうこの十八年間辛酸を舐め続けて……!」
「じゃああんまり好きじゃない?」
う、と言葉に詰まる。
分かって聞いているような雪見さんの顔をそのまま見ていられず、俺は顔を逸らした。
「夕影くんのことは嫌い?」
「きっ、……嫌いじゃないです、別に」
「じゃあ好きなんだ」
「……」
何なんだ。からかわれているのか、俺は。
腑に落ちず、少しむくれてモンブランを頬張る。
「その顔可愛くて大好きだなぁ」などとふざけたことを言う雪見さんをちろりと睨んで、俺は渋々口を開いた。
「……別に、改めて言うようなことじゃないです。大事に思ってるなんて当たり前でしょ。家族なんだから」
「そうだねぇ。だからお兄ちゃんの力になりたいんだよね」
「そうですよ。……なのに、お兄は何でも自分だけで背負い込んで、俺には辛そうな顔ひとつ見せないんです」
しゅん、と萎れてぼやく俺に、雪見さんはフォークを置き、頬杖を突いた。
「頼って欲しい?」
「はい」
思わず即答してしまってから「……でも」と付け足す。
「それは頼ってくれないお兄が悪いんじゃなくて、頼り甲斐のない俺が悪いんです。今までずっと守ってきてくれたから、今回もお兄は当たり前に俺を守ろうとしてるだけで。お兄が何でも背負わなきゃいけなかったのは、甘えてばかりいた俺のせいなんです」
「……随分と自分を卑下するねぇ」
「事実ですもん」
「きっと夕影くんはそんな風に思ってないよ」
「そうでしょう。……それが一番問題なんですよ」
お兄はきっと、俺のために自分の何かを捧げることへ何の疑問も抱いていない。俺がずっと、お兄にとって『守らなければいけない存在』だったから。
「多分あの人はまた俺に内緒で全部解決する気でいるから、先回りしてやろうと思って。でも俺一人じゃ頭が足らないから、雪見さんにも話を聞きたくて今日お呼びしたんです」
「うーん。そっかぁ」
雪見さんはのんびり返事をすると、ミルクレープによく合う紅茶を一口飲んで、
「だってさ。反論は?夕影くん」
俺の背後を覗き込むように身体を傾け、声を投げた。
「……え?」
戸惑う頭より一足先に、身体が冷や汗を流す。ギギギ……と音が鳴りそうな動作で恐る恐る後ろを振り向くと……
「ひえ」
席を区切るパーテーションの向こうに、見慣れた栗色の頭があった。
ドッと汗が噴き出る。
まずい。何がまずいか分からないレベルで色々とまずい気がする。
ま、まず何だ、お兄に内緒で雪見さんと会ったこと?いや、でも俺の第一志望が雪見さんの大学で、色々手を貸してもらっていることはお兄も知ってるし。
……確かに、お兄は未だに雪見さんを警戒してるけども。でも何度も『危ないことはない』って念を押してるし。
それより、今俺が吐露した本音の方がまずいか?かなり勝手なことを好き放題言った。
な、何から怒られる……?
ヒヤヒヤしながら次の言葉を待っていると、兄は徐に手を上げた。
「すんません、席こっちに移動します」
「あ、かしこまりました」
そこからかい!
こんなときでもマイペースな兄に、俺は思わず心の中で激しくツッコミを入れた。
・
・
・
「自分の頼め……」
「で?反論ねぇかって?山ほどあるわ」
「おい……自分の頼めよ……」
席をこちらへ移しコーヒーのおかわりを頼んだ兄は、隣に座って何故か横から俺のモンブランをつまみ始めた。
向かいに座る雪見さんを睨みつけながらモンブランを皿と自分の口との間で何往復もさせる兄に、俺は呪詛のように「タノメ……ジブンノ……」と囁き続ける。
フォークを持つ兄の左手を両手でギリギリと抑えつけているが、往復運動は止まらない。そのうち持ち手を左から右に変えられてしまった。
く、クソッ!こいつ両利きなんだった、忘れてた……!
「相変わらず仲いいね」
「まー俺が兄貴だからな」
「どの口が……自分の頼んでから言え……」
「夕影くんとは会うの久しぶりだね。元気そうで何よりだよ」
「お前も相変わらずヤバそうな気配漂わせてんな」
「あはは」
「お前は自分の頼みそうな気配漂わせろ……」
会話の合間にしつこく刷り込むと流石に鬱陶しくなったのか、「わーかったから好きなの頼め。奢ってやる」とメニュー表を目の前に滑らせてきた。
「キャッホーイ!すみませーん!フルーツタルトひとつお願いしまーす!」
「チョッロ」
「あ?」
「ふふ。夕影くん、怒ってはいないんだね」
「あ?」
俺の『あ?』をそのまま横流しするように、兄が『あ?』と訝しげな顔をする。
「夕影くんを呼んだとき、陽向くんが『怒られるかも!』って顔したから」
言われて兄は俺の顔をちろりと伺い、「……何に怒れっつーんだよ」と言った。
「この危ねぇ男と二人で会ってることか?」
「俺は危なくないよー」
「うるさ。どの口が」
雪見さんと目を合わせず、モンブランをつまみながら兄が言う。
「反論は山ほどあっても怒ることはねぇよ」
静かに言った兄のもとへ、「お待たせいたしました」とコーヒーが届く。「どうも」と受け取り一口含んだ兄に、俺はおずおずと声をかけた。
「……あの、お兄。俺お兄の力になりたいんだ」
「聞いてた」
「うん。でも、俺にできることって限られてるから、雪見さんに相談したんだ」
「それも聞いてた」
「うん。……それで、帰ったらね、お兄に言おうと思ってたんだ」
カチャリとコーヒーを置いた兄に正面から向き直り、俺は言った。
「俺を、頼って欲しい」
「……」
じっと兄の目を見ていると、ややあって逸らされた。その顔に惑うような色が見えたのは、きっと気のせいじゃない。
雪見さんは、黙って俺と共に兄の言葉を待ってくれている。
──長考の末、兄はぽつりと呟いた。
「俺は、お前が危ない目に遭うのが一番嫌だ」
ようやく吐き出されたのは、兄らしくないほど愚直で純粋な声だった。
「でもそれは、お前が『守らなきゃいけない存在だから』なんて大層な理由じゃない。お前がずっと甘えてきたせいでもない。俺が、お前に笑ってて欲しいから。ただのエゴだよ。それだけ」
……それだけだけど、俺にとっては、それが俺の全てなんだよ。
兄は歪んだ顔を隠すように俯いて、小さくそう言った。
……これが、たくさんあるらしい反論の一つか。いや。兄が言った通り、一つであり全てなのだろう。
(『笑ってて欲しい』)
眩しいほど真っ直ぐで尊い感情だと思った。こんなものを向けてくれる人がいるなんて、俺は幸せ者だなぁ、と頭の片隅で呑気にそう思った。
でも俺にはもう、そんな兄の想いをただ受け止めるだけなんて無理だ。
だって、だって、
「俺も、お兄には笑ってて欲しいよ」
兄の手をぎゅうと握った。震えるほど強く握ったら、少しは俺の想いが伝わるだろうか。
「だからもう、お兄にだけ背負わせたくないんだよ。俺、口だけじゃなく絶対力になるから、だから頼ってよ。お願いだから」
ずっと言いたかったことをやっと言えたんだ。俺は絶対引き下がらない。
一緒に乗り越えるんだ。
俯いたまま黙る兄を見つめ続ける。
「……お兄が笑ってて欲しい俺は、お兄が笑ってないと笑えないよ」
ぴくりと、兄の手が震えた。
……が、沈黙が続く。顔は見えないが、兄の態度が軟化していないことは気配で分かった。
俺が今強い意志で告げたように、兄もまた、ずっと変わらない強固な意志を抱いていたのだ。
……突っぱねられることなんて、もとより想像の範疇だ。存外頑固な兄を、俺如きがそう簡単に懐柔できる訳がない。
さてどうしようか、と考えていると、それまで俺達を見守っていた雪見さんが不意に口を開いた。
「陽向くんの『口だけじゃない』っていうのが嘘じゃないことは、俺が証明するよ」
「!」
何だ何だ藪から棒に。何か証明してもらえることあったっけ?俺今のところ雪見さんにこれまでのあらすじしか語れてない気がするけど。
「俺の話の前にちょっと聞きたいんだけど、夕影くん」
「何」
「 "視" えてる?」
ちらりとこちらに目線を向けながら兄にそう問うた雪見さん。対して、兄の返答は「あ?」の一文字だった。促されたように兄もちらりと俺を見る。
何の話だ、と思ってから、『あ!』と思い当たった。
『今こうして向かい合ってても、目を瞑ると俺には君が全く別の人物に "視" える』
『それって、その人が俺に "憑" いてるってことなんですか』
『そういうことになるのかな?悪い霊ではなさそうだけど』
ここへ来てすぐに雪見さんが言っていたことだ。俺に、 "おかあさん" が憑いてきていると。……悪霊じゃないなんて話は、やはり信じられないが。
……しかし今はそれ以上に。まさか。
「──お兄、もしかして "視" えてないの……?」
「は?何、揃って。気味悪ぃんだけど」
兄から『気味が悪い』なんて言葉が飛び出るとは。
正直、気味が悪いのはこちらも同じだ。だってあの兄に "視" えないものがあるなんて考えられないから。それも、 "おかあさん" 絡みのことで。有り得ない話だ。
……いや、待てよ。あったじゃないか、兄に "視" えないもの。
「夕影くんのアルバムに、陽向くんには "視" えて夕影くんには "視" えない怪異があったって聞いたよ。 "おかあさん" の敵意の表れみたいだ、って陽向くんは言ってたね」
「……お前マジで隅から隅まで話したんだな」
「え、えーっと、うん……はい……」
「……まぁいいけど」
諦めたように兄が溜め息を吐く。
雪見さんはそんな兄の態度を意に介さず続けた。
「ねぇ、夕影くん。君のお母さんの写真、今持ってたりしない?」
「へ」
突然何を言い出すかと思えば。 "おかあさん" の写真か……うーん、そう都合よく持ってないんじゃ、
「持ってる」
「えっ」
スマホだけど、と兄がスマホの中のアルバムアプリを開いた。
……形見、とか。そういうの持ったりするタイプじゃないと思っていたのだが。そっか。 "おかあさん" の写真、持ち歩いてるんだ。
「これ」
兄が机上に置いたスマホの画面には、確かに一枚の写真が映っていた。あのアルバムの写真を直撮りしたような一枚。
三歳くらいだろうか、幼い兄が、綺麗な女の人に抱き上げられて楽しそうにピースサインをしている。
あぁそうだ、このひと。『カリバラ』のあの日、夢で子守唄を歌っていた女の人。最後、こちらを見て哀しそうに『ごめんね』と言ったあの人だ。
……って、あれ?
「な、何で……?ちゃんと "見" える」
「は?」
「あ、あのとき、一緒にアルバム見た日、お兄のアルバムの写真だけ顔がぐちゃぐちゃに塗り潰されたみたいになってたのに、今は見えるんだよ。はっきり、ちゃんと…… "おかあさん" の、顔も……」
口早に説明する舌が、だんだん低速していく。
写真から目が離せなかった。
"おかあさん" も兄も楽しそうで、幸せそうで、どうしようもなく胸が詰まってしまったのだ。……きっと、二人の姿が俺と母さんに重なって見えたから。
何だか泣きそうになるのを、俺は必死に堪えた。
(笑った目元がそっくりだ)
やっぱりこの端正な顔はお母さん譲りなんだな。ちゃんと感謝しろよな。
「──うん。きっと予想通りだ」
雪見さんが少し得意気にそう言う。
『何が』という顔をすると兄も同じ顔をしていたようで、雪見さんは「その顔そっくり」と笑った。
「夕影くんのお母さん、多分もう敵意を持っていないよ」
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