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第1話 告白

消毒薬の匂いが充満する廊下は、わずかな音が響きそうなほど静かだった。 面会時間が終わる直前だからか、人影は無く、ここには僕と彼しかいないような錯覚に陥る。 病院は苦手だ。独特の薄暗さと、常に漂う死の香りが僕の気持ちを落ち込ませる。 夕日が差し込み、赤く照らされたリノリウムの床を見つめながら、僕達は壁沿いにズラリと並べられたベンチの隅に座っていた。 「母さん、そろそろ限界かもしれないな」 彼がため息を吐いてから、ポツリと呟いた。 その言葉はつい口から漏れてしまった、といった様子だった。何故なら彼は、今まで一度も悲観的な発言をしたことがなかったからだ。 それに本人も気付いたのか、慌てて言い直す。 「いや…そんなつもりはない。俺が諦めてどうするんだ。今、一番辛いのは母さんなのに…」 見ていてこっちが辛くなりそうなほど狼狽する彼を宥めるために、僕は囁いた。 「奏は少し…いや、だいぶ疲れてるから一瞬だけ弱気になったんだよ。だから少しだけ休んだ方がいい。凛子さんのことは僕が見てるから」 「いや、お前に迷惑をかけられない。今日だって一日中付き合ってくれたのにこれ以上は」 奏は首を振る。そんな彼の肩にそっと触れた。俯いていた彼がこちらを向く。久しぶりに目があった。 「全然迷惑じゃない。気にしないで」 「蓮は優しいな…」 奏が僕を虚ろな表情で見つめる。彼の目の下には濃いクマが染み付いていた。顔が青白いので余計に目立つ。 半月前から彼が、眠ることも食べることもロクに出来ていないことを、こういう瞬間に実感させられる。 彼の母・凛子さんが半月前、突然倒れてから、奏の生活は一変した。穏やかさとは程遠い日常に。 彼は仕事を休職し、看病のために毎日病院へ通っている。 休む暇も余裕もない日々が続いているせいか、彼は会うたびに痩せているような気がする。 そんな彼を僕は黙って見ているつもりはない。 ただ協力したいだけだ。彼の背負う重圧が、少しでも軽くなればいいと思っている。 だから僕はこう言い切った。 「奏を助けたいだけだよ。だから気にしないで」 「助けたいだけ、か。その言葉、前にも聞いた気がするな…」 奏が再び俯いた。彼の表情がさらに曇る。僕の言葉で、あの頃の記憶が呼び覚まされてしまったのだろうか。僕はそれを遮るために喋った。 「もう僕のことはいいだろ。とにかく、一時間だけでも眠りなよ。凛子さんの容体は安定しているから」 「俺は平気だ。お前に悪いよ。…母さんをもう少しだけ見る」 次の瞬間、僕は彼の両肩を掴んでいた。 「分からない?僕は君が心配なんだ。だから少しでも休んでほしいんだよ。僕に気を遣う必要は無いんだ」 「……どうしてそこまでしてくれるんだ。俺なんて、お前に何もしてやれないのに」 「君が好きだからだよ」 僕はハッキリと言い放った。 気付いた時には遅かった。思わず漏れてしまった言葉を再び引っ込めることは不可能だった。 胸の内を明かせば、スッキリすると思っていたが大違いだった。奏の驚いた表情を見た瞬間に、後悔が押し寄せた。 こんなタイミングの告白は彼を追い詰めるだけだと今更気づいたのだ。 「…今のは気にしないで。僕はただ君を助けたいだけだから。それを伝えたかった」 「蓮……」 「今日はその、もう帰る。…凛子さんだけじゃなくて自分のことも心配してね」 「あ……ああ、分かった。今日はありがとう」 奏がこちらをしっかりと見ながら言った。 「じゃあ、また明日。…返事は要らないからね」 奏は何故か、この言葉には頷かなかった。 ♢♢♢ 翌日の朝。 病院に行く準備をしている僕に、奏から電話がかかってきた。 騒つく胸を押さえながら電話を耳に当てて、彼の言葉を待った。 しばらく続いた沈黙の後、彼が鼻をすする音が聞こえた。 「どうしたの」と僕が尋ねる。 すると彼は震える声で「母さんが、さっき逝った」 と呟いた。 その後、奏は嗚咽した。僕はその声を黙って聞くことしか出来なかった。

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