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第2話 訪問

耳をつんざくようなアラーム音が聞こえた瞬間、我に帰った。慌ててボタンを押し、音を止める。そしてガスコンロのスイッチを切った。 火が消えた途端に鍋の中の泡が小さくなる。粉末スープをそこに直接入れると、箸でかき混ぜながら机に運んだ。 白濁のスープに浸された麺を見ていると食欲が刺激される。僕は箸に麺を絡めると、一気にそれを啜った。 半分ほど腹に入れると空腹感が薄まったので食べるペースを落す。テレビでも付けようかと顔を上げると、カーテンレールに吊るしてあったダークスーツが目に入った。 「いい加減クリーニングに出さないと」 墨汁で浸したように真っ黒なスーツから視線を外した。このスーツを着たのはもう一カ月も前だ。それなのにまだ片付けずに引っ掛けてある。 ♢♢♢ 凛子さんの葬式から一カ月経った。あの電話以来、奏とはまともに会話をしていない。 電話の後、僕は通夜に参列するために彼の家へ向かった。いつもは凛子さんが作ったお菓子の匂いが漂う奏の家は、線香の匂いが染み付いていた。 多くの参列者に囲まれるようにして奏はそこにいた。真っ黒な喪服に身を包んだ奏は、凛子さんの隣に座っていたのだ。服の黒が、彼の顔の白さを強調していた。 僕は奏の目の前に近づいたが、何と声をかければいいのか分からなかった。奏は黙って立ち尽くす僕をチラリと見る。そして「今までありがとう」と呟いた後、虚空を見つめたまま動かなかった。 彼と会話するタイミングはその後訪れず、翌日の葬式も終わってしまった。 白い煙になってしまった凛子さんを眺める奏を残して、僕は一人帰路に着いた。 ♢♢♢ ダークスーツの向こうに広がる空は鉛色で、今にも雨が降ってきそうだ。 僕は何度も葬儀の日を回想しているが、奏の何も写していない瞳を思い出すたびに胸が重くなる。あの日、何て声をかければ良かったのだろう。 ずっと後悔している。病院の廊下で奏を混乱させてから、帰ってしまったから。僕は気持ちを一方的に伝えて、逃げたんだ。 いつもはスープを飲み干すほど好きなラーメンも、今日はそんな気分になれなかった。 流してしまおうと立ち上がった時に、玄関から物音がした。鉄製の扉に何かがぶつかるような音。それがドアノックだと気付くのに時間はかからなかった。 僕は以前から、チャイムがあるのに鳴らそうとしない訪問客をよく招いていたからだ。 扉を開くと、肌を刺すような冷風が室内に吹き込んだ。そんな風が吹き荒れる廊下に、奏は立っていた。少し前に流行った型のモッズコートを着込んでいるが、それでも寒いのか体が震えている。よく見ると顔が青白い。 僕が声を掛けようと口を開くと、先に奏が言葉を発した。 「急に来て悪い…。中に入れてくれないか」 「あ、ああ。寒いだろ。入りなよ」 奏が部屋に入ろうとした瞬間、僕は初めて彼の足元に重そうなボストンバッグがあることに気が付いた。 「こうして会うの、久しぶりだな」 「最近の奏はその…忙しかったからね。もう落ち着いてきたの?」 「まあな。ここ数日間でやっと自分の時間を過ごせるようになった。色々考え事をする暇ができた」 「…そうなんだ」 僕の部屋で座り、美味そうにインスタントコーヒーを啜る奏に、何故か今日来た理由を尋ねずらかった。 意味ありげに置かれたバッグのせいか、それとも不気味なほど落ち着いた奏の様子のせいか。 「気になってるだろ、今日俺が急に来た理由」 「えっ」 「無自覚かよ。やけにソワソワしていたから分かりやすかったぞ」 奏はそう言いながら、髪をかき上げ、耳を触った。これは彼の癖だった。昔からよく触るが、ピアスを開けてから、さらに触れる頻度が高くなったような気がする。 「今までのお礼と、別れの挨拶をするために来た。もう蓮の前に現れないと思う。…あ、自殺するつもりじゃねえよ」 「奏が自殺なんて…全く考えてないよ」 咄嗟に嘘をついた。きっと奏はそれに気付いただろうが、特に何も言わず会話を続けた。 「実はこれから、親父に会いに行くつもりなんだ。最近になってやっと決心がついた」 僕はそれを聞いた瞬間、思わず手で顔を覆った。彼がこれから、そんなことをするくらいなら、まだ自殺を考えていた方がマシだと考えてしまったからだ。 「…ついに?」 「ああ。ついに、だ。 休職期間はまだあるし、急ぐ必要はない。ゆっくりバスでも乗り継いであそこまで行く予定だ。…まあ、もう俺には仕事なんて関係ないがな」 「バスって…。ここから車でどれくらいかかるの」 「まだ調べてないからよく知らない。寄り道しても余裕で1日以内に着くと思う」 奏はそこまで言うと、立ち上がった。僕を見下ろすような形で言う。 「蓮、今までありがとう。お前がいなきゃ、ここまで生きていなかったと思う。…じゃあ行くよ」 「待ってよ」 僕は咄嗟に奏のズボンを掴んでいた。自分でも意外な行動だったので、口が思うように動かない。 「どうした」 「…僕も行く。連れて行って。車なら出すから」 僕は上ずった声で、呟いていた。

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