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第14話 疾駆
空は燃えるように赤くなっている。夕日が落ちた瞬間の景色が綺麗だと誰かから聞いたが、それは本当だった。赤と青のグラデーションに染められた空は、恐ろしいと思えるほど美しかった。
丘の上に鎮座した白い家は闇に包まれるのをただ待っているように見えた。
冬の陽は落ちるのが早い。間も無く空は紺色になるだろう。夜はすぐそこまで差し迫っている。
「蓮、ここまで着いてきてくれてありがとう。お前がいなかったら、こんなに穏やかな気持ちでここにいられなかったと思う。
蓮と合わなかったら俺、温かさや優しさを知らずに、人生を過ごしてしまっただろうな」
奏は眼下に広がる海のような穏やかな表情で、僕に微笑みかけた。
僕は思わず手を掴む。ここで離したら、もう二度と会えないような危なっかしさと儚さを醸し出していたからだ。
「僕だって、奏と出会わなかったらこんな幸せになれなかった。君と一緒にいられて良かった。僕は幸せ者だよ」
「俺もだよ。…なんだか恥ずかしくなってきた。面と向かって、こういう事言うのも悪くないかもな」
目の前で微笑む奏の顔が暗くなり、見えづらくなった。太陽が完全に沈んだのだ。
それを理解しているのに目を凝らしても、ピントが合わない。磨りガラス越しに景色を見ているようだった。
「泣いているのか」
奏に指摘されて初めて気付いた。僕は涙をボロボロ流しながら、彼の手を握っていた。
慌てて両手で拭う。一度溢れたものは、なかなかせき止められない。
「ごめんね。もう君と離れるんだと思うと、涙が止まらないんだ。離れても大丈夫、って言うと嘘になるけど……君を止めるつもりはないよ」
一度離した手を再びたぐり寄せた。
「行ってらっしゃい、奏。僕は待ってるから」
「…ああ、行ってくる。親父とは、会うよ。
後のことは、その時考える」
「……ねえ、奏」
「どうした」
僕は彼の耳元で囁いた。波の音に負けないよう、少しだけ大きめの声で。
「別れる前に、キスしたい。まだしてなかったよね」
今までの行動を思い返して、気付いたことがあった。僕らは一度もお互いの唇にキスをしていなかったのだ。
色々精一杯だったので忘れていたのか、無意識のうちに避けていたのかは分からない。
僕の提案に、奏は頷いた。
そして見つめ合う。キスは、僕からした。
柔らかくて温かい、彼の唇に触れる。二人の吐息が一つに溶け合った。
僕らのファーストキスは血の味がした。
「唇、切れてたぞ。乾燥してる」
「本当だ…。気付かなかった」
あらゆる恋愛指南書に、「キスをする前に保湿をしろ」と何度も警告する理由が分かったような気がした。
呆然としていると、奏が顔を近づけ、僕の唇を舐めた。
「やっぱり血が出てる」そう呟いて、離れた。
離れてしまった彼に、もう僕は手を伸ばさなかった。ずっと待つと決めたから。
じゃあね、そう告げて僕らは背を向けた。
振り返ることもせず、僕は車に乗り込んだ。そうしないと、また泣いてしまいそうだったからだ。
来た道を一人で走った。夜がこんなにも寂しくて、静かだと初めて感じた。
車内は胸が痛くなるほどの静寂に包まれていた。カーステレオを付けても、胸の痛みは治らない。
僕は、ついさっきまで彼が座っていた助手席のシートを撫でた。どこにも彼の残り香は無かった。最初から居なかったかのように、痕跡一つ残さずに彼は去った。僕らは本当に別れてしまったんだ。
夜の高速を、一人で駆けた。
僕は夜を駆ける。
♢♢♢
ストーブの灯油が切れたことを告げるアラームが鳴った。僕は毛布から手だけ出すと、電源を切った。この時期の、こんな時間じゃ灯油を売ってる店なんて開いていないだろうから。
世間の真面目な人々が来年の準備を終えたというのに、僕は何一つしていなかった。大掃除や買い出しもせずに部屋に篭っていた。
付けっ放しのテレビには有名な寺の鐘が映っていた。あと数回音を出せば、人の煩悩と同じ数になるらしい。
世の中が年越しの瞬間を待ちわびているというのに、ここだけ時が止まったようだった。ダークスーツは窓辺に掛けたままだし、あの旅で使ったカバンもそのままの状態だ。
あの崖で奏と別れてから3日が経った。
あれから彼と連絡を取る気になれなかったし、繋がるとも思えなかった。
僕はずっと玄関の様子を気にしていた。いつ、チャイムが鳴らされるか分からないから。
きっと、もうすぐすれば警察署の人間が訪問してくるだろう。彼らは復讐者を車に乗せ、運んだ僕に聞きたい話はたくさんある。
それでもいい。彼に協力出来たのだから。
それに僕は、君に気持ちを伝えられた。逃げなかった。後悔は何もない。
「奏は今頃どこで、何をしているだろう」
そんなことを考えていると、テレビが騒がしくなった。新しい一年がたった今、スタートしたようだった。
そんな状況でも、僕の部屋は停止している。
ゴン ゴン ゴン
突然、鉄製の扉に、何かがぶつかるような音がした。僕は、それがドアノックだとすぐに分かった。
毛布から出て、玄関に向かう。
停止していた部屋が少しだけ、動き出した。
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