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第1話
第一章
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初めの事務所は迷った末に板橋区にした。池袋から各駅停車で八駅、駅名には練馬とつくのに何故か板橋区という不思議な立地である。豊島区に事務所を構える勇気も予算もなかったからだ。
それに、板橋区とはいえ練馬もすぐで、豊島区までもほんの数駅である。再開発が進む地域は、急行停車駅が優先なのだろうか。まだこのあたりはかなり下町然としている。
つまり、かなり事務所代が安く済んだ。遅くまで事務所に詰めていることが多いので、近隣に商店街があるのも魅力だった。
まばらな街路樹の葉が青さを増して繁り始め、爽やかな風が肌を滑っていく。六月初めの東京は、とうに夏日もざらだ。梅雨を越えれば程なくして、うだるような気温とべたつく湿度に悩まされる。しかし、まだ今はそんな気配は微塵も感じられない。
駅から商店街を抜け、三階建ての小さなビルへと向かう。築年数が古い割りに、クリニックや薬局、美容院などが入っているため、外観は今でもとても綺麗だ。 赤茶色の模造煉瓦が貼られたビルの手前に、細い上階への階段がある。一旦折れて二階が深青(みさお)の事務所である。もちろんワンフロアは区切られており、そのうちの一角に、仁科税理会計事務所を構えたのだ。
歩道脇に植えられたミズキの木には、霧のような花が咲いている。梅雨入りの声も聞かれる頃であるが、今日の空は澄み切っていた。薄く白い雲が流れていくのが、切り取られた空に端だけ見えた。
大学の商学部を卒業し、二年半の会計士事務所勤務を経て、仁科(にしな)深青は自分の事務所を開いた。それからまだ数ヶ月である。
ひよっこにもならないものが、早すぎる独立をしたのには、やむにやまれぬ家庭の事情があった。
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