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第四話『 心の傷 』上

――いよいよ、高校生活初めての定期試験ですね。  月曜日の朝礼で学校長からそんな一言が発され、新入生たちが天を仰ぎ始めた頃の事。  瑞季(みずき)は寮の自室で天井を仰ぎ見ていた。 「ああ………………泳ぎてぇ……」  その日は、そんな朝礼があった週の土曜日であった。  学校全体が試験期間に入った事で、部活動は一時的に休止期間となり、更にはプールすらも立ち入り禁止になってしまった為、瑞季は干からびていたのだ。  そんな瑞季はその日、手持ち無沙汰から試験勉強でもするか、と昼過ぎから参考書と向かい合っていた。  だが、どうにも集中力が続かず、結局背もたれにしていたベッドによりかかり天井を見上げては、無駄な時間を過ごしていたのであった。 ― 虹色月見草-円環依存型ARC-ツキクサイロ篇-Ⅰ❖第四話『心の傷』 ―  その日、瑞季(みずき)が寮生活を送っているその部屋に美鶴(みつる)の姿はなかった。  美鶴はその日、友人の家に行くと言って昼過ぎから出かけていたのだった。  その為、部活のない"ただの休日"を得た瑞季は、洗濯を終えた後、暇つぶしも兼ねて試験勉強を始めたのだった。  瑞季は勉強が好きというわけではないが、嫌いというわけでもない。その為、試験勉強をする事も、それに集中する事もなんということはない。  だが、どうしてかその日は集中力が続かずにいた。  そしてその結果、瑞季はこのように天井を仰ぎながら、水泳に思いを馳せるのみとなっていたのだった。 「――ちゃん、……もんちゃん」 「ん……」  その後、どうやら瑞季は水泳に思いを馳せながら眠りに落ちてしまったらしく、友人の家から帰ってきたらしい美鶴に揺り起こされた。 「あ、起きた? おはよ、もんちゃん。そんなトコで寝てると風邪ひいちゃうよ。――ほら、変な寝癖ついてるし」  瑞季が覚醒したらしい事を確認した美鶴は、そう言いながら瑞季の髪を梳くようにした。  瑞季はまだ意識が鈍いまま、そんな美鶴の笑顔を見た。そして、何故だかそれに見入ってしまった。  また、先ほど瑞季を揺り起こす為に添えられ、今もまだその肩にある美鶴の手の温度も、その感触も、不思議なほどに温かく感じた。  そんな感覚を覚えながら美鶴の顔をじっと見つめている瑞季に対し、美鶴は首を傾げ、不思議そうな顔をする。 「もんちゃん、どうしたの? まだ寝ぼけてる?」 「いや……」  瑞季は、この妙な感覚を何となく知っている。  この、焦燥感に似た、胸騒ぎがするような、そして、とてつもない衝動に駆られそうな感覚。そしてそれらと共に、その相手に愛しさを覚えた瞬間に湧き上がる、心が満たされるような感覚。 (……なんかこれ、やばいな)  瑞季はその時、ふいに自覚した。  自覚してしまった。 「もんちゃん?」 「……なぁ、美鶴……もしかしたら俺――」 ――お前の事好きになっちゃったかも……  瑞季は咄嗟にその言葉の続きを呑み込んだ。 「え?」 「あ、あぁいや、なんでもない。わり、なんかめっちゃ寝ぼけてたわ」 「あはは、珍しいね、もんちゃんが昼寝なんて。勉強疲れ?」 「はは、かも」 「プール立ち入り禁止だもんねぇ~」 「それ」  なんとかその場を取り繕う事が出来た瑞季は、ほっとしつつ、平静を装いながら美鶴との会話を続ける。  そんな瑞季の心をよそに、美鶴はまた微笑みながら瑞季に話しかける。 「もんちゃんにとって、泳げないのは深刻な問題だもんね」 「まったくだ……もう禁断症状出そう」 「うわ、大変じゃん。――っていうか、泳げないとどんな禁断症状が出るの?」 「う~ん、とりあえず……そこらじゅうの水という水に頭突っ込み始める」 「やっば!」  美鶴は驚いたようにそう言うと、楽しそうに笑いだす。  それにつられて瑞季も笑う。  そんな下らないやりとりでお互いにひとしきり笑ったところで、二人はそれから夕食の準備をする事にした。  その後、何事もなく二人で夕食を済ませ、お互いに風呂に入るなどしたが、それらが済んだ頃にはすっかり零時近い時刻となっていた。  そんな中、なんとか零時前にベッドに辿り着く事が出来た美鶴(みつる)はまだ元気があるらしく、横になりながら瑞季(みずき)に話しかけた。 「ねぇ、もんちゃん」 「ん?」  瑞季もまた同じように自分のベッドに入っていたのだが、そんな美鶴の声に応答し、耳を傾ける。 「なんか、その……俺が聞いていい話ならまた話聞くし、なんか悩み事があるなら相談してね。一人で抱えてると毒だよ」  瑞季はその言葉に少し驚いたが、すぐに笑みを返し礼を言った。 「……ん、ありがとな」  美鶴は恐らく、先ほど瑞季が美鶴に言い淀んだ事を気にかけてこのように言ってくれたのだろう。瑞季はそう思った。美鶴はそういった事にずいぶんと敏感なのだった。  瑞季は、そんな美鶴の優しさを改めて愛おしく思った。 「ううん。これはただのお節介だから。……じゃ、おやすみ」 「それでも嬉しいよ。ありがとう。おやすみ」  そうしてお互いに就寝の挨拶を交わした後、少しすると美鶴の静かな呼吸音が聞こえ始めた。  時刻は零時を過ぎている。美鶴はもう、深い眠りの中にいるのだろう。  だが、瑞季はその日、すぐには寝付けずにいた。 ――もしかしたら俺、お前の事好きになっちゃったかも……  あの時、もしも言い淀まず、その言葉をすべてを声にしてしまっていたらどうなっていただろうか。瑞季はそんな事を考え、ぞっとした。  せっかく美鶴とこうして親しくなれたというのに、危うく自分からその関係を壊すところだった。 (大体、美鶴の恋愛対象は女子なんだから、そんな美鶴に俺が"好きになっちまった"なんて言ったら引かれるに決まってる……。後輩の相談した時だって、なんの為に後輩が男だってバレないようにしたんだよ……)  瑞季はそう思いながら、心の中で自分を叱責した。 (それに、美鶴とはこれから最低でも二年になるまではこの部屋で一緒に暮らすんだぞ……)  そんな美鶴との間に、この期に及んで亀裂なんて入ってしまったらとんでもない事だ。  それに、と瑞季はある事を思い出す。 (そもそも、俺は恋人とか作っていいような人間じゃない……)  今回の事で分かったはずだ、と自分に言い聞かせ、瑞季はひとつ静かに深呼吸をして目を閉じる。 (馬鹿な事考えてんじゃねぇよ……)  そうして叱責に叱責を重ねた瑞季はその日、それから少し時間をかけて眠りについたのであった。  そうして、瑞季(みずき)が自分の心の変化に気付いてしまった翌日のこと。  その前夜にあまり寝れなかった事もあり、瑞季はやや寝不足気味だった。  そんな事から瑞季は、眠気覚ましに何か冷たい物でも飲もうと学校内にある購買へ立ち寄っていた。  そして、瑞季が購買内のドリンクコーナーを見ていると、同じく購買内の雑誌コーナー辺りから妙な会話が聞こえてきた。その内容から察するに、会話をしているのは瑞季と同じ一年の生徒なのだろうと思った。だが、声を聞く限りでは聞き覚えはない。どうやら瑞季のクラスメイトや知り合いではない一年生らしい。  瑞季はそのまま商品を選ぶようにしながら、そっとその会話に耳を傾けた。 「あ、これ天羽(あもう)じゃん」 「ほんとだ。すげぇ、マジでモデルなんだな」 「モデルねぇ……あ、そうだ、お前知ってるか」  そう言った途端、その生徒は突然声を潜めて話し出した。  その様子から、これから始まるのは悪い噂話なのだろうと察し、瑞季はなんとなく居心地が悪くなり、商品を手早く取りその場から立ち去ろうとした。  だが、瑞季がレジへ向かおうとしたその時、不意に聞こえた一言で瑞季は固まった。 「天羽ってさ……ホモらしいぜ」 「はぁ? なんだよそれ。親がヤクザって話は聞いた事あっけど、なんでホモなんだよ」 「いやなんかさ、こないだ上級生と変な雰囲気で二階の端にある資料室に入ってったらしいんだよ」 「二階の資料室?」 「そうそう。なんかあの二階の資料室ってめったに使われねぇから、たまにホモのヤリ場になってるんだってよ」 「うわ、それマジかよ……まぁ、確かに天羽って女っぽいっつぅか、そういう雰囲気ある気すっけど……俺、直接話した事ねぇから全然わかんねぇや」 「はは、クラス一緒だったら狙われてたかもしんねぇぞ」 「やめろよ気持ちわりぃな……つか、それよりヤクザって方がこえぇっつの。お前もそうやって変な事言ってっと殺されっかもよ? 拷問されてコンクリ詰めとかにされてさ」 「ははっ! こえぇ~!」  その二人はそこまで話すと、楽しそうにまた会話を続けながら購買から去って行った。  彼らの会話をこれ以上聞きたくないと思っていた瑞季にとってそれはありがたい事だったが、その時既に瑞季の気分は最悪だった。美鶴(みつる)の事が好きだからという事はもはや関係ない。  何よりも、大切な友人に関する陰口をこうして聞いてしまった事が酷く不快だった。  瑞季にまとわりついていた眠気などは、その憤りからすっかり霧散していた。  もし、あとほんの少しでも瑞季の自制心が足りていなければ、今頃あの二人をどうしていたかは分からない。  瑞季がこれほどまでに怒りを感じたのは久方ぶりの事であった。  そしてその後、瑞季は人気の少ない廊下を歩きながら頭を冷やした。  そうしてなんとか平常心に戻ったところで、先ほどの会話を思い出す。  瑞季はその会話に憤りを感じてはいたが、それと同時に不安も感じていた。  美鶴が同性愛者か否かという点はどうでもいい。瑞季が気になったのはそこではない。  瑞季は、先ほどの二人組の一人が言っていた中の、"上級生と"という点が気になっていたのだ。  いずれにしても美鶴は生粋のゲイというわけではない。  何せ美鶴には女性の恋人がいたのだ。その恋人との事がトラウマで、現在は女性とは縁を持たないというのはあり得るかもしれないが、そうであっても元々はバイセクシャルだったという事だ。  それに美鶴はもう恋人を作らないとも言っていた。  美鶴のその言葉が本当の事ならば、その上級生は美鶴の恋人ではないはずだ。  それなのに、そんな妖しい雰囲気で資料室などという場所に入っていったのだとすれば、妙な話であるのは確かだ。 (もしかして……上級生に無理やり連れていかれて、とか……)  そこまで考え、瑞季は眉をひそめる。もしそうであるなら放っておくわけにはいかない。  瑞季はそのような事が起きていないよう祈りながら、なんとなく彼らの話していた、例の資料室へと行ってみる事にした。  そして、その資料室の前に辿り着くなり、周りに人がいない事を確認した瑞季(みずき)は、その場で耳を澄ませる。 (何も……聞こえないな……)  当然か、と思いながらも、瑞季はそれからまた少しの間耳を澄ませてみた。  だが、一向に中から物音が聞こえてくるような事はなかった。  つい先ほど、自分たちの教室に美鶴の姿がなかった事でまさかと不安になっていたのだが、どうやらその心配は瑞季の取り越し苦労だったようだ。  瑞季はその事に安堵し、その場から立ち去ろうとした。  だがその時、その資料室のすぐ横にある階段の下方から、なんとなく美鶴の声が聞こえたような気がした。 (確か……この真下も、資料室だったよな……)  その事からなんとなくまた不安になり、瑞季は再び耳を澄ませる。  だがどうやらその声は資料室からではなく、階段下の踊り場あたりから聞こえてきているらしかった。  とりあえずその声が資料室内からのものではない事に安堵した瑞季は、引き続きその声に耳を傾ける。  するとやはり、聞こえてくる声の片方は美鶴の声に間違いないようだった。どうやら美鶴は別の誰かと話しているらしい。だがそんな美鶴の声は、心なしか苛立っているように感じた。 「――ねぇ、もういいでしょう? 俺別に、先輩とそういう事する気ないんですけど」 「あぁ? なんだよ、(まどか)とはヤってんだろ? 知ってんだぜ、こないだこの上の資料室でヤってたの」 「はぁ、だからヤらせろって? 俺、先輩のオナホとかじゃないんですけど?」 「うるせぇな。お前の意志なんてどうでもいいんだよ。圓との事、学校中にバラされたくなきゃ俺に大人しく従え。お前モデルなんだろ? いいのか? 学校でケツ犯されて悦んでる淫乱ホモだって事務所にバレても」 「はいはい、いいですよ~。お好きにドーゾー」  美鶴がそう言うと、上級生らしい生徒が苛立ったように舌打ちをする。 「おいてめぇ、ナメてんじゃねぇぞ。親がヤクザだかなんだか知らねぇけどな、調子乗ってんじゃねぇ。それになぁ、ヤクザなんて時代遅れなんだよ。あんなのイキがってるだけの社会のクズじゃねぇか。そんなもん味方につけたって――」 「おい、今、なんつった」 「あ?」  あまりにも酷いその言い草に流石の瑞季も腹が立ち、助けに入る為にその場へ出て行こうとした。  だが、瑞季はその直後に聞こえた――恐らく美鶴のものであろうその声を聞き、足を止めた。 「今なんて言ったか訊いてんだよ」  その声は酷く怒気を帯びている。そして酷く低い声だった。  大声で怒鳴り散らしているわけでもないのに、やすやすと人を怯えさせる事が出来そうなその冷たい声で美鶴は言葉を紡ぐ。 「アンタ……今俺の家族に向かってクズって言ったか」 「……な、なんだよ……ク、クズにクズって言って何がっ――」  先ほどまで美鶴は壁を背にし、その上級生に迫られるような形となっていたが、上級生がその言葉を言い終わるより早く、一瞬にして美鶴がその形勢を逆転させた。  なんと、美鶴はその一瞬で上級生の胸倉を掴み、そのまま壁に叩きつけたのだ。そしてその後、背後から彼を壁に押し付けるようにして話を再開した。 「何ですか? よく聞こえなかったんですけど……もう一回言います?」 「い˝ッ…………いてえ˝ッ……」  そのあまりにも予想外であった展開に、足を止めた瑞季がその様子を階上から傍観していると、上級生が呻きながらそう言った。上級生は見事に後ろから腕を締め上げられている。 「そう、それは良かった……あぁそうだ、せっかくですから先輩も後ろから犯されてみますか? そんなにお望みならいくらでも痛くしてあげますけど……それともこのまま全部の関節外した状態でマワされてみます? 前の方にも金属棒突っ込んで……ウチの監禁部屋で」 「や、やめ……わ、悪かった! 悪かったから! もう言わねぇから! 許し――」 「は~い」  上級生が情けない声で許しを乞うたところで、美鶴はぱっと手を離し、いつも通りの声でそう言った。 「じゃ、もう二度と俺の家族を悪く言わないで下さいね。先輩」 「……ッ」  あまりの恐怖に声も出ないのか、上級生はそのままその場から走り去ったようだった。  それを見送った美鶴は、そこで小さく呟く。 「……ほんと、最悪」  そうしてひとつため息をつくと、美鶴はそのまま目の前の階段を上り始めた。  そして、その階段を一つ上り切ったところで、踊り場を挟み、また上への階段を上ろうと足をかけた時だった。  美鶴はそこでその階上を見上げ、目を見開いた。 「………………もんちゃん」    

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