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二度目の冬
二度目の冬。
のどや鼻が凍りそうな寒さの時期は通り過ぎた。朝や夜、日影はまだ肌寒いが日向に行けばもう春の暖かさを感じる。
いつもより長めにとられた掃除時間、教室をこっそり抜け出していつもの場所へ足を運んだ。
暖かくなってきたとはいえ桜の木に花はまだない。遠くから見ると真冬に寒そうに立っていた時と何も変わらないように見える。
近づいて腰を下ろす。葉がなく広がった枝だけでは日影を作るのには少し足りない。今の時期に日影では少し寒いのでちょうどいい。
今とは正反対の景色を初めて見た日。視界がピンクに覆われていた。そしてその中から現れた少し怖そうで、だけど優しい人。
今よりもまだ寒い頃。受験の時期になり、学校から3年生が消えた。桜の花びらが散らなかった代わりに雪が降った。意味があるのかなんてわからないけど、その雪を掴まえては願った。先輩が無事受験を終えますように、と。
俺の願いが届いたとは思えないが、先輩はちゃんと大学の合格を決めた。まだ雪の降る日々が続く中、まだ咲かないはずの桜の花の絵文字だけが俺の携帯に送られてきた。
受験時期の3年生が登校しない時期になってから先輩には会っていない。詳しくは知らないが最近はまた登校時期だったらしい。だけど、時間のずれなどから1度も先輩と会うことはなかった。
今日も1,2年生が掃除をしている今の時間も3年生はホームルームをしているはずだ。少しずつ予定がずれている。今日も簡単に会えるとは思っていない。
今日が最後だ。
それだけが現実として重く突き刺さる。
「……戻ろう」
いつもは流れている掃除時間の音楽も今日はホームルーム中の3年生を気遣って流れていない。時計を確認するとそろそろ掃除時間が終わるようなので、ばれないように教室へ帰る。
「うわ」
突然吹いた強風に目を閉じる。
この2年間この場所で何度か経験したことあることだった。
おそるおそる目を開けたが、まだ桜の咲いていない木の周りで枯葉が回っているだけだった。
いつかのように視界がピンクに染まることも、大好きな人が現れることもなかった。
卒業式中、先輩を見つけることが出来なかった。
一瞬もしかして出ていないのではないだろうかと不安になったがそんなことはなかった。
式典が終わり退場になると、拍手をしながら体育館の真ん中の道を歩く卒業生の中に先輩を必死で探した。ようやくその中に先輩を見つけた。
真っ直ぐ前を向いて歩くその目に迷いはなかった。
俺はただその先輩の横顔と後ろ姿をかっこいいな、とぼんやりと眺めることしかできなかった。
卒業式自体が終わると短いホームルームのあと解散になった。
ただ俺は残るように言われて、掃除をさぼったことを怒られた。
罰としてプリント整理を手伝わされたせいで、職員室を出たころには廊下はもう静かになっていた。
いつもの場所で待ち伏せをしてなんとか先輩に会おうと考えていたのに、これでは会えないかもしれない。
職員室が見えないところまで来ると走り出し、今日2度目のいつもの場所へ向かう。
校舎を出たところにはまだ人だかりが出来ていたのに、いつもの場所に近づくにつれて人気がなくなっていく。途中でいつかの不良らしき人に出会って頭だけ下げた。
昼になって太陽が昇ると十分暑い。桜の木の下に人が立っているのが見えて、ようやく足を止めた。
「遅いな」
「すみません」
待っていてくれているのがわかったのでゆっくりと歩いて木のところまで行った。
待ち合わせをしていたわけではないのに先輩が俺を待っていてくれたことが嬉しい。
久しぶりに言葉を交わしたはずなのに久しぶりな感じが少しもしない。
「卒業おめでとうございます」
息を整えると深々とお辞儀をしながら言わなければならない1つ目のことを言う。
「それから、大学合格おめでとうございます」
顔を上げるとすぐに言わなければならない2つ目のことを言う。そして1人で大げさに手を叩いた。
「ありがと。恥ずかしいからやめろ」
俺の手を先輩の大きな手で上から掴まれる。驚いてその手から逃れるように手を引いた。
「クラスとかで何かあったりしないんですか。ここにいて大丈夫ですか」
まだ人がたくさん残っていた校舎の側の様子を思い出しながら尋ねる。俺といてくれることは嬉しいが、他をないがしろにしているのではないかと心配になる。
「ああ、すぐ戻る」
「すみません。じゃ、本当に俺が遅いせいで待たせていましたか」
うっかり感傷に浸って掃除をさぼった自分が恨めしい。今朝に戻れるなら真面目に掃除をしよう。
「賑やか過ぎるのは苦手だからいいんだ」
「それならよかったです」
少し困った顔が先輩の言葉が嘘ではなく本当に少し疲れていたことのだとわかる。
「どうして待っていてくれたんですか」
思わず口に出てしまってからしまったと思った。あまりにストレートな質問。何を期待しているのか。
先輩も驚いたのか目を一瞬見開いた。
「すみません、今の忘れてください」
「いや、いい」
何もよくない、と言いたくなるが先輩がいいというから黙っておく。
先輩の口数も、俺の口数も減る。
沈黙の時間が長くなる。
あと少ししかないのに。もう今日だけなのに。
「俺が何願ったか知ってるか」
しばらく沈黙が続いた後に、躊躇いがちに先輩が口を開いた。だけど言葉を出すと、退場の時真っ直ぐ前を見つめていたように迷いは感じられなかった。
「初めておまえに会った時」
その事だろうと思っていた俺はその時を思い出しながら首を横に振った。
今思い出すととても恥ずかしくて意味のわからないことをしていた2年前の俺。
「変えたかったんだ」
ぽつりと呟かれた言葉に頷いた。
「つまんなかったんだ、毎日。入学式、さぼったんだ。で、怒られたあとあそこ行ったら変なことしてるおまえ見つけて」
「変なこと……」
一生懸命1人で花びらを追いかけまわしているところを想像して否定できないなと思う。
「あまりにも生き生き楽しそうに話すから。表情がくるくる変わって。……んでかわいいな、と」
迷いなく話していた先輩が一瞬口を閉じたと思うと、小さい声だがはっきりと言った。
たぶん、俺のことをかわいい、と。
「俺みたいなのといない方がいいんだろうなって思ったけど。このちっこいのに、見てて飽きないこいつに、こんな俺を怖がらないおまえに、また会いたいって願った」
胸がぽかぽかして顔も熱くなるのがわかる。嬉しさと恥ずかしさで目を逸らそうと思ったが、あまりにもまっすぐ真剣にこちらを見て来る先輩の目から逃れられない。
「好きだ」
2年間、何度も何度も心の中で繰り返してきた言葉。ばれないように呟いてみた言葉。
それが今自分の口からではなく、目の前にいる先輩の口から出てきた。
「まだ、おまえが1年前の春願ってくれた気持ちと同じなら、俺が卒業した後も会ってくれたら嬉しい」
先輩とずっと一緒にいたいと願ったあの日。
開いた手のひらに花びらが入っていたのか、なぜか今どうしても思い出せない。
だけど今はそんなことどうでもいい。
「好きです、先輩。初めて会った日から」
俺の言葉を聞いて優しく笑った先輩が2年前初めて会った日の先輩と重なる。
桜の花はまだ咲かない。
だけど、朝は真冬に寂しく立っていた時と変わらないと思っていた木につぼみがついていることに気付く。
「抱きしめてもいいですか」
「勝手にしろ」
先輩に飛びつくと、力強くだけど優しく抱きしめられる。
そのぬくもりと優しさは春の暖かな日だ。
寒さと寂しさに終わりが近づき、暖かさと優しさが広がる。
三度目の春。つぼみがつきはじめた新しい季節の始まり。
EMD
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