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一話
思いつくままに電車を乗り継いで、もうどのくらい時間が経っただろう。
立花麒麟 が乗る電車は、穏やかな鼓動のような規則正しい音を立てながら、長閑な田畑の中をゆったりと走行している。
同じ車両に乗り合わせた乗客が、元々少し色素の薄い茶色がかった猫っ毛に、母親譲りの長い睫毛を時折瞬かせる垢抜けた麒麟の顔を、物珍し気にチラチラと見てくる中。麒麟は、ジッと窓の外を流れる景色を眺めていた。
利用し慣れた地元の駅を出たときは丁度真上にあった太陽は、遠くに見える山と同じくらいの高さまで傾いていた。
さすがにここまで来ると車内は乗客の姿もまばらで、あまりにもゆったりとした空間に、都会では決して逃れられない『第二の性』のしがらみすら忘れそうになる。
───高校を卒業したら家を出る。
Ωとして生まれた麒麟は五年前からずっとそう心に決めていた。
卒業式だったこの日。
今となっては唯一の家族である義父から、「どうしても仕事で式には出られない」と言われたとき、麒麟は「だったら今日しかない」と密かに拳を握り締めた。
義父の所為でαに対して良い印象を持っていない麒麟も、この時ばかりは義父がαで一流企業のエリート社員故、多忙であることを有難く思った。
これでようやく、義父とも離れられる。
学校生活においては『第二の性』を明かすことは義務づけられてはいないものの、さすがに高校生ともなれば発情期を迎えるΩも少なくないし、αはΩに対して鼻が利く為、Ωが卒業までまともな学校生活を送ることは難しいのが現状だ。
実際麒麟も、発情期こそまだ迎えていないものの、Ωな上に珍しいこの名前のお陰で、高校生活は決して平穏なものではなかった。
揶揄われることなんて可愛いもので、蔑むような言葉をぶつけられたり、時には暴力を振るわれることもあった。もっとも、負けん気だけは強い麒麟は、そんなとき大抵相手と取っ組み合いになり、傷だらけになる度に、Ωに生まれた自身の運命を憎んだ。
麒麟だって、好き好んでΩに生まれたわけじゃない。Ωに生まれた人間の気持ちが、そうでない奴らになんかわかるわけがない。
そんな棘々しい気持ちで過ごしていた学校生活も、やっと今日で終わった。これまで散々麒麟を蔑んでいた連中ともお別れだ。
義父に見つからないように、家を出るときにスマホは庭の池に捨ててきた。
どうせならこの目立ちすぎる名前も捨て置いてきたかったが、さすがにそれだけは叶わなかった。
数日分の着替えや、これまでずっと飲み続けている大量の発情抑制剤が入ったボストンバッグを、膝の上で抱え直す。
Ωには発情抑制剤は基本的に欠かせないものだが、麒麟が飲んでいるものは、ネット上などで出回っている、市販のものよりもかなりキツめのものだった。どうしても、家を出るまでは発情期を迎えるわけにはいかなかったからだ。
その分吐き気や頭痛などの副作用も強く、決して身体には良くないとわかっていたが、麒麟はネットでいつも大量に買い溜めていた。
Ωは一旦発情期を迎えれば、その後は一定期間おきに発情期を迎え、その間は日常生活すらままならなくなる。
取り敢えず無事家は出てきたが、義父が追って来ないことを確認出来るまでは、念の為薬は手放せない。発情期なんて、一生来なければ良いのにと思いながら、麒麟は今も自身を襲う副作用と戦っていた。
ずっと電車に揺られ続けていた所為で、吐き気が強くなり始めている。
窓の外には田畑の間にポツポツと民家が建ち並ぶ長閑な集落が広がっていて、麒麟が住んでいた街には無数に建っている高層マンションや背の高いビルなんて全く見えない。
さすがに余りにも何もない所まで行ってしまうと宿の確保も困難になりそうなので、麒麟は次の駅で電車を降りるべく、座席を立った。
ニ、三分走ったところで、静かな車内に停車を告げるアナウンスが流れ、やがて電車は寂れた駅のホームに滑り込んだ。
電車から降りたのは、麒麟を含めてたった三人。麒麟以外の二人は、どちらも齢七十は超えていそうな老人だった。
駅名が書かれた看板も、ベンチも柱も、何もかもが錆びていて、都会育ちの麒麟には、何だか別世界に来たような感じがした。
明らかに最近になってやっと設置されたのだとわかる、駅の中で一際浮いた存在の自動改札を抜けると、駅前はこぢんまりとしたロータリーになっていた。
聞き慣れない地方銀行の看板や、麒麟の育った街では見たことがない名前のコンビニらしき店。少し先に、他よりちょっとだけ背の高い建物があって、『月村病院』と書かれた看板が見えたが、ぐるりと見渡してみて目につくものというと、そのくらいだった。
駅前だというのに、人通りも少なければ、信号機だってない。すぐ傍に立つバス停の時刻表を見ると、朝・夕の通勤通学時間帯以外、どうやらバスは一時間に一本しかないようだ。
「……ヤバイ。泊まるトコ、あんのかな……」
駅前には見たところ宿は無さそうなので、麒麟は降りる駅を間違えたかと少し後悔しながらも、暫く辺りを散策してみることにした。
外の風に当たったお陰で、吐き気は随分と治まってきた。
取り敢えず駅前から延びる一番大きな通りを進んでいくと、右手に小さな商店街があったが、殆どの店がシャッターを下ろしていて、人通りも全くといって良いほどない。通りを走る車も、まだ数えるほどしか見かけていないし、この町(村?)は本当に機能しているんだろうかと思ってしまう。
おまけに、一番広い通りを選んだはずが、その通りも気付けば一車線で歩道すらない道幅になっていて、昔ながらの家屋が並ぶ住宅地になり、更に進むと田畑の広がる農道に辿り着いてしまった。
まだ田植え前の茶色い田んぼを見渡して、麒麟は「嘘だろ……」と思わず独り言ちる。
田んぼ沿いの道をゆっくりと進みながら改めて辺りを見渡してみるが、この先にはとても宿や店なんてありそうにない。かなり先に、古びた鳥居とその奥に延びる石段が見えるくらいだ。
「……神社って、頼めば泊めてくれたりすんのかな」
最悪今夜の宿が見つからなければ、泣きついてみるしかないと思いながら、麒麟が一先ず神社の方へ足を進めようとしたとき。農道から、山手の方へと逸れる舗装もされていない細い道に、真新しいタイヤ痕が付いているのが目に留まった。くっきりと残った二本の轍を目で追ってみるが、坂道はかなり先まで続いているようで、その行き着く先までは確認出来ない。
……もしかしたら、山手に上がればペンション的な施設の一つや二つ、あるかも知れない。
行ってみて何もなければ神社に駆け込むという手段も、使えるか否かはともかくまだ残されているのだから、取り敢えず可能性にかけてみようと、麒麟は残された轍を辿って坂道を上り始めた。
……十五分。
……三十分。
もうそこそこ坂を上がってきたはずなのだが、ウネウネと蛇行しながら山林へと続く道の先は、まだ見えてこない。それどころか、道幅は徐々に狭くなり、最早車一台がどうにか通れる程度にまで狭くなっている。
そんな中、タイヤ痕は森の中へと続いていた。
(ホントにこの先に何かあるのか……?)
いよいよ道は木々に囲まれた山林へと差し掛かり、麒麟の不安も段々大きくなる。肩から提げたボストンバッグも、これだけ坂を上り続けているとまるで岩でも背負っているように重く感じた。
……あともう少し進んで何もなかったら引き返そう。
そう決意して、すっかり山道になった草木の生い茂る坂道を五百mほど進んだとき。ようやく道の先に、一軒の小屋が見えてきた。
森の中にポツンと建つその小屋の脇には、黒い軽自動車が一台停車している。恐らくこの轍はあの車のものだと麒麟は察したが、同時に少しガッカリもした。
目の前の小屋は、とてもペンションといった雰囲気じゃない。
どちらかと言うと、雪山で遭難したとき、ドラマや漫画なんかで都合良く見つかる山小屋に近かった。
車が停まっているということは誰か人が居るのだろうが、そう広そうにも見えないし、さすがにここには泊めて貰えそうにないかも知れない。そう思ったが、これだけ延々と坂道を上がってきたのに、このまますんなり引き返すのも何だか癪で、麒麟は取り敢えず駄目元で小屋の主に声を掛けてみることにした。
泊めては貰えなくても、もしかしたら何処か宿を紹介して貰えるかも知れない。
なかなかの急勾配を登ってどうにか小屋の前まで辿り着く。遠目に見ると小さく見えたが、こうして目の前まで来ると、さっきまでは勾配で見えなかっただけのようで、小屋にはそこそこ奥行きがあり、思ったよりも広そうだった。
ここは住居なんだろうか。それとも、林業か何かの作業小屋なんだろうか。
そんなことを考えながら、麒麟は呼び鈴のない木のドアを控えめに叩いた。
「あの……! すいません……!」
ドアの前で声を張ってみたが、返事はない。
けれど、耳を澄ませると小屋の中から何やら微かな物音がして、確かに人の気配がする。
もう一度声を掛けてみようかと、麒麟がドアを叩く為に拳を振り上げたときだった。
「悪ぃ、今手が離せねぇ。鍵開いてるから、入ってきてくれ」
小屋の中から男性の低い声が返ってきて、麒麟は中途半端に振り上げていた手を慌てて下ろした。
電車を降りてからずっと老人の姿しか見かけていなかったが、声を聞く限り、中に居る人物はそう年配ではなさそうだ。
「入ってきてくれ」と言われたが、こんな見ず知らずの、しかもΩの自分が勝手に上がり込んでも良いのだろうか。そう言えば、とにかく家から離れることに必死で、Ωの自分が簡単に宿を提供して貰えるのかという問題を、すっかり失念していた。
ドアの取っ手に手を掛けたものの、いざ開くことを躊躇っていると、「何だよ、悪戯か?」と溜息混じりの声が聞こえてきた。
……そうだ、このドアの向こうに居る相手がこれまで麒麟の周りに居た連中のようにΩを蔑むような人物とは限らないし、ひょっとしたら麒麟と同じΩかも知れないのだ。それに何より、自分は家を出ると決めてここまで来たのだから、今更帰る場所なんてない。引き返す道なんて、もうないのだ。
「………っ、失礼します……!」
意を決して、麒麟はそうっと重い木の扉をほんの少し押し開けた。
ギイィ…、と鳴き声みたいな音が響いて、木の香りが鼻先を掠める。
三十センチほど開いたドアの隙間から、そろりと小屋の中を覗き込むと、
「ん……? てっきり八百屋の配達かと思ったら、見ねぇ顔だな。何か用か」
炎を噴き上げるガスバーナーの前でゴーグルを掛けた大きな『熊』が、チラリと麒麟の顔を一瞥した。その手には剣のようにも見える真っ赤に熱された長い棒のようなものが握られていて、麒麟は反射的に「失礼しました!」と慌ててドアを閉じてしまった。
(く……熊が何か作業してた……!)
しかもよくわからないけれど人が殺せそうな長い何かを手に持っていたし、もしかしたら一番叩いてはいけない扉を叩いてしまったかも知れない。
おまけに咄嗟にドアを閉めてしまったし、言葉通り、本当に失礼してしまった。
ドアの向こうで見た予想外の光景に動揺したのと、自身の行動への後悔に、ドアへ背をつけたままズルズルと座り込んで自己嫌悪に陥る麒麟の背後で、不意にギイッ、と大きくドアが開いた。
「う、わ……っ!」
突然凭れる場所を失った身体が大きく後ろに傾いで、麒麟はボストンバッグを抱えたまま、ドサリと仰向けにひっくり返った。そんな麒麟の上に、ゴーグルを首に引っ掛けた『熊』がニュッと現れて、思わず麒麟は声にならない悲鳴を上げ、しがみつくようにバッグを抱え込む。
「ハハッ、悪ぃ悪ぃ。まさか凭れてるとは思わなくてな。大丈夫か?」
すっかり怯えた様子の麒麟を見下ろして豪快に笑った『熊』は、そう言って逞しい手を差し出してきた。
「だ……大丈夫です。こっちこそ、突然すいません」
躊躇いがちにその手を握り返した瞬間、目の前の『熊』は一瞬目を見開いた。
「お前……Ωか?」
相手の腕に引かれるまま上半身を起こした麒麟は、問い掛けにギクリと身を竦ませた。
まだ発情期を迎えていない麒麟は、α以外にΩであることを見抜かれたことはない。ということはまさか……。
「もしかして……α?」
恐る恐る問い返す麒麟に、『熊』は困ったような顔で項を掻いた。
マジかよ…、と麒麟は呆然と心の中で呟く。
麒麟の知っているαとは、生まれつき容姿は端麗で知能も高く、圧倒的なカリスマ性もある。だからこそ社会的地位も高く、組織の幹部クラスは基本的にαで固められるというのがこの社会の常識だ。
けれど目の前に居る『熊』……基、大男はどうだろう。
歳は、三十代半ばくらいだろうか……。
一応短く切られてはいるが、ボサボサの髪に、顎から頬を覆う無精髭のお陰でイマイチ年齢は不詳。
着ている服は首元がくたびれたTシャツに、至って普通のジーンズで、足元は裸足だ。
辛うじて褒めるなら、よく見ると切れ長で形の良い目元くらいだろうか。後は、無駄に逞しい身体。とはいえ、この体格のお陰で、麒麟は一目見たとき、『熊』だと思ってしまったのだが。
見た目だけでも全くαらしくない上に、こんな田舎の山小屋で暮らしているαなんて、聞いたことがない。
麒麟がΩであることも見抜かれてしまったし、おまけに相手はαなら、やはり追い返されるだろうかと思いきや、熊男は握ったままだった麒麟の腕をグイ、と引いて立ち上がらせてくれた。
「見たところ、山登りに来たって感じでもなさそうだが、迷子か何かか? お前、この辺の人間じゃねぇだろう。どっから来たんだ?」
麒麟の抱えたボストンバッグに目を遣って、男は麒麟がΩだということなど特に気にした風もなく問い掛けてくる。
飄々とした男の態度に拍子抜けしながら、改めて小屋の中を見渡してみると、室内にはあちこちに大小幾つものガラス工芸品が並んでいた。様々な動物や魚、色とりどりの花々など、今にも動き出しそうなほど、繊細な作りの作品の数々に圧倒されていると、男がドアを閉めて苦笑した。
「柄じゃねぇ、と思ってるだろ」
「……コレ、全部アンタが……?」
「一応、今はコレで生計立ててるんでな。ただ、お前がドア開けるなりいきなりまた閉めるもんだから、今日の作業は中断だが」
言われて、さっきまで男が立っていた場所を見ると、確かにドアを開けたときにはかなりの勢いで火を噴いていたバーナーの火が、今は消されていた。
「す、すいません……邪魔して……」
「気にすんな。この町の人間以外が訪ねてくることなんざ、まず無ぇからな。……それで? そのデカイ荷物の理由は話してくれねぇのか?」
「……東京から、こっちに出てきたところで」
「東京!? お前みたいな若いのが、何でまた東京からわざわざ県越えてこんな田舎に来たんだ?」
「………」
これくらい田舎まで来れば、自分と同じΩは居たとしても、αなんてそうそう居ないだろうと思って麒麟は敢えて長時間電車を乗り継いできただけに、答えに詰まる。まさか、辿り着いた先がαの元だったなんて、全くの想定外だ。
チラ、と男の顔を窺い見てから、麒麟はギュウ、とバッグを抱える腕に力を込めた。
「……αから、離れたくて。……って言っても別に全部のαってわけじゃなくて! その……身内のαの元を、離れたかったんだ」
時々口籠りながら答えた麒麟の頭に、ポスンと大きな掌が乗っかる。え?、と顔を上げる間もなくわしゃわしゃと髪を掻き混ぜられて、麒麟の髪は男と同じボサボサ頭にされてしまった。
「ちょっ……なに────」
「気が合うな。……俺も、自分が嫌になって逃げてきたαだ」
「え……?」
どういうことなのかを問う前に、男はサッと麒麟の手からボストンバッグを奪い去る。
「要は家出ってことだな。どうせもうじき日も暮れる。詳しい話は後でゆっくり聞くとして、取り敢えず今日は泊まっていけ」
「え、でも迷惑じゃ……」
「泊まるアテ、あんのか? 言っとくが、この町には宿なんか無ぇぞ。その格好で野宿してぇっつーなら止めねぇが」
春先用の薄手のニットにスキニーパンツという、とてもアウトドアには向かない自身の服装を見て、麒麟は「お世話になります」と頭を下げるしかなかった。
そんな麒麟の返答に、男の無精髭に囲まれた口元がニ…、と満足げに弧を描く。
「なら一先ず晩飯の支度だ。手伝え」
部屋の奥の扉を顎で示して、男は麒麟のバッグを軽々と提げたまま、さっさと歩き出す。慌ててその後を追い掛けながら、改めて所狭しと並ぶガラス細工の数々に目を向けた。それらが目の前の熊男の手から生み出されたものだとは、やはり信じられなかった。
男が「工房」と言っていたガラス細工だらけの部屋の奥は、思った以上にシンプルなリビングダイニングになっていた。
テレビや冷蔵庫や電子レンジなんかの必要最低限の家電はあるが、余計な物は一切置かれていない。熊男の容姿からてっきりもっと小汚い部屋を想像していた麒麟は、思わず拍子抜けした程だった。
シンプルだけれど無機質さを感じないのは、きっとこの小屋が全て木で造られたログハウスになっているからだ。
この小屋の三倍以上はあるだろう麒麟の住んでいた家よりも、この小屋の方が、余程温かくて居心地が良いように思えた。
熊男から「手伝え」と言われたものの、実際麒麟は冷蔵庫から言われた食材を出したり、野菜を洗ったりするくらいで、男は慣れた手つきであっという間にチキンカレーを作り上げてしまった。
「普段は俺一人だから、倍となると咄嗟にレシピも浮かばなくてな。ダイニングテーブルも無ぇから、ソファでいいか」
麒麟にそう問いかけながらも、返答を待たずに男はさっさと二人分のカレーをソファの前のローテーブルへ運んで行く。
「あと水持ってくから、先座ってろ」
結局大した手伝いも出来ないまま、麒麟は素直にソファへ腰を下ろした。
料理も随分と慣れた様子だったし、この男は一体どのくらいこの小屋で過ごしているのだろう。「自分が嫌になった」というのは、αであることが嫌になった、ということなんだろうか。
Ωからすれば、αなんて生まれた時点でもう勝ち組じゃないかと思うのだが、そんなαでも、自分が嫌になったりするのだろうか。
ついつい考え込んでしまっていた麒麟の項に、突然冷たいグラスが押し当てられた。
「ひっ!?」
思わぬ不意打ちに悲鳴を上げて竦み上がる麒麟に、男は声を上げて笑いながらテーブルの上に水の入ったグラスを下ろした。
「お前、思ってること顔に出るって言われねぇか?」
「……どうだろう。あんまり、人と関わらないようにしてたから」
「αの俺が、何でこんな山ン中でちまちまガラス工芸しながら過ごしてんのか。αに生まれておいて、『嫌になる』ってどういうことだ。……そんなとこか?」
「……そうだって言ったら、答えてくれんの」
麒麟が問い返すと、男は少し驚いたように目を瞬かせた後、自分は別に冷蔵庫から出してきたらしいビールの缶を開けて静かに一口呷った。
「……お前も、Ωに生まれたことを『嫌だ』と思ったこと、あるだろ? 多分、Ωなら俺以上にそんな思いしてきてるはずだ。……ただ、αも誰もが勝ち組ってわけじゃねぇってことだ」
少し目を細めて呟いた男は、直後にグイ、と勢いよくビールを流し込むと、「冷めるぞ」とカレーの皿を手に取った。
結局、麒麟が気になっていたことへの答えにはなっていない気がしたけれど、それ以上踏み込むのも躊躇われて、麒麟も促されるままカレーの皿とスプーンを手に取った。
「……いただきます」
そっとスプーンで一口掬って口に含んだカレーは、即席で作られたとは思えないほど、麒麟がこれまで食べたどんなカレーよりも美味しかった。
「美味い……」
思わず素直な感想を零した麒麟に、男が隣で「そうか」と静かに笑う。
「お前、家出してくるくらいだからてっきり今時の擦れたガキかと思ったら、案外素直だし礼儀正しいな。親の躾が良かったのか」
親、と言われて咄嗟に義父の顔が脳裏に浮かび、麒麟は曖昧に笑って誤魔化した。
壁に掛けられた時計を見ると、七時を少し過ぎたところだった。義父は毎晩帰宅は遅いが、今日は麒麟の卒業式だったから、もしかしたら早めに帰宅しているかも知れない。
繋がらない携帯に、姿の見えない息子。それに気づいたとき、義父は何を思うだろう。慌てて捜し回るだろうか。
さすがにこれだけ遠くまで来ればそう簡単には見つからないだろうとは思っていても、万が一追ってきたときの義父の姿を想像すると寒気がして、麒麟は不安を掻き消すようにカレーを掻き込んだ。
その様子を見ていた男が、空になったビール缶をコン、とテーブルに置いて麒麟の顔を覗き込んできた。
「……お前、名前は?」
その問いは、正直麒麟が最も嫌いな質問だった。
名前を名乗って、笑われたり、驚かれたりしなかった記憶がないからだ。
「……笑わない?」
「笑うって、そんな面白ぇ名前なのか? そういうこと言われると逆に期待しちまうだろうが」
名乗らない内から、男はもう笑っている。でも何となく彼は他の誰とも違う反応を返してくれるような気がして、麒麟は食べ終えた皿をテーブルに戻してから静かに口を開いた。
「……立花、麒麟」
「……キリン? 面白いっつーか、随分珍しい名前だな。親のどっちかが動物好きなのか?」
「動物じゃなくて、『花麒麟』っていう花から付けたんだってさ。……俺、生まれたときから父親居ないんだ。この名前は、花が好きだった母親が付けた。その母親も、今はもう居ないけど」
「ああ……そうか。悪ぃな、余計なことまで聞いて」
罰が悪そうに、男が項を掻く。その仕草は困ったときの癖なんだろうかと、麒麟は少し可笑しくなった。
「別に、気にしてない。俺の母親もΩだったから、父親が誰かわからないっていう理由も、この歳になったらさすがにわかる」
社会的地位の低いΩは、子を成す為の道具のように扱われることも珍しくない。
母は決して自分の仕事を麒麟に明かすことはなく、幼い頃はいつも夕方になると家を出て行き、早朝に戻って来る母が不思議で仕方なかった。けれど、Ωは社会的立場上、身体を売り物にして稼ぐことが常套化しているのだと知ってから、恐らく母もまた、麒麟が生まれるずっと前から、そうして生活していたのだろうと悟った。
そんな裏社会の中で、Ωが麒麟のように出自のわからない子供を産むこともよくある話だが、生まれた子供の『第二の性』によって、その子供の人生は大きく変わる。Ωの母から生まれたΩの麒麟は、きっとこの先、まともな職になんてありつけない。発情期を迎えてしまえば尚更だ。
だからこそ、麒麟はそんな『第二の性』に囚われない生活を求めて、家を出てきた。Ωだ、αだ、なんていうのはもううんざりだった。
「ん……? でもお前、両親とも居ないのに家出ってのは、親戚か誰かと暮らしてたのか?」
「いや……義理の父親。俺が小学校に上がったときに母親が結婚した相手で……一流企業に勤めてるエリートα」
「結婚……番ったのか?」
「番じゃなかった。αとΩだったのに何で番わないんだろうと思ったけど、それがわからないまま、結婚して一年後に母親が死んだんだ」
「おいおい待てよ。結婚してたった一年でお前の母親は亡くなって、お前はその結婚相手が嫌で家出してきたってことは……まさかサスペンス的な事情じゃねぇだろうな」
「サスペンス的な事情ってなに……。母親は、病死だったよ。死因は感染症だって。義父も、母親にも俺にも、凄く良くしてくれてた。ずっと貧しかった俺たち親子には信じられないくらいの豪邸に住まわせてくれたし、俺もちゃんと学校に通えたし」
Ωは生まれ育ちによっては、まともな教育すら受けられないケースも少なくない。そんな中、丁度小学校に上がるタイミングで母が義父と結婚し、義父のお陰で麒麟は人間関係はさておき、教育だけはまともに受けることが出来た。
立派な住まいも与えて貰えたし、そのことには本当に感謝している。
「そうか……なら、お前の母親は無念だったな」
隣で落とされた呟きに、無念だったんだろうか?、と麒麟は内心首を傾げる。
義父と結婚してから一年もの月日があったのに、二人が敢えて番にならなかったことが、麒麟にはずっと疑問だった。番になれば、Ωも例え発情期が来ようと、番った相手にしかフェロモンを発さなくなるので、随分と生活しやすくなるのは間違いない。なのに二人が番にならなかったのは、どちらかが、番うことを拒んだんだろうか。
それに何より疑問だったのは、結婚して間もない頃、母が突然、麒麟名義の通帳を渡してくれたことだ。
義父は生活に必要な物は何でも買い与えてくれていたし、もう貧困に悩まなくても良くなったのに、どうして今…と麒麟は不思議に思いながら通帳を受け取ったのを覚えている。
残高欄には、一体いつどうやって貯めたのか、『3』の後に、『0』が六つ並んでいた。もっとも、その当時まだ小学生だった麒麟には、通帳を受け取った理由も、その金額も、ピンとこなかったのだが。
受け取って以来、ずっと仕舞ったままだった通帳が、まさか家出資金の役に立つなんて、そのときは思いもしなかった。
「良くしてくれてた父親から、なんで離れたかったんだ。反抗期か?」
「そんなんじゃない。ただ、中学の頃からずっと決めてたんだ。高校を卒業したら、家を出るって」
義父が、母が生きていた頃のままだったなら、恐らく麒麟も家を出ようなんて思わなかっただろう。αの庇護下で暮らせるのなら、それほど有難いことはない。
けれど、義父は変わってしまった。────五年前の、あの日から。
「────…い、おい!」
大きな手に肩を揺すられて、ハッと我に返る。知らない間に、水の入ったグラスを強く握り締めていたようで、慌てて何でもないフリで水を喉へと流し込む。
そんな麒麟の様子に男は少し困惑げにまた項を掻いた後、肩を掴んでいた手を麒麟の頭へ移して、またも髪をくしゃりと撫でた。
「まあ、お前くらいの年頃なら色々悩むこともあるだろ。Ωなら尚更な。俺は気楽な独り身の工房住まいだ。寝床がソファで良けりゃ、お前の気が済むまでここに居りゃイイ」
「……ここ、居させてくれんの?」
「その代わり、飯やら洗濯やらの生活面は、居候として手伝って貰うぞ」
パッと見は厳ついけれど、実は案外優しい顔で『熊』が笑う。
「そう言えば、アンタの名前は?」
このままでは危うく『熊さん』と呼んでしまいそうなので麒麟が問うと、二本目のビールを取りに行った男は冷蔵庫を開けながら項を掻いた。
「……熊谷勝吾 」
「く、くま……っ」
ボソリと告げられた名前を復唱しようとして、麒麟は堪え切れず途中で噴き出した。
「お前、自分のときは笑うなって言っただろうが」
「だ、だって……その見た目で『熊谷』って……。俺の名前なんかよりよっぽどズルいじゃん」
「見た目通りだって言われると思ったぜ……。クマとキリンで動物園だな」
自嘲気味に笑った熊谷が、麒麟にはジンジャーエールを淹れてきてくれた。
「だから俺のは動物じゃないって」
初対面の、おまけにα相手にこんな風に自然体で話せるなんて、思ってもみなかった。
αといえば、所詮皆Ωを同じ人間とは思っていないような連中ばかりだと思っていたけれど、熊谷のようなαも居るのだということを、麒麟は家を出て来なければ、きっと一生知ることはなかった気がする。
熊谷が和ませてくれる空気のお陰で、家を出てきた不安も、いつしか随分薄らいでいた。
見かけに寄らないこうしたさり気ない気遣いも、αならではなんだろうか。
いつか、熊谷もこの山小屋へ移り住んだ理由を、話してくれるときがくれば良いと密かに思いながら、麒麟は熊谷とジンジャーエールと缶ビールで乾杯を交わした。
────こうして、αクマとΩキリンの共同生活は、幕を開けたのだった。
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