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二話
◆◆◆◆
────あれは、五年前の夏休みだった。
いつものようにエアコンのタイマーをセットしてベッドに入り、眠りに就いていた麒麟は、奇妙な感覚を覚えて目を覚ました。
何だか、首筋に熱を孕んだ風を感じる上に、まるで何かに圧し掛かられているように身体が重い。
「………?」
まだ半分寝惚けた頭で麒麟は身体を捻って仰向けになる。そこで初めて、目の前に義父の顔があることに気付いて、麒麟の意識は一気に覚醒した。
「────ッ!?」
状況が理解出来ず、まともに声を上げることも出来なかった。
母の死後も、毎日遅くまで仕事に打ち込みながらも、優しく良い父親だった義父が、どういうわけかスーツ姿のまま、麒麟の身体に覆い被さっているのだ。
首筋に感じた熱気が、義父の呼気だったことを知って、ぶわっと全身に鳥肌が立つのがわかった。
「と、義父さん……!?」
一瞬酔っているのかと思ったが、義父は元々付き合い程度しか酒を飲まない人だし、今も麒麟の肌に降り掛かる義父の吐息からアルコールの匂いは全くしない。
それなら一体どうして…、と混乱する麒麟の頬を、義父の両手が愛おしむように包み込む。
「……麒麟は、年々母さんに似てくるな。栗色のこの髪も……長くて綺麗な睫毛も……」
陶酔した様子でそう言いながら、義父の手が麒麟の髪や頬を何度も執拗に撫で回す。その手付きは、完全に父親が息子に触れるそれとは違っていて、麒麟はそこで初めて、義父に強い恐怖を覚えた。
「な……何してるんだよ、義父さん……! 俺は母さんじゃない……!」
震える声で訴えたが、義父の手は止まることはなかった。
それどころか、義父の手は麒麟の首筋を通って、ゆっくりと胸元へ下りてくる。
「当たり前だよ、麒麟。お前は母さんとは違う。こうして触れれば……すぐにわかる」
義父の掌が、まだ発育途中の麒麟の薄い胸元を、いやらしい手付きで撫で上げる。
「……っ、やめ……ッ! 義父さん……っ!」
どうにか逃れようと身を捩る麒麟の声も、義父には届いていないようだった。
「お前が発情期を迎える日が楽しみだよ、麒麟……」
麒麟の柔らかな髪に口付けて、ねっとりとした声音で呟いた義父に、麒麟は心底ゾッとした。
この人は母の夫で、母と愛し合っていたはずで……なのになんで、どうして、とそれしか頭に浮かんでこず、震えることしか出来ない麒麟を残して、義父は何事もなかったかのように部屋を出て行った。
発情期を迎えてしまったら、義父は一体何をするつもりなのだろう。
自分は一体どうなるのだろう。
込み上げる不安を持て余したままの麒麟に反して、義父は翌日にはもういつも通りの優しい父親に戻っていて、麒麟は益々わけがわからなくなった。悪い夢でも見たのではと何度も自分に言い聞かせようとしたが、父に撫でられた感触が、肌のあちこちにハッキリと残っていた。
────このまま、義父の元には居られない。
とにかくそう思った麒麟は、それから本やネットで片っ端からΩの発情期について調べ、そうして辿り着いたサイトで販売されていた、強い発情抑制剤に手を出すようになった。
その薬は頭痛や吐き気の副作用が市販の薬よりもかなり強く、義父に隠れて何度もこっそりトイレで吐きながらも、麒麟は薬を飲んでいることを義父に気付かれないよう、必死で誤魔化してきた。
そうしてどうにか、発情期を迎えることなく家を出られて、幸いにもΩの麒麟と対等に接してくれる熊谷に出会い、有難いことに熊谷の小屋に居候させて貰えることになった。
熊谷はリビングと続きになっているロフトを寝床にしているらしく、麒麟はリビングのソファを寝床として与えて貰った。ソファとはいえ、身体を伸ばして眠れるだけでも麒麟にとっては充分幸せだった。
また義父が部屋に入ってくるのではないかと毎日怯える必要ももうないし、Ωだからと事あるごとに突っかかってくる煩わしいクラスメイトたちももう居ない。
明日からは一体どんな日々が待っているのだろうと、久しぶりにワクワクとした気持ちで眠りに就いた麒麟だったが、ふと首筋に覚えのある熱を感じて、麒麟は反射的に目を覚ました。
……まさか、そんなはずはない。
そう思ったが、肌に感じる熱を帯びた息遣いに、麒麟の身体が先に反応してゾクリと粟立った。
恐る恐る首を捻って、麒麟は思わず息を呑んだ。
「……ッ! 義父さん……!?」
五年前の夏の夜と同じ顔で、義父が麒麟を見下ろしていた。
「なんでここに……!?」
居るはずのない義父に向かって、掠れた声で問い掛ける麒麟の頬を、生温い手がゆっくりと撫でる。
「勝手に居なくなるなんて、いつからそんなに悪い子になったんだ……?」
そのまま麒麟の身体へと這い下りてくる義父の手に、五年前の感触が一気に生々しく蘇る。
「義父さん、やめろよ……! 嫌だ……っ!!」
吐きそうな嫌悪感から無我夢中で叫んだ麒麟は、義父を突き飛ばす勢いで、ソファから跳ね起きた。
────その瞬間。
今まで麒麟に覆い被さっていたはずの義父の姿は消え、代わりにソファの傍らには、心配げにしゃがみ込む熊谷の姿があった。
「え……あれ……?」
状況が把握出来ず、麒麟が肩で息をしながら額を押さえると、そこには冷たい汗がびっしり浮かんでいた。
(……今の……夢……?)
その割には随分と感触がリアルだったが、室内を見渡してみても、義父が居た形跡は全くない。
自分の身体を抱き締めるようにして小さく身震いする麒麟の顔を、熊谷がそろりと覗き込んできた。
「随分うなされてたが、大丈夫か?」
そう問い掛けながら、熊谷がタオルで麒麟の額の汗を拭ってくれる。不快な義父の手の感触も一緒に拭い去ってくれているようで、麒麟はやっと、夢だったのだと確信出来て、ホッと息を吐いた。
「……大丈夫。ちょっと、嫌な夢見て……。起こしてゴメン」
「気にするな。慣れない場所に来て、疲れもあったんじゃねぇか?」
首筋までひとしきり汗を拭いてくれた熊谷が、「ちょっと待ってろ」とキッチンへ向かう。
冷蔵庫から出した牛乳を小鍋で温めてマグカップに注ぎ、そこにハチミツを加えたホットミルクを持って、熊谷は麒麟の傍へ戻ってきた。差し出されたカップを受け取りながら、麒麟は躊躇いがちに口を開く。
「あの、さ……俺、寝ながら何か言ってた……?」
窺うような視線を向けると、熊谷は少し困ったような顔で項を掻いてから、「いや」と緩く首を振った。本当に嘘が吐けない人なんだ、と麒麟は密かに苦笑する。
「起きる瞬間、『嫌だ』って叫んだ以外は、ずっと苦しそうに呻いてた」
そっか、とだけ答えて、麒麟は湯気の立ち昇るホットミルクを一口啜った。
多分、熊谷は麒麟が悪夢にうなされている間、何かを聞いたのだろう。けれど特にそれを追求しようとしない優しさが、ホットミルクの優しい甘さと相まって、泣きそうになるのを麒麟は必死で堪えた。
「そうだ。眠れねぇなら、いいモン持ってきてやる」
熊谷が、不意に明るい声を上げて立ち上がった。そのまま工房へ入っていくと、白くてモコモコとした謎の塊を手に戻ってきた。
「寝つきの悪いガキにはぬいぐるみだろ」
そう言って渡されたそれは、目と鼻が縫い付けられているので何かの動物なのだろうということはわかったが、何せ形がいびつで、何の動物なのかまではわからなかった。
「……コレ、なに? ……ブタ?」
色んな角度から眺める麒麟に、熊谷が「ああ?」と不服そうに片眉を吊り上げる。
「失礼なヤツだな。どう見てもウサギだろうが」
「う、ウサギ……?」
そう思って見てみるが、確かに片方の耳は長くてだらりと垂れ下がっているものの、もう片方の耳は長さが三分の一くらいしかない。申し訳ないが、やはり正体を知っても、麒麟には「謎の白い動物」にしか見えなかった。
「これも、熊谷さんの手作り?」
「ガラス工芸始める前のな。とにかく何でもいいから夢中になれるモンを探してて、そのときに作ったヤツだ」
「……ガラス工芸選んで、正解だったと思う」
「うるせぇよ」
麒麟の頭を軽く叩いて、熊谷は空になったマグカップを引き取ってくれる。
「……どうだ、眠れそうか?」
手早くマグカップを洗った熊谷が、麒麟の傍に戻ってきて目の前に再びしゃがみ込む。
出会って間もない上に、麒麟がΩと知っていながら、こんな風に親切にしてくれるαが居るなんて知らなかった。
いつまでもここに世話になるわけにはいかないとわかっていても、この時間がこの先ずっと続けばいいのにと、麒麟は初めて味わう穏やかな時間に、そう願わずにはいられなかった。
「ブタウサギのお陰で、眠れそう」
「ブタは余計だ。……ここは田舎だが、俺みてぇなのがこうして好き勝手やってられるくらいには平和な町だから、大丈夫だ。安心して休め」
「……ありがとう」
熊谷曰くウサギのぬいぐるみを抱えてソファに横たわる麒麟に、熊谷が毛布を掛けてくれる。「おやすみ」と声を寄越して、ロフトに上がっていく熊谷の姿を見送って、麒麟は受け取ったぬいぐるみをギュッと抱き締めた。
母と二人暮らしだった頃。毎晩仕事で家を空ける母が、寂しくないようにと麒麟に大きな羊のぬいぐるみを買い与えてくれて、毎晩それを抱いて眠っていたのを思い出す。手足もなくて、全体的にモコモコな熊谷作のウサギは、その羊のぬいぐるみに似ているような気がした。
熊谷のウサギの効果なのかどうなのか。その後、麒麟は悪夢にうなされることはなく、朝までぐっすり眠ることが出来たのだった。
「ん……?」
何だか微かに聞こえる気がする作業音に、麒麟はソファの上で身動ぎながら薄らと目を開けた。
見慣れない天井に、一瞬ここはどこだっけ、と思いつつ、両腕でしっかり抱いたままだったブタのようなウサギのぬいぐるみを見て、そうだここは熊谷の家だ、と安堵する。
窓からは明るい陽射しが射し込んでいて、時計を見るともうすぐ九時になるところだった。
こんな時間まで眠ったのはいつぶりだろうと思いながら、麒麟は畳んだ毛布をソファの端に置き、その上に安眠をくれたウサギを置いた。
ロフトには、既に熊谷の姿はない。その代わり、キッチンカウンターに、レタスとチーズとハム、それからトマトを挟んだサンドイッチが、ラップのかかった状態で置かれていた。皿の横に、「起きたら食え」と意外にも達筆なメモ書きがあった。
「……あんなガラス細工作ったり、料理上手かったり、おまけに字も上手いのに、裁縫は出来ないんだ」
ソファに置いたウサギを改めて見て、余りの極端さに麒麟は笑う。
先ほどから聞こえている作業音は工房の方から漏れているようで、どうやら熊谷はもう仕事に取り掛かっているらしい。そう言えば昨日は麒麟が突然訪ねてきたお陰で、熊谷の作業を中断させてしまったことを思い出した。
有り難くサンドイッチを頂いたら、そのお礼も兼ねて、改めて謝りに行こうと決めて、麒麟は熊谷お手製のサンドイッチで朝食を済ませた。
ついでに、昨日は家出に精一杯でうっかり飲み忘れていた、発情抑制剤も飲んでおく。
これまではとにかく義父の前で発情しないようにと、それだけを考えて飲み続けてきたけれど、早ければ高校入学時には発情期を迎えるΩも居るので、正直いくら薬を飲んでいても、いつまで抑えられるのかは麒麟にもわからない。
……もしも、熊谷の前で発情期を迎えてしまったら、どうなるんだろう。
熊谷は自分がαであることも誇張しないし、麒麟がΩであることも気に掛けないで居てくれる。
けれど、Ωが発情時に出すフェロモンは、αにとっては時に理性などあっさり奪ってしまうほど強烈なのだ。
熊谷は、自分が嫌になって逃げてきたのだと言っていた。詳しい理由はわからないが、恐らく彼も麒麟同様、『第二の性』のしがらみから解放されたくて、こうして田舎で暮らすことを選んだのだろう。だとしたら、もしも麒麟が熊谷の前で発情期を迎えてしまったら、きっともうここには居られなくなる。
(……それは、嫌だ)
折角、こんなにも穏やかな時間を与えてくれる場所へ辿り着けたのに。
Ωに生まれた麒麟は、これまで他人から親切にして貰った記憶なんてない。義父だけは親切だったが、それも5年前の一件以来、素直に喜べるものではなくなっていた。だから、そんな自分にも同等に接してくれる熊谷の優しさに、絆されているだけなのかも知れない。
だけど、もしもここを離れることになったら、この先きっと、熊谷みたいな人間にはそうそう出会えないだろう。
それに、一度発情期を迎えたΩは、一定周期でやってくる発情期の所為で、まともな生活なんて送れなくなる。だったら尚更、いつか来てしまうであろう発情期を迎えるまでは、せめて一日でも長く、ここで過ごしたい。
Ωという性に振り回されて、誰彼構わず欲情するなんて、麒麟は絶対に嫌だった。
母は敢えてそうすることで麒麟を育ててくれていたので、行為自体を否定するつもりはないし、実際に身体を売り物にしている他のΩを非難するつもりもない。
しかし、結局麒麟の母は若くして亡くなってしまった。
人生の中で、発情期の度に複数のαや時にはβとも肉体関係をもつΩは、その中で感染症にかかってしまうケースも少なくない。麒麟の母の病気もそうだったのか、母も義父も「感染症」としか教えてくれなかったのでわからないが、母が麒麟に託してくれた通帳は、今の麒麟には「Ωという性に縛られるな」という母からのメッセージだったような気がした。
だから麒麟は、Ωだからという、ただそれだけの理由で、容易く身体を投げ出すような人間には、なりたくなかった。
無意識に抑制剤の入った薬瓶を握り締めていた麒麟は、一度は閉めた蓋をもう一度開け、いつもは一日三錠服用する錠剤を、追加で更にもう三錠、水で流し込んだ。
サンドイッチのお礼に麒麟は洗面所に溜まっていた洗濯物を片付け、洗い終えた服を昨日教わったウッドデッキの竿に全て干し終えてから、ずっと作業音が途切れることのない工房の扉をそろりと開けた。
作業に集中しきっているのか、熊谷は初めて見たときと同じようにゴーグルを着け、バーナーの前に立って絶え間なく手を動かしていた。どうやら麒麟が扉を開けたことにも、気付いていないようだ。
ゴーグル越しにもわかる真剣な眼差しに、麒麟もついその姿に見惚れてしまう。
炎に炙られて真っ赤になったガラスの筒に時折空気を吹き込み、熊谷は自由自在に形を作り上げていく。最初はただの棒状だったガラスは、あっという間にカップの形になった。
カップが完成するや否や、今度は熊谷は作業台の上に数十本…もしかしたら数百本は立っているかもしれない細い色つきのガラス棒を何本か手に取り、それもまた、炎の上でくるくると回しながら、どんどんと形にしていく。
時には見ているこっちが息を止めたくなるほど、細かい作業を交えつつ、完成したのは小さなキリンだった。親指の先ほどのサイズなのに、手足は勿論、耳や尻尾もあれば、身体の模様までちゃんと入っている。
最後に先ほど作ったガラスのマグカップの持ち手の上に、作ったキリンを接着して、熊谷は満足そうに口端を持ち上げた。
「……凄い」
カップだけだと無機質だったのが、キリンが一頭くっついたことで、一気に温かみのあるマグカップに変わる瞬間を目の当たりにした麒麟が思わずポツリと漏らした感想に、熊谷は驚いた様子でやっと麒麟の方を振り返った。
「おお。なんだ、居たのか」
「なんか集中してたから、邪魔すると悪いと思って。……昨日も、邪魔したとこだから」
少し罰が悪そうに言った麒麟に、熊谷はバーナーの火を止めてゴーグルを外すと、「気にすんな」と笑った。
「昨夜は、あれからちゃんと眠れたか?」
「うん、ブタウサのお陰でむしろ寝すぎた」
「だからブタじゃねぇって」
「あ、サンドイッチもご馳走様。代わりに、洗濯済ませといた」
「ああ、そういやすっかり忘れちまってた。ありがとな」
苦笑する熊谷に「どういたしまして」と返して、麒麟は改めて今しがた完成したばかりのキリンのマグカップをまじまじと眺める。
「凄いな……こんな小っさいのに、ちゃんと目も綺麗に左右対称になってる。あの謎のウサギ作った人とは思えない」
「人間、向き不向きっつーのがあんだよ」
「でも、なんでキリン? 可愛いけど」
「……何となく、お前見てたら作りたくなってな」
「いやだから、俺の名前は動物のキリンじゃないって」
「音は同じなんだからいいじゃねぇか。それに、俺はお前の名前、好きだぞ」
「え?」
好き、という耳慣れない単語に、心臓が大きく跳ねる。単に名前のことを言われただけだとわかっていても、サラリと告げられた言葉に咄嗟に上手く反応出来なくて、麒麟は動揺を悟られないように俯くことしか出来なかった。
そんな麒麟の胸の内なんて知らない熊谷は、何やら壁際の棚をゴソゴソと漁り始めた。そこから一冊のファイルを取り出してきて作業台の上に広げ、何かを探すようにページを捲り始める。
落ち着け、と自分自身に言い聞かせるように一度大きく深呼吸してから、麒麟が隣からそろりと覗き込むと、そのファイルには何枚ものガラス細工の写真がファイリングされていた。
「中国の神話にも、『麒麟』って動物が出てくるだろ」
「ああ……なんか、龍と馬がくっついたみたいなヤツ?」
「そうそう……っと、あった、コレだ」
熊谷が開いたページには、今にも飛び立ちそうなくらい躍動感のある、『麒麟』のガラス細工の写真があった。
「え、まさかコレも熊谷さんが作ったとか……?」
「おう、一応な。美術館からの依頼で作ったヤツだ」
まるで、絵画をそのままガラス細工で表現したようなクオリティに、思わず見入ってしまう。
「美術館とかからも、依頼来たりするんだ」
「言っただろ、今はこれで生計立ててるって。そういう依頼もそうだが、ネット通販でもなかなか売り上げ上々なんだぞ」
「この『麒麟』、クオリティ滅茶苦茶高いけど、でもここの工房にある熊谷さんの作品とは、ちょっと雰囲気違う気がする」
「こういう依頼品は、元々のデザイン画が出来てて、それに合わせて作ることが多いんだ。ただ、この『麒麟』も、俺はお前っぽい気がすると思ってな」
「ええ……俺、こんな厳めしい顔してる……?」
「顔の話じゃねぇよ。何つーか、Ωだからって変に擦れてたり荒んでたりしてねぇし、案外凛々しい感じがするんだよ、お前は」
熊谷は「凛々しい」と言ってくれたが、麒麟は素直に喜ぶことが出来なかった。
Ωに生まれたことに翻弄されてたまるかと思う反面、発情期を迎えることを恐れて、強い薬に手を出し続けている自分。結局は、発情期を迎えて完全なΩになってしまうことが、麒麟は怖いのだ。
「……どうだろう。格好付けて、強がってるだけかも」
自嘲気味に笑った麒麟に熊谷が眉を顰めたとき。
「すんませーん! 三井青果でーす!」
気まずい空気を吹き飛ばすように、若くて明るい声と共に入り口のドアがノックされた。
「お、今度こそ八百屋が来たか」
ファイルを棚に仕舞って、熊谷がドアを開けて迎えた相手は、薄らと浮いたそばかすが特徴の、麒麟と同じくらいの年頃の少年だった。腰に『三井青果店』と書かれた紺色のエプロンを巻いた少年は、手に野菜が山ほど入った段ボール箱を抱えている。
「いつも悪ぃな」
「いやいや。こちらこそ、いつも贔屓にしてもらって助かってるっす」
段ボール箱を熊谷に手渡した少年の目が、そこでやっと麒麟を捉えて、懐っこい犬みたいな丸い目が更に大きく見開かれた。
「あれ!? 熊谷さんとこにお客さん!? あ、もしかして仕事の話の途中でした? 邪魔してスンマセン!」
麒麟に向かって深々と頭を下げる少年に、「いや、俺は……」と麒麟は答えに戸惑う。そんな麒麟に、隣で熊谷が助け舟を出してくれた。
「こいつは立花麒麟。仕事相手じゃねぇから謝らなくてイイ。ワケあって東京からこの町に来たものの、泊まる場所もねぇってことで、うちに居候してる」
「キリンさんって言うんすか! すげえ、何か都会っぽい名前で格好イイっすね! やっぱ東京って違うんだなあ……。あ、俺は三井亮太っていいます」
キラキラとした眼差しを向けられて、麒麟は益々困惑する。
熊谷に名乗ったときの反応も新鮮だったが、こんな憧れの目で見られながら「格好イイ」なんて言われたのも生まれて初めてだ。
「コイツは駅前の商店街にある八百屋の一人息子でな。いつも配達頼んでんだよ。そういや亮太、お前も今年高校卒業だったよな?」
「はい、三日前に卒業式迎えたとこっす! ……でもこれからは店継ぐ為に、ひたすら野菜と暮らす日々なんすけど」
誇らしげに胸を張ったかと思えば、次の瞬間がっくりと肩を落とす亮太のコロコロと変わる表情に、麒麟は思わず微かに笑ってしまった。
「あっ、笑われた。やっぱ都会の人からしたら、高校出て八百屋とか、地味すぎっすよね……」
シュン、と項垂れる亮太の頭上に、ぺたんと垂れ下がった耳が見えるようで、麒麟は「そうじゃない」と慌てて否定する。
「なんか……犬みたいで可愛いと思って。あ、悪い意味じゃなくて、良い意味で。それに、俺と同じ歳でもうちゃんと将来見据えて働いてるって、凄いと思う」
「え! 麒麟くんて、俺と同い年!? 大人っぽいから、てっきり年上だと……」
またしても目を丸くする亮太に、熊谷がフッと目を細めて笑った。
「亮太、お前ずっと歳の近い友達が近所に居ないって嘆いてただろ。良かったじゃねぇか。ちょっと財布取ってくるから、待っててくれ」
そう言い残して、熊谷は段ボールを抱えてリビングの方へ向かった。
これまで友達なんて一人も居なかった麒麟は、亮太と二人だけで取り残されて何を話せばいいのかもわからなかったが、そんな懸念は亮太が呆気なく消し去ってくれた。
「東京の人ってことは、熊谷さんと一緒だ。しかも同い年とかすげー嬉しいんだけど! でも麒麟くん、なんでわざわざこんな町選んだの? ここ、マジで何もなくてビックリしなかった?」
「『くん』って、なんか擽ったいから呼び捨てでいいよ。俺も亮太って呼ぶから。……ここに来たのは、最初から決めてたわけじゃなくて、たまたま辿り着いたっていうか……」
積極的に話しかけてくれる亮太にリードされる形で麒麟が答えると、亮太は「呼び捨て」という言葉にもまた嬉しそうに顔を綻ばせた。
「麒麟……! あ、もう何か口にしただけで都会感ある!」
「何だそれ」
よくわからない感動に浸って、何度も「麒麟」と繰り返す亮太に、麒麟は小さく噴き出した。
「そう言えば、さっき熊谷さんも東京の人って言ってたよな?」
「ああ、うん。もう何年前かなあ……麒麟と似たような感じで、ある日突然東京からフラッとこの町に来たんだよ」
熊谷は、東京に居た頃は一体どんな仕事をしていたんだろう。
αということはきっとそこそこ良い職に就いていたんだろうとは思うけれど、熊みたいな姿で工房に篭っている熊谷しか知らない麒麟には想像出来ない。
仕事で何かあって、それが原因でこの町に来たんだろうか。
亮太の言葉についアレコレと想像を巡らせていると、戻ってきた熊谷が亮太の頭を革の財布でポスッ、と叩いた。
「こら。勝手に人の秘密暴露してんじゃねぇよ」
イテッ、と軽く首を竦めた亮太が、不満げに熊谷を見上げて唇を尖らせる。
「秘密って、事実じゃないっすか。それに熊谷さんがこの町に来た理由、俺には未だに教えてくれないでしょ」
「お前みたいに口の軽いヤツに話したら、あっという間に町中に広がるのが目に見えてるからな。ホラ、今回の支払い。釣りは駄賃に取っとけ」
「やった! へへ、毎度ありっす!」
熊谷が差し出した五千円札を両手で仰々しく受け取って、亮太は心底嬉しそうに破顔した。
「来週も、またよろしく頼む」
「了解っす! それじゃ、あんま長居してっと親父がうるさいから、そろそろ店戻ります。麒麟も、良かったら今度店遊びに来てよ」
熊谷に頭を下げた後、麒麟には人懐っこい笑顔でヒラヒラと手を振って、亮太は店へと戻っていった。
同じ年頃の相手とこんなにも自然に、何気ない会話をしたのは初めてで、軽く放心状態の麒麟に、「だから言っただろ」と熊谷が笑った。
「住人の殆どがβだからってのもあるが、この町はこういうとこなんだ。αだΩだなんてことは、ここの連中にとっては大した問題じゃない」
最初は、麒麟がΩだと知っても態度の変わらない熊谷が、変わり者のαなんだと思っていた。
だけどそうじゃない。亮太を見て、麒麟にもハッキリわかった。
この町の住人たちはきっと皆、端から『第二の性』になんて囚われていないのだ。
「……この町に生まれてたら、もっと何か違ったのかな」
ポツリと呟いた麒麟の言葉に「どうだろうな」と苦笑して、熊谷は最早何度目になるのか、麒麟の髪をわしゃわしゃと掻き混ぜた。熊谷なりの励ましなんだろうか。
「どう足掻いたところで、過去はどうしようもねぇからな。特に、お前はまだ若いんだ。大事なのはこれからだろ。……逃げてきた俺が言っても、説得力ねぇとは思うが」
熊谷は、一体何から逃げてきたんだろう。
聞きたかったけれど、見上げた熊谷の横顔が何処か悲しそうに見えて、麒麟はそれ以上何も聞けなかった。
その日の夜。
麒麟は、いつもの倍服用した抑制剤による激しい副作用で、何度も部屋とトイレを往復する羽目になっていた。
もう何度も吐いて、最早胃液以外何も出ないのに、強い吐き気が一向に治まらない。
「……きっつ……」
正直、ここまで副作用がキツくなるとは思わなかった。こんな苦しい思いをして、果たして本当に発情は抑えられているんだろうか。
Ωが発情期を迎える平均年齢はとっくに越えてしまっているだけに、明日にでも発情期がきてしまうのではないかと思うと、不安で堪らなかった。
ぐったりと壁に寄り掛かるようにしながらリビングに戻ってくると、
「どうした。腹でも下してんのか?」
てっきり眠っていると思っていた熊谷がロフトから顔を覗かせていて、麒麟はギクリと肩を強張らせた。
「ああ……うん。山って朝晩冷えるから、ちょっと腹冷やしたのかも」
「大丈夫か? 寒いなら、毛布もう一枚出すぞ」
「いや、大丈夫。二日続けて起こしてゴメン」
込み上げる吐き気をどうにか堪えながら、麒麟は口早にそう返すと、ソファに横になる。大丈夫とは答えたが、胃が延々と掻き混ぜられているようでとても眠れそうにはなかった。
そんな麒麟の頭上に、いつの間にロフトから降りてきていたのか、熊谷の溜息が降ってきた。
「熊谷さん……。俺なら平気だから、寝て────」
「お前、高卒ってことはもう十八だよな。発情期、まだ来てねぇのか?」
「……っ」
静かな声で問われて、麒麟は言葉に詰まった。
「……なんで、そんなこと聞くわけ」
「ある程度個人差はあるが、お前くらいの歳ならそろそろ発情期が来ててもいい頃だろ。Ωは一旦発情期を迎えたら、発情期以外でも少なからずフェロモンが出る。だが、お前からはそれが匂わねぇから、少し気になってな」
少し、という割に、熊谷が麒麟を見下ろす瞳は、まるで全てお見通しだと言っているように見えて、麒麟はゴクリと喉を鳴らした。
……どうしてだろう、熊谷には、嘘が通じない気がする。
無意識にシャツの胸元を握り込みながら、麒麟は居たたまれなくなって顔を背けた。
「……家を出るまでは、どうしても発情したくなかったから……抑制剤、飲んでる」
ボソボソと、歯切れ悪く答えた麒麟に、「やっぱりそうか」と、熊谷が呆れたような溜息を吐いた。
「家出してきたってことはそれなりに事情はあるんだろうが、抑制剤ってのは本来、発情期を迎えたΩがなるべく日常生活を送りやすくする為に飲むモンだ。まだ発情期も迎えてない、ましてやお前みたいなガキが、軽々しく飲むモンじゃない」
「わかってるよ……! ……わかってるけど、それでも、出来るなら発情期なんか、迎えたくないんだ……」
「それでもΩなら、発情期が来るのは避けられねぇ。お前は馬鹿なガキじゃねぇから、それくらい自分でもわかってるはずだ。もう家だって出てきたんだろ。それなら、不必要に薬飲むのはもう止めろ」
止めろ、なんて簡単に言われても、もしも麒麟が発情期を迎えてしまったら、困るのは熊谷じゃないか。それとも、そうなったら追い出せばいいと思われているんだろうか。
言い返したい言葉は沢山あったが、麒麟を窘める熊谷の瞳には初めて見る怒りの色が滲んでいて、言葉は喉につっかえたまま出てこなかった。
熊谷が誰かと番っているαならともかく、どちらも番の居ないαとΩの関係である以上、麒麟が発情してしまったら少なからず熊谷にも影響はあるはずだ。熊谷こそ、それくらいわかっているはずなのに、どうして彼は怒っているんだろう。
ワケがわからず困惑している内に、またしても強い吐き気が込み上げてきて、麒麟は逃げ出すようにトイレへ駆け込んだ。
苦しさに、生理的な涙がポタポタと零れ落ちる。
Ωである麒麟を、温かく受け入れてくれる熊谷や亮太が居る町。αでもΩでも関係ないのだというこの穏やかな町の平穏を、麒麟が発情することによって脅かしてしまうかも知れない。そうなったら今度こそ何処へ行けば良いのかもわからないし、それを考えると、途方もなく不安で、怖ろしかった。
漏れる嗚咽を必死に堪えながら、結局麒麟は夜明け前まで、トイレに篭って泣き続けた。
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