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三話
夜明け近くまで吐き気と戦い続けた麒麟は、いつしかそのまま意識を失っていた。
そうして目が覚めたとき。
記憶はトイレの前の壁にぐったりと凭れ掛かっていたところで途切れているのに、麒麟は何故かソファに横になっていた。身体には、広げた毛布が二枚、掛けられている。
「………?」
自分でソファまで戻った覚えもないし、何より毛布は確か一枚だったはずだ。だとしたらきっと、熊谷がここまで運んでくれて、毛布も出してくれたのだ。
一晩中吐いたり泣いたりしたお陰で少し喉がイガイガしていたが、幸いあれだけ辛かった吐き気は、今は治まっていた。
ゆっくりと身を起こしてふと見ると、目の前のローテーブルに「食えそうなら食え」というメモが添えられた、一人分の土鍋が置かれている。まだ程よく温かい蓋をそっと持ち上げると、美味しそうな玉子粥から薄らと湯気が立ち上った。
昨夜は気まずい空気の中、麒麟は気を失ってしまったのに、そんな麒麟をソファに運んでくれたり、こうしてお粥を用意しておいてくれたり、こんな風に優しくされると、嬉しい反面、同時に切ない気持ちになるのは何故だろう。
用意されていたレンゲでそっと掬って口に運んだお粥は、熊谷が作ってくれたホットミルクと同じく、ふわりと優しい味がした。
お粥を食べ終え、いつもの癖で食後の薬を…、とバッグから発情抑制剤の入った瓶を取り出して、麒麟はふと手を止めた。吐き気はもう治まっているが、いつものように飲むかどうか、昨夜の熊谷とのやり取りを思い出して麒麟は躊躇う。
「もう飲むのは止めろ」と怒っていた熊谷の顔が浮かんで、なかなか瓶の蓋が開けられない。
けれど、もしこのまま飲むのを止めて、すぐにでも発情期が来てしまったら……?
今ここに居るのは麒麟と熊谷だけなのに、まだ出会って間もない熊谷相手に欲情するなんて、そんな迷惑を掛けられるわけがない。それこそ、恩を仇で返すようなものだ。
暫く瓶を見詰めて悩んだ挙句、麒麟は結局、昨日ほど強い副作用が出ないよう、通常通りの量の抑制剤を喉に流し込んだ。熊谷の言いつけを破ってしまったことへの後ろめたさにチクリと疼く胸の痛みには、気付かないフリをした。
食べ終えた食器を洗い、その足で洗面所へ向かう。
麒麟の体調を考慮してくれたのだろうか、今日は既に熊谷が洗濯も済ませてくれたようで、洗濯カゴは空っぽになっていた。
洗面台で顔を洗って、目の前の鏡に映る自分を見ると、泣いた所為か、目が随分と腫れぼったくなっている。それを隠すようになるべく前髪を目元まで下ろして、麒麟は工房へと向かった。
てっきり作業中かと思って静かに扉を開けた麒麟だったが、タイミングが良いのか悪いのか、熊谷は丁度作品を完成させた直後のようで、バーナーの火を止めたところだった。
扉が開いた気配にこちらを向いた熊谷とバッチリ目が合って、麒麟は気まずさから声を掛けるタイミングを逃してしまう。
そんな麒麟の心中を察したのか、熊谷の方が「粥、食えたか?」と苦笑交じりに問い掛けてくれた。
「ああ……うん。美味しかった。ありがとう」
「ちゃんと食えたなら良かった」
「……あと、昨夜はその……心配かけて、ゴメン」
おどおどと謝る麒麟に、熊谷がピクリと片眉を持ち上げて、麒麟に向き直る。正面から熊谷に見下ろされると、体格差もあって、威圧感が物凄い。まるで本当の『熊』に見下ろされているようで、麒麟は反射的に縮こまった。
「心配だけか? 『心配と迷惑かけてごめんなさい』、だろ。お前、細身とはいえソファまで抱えてくの、なかなか大変だったんだぞ。オッサンに無茶させやがって」
やっぱり熊谷が運んでくれたのだと本人の口から聞くと、申し訳ない気持ちが一気に大きくなる。
「……心配と、迷惑かけて、ごめんなさい」
たどたどしく、それでも律儀に言い直した麒麟に、熊谷が声を立てて笑った。そこでやっと、気まずい空気を払拭する為に熊谷が揶揄ってくれていたことを知る。
笑うと切れ長の目が細くなる、思いの外優しいその笑い顔を見ると、安心感からかキュウ、と胸が締め付けられるような感じがした。こんな風に笑ってくれる熊谷の忠告を無視して薬を飲んでしまったことを、今更後悔する。
「ほら、丁度出来たとこだ」
お前にやる、と不意に差し出されたのは、一輪のユリのガラス細工だった。綺麗な弧を描いて開いた白い花びらの内側を覗き込むと、花の中に、小さなクマとキリンがちょこんと並んでいる。
まさか熊谷が麒麟に贈る為のガラス細工を作ってくれていたとは思わず麒麟は驚いたのだが、そのこと以上に麒麟を驚かせたのは、本当に偶然だろうが、クマとキリンが入っているのがユリの花だったことだ。
「これ……なんでユリ……?」
驚きに、ユリの花を見詰めたまま麒麟は熊谷に問い掛けた。麒麟の反応が予想と違ったのか、熊谷が不思議そうに首を傾げる。
「ユリの花はガラス細工映えするってのもあるが、何となくお前に合う気がしてな。……なんか、マズかったか?」
ちがう、と慌てて麒麟は首を振る。
「……『百合』って、母さんの名前なんだ」
例え偶然だとしても、そのユリが麒麟に合うと熊谷が感じてくれたことが嬉しくて、麒麟は受け取ったまるで生花のように見えるガラスのユリを、そっと胸元に抱え込んだ。
麒麟が驚いた理由が悪いものではなかったからか、熊谷が少し安堵したような笑みを零す。
「……そうか。そりゃ、嬉しい偶然だな」
「俺、自覚ないまま話したのかと思って、ビックリした。……ありがとう。大事にする」
「昨夜は俺も、お前の気持ち考えずに、言い過ぎちまった気がしてな。俺もお前も、同じようにここに逃げてきたモン同士だが、αの俺と、Ωのお前とじゃ、抱えてる悩みだって違うだろうと思ったら、勝手に手が動いてた」
冗談めかして、熊谷が肩を竦める。ユリの中の小さなクマとキリンは、もしかしたら熊谷なりの仲直りの証なのかも知れないと思うと、つい口許が綻んだ。
「熊谷さんて、見かけによらずロマンチストだって言われない?」
「こう見えて繊細なんだよ」
「だったら見た目もそれなりにしてればいいのに」
「作品に製作者の見た目は関係ねぇだろ」
「俺は熊谷さんがこれまで作った作品全部見たわけじゃないけど、ここに並んでるの、殆ど動物とか植物とか、生きてるモンばっかじゃん? なんか、理由あるの」
麒麟が見上げた先で、熊谷は苦い顔で項を掻いた。
しまった、これはマズイ質問だったかも知れない、と熊谷の困ったときの癖を見て麒麟が眉を寄せたのと同時に、熊谷は一度天井を仰ぎ見てから重い口を開いた。
「……強いて言うなら、『贖罪』……だな」
「え……?」
思いがけない返答に、麒麟は熊谷の顔を見詰める。
「命があるモンを作ることで、俺の心のどっかに、許されたいって気持ちがあるんだろうな」
……『贖罪』? それは、何に対して?
聞き返したかったけれど、過去の話になると熊谷は何故かいつも、何かを思い出すようにもの悲しい顔になる。まるで、ここには居ない誰かを探すようにジッと宙を見詰める熊谷に、麒麟はどうしてもそれ以上踏み込むことが出来なかった。……踏み込んではいけない気がした。
「……何に対して許しを求めてるのか、熊谷さんが話したいと思うまで、詳しくは聞かない。だけど熊谷さん、俺に言ったじゃん。美術館から依頼がきたり、ネットでも売り上げ上々だって。それって、熊谷さんの作品を必要としてる人が、それだけ大勢居るってことだろ」
不意打ちを喰らったように、熊谷が麒麟の顔を見遣って黙り込む。
「俺、ここに来るまではガラスって何となく冷たいイメージだったけど、熊谷さんが作るガラス細工は、どれも何か温かい気がするんだ。熊谷さんの作品を求めてる人も、きっと熊谷さんのガラス細工を見て、癒されてるんだと思う。……それに俺も、熊谷さんの作る作品、好きだよ」
貰ったユリのガラス細工を軽く掲げて見せると、熊谷はまたもやボリボリと項を掻いた。けれどその表情は、さっきの悲しげなものとは違っていて、反応に困っているような顔つきだった。
掻いた項を、持て余すように何度も擦る様子に、ひょっとして照れてるんだろうかと麒麟はクスリと笑う。それに気づいた熊谷は、項に手を遣ったまま、ジロリと麒麟を睨んできた。
「……ったく、ロマンチストはどっちだ」
「熊谷さんて、実は褒められると弱いタイプ? 昨夜と別人みたいに見える」
「うるせぇよ。俺もいよいよ、この町の連中にアテられちまったか……」
前髪越しに、人差し指で麒麟の額を軽く弾いて、熊谷が互いの間に流れるこそばゆい空気を払拭するように軽く伸びをする。
「そうだ、どうせならお前も何か作ってみるか?」
「え? 作るって……?」
「ガラス細工」
「えっ……俺、何の知識も経験もないけど、出来んの?」
突然の申し出に慌てる麒麟をよそに、熊谷はいつも作業に使っているものよりも少し小振りのバーナーと、それからカラフルなガラス棒を適当に数本取って作業台に並べた。
「トンボ玉って知ってるか?」
「あ……何か、小さくて丸いヤツ? 修学旅行で京都行ったとき、体験教室の看板、見たことある」
「あれなら初心者でも割と簡単に作れる。お前、好きな色は?」
「……白、かな」
「それだけだと寂しいな」
言いながら、熊谷は早速バーナーの火を点け、白いガラス棒を手に持つと、先ほど選んだ中から合う色を物色し始めた。
「これ、保護用のゴーグルだ。お前も着けとけ」
手渡されたゴーグルを麒麟が装着したのを確認して、熊谷が「まず見本に一つ作るから見てろ」とバーナーの前に立った。
熊谷は手始めに白いガラス棒をバーナーの上に翳す。熱されて次第に赤くなったガラス棒のトロリと溶けかかった先端を、熊谷は逆の手に持った細い棒に、飴細工のようにゆっくりと巻き付けていく。巻き取られたガラスがビー玉ほどのサイズになったところで、熊谷は一旦両手をバーナーから遠ざけた。
真っ赤になっていたガラスが、冷めて次第に元の白い色へと変わっていく。熊谷が作った玉は、全く歪みもなく、見事にキレイな球に仕上がっていた。
数分待った後、今度は随分細い、黄色のガラス棒を熱し始め、先ほど作った白い玉へ、溶けた先端を点々と押し当て始めた。同じようにして、茶色いガラス棒も、熱してから押しつける。そうしてそれが冷めると、真っ白だった玉には、キリンをイメージさせるような黄色と茶色の水玉模様が綺麗に入っていた。
「え、すご……玉自体こんな小さいのに、ここまで細かい水玉入れられんの……!?」
「言っとくが、俺がさっきお前にやったユリの中のクマとキリンの目は、この水玉の十分の一くらいのサイズだぞ」
「……その手でこんな細かい模様一瞬で作るとか、なんか魔法みたい」
「このくらいなら、数日で出来るようになる」
色が戻ったとはいえ、まだ熱を持っているトンボ玉がついた棒は傍にあった缶に立て、熊谷は麒麟にバーナーの前に立つよう促した。
本当に自分にも作れるんだろうかと少し緊張しつつ、キリンは持っていたユリの花を作業台の空いた場所へそっと置き、遠慮がちにバーナーの前に立った。
「左手にガラス棒持って、先ずは火の上に翳す。あんまり長時間熱し過ぎると溶けて落ちるから気を付けろ」
言われた通り、ガラス棒を慎重にバーナーの上に翳す麒麟の左手を、背後に立った熊谷が「位置はこの辺だ」と掴んで誘導してくれる。そのまま、右手にガラスを巻き取る為の棒を握らされて、その手も熊谷が「ゆっくり回せ」と言いながら、支えるように掴んだ。
熊谷のようにガラス棒を巻きつけようとするが、なかなか綺麗な丸にならない。
慣れない作業に悪戦苦闘する麒麟の手を、その都度「角度はこう」だとか、「あんまり早く巻き付けようとするな」と、逐一熊谷がリードしてくれるのだが、少しだけゴツゴツとした熊谷の手や、耳元で聞こえる低い声に、どうしても違う緊張を覚えてしまう。
背中に熊谷の逞しい胸板が密着していて、息苦しい。見た目は本当に『熊』なのに、どうして自分はそんな熊谷に触れられて、こうもドキドキしているんだろう。
折角教わっているのに、言われている言葉もほとんど耳を素通りしていく。その代わり、自分の心臓の音がずっと耳の奥で大きく響いていた。
最終的には麒麟はただ棒を握っているのが精一杯なまま、ほとんど熊谷が作ったようなものだったが、どうにか初の麒麟作のトンボ玉が出来上がった。
熊谷が作ったものと並べて缶に立ててみると、麒麟が作ったものは形もいびつなら、水玉模様も全く綺麗な円になっていない。
けれど、正直なところ初めてのガラス細工よりも、もっと別の理由でドキドキしていた麒麟は、ようやく熊谷の身体が離れたことでホッと息を吐いた。
「初めてにしちゃ、そこそこ上出来だぞ。慣れてくりゃ、もっと色んな模様つけたり、それこそ俺が作ってるような動物なんかも作れるようになる」
言いながら、熊谷がゴソゴソと作品の並んだ棚を漁り始めた。
取り敢えず、煩い動悸に熊谷が気付いてしまう前に落ち着こう、と麒麟は大きく深呼吸する。
────ところが。
どういうわけか、何度深い呼吸を繰り返しても、動悸が一向に治まらない。
「………?」
ドクッ、ドクッ、と心臓が跳ねるような動悸がずっと続いていて、ゴーグルを外す手が震える。動悸の所為なのか、息苦しさもなくならないし、心臓が脈打つたびに、段々と体中の血が沸騰していくみたいに、じわじわと全身が熱を帯び始めた。
(なんだ……コレ……)
「ほら、俺がまだ駆け出しの頃に作ってたトンボ玉────…って、おい、どうした?」
熊谷が差し出してくれた、縞模様やマーブル模様の色とりどりのトンボ玉を受け取ろうとした手が、力が入らずに震える。それに気付いた熊谷が、ハッと目を瞠った。
震える手でどうにかトンボ玉を受け取ったとき、互いの手が触れ合った瞬間、ぶわっと全身の毛が逆立つような衝撃が駆け抜けた。
「………ッ!」
たった一瞬、しかもほんの少し手が触れただけなのに、それだけで麒麟の下肢がたちまち熱を帯びる。
「この匂い……お前、もしかして……」
戸惑う熊谷の声が麒麟の鼓膜を擽って、そんな刺激にさえ身体が反応する。
「なに、コレ……身体……おかしい……っ」
「お前がおかしいんじゃねぇ。……Ωなら誰でも迎える、発情期だ」
最も聞きたくなかった熊谷の言葉に、まるで氷水の中に突き落とされたような衝撃と絶望感が麒麟を襲う。
「なんで……!? 薬、飲んだのに……っ」
「薬って……お前、もう飲むなって昨夜────」
「だって!! ……怖かったんだ……。……嫌だ、こんなの俺じゃない……熊谷さん、薬、取ってきて……っ!」
「馬鹿言うな! また昨夜みたいなことになりてぇのか!?」
「……だけど、嫌だ……。嫌なんだよ……っ」
(発情期なんか、迎えたくない……!!)
そんな麒麟の意思など関係なく、無情にも身体はみるみる熱を帯びていき、思考が追い付かなくなっていく。
麒麟の掌から零れ落ちた熊谷作のトンボ玉が、床の上でパリンと音を立てて弾け散った。
それと同時に、麒麟の視界がぐらりと大きく傾ぐ。とうとう立っていることも出来なくなって、麒麟は作業台に縋りつくようにその場に崩れ落ちた。
「おい……!」
慌てた様子で熊谷が麒麟の身体を支えてくれる。けれど、普段なら安心するはずの頼もしいその腕も、今の麒麟には劣情を煽る刺激でしかなく、麒麟はビクリと身を震わせた。
性的なことなんて何一つされていないのに、気付けば服の下で麒麟の性器はすっかり熱を持って固く勃ち上がっていた。おまけに先端からじわりと染み出してくる体液が下着を濡らす感触が伝わってきて、自分のものではなくなってしまったような身体に激しい恐怖を覚える。
「……っ、やだ……熊谷さん、お願いだから……触んないで……ッ」
おかしくなる、と力なく訴える麒麟に、熊谷が苦々しい顔で舌打ちする。
「くそっ……なんだ、この匂い……! Ωのフェロモンって、ここまで強烈だったか?」
必死で何かを堪えるように独り言ちた熊谷が、一つ息を吐いてから、意を決したように突然麒麟の身体を抱き上げた。
「………っ!?」
「悪ぃ。辛いだろうが、ちょっと我慢しろ」
そう言って、熊谷は麒麟を抱えたまま小屋の外へ出る。熊谷の手が触れている箇所からじわじわと快感が広がって、このまま熊谷に縋りつきたい衝動を、麒麟はギュッと強く唇を噛み締めながら耐えた。
小屋の外に停めてある軽ワゴンの助手席のドアを開けた熊谷は、抱えていた麒麟の身体をそっとシートに沈めてシートベルトを留めた。そのまま素早く運転席に乗り込む熊谷に、麒麟は不安の滲む視線を向ける。
「……どこ……行くの」
「安心しろ、妙なトコには連れて行かねぇから。……情けねぇが、このままだと俺の方が抑えられなくなりそうだ。ちょっと飛ばすが、すぐ着くから我慢してくれ」
全身が熱く疼いて溶けそうで、もう熊谷が何を言っているのかもよくわからない。最早触れられていなくても麒麟の下肢は染み出してくる体液でぐしょぐしょで気持ち悪い。
今の自分は、熊谷の目にどう映っているんだろう。自分はこのままどうなってしまうんだろう。
怖くて不安で仕方ないのに、ただひたすら欲情するばかりの身体が辛くて、麒麟の意識は山道を下る車中でプツリと途切れた。
息苦しさと、異常なほどの身体の熱さで、麒麟は目を覚ました。
真っ先に目に飛び込んできたのは、古びた見慣れない天井。それから、麒麟の腕に繋がった、点滴のパックだった。
ツン、と微かに鼻を突く消毒液の匂いに、もしかして此処は病院だろうかと麒麟が浅い呼吸に胸を喘がせながら首を捻ると、ちょうど視界の先で扉が開いて、白衣姿の男性が部屋に入ってきた。
スラリと背が高くて、整った顔に黒いフレームの眼鏡がよく似合っている。
「あ、気が付いた? 君、熊谷に担ぎ込まれてきたんだけど、覚えてる?」
点滴の残量を確認しながら問い掛けて来る相手に、麒麟は小さく首を左右に振る。
「……車に……乗せられたとこまでしか……」
「そうか。ここは『月村病院』。この町では唯一の医療機関で、僕はここの医者の月村英司 。熊谷とは、アイツがこの町に来たときからの付き合いだから、気楽に構えてくれていいよ、立花麒麟くん」
気楽に、と言われても、相変わらず麒麟の下肢でずっと燻っている熱は、一向に冷める気配はなかった。あれだけ嫌だと思っていたはずなのに、誰彼構わず縋りついて滅茶苦茶にして欲しいという、被虐的な欲求が湧いてくる。
発情期だからだろうか、今の麒麟は目の前に居る月村もαだと匂いですぐにわかったが、発情した麒麟を見ていつもの余裕を無くしていた熊谷と違い、月村は涼しい顔をしている。
「……っ、熊谷、さんは……?」
荒い息の合間に、辛うじて麒麟は声を絞り出す。
もしかしてこのまま置き去りにされてしまうんだろうかと不安になったが、それが顔に出ていたのか、月村が少し目を細めて微笑んだ。
「熊谷なら、今は外に居るよ。長い間山籠もりなんてしてたからなのか、君のフェロモンが相当『効く』みたいでね。近付くと危険だからって、少し離れてる」
危険、という単語が、鋭く胸に刺さる。実際、麒麟自身でさえ、意のままにならない性欲を持て余している。Ωの発情が、こんなにも苦しいものだなんて知らなかったし、知りたくなかった。
結局一旦発情してしまったΩは、あの熊谷でさえ『危険』だと感じるほど、浅ましく身体を求めてしまう生き物なんだろうか。
ベッドの上で軽く身じろぐだけでも甘い声が漏れそうで、麒麟は咄嗟に手の甲へ歯を立てて堪える。その様子を見ていた月村が、困った様子で苦笑した。
「君、初めての発情なんだって? 驚いただろうし、身体も辛いだろう。一応君をこの部屋に運んでから、少しずつ抑制剤を点滴してるけど、その様子だとあんまり効いてないみたいだね。もしかして、前から薬飲んだりしてた?」
「………っ」
ずっと市販されていない抑制剤を服用し続けていた後ろめたさから、麒麟は思わず息を詰める。
図星だと証明する麒麟のわかりやすい反応に、月村は「やっぱり」と呆れ顔で肩を竦めた。
「薬を飲んでたことはともかく、一旦発情期を迎えたからには、君はこれから定期的にこの発情期に襲われることになる。一番てっとり早く身体を楽にする方法は、αと交わることだ。だけど残念ながら、僕はもう番の居るαだし、この町に君を助けてやれるαが居るとしたら、それは熊谷だけだ。だけど熊谷は、発情している君を避けてる」
熊谷になら、例え壊されたとしてもいいのに…、と咄嗟にそう思ってしまった自身の身勝手さと浅ましさに、麒麟は愕然とする。同時に火照った身体は熊谷の名前に反応してまたズク…と下肢が疼き、麒麟は堪え切れずに涙を零した。月村に見られたくなくて、慌てて枕に顔を埋める。
月村が、小さく溜息を零すのが聞こえた。
「熊谷、呼んで来ようか?」
問われて、麒麟は枕に顔を伏せたまま弱々しく首を横に振る。
「……呼ばないで、下さい。俺の所為で……熊谷さんにそんなこと……させたくない」
「だけどΩの発情期は約一週間続く。この苦しい状態が、この先一週間ずっと続くんだよ? 無理に発情を堪えようとして、心身がおかしくなってしまうΩだって居る。……何なら、僕の知り合いのαを呼ぶことも出来るけど?」
「……っ、嫌だ! そんなの、絶対……!」
反射的に顔を上げて、麒麟は激しく拒絶する。
例えどれだけ苦しくても、このまま気が狂ってしまったとしても、どこの誰かもわからないαと交わることだけは、死んでも嫌だった。
「……君みたいに健気な子がΩに生まれるんだから、世の中上手くいかないね」
呟くように言って、月村はほんの少しだけ点滴の滴下速度を早めた。
「ちょっとだけ、抑制剤の量を増やすから、もしも気分が悪くなったり何かあればすぐにナースコールするように。この部屋には基本的に、僕以外は来ないようにするから。後、知らないαと交わるのが嫌なら、せめて対処法くらいは覚えておいた方がいい。その歳なら、自己処理くらいは出来るだろう? 着替えはロッカーに入ってるし、汚れた衣服はベッド下のカゴに入れておいてくれればいいよ。発情期ばかりはどうしようもないから、汚したりするのは気にしなくていい。君が悪いわけじゃないんだからね」
そう言って静かに病室を出て行った月村の最後の一言に、不安や恐怖や寂しさ…色んな感情が一気に込み上げてきて、麒麟は嗚咽を零しながら、痛いほど固くなった自身へ手を伸ばした。
「…────ッ!」
衣服の上から軽く触れただけで、全身が痺れるくらいの快感が駆け抜けて、麒麟は呆気なく達した。それなのに、欲を吐き出しても尚、麒麟の雄は全く固さを失っていない。
一向に解放されない苦しさに、麒麟は泣きながら自分の手を汚し続けた。
「そんなに心配なら、傍に居てあげればいいのに」
病院の玄関脇に置かれたベンチでコーヒーの缶を握り締めたまま、ジッと手元を見詰め続けて、どのくらい時間が経っていたのだろう。
気が付くと、月村が白衣のポケットに両手を突っ込んで熊谷を見下ろしていた。
誤魔化すように熊谷がコーヒーを呷ると、熱かったはずのそれはすっかりアイスコーヒーになっていた。
「そもそも、Ωの発情期は病気じゃないし、ウチに担ぎ込まれても困るんだけどねえ」
わざとらしい嫌味で熊谷の胸をチクリと刺しながら、月村が熊谷の隣に腰を下ろす。
「……どうだった、アイツ」
半ば無我夢中で月村の元に麒麟を運び込んだだけに、居ても立っても居られず熊谷は月村に問い掛けた。
「丁度僕が部屋に行ったら目を覚ましてたけど、辛そうだったよ。抑制剤が、殆ど効いてない。どうも以前から薬を飲んでたみたいだし、耐性がついてるとしたら、今後発情期の度に苦しむことになるかも知れないな」
「………」
昨夜、一晩中吐き続けていた麒麟の辛そうな様子を思い出して、熊谷は眉を顰める。
あれだけ副作用に苦しみながらも発情期を迎えたくないと必死な顔で言っていたのに、その翌朝に発情期を迎えてまた苦しむ羽目になるなんて、一体誰が予想出来ただろう。
熊谷は少し考え込んでから、月村の前に茶色い薬瓶を取り出した。
麒麟を月村に託した後、一旦家に戻って、麒麟には悪いが彼の荷物の中からこっそり抜き取ってきたものだ。
「……薬?」
受け取った月村が首を傾げながら、瓶の蓋を開けて中の錠剤を摘み出す。
「アイツが、ずっと飲んでた発情抑制剤だ」
熊谷が答えた途端、月村の表情が一気に険しくなった。
「まさか、コレをずっと飲んでたのか?」
「いつから飲んでたのかまではわからねぇが、アイツ、最近東京から家出してきたんだよ。何でも、その家を出るまでは、どうしても発情期を迎えたくなかったらしい」
「東京から家出って、どこかで聞いたような話だね……。それはさておき、この薬をもしも長期間飲み続けてたんだとしたら、そりゃあウチの抑制剤なんて効かないはずだよ」
「……どういうことだ?」
今度は熊谷が首を傾げる。
「……これは、市販の抑制剤じゃない。下手したら、違法なものだ」
「なに……?」
「発情抑制剤っていうのは、そもそもΩの為に開発された薬だ。Ωでも副作用が出やすいくらいだから、αやβが誤って服用してしまうと、強いアレルギー反応が出たり、ショック状態で最悪死に至る可能性もある。だから、市販のものは薬剤師にしか販売・管理は許されていないし、薬の色も、他の内服薬と区別しやすいように、敢えて目立つように着色されている。だけどこの錠剤は、それこそ単なる風邪薬や頭痛薬だと言われてもわからない。こんな見た目の抑制剤は、少なくとも僕は見たことがない。合法なものではね」
薬の話になったとき、麒麟が妙に後ろめたそうにしていた理由がようやくわかって、熊谷は思わず手の中のスチール缶を握り潰す。
「あの馬鹿が……!」
感情任せに零した熊谷だが、そこでふと、麒麟が家を出てきた理由を思い出す。
麒麟は確か、「身内のαが嫌になった」と言っていた。麒麟に今居る身内というと、亡くなった彼の母の結婚相手である義父しか居ないはずだ。
そして前に麒麟が夜中にうなされていたとき。麒麟は何かを拒むように呻きながら、何度か「義父さん」と口にしていた。
義理の父親が嫌で、家を出るまで、薬に頼ってでも発情期を迎えたくないと思う理由となると……。────性的暴行、だろうか。
苦しそうな麒麟の顔が、熊谷の記憶にずっと残ったままのある人物のものと重なる。
「……結局は、αがΩを薬で苦しめてるんじゃねぇか」
忌々しく吐き捨てた熊谷に、月村が錠剤を戻した瓶の蓋を閉めて溜息を吐いた。
「取り敢えず、この薬は僕が預かっておくよ。念の為成分も調べさせる。……それで? あの子には結局会わないのか?」
「あんな状態のアイツにαの俺が会えるか。……あんな強烈な匂い、今まで会ったどんなΩからも感じたことねぇよ。正直、ここまで来る途中で理性がぶっ飛びそうでヒヤヒヤしたぜ。アレも、違法な薬の所為なのか?」
麒麟が発情した瞬間、全身が総毛立つような強烈なフェロモンに、熊谷は一瞬軽い眩暈を覚えた程だった。
東京に居た頃、発情しているΩに出くわす機会も何度かあったが、あれほど我を忘れて喰らい付きたくなるような強い匂いを放つΩは、麒麟が初めてだった。
「この薬にどういう成分が入ってるのかわからないから何とも言えないけど、誰かさんの場合は単に枯れ枯れだったところに若いΩの発情期が来て、一際強く感じたっていうのも有り得ると思うけどね」
「枯れてて悪かったな。……アイツがウチを訪ねて来たとき、四年前、この町に辿り着いた自分と重なって、放っておけなかった。だがアイツがΩである以上、いつかはこうなることはわかってたハズなんだ。なのにアイツを招き入れちまった俺が、浅はかだった」
一見大人びて見える小綺麗な容姿に反して、意外と危ういところがあったり、熊谷が過去を清算したくて作り始めたガラス細工を「好きだ」と褒めてくれたり。ついついそんなところを、熊谷は「可愛い」と思ってしまった。それが却って、麒麟を苦しめることになるなんて考えもせずに。
「浅はか……ね」
薬瓶を白衣のポケットに押し込んで、月村が流れる雲を追うように空を見上げる。
「熊谷、君……まだ引き摺ってるの?」
何を、とは聞くまでもなかった。
「香芝 夏樹です」と、初対面の熊谷に凛とした声で名乗って名刺を差し出した、涼しげな容姿のΩ。彼との出会いが、まるでつい最近のことのように蘇る。彼の時間はもう、四年前に止まってしまっているのに────
「……別に。あの人はもう居ねぇんだ」
「だったらどうして、あの子を僕に託して逃げたんだ?」
「逃げたんじゃねぇよ。あのまま俺が傍に居たんじゃ、アイツが……」
そこまで言って、熊谷は思わず言葉に詰まった。
果たして本当に、「逃げたんじゃない」と、そう言い切れるのか?
初めて麒麟を見たとき、最初は四年前、この町へ逃げてきた自分と似ているのだと思った。
けれど、Ωであることを悲観して投げやりになる連中が多い中、Ωという性に必死で抗おうとしている麒麟は、『彼』に似ているのだと、熊谷は気付いた。
知らない土地へ来て、新しい仕事を始めて、過去は全てリセットしたつもりで居ながら、熊谷は麒麟に『彼』を重ねようとしているのではないかと思うと、自分が酷く汚い大人に思えた。
言葉の途中で黙り込んだ熊谷の横顔へ視線を移して、月村は盛大に呆れた息を零した。
「雄々しいのは見た目だけなんだね、この『熊』さんは」
「お前まで『熊』って言うな」
「お前まで? へえ……他に誰に言われたの」
ニヤリと意地悪く笑う月村の問い掛けを、熊谷は舌打ちで誤魔化す。
「さっき、あんまり辛そうだったから、あの子に『熊谷を呼ぼうか』って聞いたんだ。そしたら彼、何て言ったと思う? ……『俺の所為で熊谷さんにそんなことさせたくない』って、そう言ったんだ。とっくに理性なんて吹っ飛んでてもおかしくない状況でだよ」
「………」
何となく、麒麟が苦しみながらも必死にそう訴える姿が想像出来て、熊谷は眉根を寄せた。
いっそ本能のまま麒麟を抱いて、それで麒麟が楽になるならとっくにそうしている。だが麒麟はきっと、そんなことは望んでいない。
自分は一体、麒麟にどうしてやるのが良いのだろうと考え込む熊谷の隣で、「東京の人間は面倒くさいね」と月村がベンチから腰を上げて呟いた。
「αだのΩだの。この町ではそんなもの、大した問題じゃないって、熊谷はそろそろ気付いてると思うけどな」
全く同じことを、そう言えば麒麟に言ったことを思い出して、熊谷は潰れた缶を握る手に力を込めた。
「いい加減、後ろばかり向いて歩くのはやめたら? 前に進むしかないなら、ちゃんとそっちを見て歩きなよ」
そう言い残して、月村が病院内へと戻っていく。
今頃、麒麟は何を思っているだろうか。
大抵のΩは発情期の真っ只中ではまともに思考も働かなくなるが、麒麟はきっと、初めての発情期に苦しんで、戸惑って、それでも必死で抗っているような気がした。
あっさり熊谷の理性を奪ってしまいそうなあの強い匂いと共に、もしも麒麟に求められたら、恐らく熊谷は抗えないだろう。
辛くても、決して本能に流されて相手を求めようとはしない麒麟の強さに甘えている自分が、酷く情けなく思えた。
「麒麟……」
ポツリと零した名前は、本人に届くことはないまま、吹いてくる風の中に静かに消えていった。
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