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四話

  ◆◆◆◆  月村病院に連れて来られてから、もう何日目だろう。  精神的にも体力的にも麒麟は相当疲弊していて、微睡んでは、身体の火照りと息苦しさでまた目が覚める、という状態が延々と続いていた。お陰でもう、日数を数える余裕など全く残っていなかった。  麒麟の汗と体液で汚れた院内着をやっとのことで着替えて、脱いだものは月村に言われた通り、ベッド下のカゴに突っ込み、麒麟はぐったりとベッドに横になる。  熊谷は病室に来ることはなかったものの、毎日病院に、麒麟の様子を聞きに来ているらしいことを月村から聞いていた。  会いたい…と、熊谷の顔を思い出して麒麟は素直にそう願う。  何度達しても身体の火照りは一向に治まらず、今はもう触れるのも痛くて自慰すら出来なくなっていた。  一体あとどのくらい、この苦しさが続くのだろうと、混濁した意識の中、先の見えない不安に心細くなる。  こんなにも惨めで苦しい思いをするくらいなら、いっそ死んだ方がマシだとすら思える。  もしかしていよいよ、月村が言っていたように麒麟の心も壊れかかっているんだろうかと、自嘲めいた笑みを浮かべたとき。  コンコン、と病室のドアを控えめにノックする音がして、そうっと扉が開いた。  月村はもっと躊躇いなく部屋に入ってくるはずなので、一体誰が…と怠い首を動かした麒麟は、申し訳なさそうに開いたドアから室内を覗き込むそばかす顔に思わず目を見開いた。 「亮太……! なんで……」  思いがけない来訪者に呆然と呟くも、院内着もだらしなく着崩したままのあられもない自分の姿を思い出して、麒麟は慌てて布団を肩まで被った。  身を隠すような麒麟の仕草を見て、亮太は益々眉を下げて困った顔になる。 「い、いきなり来てゴメン……! 熊谷さんと月村先生から、一通り事情聞いた。今日、月村先生往診で少し病院離れるから、その間麒麟の様子見に行ってくれって頼まれたんだ。ホラ、俺βだから、ある程度自制利くからさ……!」  そう言いながらも、終わらない発情の苦しさに浅い息を繰り返す麒麟を前に、亮太はどうすれば良いのか戸惑っているようで、閉めた扉の前でオロオロと落ち着かない。  この歳にして初めて出来た友人にまで、こんな姿を晒す羽目になるなんて、恥ずかしさを通り越してひたすら惨めだった。体中ドロドロだし、汚れた服だってベッド下のカゴに入れっぱなしなのに。 「……ゴメン……亮太にまで、迷惑かけて……」  弱々しい声で麒麟が告げると、亮太は慌てたように「そんなことない!」とブンブン首を振った。 「麒麟がそんな辛そうなのに、迷惑なんて思うワケないだろ!」 「亮太は……今の俺と居て、何ともない……?」  麒麟のフェロモンに、熊谷はかなり余裕を無くしていた。だから病室にも来られないのだと月村も言っていたけれど、あの熊谷が焦るほどなら、いくらβとはいえ、亮太は大丈夫なんだろうか。 「正直、麒麟からなんか甘くてイイ匂いはする。でも、だからって流されたりしないから、信用して! これ以上、近づかないようにするし!」  扉の前に立ったまま、麒麟を安心させるように亮太がぐっと拳を握って訴える。  必死なその姿に思わず微かに笑った麒麟を見て、亮太も眉を下げたまま笑った。 「俺……てっきり麒麟はαだと思ってたんだ。俺と同い年なのに、大人びてるし、小綺麗な顔してるし」 「……Ωって知って……失望、した?」  力なく乾いた笑いを零した麒麟に、亮太が少し怒ったような顔になる。 「失望なんか、するわけないだろ。αだろうがΩだろうが、麒麟は麒麟じゃん」 「………」  もう散々泣いて涙だって枯れ果てたと思っていたのに、亮太の言葉に、また鼻の奥がツンとなった。 「……亮太……俺、ちゃんと人間の顔……してる……?」  涙声で問い掛けた麒麟に、何故か亮太まで泣きそうに顔を歪める。 「当たり前だろ。相変わらずのイケメンだよ、馬鹿」 「………ありがとう」  麒麟自身ですら我を忘れそうになっているというのに、「麒麟は麒麟だ」と言い切ってくれる亮太。  突然運び込まれた麒麟を、診察の合間を縫っていつも見にきてくれる月村。  そして、顔は見せてくれなくても、毎日病院に来てくれている熊谷。  発情したΩなんて、都会ではαの食い物にされることも珍しくないのに、どうしてこの町の人たちは、まだ出会って間もない麒麟にこうも優しくしてくれるのだろう。  Ωが発情期に発するフェロモンは、αの方がより強く反応するが、かといってβが全く反応しないわけでもない。こんな状態の麒麟と同じ部屋に居る亮太は、きっと麒麟の為に随分堪えてくれているはずだ。  だったら麒麟も、絶対に正気を保ったまま発情期を抜けてやる、と、折れかけていた心を奮い立たせるようにぐっと奥歯を噛み締めた。 「そう言えば、病院の前で熊谷さんに会ったけど、何か持ってきて欲しいモンとか、ある? 何かあるなら、熊谷さんに言って預かってくるけど」 (また、来てくれてたんだ……)  発情期の所為でドクドクと煩い胸が、更にギュッと締め付けられて苦しくなる。  本当は、熊谷本人に会いたい。  身体なんか重ねなくてもいい。ただ、熊谷の顔を見れば安心出来る気がした。……だけど、それはきっと叶わない。だったら、と麒麟は乾いた口を開いた。 「……ブタウサ、欲しいって伝えて」 「ブタウサ? 何それ?」  亮太がきょとんと首を傾げる。 「熊谷さんなら……多分、わかってくれると思う」  麒麟の言葉に、まだよくわからない様子で首を捻りながらも、亮太は「わかった」と頷いて病室のドアノブに手を掛けた。  部屋を出て行く寸前、「あ、そうだ」と何かを思い出したように、亮太が麒麟のベッドを振り返る。 「麒麟の発情期が過ぎて体調戻ったら、一緒に釣り行こう。いい場所あるんだ」  何でもないことのように麒麟を遊びに誘ってから部屋を出て行った亮太に、麒麟は閉じた扉から暫く目が離せなかった。  発情期を迎えたのがこの町で、良かったのかも知れない。  自分は独りじゃないんだと、改めてそう感じて、これ以上泣いて堪るかと手の甲で強く目元を拭った。  熊谷が月村病院前のベンチで焦れったい思いを持て余していると、病院脇の駐車場から、往診用のバッグを提げた待ち人はようやく姿を現した。 「月村!」  待ち兼ねたように立ち上がった熊谷に気付いて、月村が眼鏡の奥の瞳を意外そうに見開く。 「珍しく熱烈なお出迎えだね。相手がゴツイ熊男じゃなかったらもっと嬉しかったんだけど」 「熊男で悪かったな。それはそうと、随分遅かったじゃねぇか」 「往診に行った先で、町長の松田さんが風邪をひいてるみたいだから訪ねてやって欲しいって頼まれてね。行ってみたら軽い鼻風邪はひいてたけど本人は至って元気で、こっちが一時間も愚痴という名の問診をされる羽目になったんだ」  心底疲れたとばかりに、月村は眼鏡のフレームを押し上げて溜息を零した。 「それより、いい加減君も病院の前に居座るの、止めて貰えないかな。熊男の地縛霊が居る病院なんて、患者が逃げるよ」 「仕方ねぇだろ。お前が居るかどうか聞きに入っただけでも、受付までアイツの匂いがしてた。中でなんか待てるか」 「受付まで……?」  怪訝そうに、月村が細い眉を顰める。 「あの子も発情期に入ってもう五日目だ。一度もαと交わってないからあの子はまだ苦しいだろうけど、一応抑制剤の投与は続けてるし、あの子の病室は三階だよ。さすがに、受付でもフェロモンに反応するほどではなくなってきているはずだけどな」  月村はそう言ったが、亮太に言われて持ってきたぬいぐるみを託そうと、熊谷が受付に声をかけに行ったとき。……いや、正確に言えば、病院内に足を踏み入れた瞬間から、甘くて強烈な麒麟のフェロモンが院内に漂っていた。  麒麟の病室の場所なんて尋ねなくても辿り着けるほど強いその匂いに、熊谷は月村が往診中であることを確認した直後、急いで病院を飛び出したのだ。 「俺には、初日と全く変わらないように感じたぞ」 「もしもそれが本当だとしたら……」  そこまで言って、月村はふと顎に手をやって暫く考え込む。  だとしたら何なんだ、と焦れた熊谷が続きを急かしたが、少しして顔を上げた月村は「まあいいか」とにこやかに微笑んで見せた。 「おい! なんだよ、気になるだろうが」 「僕の予想が間違っていなければ、遅かれ早かれ答えはわかるよ。だから内緒」  謎のモヤモヤを残されたままあっさり質問をかわされて、熊谷は煮え切らない思いで項を掻く。  こっちは日々麒麟の様子が気になって仕方がないというのに、そんな熊谷を揶揄う月村の余裕に腹が立つ。 「ところで、僕に何か用があったんじゃないのか?」 「ああ……」  完全に月村のペースで遊ばれている感じがして癪だったが、そこでやっと熊谷は思い出したように、ベンチに置いてあったぬいぐるみを差し出した。 「これ、アイツに渡してくれ」 「……これはまた、斬新なフォルムのぬいぐるみだね。新種の生き物?」  あの子の?、と受け取ったぬいぐるみを眺めながら問い掛ける月村に、熊谷は渋々否定する。 「……前にアイツが寝付けなかったときに、俺が渡してやったんだ」 「君が? ……ってことは、もしかしてこれ、君の手作り?」  ぬいぐるみを顔の前まで持ち上げて、月村が堪え切れなかったのかぷはっ、と噴き出して笑う。  その反応が予想出来ていたので、だから言いたくなかったんだと熊谷は顰め面で溜息を吐いた。 「君のガラス細工を買ったお客さんには、絶対に見せられないね。それで、結局この生き物の正体は?」 「……ブタウサ」 「ブタウサ?」 「俺がウサギだっつってんのに、アイツはそう呼んでる」 「なるほど、やっぱり新種の生き物だった。……ちゃんと、あの子に届けるよ」  受け取ったぬいぐるみを小脇に抱えた月村が、「ああ、そうだ」と不意に傍のベンチへバッグを下ろし、その中を漁って一枚の紙を取り出した。 「僕も、君に会ったら渡そうと思ってたんだ」  そう言って差し出された用紙には、元素記号のようなアルファベットと、『含有量』という文字の下に表になってズラリと数字が並んでいた。  ところどころ、数値が赤色で表記されている部分があり、一見すると血液検査の結果のようなその用紙の内容は、熊谷にはよくわからなかった。 「……何だコレ?」 「この前君が持ってきてくれた、あの子が飲んでたっていう薬の成分分析の結果だよ。赤字のところが、市販薬よりも多く含まれている成分。詳しい内容は専門外の君に話してもピンとこないだろうから簡潔に説明するけど、Ωが発情時に発するフェロモンを抑制する効果があるとされてる成分は、市販薬の倍近く含まれてた。市販の薬でも、副作用の出やすさが問題視されてるくらいだから、長い期間この薬を飲み続けていたんだとしたら、相当キツい副作用が出ていたはずだよ」 「………」  だからあれほど、吐き気に苦しんでいたのか…、と夜通し吐き続けていた麒麟を思い出して、紙を持つ指先に力が篭る。 「それ以外にも幾つか市販薬に比べて過剰に含まれている成分もあったけど、全部法律上違法になるギリギリ手前の分量に抑えられていたから、限りなく黒に近いグレー、ってところかな。何にせよ、君が没収してきてくれて良かったよ。このままあの子がこの薬を飲み続けていたら、どうなっていたかわからない」  月村の言葉に、熊谷の肩が反射的にピクリと揺れる。  熊谷が呼んでも揺すっても目を開けない麒麟を想像してしまい、広い背を悪寒が駆け抜けた。  気付けば無意識に、ぐしゃりと手の中の紙を握り潰していた熊谷を見て、月村が小さく息を吐く。 「……あの子も、じきに発情期から抜ける。その後、君はあの子をどうするんだ? また昔のような思いをするのは嫌だからって放り出す?」  淡々とした声で問い掛けてくる月村に、熊谷は険しい顔を向ける。 「放り出したりするか。そもそも、迎え入れたのは俺なんだ」 「だけどあの子は暫くしたら、また今回みたいに発情期を迎えるんだよ。そうしたら、そのときはまた病室に閉じ込めるの?」 「………っ」  月村の鋭い質問に、熊谷はすぐに答えることが出来なかった。  熊谷にも、正直なところ自分自身の気持ちがよくわからないからだ。  自分と同じような理由で東京から出てきた麒麟を放っておけないと思ったのは事実だし、家の事情や薬の副作用、おまけに今回の発情期で苦しんでいても、決して「辛い」と言わなかった麒麟の強さに、熊谷は惹かれた。  反面、頼ったり甘えたりすることが苦手なところは、危なっかしくて可愛いとも思う。  今だって、そんな麒麟が病室でどうしているのか。麒麟の身体は大丈夫なのか。毎日考えるのはそればかりで、熊谷は月村に「地縛霊」と言われるほど、毎日病院に通い詰めている。  だから、麒麟をこのまま追い出そうなどとは、微塵も思っていない。  だが、それは余りにも熊谷の身勝手ではないだろうか……。 「……自分でも、わからねぇんだ。俺がアイツに、あの人を重ねてるわけじゃねぇって、言い切れるのかどうか」  そう言って足元に視線を落とした熊谷の前で、月村は心底呆れ果てたとばかりに、大きな溜息を零した。直後、ボフッ、と柔らかい右ストレートが熊谷の頬にヒットする。  驚いて顔を上げると、ぬいぐるみを握った月村の手が、熊谷の頬に打ち込まれていた。 「雄々しい見た目してる癖に、いつまでも女々しい男だな、全く。あの子の発情に流されるまま抱くのは嫌で、なのに仕事もそっちのけで毎日病院の前に張り付いて、おまけにこのまま手放すのも嫌で。……そこまで思っていながら今更怖気づくなんて、女々しいにも程がある。必死で頑張ってるあの子が今の君の姿見たら幻滅だよ。写メっておこうか?」  穏やかそうな見た目で容赦なく責め立て、ちゃっかりスマホまで翳してくる月村に、熊谷は「おい、やめろ!」と慌てて顔を背ける。 「お前、ほんっとに見た目に反して意地悪ぃな」 「いつまでも亡霊に憑りつかれて振り回されてる誰かさんに、いい加減イラッとしただけだよ」  確かに、この町に来てからはずっと平穏な日々を過ごしていて、熊谷も都会での煩わしさなんてすっかり忘れて、飄々としていられた。それが、麒麟に出会ってからは、過去の自分や『彼』のことを思い出す機会が増え、随分と情けない自分が顔を出すようになったのは事実だ。  こんな自分を麒麟が見たら、月村が言うように、麒麟は幻滅するだろうか。  もしもこの場に麒麟が居たら…と想像してみたが、熊谷にはそうは思えなかった。都合の良い甘えなのかも知れないが、麒麟なら、情けない熊谷の姿も、笑ってくれるような気がした。  麒麟も、拒み続けていた発情期を迎えて、そして乗り越えようとしている。  だったら自分も、ずっと抱え続けてきた後ろめたさに、いい加減踏ん切りをつけるべきなのかも知れない。   ◆◆◆◆◆ 「…────くん、麒麟くん」  軽く肩を揺すりながら呼ぶ声に、麒麟は薄らと目を開けた。  全身が重くて怠くて、喉もカラカラに乾いている。  ゆっくりと焦点が合った視界で、月村が麒麟の顔を覗き込んでいた。 「……先、生……?」  掠れ切った声を上げた麒麟に、月村が少し安堵したように微笑んだ。 「良かった。随分長い時間眠ってたから心配したけど、発情期を抜けた疲れからかな」 「………?」 (……発情期を、抜けた……?)  言われてみれば、身体の怠さはあるものの、ずっと激しかった動悸はいつの間にか落ち着いていて、身体の火照りもない。お陰で、呼吸も随分と楽になっていた。 「……発情期、終わったってこと……ですか?」 「取り敢えず、今回はね。まさか本当に誰とも交わらずに耐え抜くなんて、正直思わなかったよ。……よく頑張ったね」  月村に言われて、やっとあの地獄みたいな苦しみから解放されたのだと、麒麟も心の底から安堵の息を吐いた。  発情期の間は飲み食いなんて出来なかったし、ひたすら体中の水分を搾り取られたような気分だった。身体が汚れてもシャワーすら浴びられなかったし、全身がベタベタして酷く不快だった。  こんな汚い身体、麒麟自身も嫌なのに、月村は嫌な顔一つせず、今も麒麟の身体に異常がないか、全身をチェックしてくれている。 「……先生……突然来たのに、お世話かけて、すいません……」 「言っただろう? 発情期は自分の意思でコントロール出来るものじゃないんだから、気にすることなんかないよ。大体、連れて来たのは熊谷なんだから。そんなことより、それ……ちょっと萎んじゃったね」  一通り身体を診終え、「それ」と月村が、麒麟がずっと抱き締めていたブタウサのぬいぐるみを指差して笑う。  数日前、月村が「熊谷からの差し入れだよ」と持ってきてくれたこのぬいぐるみを、麒麟は受け取って以降、ずっと抱き締めて過ごしていた。  直接会うことは出来なくても、熊谷のぬいぐるみがあれば、彼とも繋がっていられるような気がしたのだ。  おまけに、初めてこのぬいぐるみを渡されたときは感じなかったハーブの香りが、病院で受け取ったときにはぬいぐるみに仄かに染み込んでいた。  月村から教わったのだが、ハーブはΩの発情を僅かではあるが抑える効果があるらしい。熊谷が元々知っていたのか、それともわざわざ調べてくれたのかはわからないが、どちらにしてもそんな小さな熊谷の気遣いでさえ、孤独な病室では充分心の支えになった。 「頭がボーっとするとか、気分が悪いとか、何かおかしなところはない?」 「……身体は怠いけど、大丈夫です」 「そうか、君が強い子で良かった。発情期の間、何も食べられなかっただろう? 脱水もあるから二、三日はまだ点滴生活だけど、点滴が外れたら最終的な健康チェックをして、問題なければ帰れるよ」  帰れる、という言葉に普通はホッとするところなのだろうが、麒麟は僅かに不安を覚えた。 「……俺、帰っていいのかな」  ポツリと漏れた呟きに、月村が「熊谷のところに?」と点滴の滴下速度を調節しながら問い掛けてきて、麒麟はコクンと小さく頷き返す。 「君はどうなの?」 「え?」 「熊谷の元に、戻りたいと思う?」  「俺は……ここに居る間ずっと、熊谷さんに会いたいと思ってたし、早く帰りたいって思いますけど……」  けれど、熊谷はどうだろう。  今回はどうにか発情期を乗り越えたものの、今後は何度も発情期を迎えることになる麒麟が居て、迷惑にならないだろうか。  途中で口籠った麒麟の心中を見抜いたのか、月村は「やれやれ」と肩を竦めた。 「君が帰りたいと思うなら、堂々と帰ればいいんだよ。熊谷は、見た目に反して妙なトコ臆病だからね」 「妙なトコ……?」 「君はもっと我が儘になってもいい。山で冬眠してた『熊』を起こすには、それくらいじゃないと駄目なんだよ」  月村の言葉の意味がイマイチよくわからず、枕の上で首を傾げる麒麟に、「そう言えば麒麟くん」と笑顔を浮かべたままの月村が、突然茶色い薬瓶を麒麟の顔の前に突き付けてきた。見慣れたその瓶に、麒麟は思わず目を瞠る。咄嗟に瓶を取り返そうと上体を起こしたが、寸でのところで月村は素早くその手を引っ込めてしまう。 「こらこら、まだそんな急に起き上がらない」  苦笑する月村にそっとベッドに戻されても、麒麟は動揺が隠せなかった。 「……それ……なんで、先生が……」 「それは僕も聞きたいな。この抑制剤の成分を調べさせて貰ったけど、市販のものでも、病院で処方されたものでもないはずだ。一体何処で手に入れたの?」  成分まで調べられたと言われたら、医者の月村に下手な嘘なんて通用するはずはない。  笑顔を浮かべたままの月村が却って怖くて、追い詰められた麒麟は、観念して震える唇を開くしかなかった。 「……ネットで、偶然見つけて……発情期を極力遅らせる効果があるって書かれてたから……」 「飲み始めたのはいつ?」 「……五年前から、です」  後ろめたさを感じながらボソリと答えた麒麟に、月村は「悪い予感が当たったな」と額を押さえた。 「いいかい。この薬には、発情期を遅らせる成分なんて含まれてない。そもそも、抑制剤はあくまでも発情期にΩが出すフェロモンを抑えたり、発情の症状を緩和する為の薬であって、発情する時期をコントロールしたりする薬じゃないんだ。この薬は、フェロモンを抑えたりする成分は確かに過剰に含まれていたけど、発情期を迎える時期は、言ってしまえば完全に運なんだよ」 「……それじゃあ、俺が望みどおりに家を出てから発情期を迎えたのは……」 「たまたま、運が良かったってこと。君が飲んでた薬は、違法スレスレの相当キツい薬だ。副作用は勿論、今後君の身体にどんな影響が出るかもわからない。退院時に一応血液検査はさせて貰うけど、君が信じて飲み続けていたこの薬の所為で、当分は発情期の間隔も却って不定期になるかも知れない。それ以外にも、君の身体にどんな害を及ぼすかわからないんだ。……正直、熊谷が僕のところへ持ってきてくれて助かったよ」 「熊谷さんが……?」  どうして…、と愕然とする麒麟の前で薬瓶をポケットに仕舞った月村が、困った顔をした。 「彼は、君の身体が心配だったんだよ。────熊谷は、大事な相手を薬が原因で亡くしてるから」 「え……?」  抑制剤を飲んでいた麒麟に怒っていた熊谷。  自身の作品を「贖罪だ」と言った熊谷。  時々、誰かを思い出すように切ない顔を見せる熊谷。  それらの理由が月村の言葉で全て繋がって、麒麟は言葉を失った。 「……熊谷からは、何も聞いてない?」  月村の問い掛けに、麒麟はまだ呆然としながら無言で頷く。 「そうか……。じゃあ、詳しいことはちゃんと熊谷の口から直接聞く方がいいね。どのみち、君たちはもっとじっくり話をした方がいい。それから、さっきの薬は僕が預かっておくよ。本当は飲んじゃいけない薬だっていうのは、君が一番よくわかってただろう? どうしても抑制剤が必要なら、ちゃんとしたのを処方してあげるからウチにおいで」  月村が部屋を出て行った後も、麒麟はただひたすら、滴り落ちる点滴の雫を見つめ続けていた。  正直、自分の抑制剤のことなんて、もうどうでもよくなっていた。 『熊谷は、大事な相手を薬が原因で亡くしてるから』  月村のその言葉だけが、ずっと麒麟の脳内で繰り返し響き続けていた。   ◆◆◆◆◆ 「……あの、熊谷さん……?」  病院を出てから小屋に帰り着くまで、車中でも一切口を開かなかった熊谷に、麒麟は恐る恐る声を掛ける。  なんだ、と不機嫌そうな声が返ってきて、重い沈黙に更に拍車がかかった。  発情期が終わったという知らせを受けた熊谷がすぐにでも病院に来るというのを、点滴が繋がっている所為で体中ドロドロだった麒麟は、会うのが申し訳ないやら気まずいやらで、まだ来ないで欲しいと今度は麒麟の方から熊谷の来訪を拒んだ。無事に血液検査や退院時の診察も終えて、病院のシャワーを借りた麒麟は、迎えにきてくれた熊谷と十日ぶりに顔を合わせたのだが、病室に迎えにきてくれたときから、熊谷はずっとこんな様子だった。  実は病室に来る前、「発情期のときにすぐに助けてあげなかったツケだね」と月村に揶揄われたことに熊谷は不貞腐れていたのだが、そんな経緯は知らない麒麟は、熊谷が不機嫌な理由がわからず困惑していた。 「……熊谷さん、何か怒ってる?」  そう尋ねても、熊谷は「怒ってねぇよ」としか返してくれない。  折角十日ぶりにやっと会えて嬉しいのに、熊谷がこんな様子だと、麒麟も素直に喜んで良いのかわからなくなる。 「……やっぱり俺、戻らない方が良かった……?」  玄関の鍵を開ける熊谷の後ろで、病院からずっと抱えていたブタウサをギュッと抱き込んでポツリと問い掛けると、「ああ、くそっ!」と突然叫んでガシガシと手荒く項を掻いた熊谷が、グイッと麒麟の腕を掴んでそのまま小屋の中へと引き込んだ。  えっ、と思う間もなく熊谷の腕の中に抱き込まれて、突然の状況に身動きできない麒麟の背後で、静かに玄関の扉が閉まる。 「……熊谷さ────」 「独りにして、悪かった」  苦しいほど強く麒麟の背を抱く熊谷の突然の謝罪に、どう反応すればいいのかもわからず、麒麟は息を詰めた。熊谷の体温も吐息もすぐ傍にあって、鼓動がまるで発情期のときみたいに一気に跳ね上がる。 「月村に、発情中のお前を避けてたこと、散々揶揄われてな。自分の情けなさに、腹が立ってた」  自業自得なのにな、と熊谷が自嘲気味に笑う。 「でも、毎日病院まで来てくれてたって、月村先生から聞いた。俺、それ聞くだけでもめちゃくちゃ安心してたよ。……もう、追い出されても仕方ないって思ってたから」 「俺が、お前の気が済むまで居ろって言ったんだぞ。追い出したりするわけねぇだろ」 「でも、このままここに居たら、俺また発情期くるよ……?」 「………」  麒麟に発情期が来た瞬間の状況を思い出したのか、熊谷が麒麟を抱く腕に力を込める。 「……俺が、発情したお前を抱くのは簡単だ。元々Ωの発情はαを誘うモンだし、お前の身体だってそれで楽になる。けどな、お前のフェロモン、俺が今まで会ったどんなΩよりも強烈なんだよ。だからお前が発情したときも、とにかく喰らい付かないように自分を抑えるので、精一杯だった。……それこそ、あっさりお前の項噛んじまいそうなくらい、ぶっ飛びかけてたんだ」  自分が発しているフェロモンが熊谷にとってどのくらい強烈だったのか、麒麟自身にはわからないので何とも言えない。けれど、発情期のΩと交わったαがΩの項を噛むということは、お互いに相手の番になることになる。一度番ってしまえば、相手が死ぬまでその関係は切れることはない。 「……もしかして、いきなり番わないように、ずっと離れてくれてたの?」  麒麟が熊谷の腕の中でその顔を見上げると、熊谷は男らしい眉尻を下げて苦笑した。 「お前が必死で発情堪えようとしてんのに、そんな身勝手なこと出来ねぇだろ。……でも考えてみりゃ、お前を無理矢理病院に連れてって独りにしたのも、俺の身勝手だったよな。悪ぃ」  見上げたままの麒麟の額に、熊谷の額が押し当てられる。離れていた時間を埋めるように、麒麟を抱く腕が優しくなって、何だか無性に泣きたくなった。  ……こんな風に抱き締められたら、思い上がってしまいそうだ。  もしもあの時、抑えきれなくなった熊谷に襲われて、そのまま項に噛み付かれたとしても、麒麟は別に後悔なんてしなかっただろう。でも……、とそこでまた、月村に聞いた熊谷の過去を思い出す。  熊谷さんの大事な人って?  薬で亡くなったってどういうこと?  東京からこの町に来たのは、その人のことがあったから?  聞きたいことは山ほどあった。  月村は直接聞いた方がいいと言っていたけれど、本当に聞いてしまってもいいんだろうか。  ずっと会いたかった熊谷の腕に抱き締められて嬉しいのと同時に、もしも熊谷が今も『大事な相手』を想い続けていたらと思うと切なくて、胸が苦しい。  熊谷に惹かれていることを自覚した後に、あんな辛い過去、聞きたくなかった。  この工房に並んでいる沢山の動植物には、きっと全て、熊谷の『大事な相手』への想いが詰まっているのだ。 「……もしも俺にこの次また発情期が来て、そのとき俺が『どうされてもいいから傍に居て』って言ったら、熊谷さんは居てくれる? ……大事な誰かのこと、思い出さない?」  黙っていられずとうとう問い掛けた麒麟に、一瞬驚いたように熊谷の腕が弛む。麒麟を見下ろす顔が、やがて驚きから困惑に変わった。 「さては、月村から何か聞いたな」 「……熊谷さんの大事な人が、薬の所為で亡くなった、って……。それ以上は熊谷さんから直接聞けって言われて、詳しくは聞いてないから……!」  熊谷の居ないところで勝手に過去を探ったと誤解されないように慌てて付け加えた麒麟に、熊谷は「別に怒ってねぇから気にするな」と笑った。 「俺はお前の生い立ち聞いてんのに、俺だけ黙ってるのも、確かにフェアじゃねぇよな」  言いながら、熊谷が麒麟の手を引いてそのままリビングのソファへと促す。熊谷が先に腰を下ろし、隣に座れ、と言うように空席をポンポンと叩いて示されて、麒麟は遠慮がちに熊谷の横に座った。 「取り敢えず、お前にも『彼』のことは話しておく」  彼、という単語に、麒麟は思わず膝の上で両手を握った。  ……熊谷さんが、大事に想っていた人。  一体どんな人なんだろうと固唾を飲む麒麟の横で、熊谷は淡々と語り始めた。 「まず、月村の言ってたことは本当だ。四年前の春先……丁度今頃だったな。俺の好きだった相手が、亡くなった────」

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