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五話

  ◆◆◆◆  ────四年前、都内某所。  季節は、いよいよ秋から冬へと変わり始めていて、吹きつけてくるビル風もすっかり冷たくなっていた。  ビルに囲まれた都心特有の風の強さに片目を眇めながら、熊谷は一際背の高いオフィスビルの前へと辿り着いた。  ビルの天辺を見上げると、遥か高い最上部に、恐らく誰もが名前くらいは知っているであろう、大手IT企業のロゴが光っている。眩しさに目を細めながら、熊谷は苦手なネクタイを締め直した。その胸元でも、弁護士バッジが太陽の光を受けて微かに光る。  熊谷がこのビルを訪れるのは、今日で二度目だ。  一度目は、先月までこの大手IT企業・F社の顧問弁護士を務めていた上司から、その座を引き継ぐ旨の挨拶の為だった。  熊谷自身は、どちらかと言えば企業相手より個人相手の仕事の方が好きだったのだが、二十九歳という若さでこんな大企業の顧問弁護士を任せて貰えるというのは、熊谷が弁護士として信頼されている証でもあったので、断ることも出来なかった。  同じ弁護士の父を持つ熊谷にとって、弁護士というのは身近な仕事ではあったのだが、正直なところ、最初は特別な興味はなかった。  熊谷自身が中学・高校と柔道に打ち込んでいたのもあって、そんな自分が弁護士になれるとも思っていなかったからだ。  だが、熊谷が高校三年に上がり、いよいよ進路のことも考えなければならなくなった丁度その頃。  αによって無理矢理番わされた十七歳のΩの少年が、殺害される事件があった。  二人が共に暮らしていたことや、日常的に暴力を振るわれていた形跡もあったことから、番のαに当然疑いがかかったが、殺害に至った確たる証拠が出なかった上、Ωの社会的地位の低さから、「殺害は番のαによるものだと断定することは出来ない」ということで、そのαは結局不起訴処分となった。  そんなニュースを淡々と読み上げるテレビの中のキャスターを見ながら、父は悔しさとも虚しさとも取れる溜息を零していた。 『社会的に弱い立場の人を守りたい』  それが、常に父が掲げていた理念だった。  Ωが社会生活において理不尽な扱いを受けることは日常茶飯事で、恐らくこのΩの事件も、氷山の一角に過ぎない。  だが、例え不起訴処分という結果は変わらなかったとしても、ただΩだからという理由で軽視されてしまった少年の無念を、少しでも晴らしてやることは出来なかったのだろうか。  父の横顔は、そう悔やんでいるように見えた。そしてその思いは、熊谷も同じだった。  当時の熊谷と同い年の少年が、Ωというだけで無理矢理番わされた上に暴力を受け、挙げ句の果てに命まで奪われた。それなのに、世間は「Ωだから」で片付けてしまう。  殺害されたのがβや、ましてやαであれば、もっと捜査のメスも厳しく入っただろうし、犯人も恐らく何らかの刑罰は受けていたはずなのに。  その日見た父の顔が忘れられず、熊谷はそれからの日々を、気付けば弁護士を目指す為の勉学に費やしていた。  αは生まれながらに知能も高い為、熊谷は無事志望大学にも入学出来、そうして今は、父と同じ弁護士バッジを胸につけている。  αの家系にありがちな、親の七光りだとは言われたくなかったので、大学卒業後に家を出て父とは全く無縁な法律事務所に所属したものの、弁護士として熊谷が常々胸に抱いている理念は、父のそれと同じだった。 「……やっぱ気乗りしねぇんだよなぁ」  だからこそ、そんな熊谷の理念とはかけ離れた巨大なオフィスビルを前に、熊谷は重い溜息を漏らす。  F社は、社員の七割近くをαが占めるという、エリート中のエリート企業だ。そんな場所で、熊谷が守るもの────守るべきものなんて、あるのだろうか。  しかし気乗りはしなくても、契約した以上、中途半端な仕事は出来ない。  熊谷を信頼して後任を託してくれた上司の面目を潰すワケにもいかないので、熊谷は気持ちを切り替えて一度背筋を正すと、綺麗に磨き上げられた大理石のフロアへ足を踏み入れた。  受付の女性に、アポを取っている専務の名前を告げると、以前挨拶に訪れた際にも通された応接室へと案内された。  熱いお茶を目の前に用意され、「少々お待ち下さい」と丁寧に頭を下げる女性社員に軽く会釈を返して、熊谷は相変わらず息苦しいほど重厚な雰囲気の応接室に、ネクタイを緩めたくなるのを必死で耐えた。  だから個人相手の方が気楽でイイんだ、と熱いお茶で身体を温めながら熊谷は心の中で呟く。  一人なのを良いことに、ズズ…、と音を立ててお茶を啜った瞬間。コンコン、と扉を叩く音がして、熊谷はギクリと肩を強張らせると慌てて茶碗を置いて、姿勢を正した。 「失礼致します」  丁寧な口調と共に扉が開いて、濃紺のスーツを身に纏った線の細い、整った顔立ちの若い男性が書類を手に応接室へと入って来た。 「お待たせして申し訳ありません。営業部主任の、香芝夏樹です」  綺麗に身体を四十五度折り曲げてから名乗る相手の姿に、熊谷は動揺の余り、思わず挨拶どころか立ち上がることすら忘れてしまっていた。  別に、「香芝」と名乗った男性の姿に見惚れていたわけではない。……いや、多少はそれもあったかも知れないが、それ以上に熊谷を動揺させたのは、彼がΩだったことだ。仄かに彼から漂うΩ特有のフェロモンを、αの熊谷が感じないわけはなかった。  ただでさえ社会的地位の低いΩは、まともな職に就くことすら、決して容易ではない。  それが、ましてや社員の殆どがαという大企業に就職し、おまけに主任という役職まで担っているΩなんて、熊谷はこれまで出会ったことがなかった。 「あの……顧問弁護士の、熊谷さん……ですよね?」  呆然と固まったままの熊谷は、少し身を屈めて問い掛けてくる香芝の声でようやくハッと我に返った。 「も、申し訳ない……! 顧問弁護士の、熊谷勝吾です」  慌てて立ち上がった所為で熊谷の脛がテーブルにぶつかり、湯飲みがガシャンと派手な音を立てる。ぶつけた脛の痛みに顔を顰めながら、どうにか名刺を差し出した熊谷に、同じく名刺を差し出しながら、香芝がクスリと柔らかな笑みを零した。  その笑顔には、Ωだの何だのということは忘れて、思わず見惚れてしまった熊谷である。 「さすがに驚きますよね。こんな大企業で、Ωが主任務めてるなんて」  熊谷の動揺の理由をあっさり見抜いて、香芝は少しテーブルに零れたお茶をサッとハンカチで拭き取りながら笑う。  しまった、と熊谷は自らの失態に内心舌打ちした。  こんな反応は、恐らく彼にとっては慣れたものなのだろう。彼が嫌と言うほど見てきたであろう反応を、自分も例に漏れず見せてしまったことを今になって悔やむ。 「早々に、失礼しました。すみません」  熊谷の方は九十度、逞しい身体を折り曲げて謝罪してから、改めて受け取った名刺に視線を落とす。確かに、名前の上に「営業部主任」の文字があった。Ωの彼がここまで昇り詰めるなんて、相当な努力が必要だったに違いない。 「いえ、気にしないでください。特にウチはαが多い会社ですし、その中ではどうしても目立ってしまうのは自分自身、承知してますから」 「でも、正直入社するだけでも大変だったんじゃないですか? 素直に凄いと思いますよ」  熊谷は本当に率直な気持ちでそう告げたのだが、「ありがとうございます」と答えた香芝は、一瞬哀しげに笑った気がした。けれどそこに違和感を覚える間もなく、香芝はまた穏やかな顔で、熊谷に腰を下ろすよう促してくる。  失礼します、と熊谷が再び椅子に腰を下ろすと、香芝も下座に腰を下ろした。 「……今日は、太田専務は?」  香芝が来室して以降、一向に開く気配のない扉を見遣って、熊谷は首を捻る。  二日前、専務の太田から電話があり、契約先からのクレーム対応と聞いて熊谷は今日このF社を訪れたのだ。寂しい頭頂部とは裏腹に口は賑やかな専務とのやり取りを想像してうんざりしていただけに、熊谷は突然の香芝の登場に面喰ったのもあった。 「ああ、申し遅れました。専務は今緊急会議に出席してまして、私が応対させて頂くことになりました。元々、今回クレームがきている契約も、私が訪問した営業先とのものなので」 「そうだったんですか。……あの、じゃあちょっとネクタイ、緩めさせて貰ってイイですか? あと、出来れば香芝さんももうちょっと肩肘張らない感じで……」  熊谷の申し出に、猫のような目を瞬かせた香芝は、堪らずといった様子で噴き出すと、「どうぞ」と肩を揺らして笑った。  有り難く早々にネクタイの結び目に指を入れて緩めつつ、笑う香芝の姿に何故か熊谷はホッとしていた。何となく、彼本来の姿が垣間見えた気がしたからだろうか。 「俺も毎回、Ωなのにこの会社に居ること驚かれますけど、熊谷さんも弁護士っぽくないって言われませんか?」  普段は「俺」って言うのか、とまた香芝の些細な日常に触れたことを内心嬉しく思いながら、熊谷は「よく言われます」と頷く。 「俺、中・高って柔道やってたんで、正直スーツとかネクタイって苦手で。でもこのガタイのお陰で、散々『訴訟も辞さない!』って言ってる相手が俺が弁護士として出てきた途端、示談交渉に応じてくれるケース、結構あるんで助かってます」 「確かに迫力あるし、頼もしい感じありますね。でも熊谷さん、まだ若いでしょう」 「今二十九です」 「えっ、俺より二つも下!?」 「え、香芝さんて俺より年上だったんですか!?」  お互い真逆の思い込みをしていたことが判明して、思わず二人揃って噴き出した。 「凄いね、その歳でウチみたいな大きい会社の顧問弁護士任されるなんて。優秀なんだ」  褒められたことも嬉しかったが、砕けた香芝の口調が、また少し距離が縮んだ気がして嬉しくなった。 「じゃあ熊谷さんを信頼して、今回の件もお任せしよう」  少し冗談めかして言いながら、香芝がテーブルの上に書類を広げた。 「今回のクレームは、半月前に契約書を交わした契約を、白紙にして欲しいっていうものなんだ。契約書の内容の説明が不十分だったから納得できない、の一点張りでね」 「その契約書は?」  これ、と香芝が広げた中から一枚の書類を手渡してきた。  しっかり相手方の社名や押印の入った書類に、熊谷はザっと目を通す。 「こっちにある書類が、契約時に説明させて貰った内容。この書類は同じものを相手方にも渡してあるし、勿論内容を説明した上で、押印も貰ってる」  法人トラブルでこの手のクレームは珍しくないケースだが、契約書や説明書類を見る限り、F社には特に不備もなさそうだ。香芝の熊谷への最初の応対の丁寧さやそつの無さから見る限り、彼の契約時の説明が杜撰だったとも考えにくい。 「よくある、『やっぱり気が変わった』ってヤツか……」  顎に手をやって書類を眺めながらポツリと呟いた熊谷に、香芝が困惑げな表情で軽く身を乗り出す。 「契約書を貰ってからもう半月になるし、正直既に企画も動いてしまってるから、今更白紙にって言われてもウチとしても困るんだけど……どうにかなりそう?」  縋るように問い掛けて来る香芝には、何とも言えない妖艶さがあって、熊谷は思わず微かに喉を鳴らす。  ただでさえαとΩな上に、密室に二人きりでこんな風に頼られて、「無理だ」なんて一蹴できるαが居るんだろうかと、香芝の醸し出す雰囲気にすっかり流されかけて、熊谷は慌てて数回咳払いした。 「と、取り敢えず、書類を見させて貰った限りではこちら側に非はないです。一度俺の方から契約先に連絡取らせて貰って、必要なら俺が相手方へ出向きます。多分、今回の件はそれで解決するんじゃないかと思うんで、向こうの連絡先と担当者の名前、教えてください」  熊谷が相手方の連絡先を記入する為のファイルを開くのを見て、香芝は安堵したように小さく息を零すと、「ありがとう」と笑って、社名と担当者名が入った名刺を見せてくれた。  その内容を写し終えて、熊谷は閉じたファイルをカバンに仕舞い込んだ。 「万が一、俺が向こうへ出向いても解決しない場合、香芝さんに契約書と説明書類持参で同行お願いするかも知れないんで、その時は協力お願いします」 「それくらい、いくらでも。実は弁護士さんと話すの初めてだったから、ちょっと緊張してたんだけど、話しやすい人で良かった。……今後とも、よろしくお願いします」  立ち上がって香芝が差し出してきた右手を、熊谷も立ち上がってグッと握り返す。握ったその手は熊谷のそれよりも細くて骨ばっていて、そして少しひやりとしていた。ひょっとすると、熊谷の手が熱を帯びていて、そう感じただけなのかも知れない。  今思えば香芝と出会ったこの時から、熊谷は香芝という存在に強く惹かれていた。  香芝から聞いたF社の契約先に熊谷は事務所に戻ってから早速連絡を入れてみたのだが、その日は担当者は不在だった。  比較的あっさり解決するだろうと思っていた熊谷の予想を裏切って、その後何度も連絡してみたのだが、担当者もその上司も全く捕まらず、結局何の進展もないまま、既に二週間が経とうとしていた。  さすがにこれには、熊谷も頭を抱えた。  その間、度々進捗の確認に香芝から連絡が来て、電話越しとはいえ話が出来るのは嬉しかったが、良い報告が出来ないことは心苦しかった。  とにかく相手方と連絡が取れないことには、話が先に進まない。  このまま電話をかけ続けても堂々巡りな気がして、熊谷は仕方なく、アポ無しで相手方の会社を直接訪ねてみることにした。  控えた住所を頼りに訪れた先は、F社に比べれば相当差はあるものの、そこそこ立派なオフィスビルだった。そのビルのフロア三階分を占めているのが、相手方の会社のようだ。  一階の受付で、アポは無いが駄目元で担当者を呼んで貰ったところ、これまで散々電話から逃げていたのが嘘のように、熊谷は相手方のフロアへ通された。  オフィスの片隅、パーティションで仕切られた応接スペースで待たされること数分。  F社の専務によく似た寂しい頭髪の五十代前半くらいの男性が、わざとらしく腕時計に目を遣りながら足早にやってきた。 「ちょっとぉ~、困るんだよねぇ……忙しい中アポも無しに来られるとさぁ。君、F社の人間? この前来た子と違うけど、厳つい子寄越して強引に話進めようって魂胆?」  一方的に捲し立てながら、男性はまだチラチラと腕時計を見ている。  そんなに早く帰って欲しいなら、手短に済ませてやると、熊谷は溜息混じりに腰を上げた。 「お忙しい中、突然申し訳ありません。F社の顧問弁護士の、熊谷と申します。二週間ほど前から何度もご連絡させて頂いていましたが、全く連絡がつかなかったので、失礼ながら直接来訪させて頂きました」  熊谷がそう言って差し出した名刺を見て、男性はようやく熊谷の胸元のバッジにも気が付いたようで、その顔がサッと一瞬で強張るのがわかった。 「べ、弁護士……?」 「はい。F社にて御社に押印頂いた契約書や、その際にお渡しさせて頂いたはずの説明書類も全て確認させて頂きましたが、特に不備は見受けられませんでした。このまま契約を一方的に破棄されるとなりますと、F社に生じる損害も含めて────」 「わ、わかった……!」  弁護士、という単語に周囲の社員がざわつき始めた為か、男性が慌てた様子で熊谷の言葉を遮る。 「では、今回の件は契約書通りに企画を進めさせて頂く、ということでよろしいですか?」 「ぐ……っ」  ニ…、と口端を持ち上げる熊谷を悔しげに見上げた男性が、くそっ、と苛立ち紛れに寂しい頭髪を掻き毟った。 「……わかった、契約の件はそれでいい。ただし! ……あの時の子を……香芝くんを、再度こちらに寄越すのが条件だ」 「……香芝さんを?」  それは、謝罪もしくはクレーム目的で呼びつけたいということだろうかと熊谷は眉を顰める。 「何故香芝さんを? 謝罪等でしたら、香芝さんだけでなく上の者も一緒に伺わせて頂いた方が良いかと思いますが」 「いや、香芝くんだけでいい。それが、契約継続の条件だ!」  そう言い置いて、男性は結局名刺の一枚も渡さずにさっさとその場を立ち去った。 「……どういうことだ?」  イマイチ納得が出来ないままビルを出た熊谷は、早速F社に電話を掛け、香芝に男性とのやり取りを伝えた。  熊谷の言葉を暫く黙って聞いていた香芝は、少しの間を置いた後、静かに『わかった』と溜息混じりに呟いた。  香芝には、男性の要求の意図がわかったんだろうか。 「……本当に香芝さんだけでイイんですか。何なら専務か誰かに相談した方が……」 『いや、大丈夫。多分、専務も俺だけで行けって言うだろうし。それで、今回のクレームは取り下げて貰えるんだよね?』 「香芝さんが一人で来るなら、契約は継続する、と。……香芝さんだけ呼ばれる理由が、よくわからねぇ」  思わず本音を漏らした熊谷に、香芝はスピーカー越しに苦笑した。 『大丈夫、ちょっとご機嫌を取れってことだよ』 「接待ってことですか?」 『そうそう、そんなところ。……何にせよ、契約破棄にならずに済んで助かったよ。ありがとう』  香芝からの礼を、熊谷は素直に喜ぶことが出来なかった。まだどこか、胸の中がモヤモヤとしていたからだ。  香芝は男性の要求をすぐに理解したようだったが、熊谷にはやはり香芝だけが相手方に出向く理由がわからなかった。  そしてそのことを、熊谷は後々酷く後悔することになるのだった。  ────二週間後。  クリスマスイヴを目前に控えた金曜日。  イルミネーションに彩られた通りを、熊谷はスマホの地図を頼りに歩いていた。  クレーム元との契約も無事破棄にならずに済んだ礼ということで、熊谷は都内の居酒屋を貸し切って行われるというF社の忘年会に招待されていた。  とは言っても、F社内で熊谷がまともに顔を合わせたことがある人間なんて、数えるほどしか居ない。そんな忘年会に呼ばれても居心地が悪いだけだし、唯一嬉しいことがあるとすれば、仕事を離れて香芝に会えるということくらいだった。……会社の忘年会が、仕事を離れているのかと聞かれると微妙だが。  駅から十分ほど歩いて辿り着いた、小洒落た居酒屋の扉を開けると、丁度入ってすぐのテーブルで飲んでいた専務の太田が熊谷に気付いてジョッキを持つ手を上げた。 「おお! や~っと来たかぁ、熊谷くん!」  真っ赤な顔で立ち上がり、覚束ない足取りでジョッキ片手に熊谷に近付いてきた太田は既に出来上がっているようだ。酷い酒臭さに、熊谷はさり気なく顔を背けた。  そんな熊谷の態度は全く気にならないほど上機嫌な太田が、「まあまずは一杯」と、テーブルに置かれていた誰が頼んだのかもわからないビールジョッキを強引に手渡してくる。 「いや、自分は社員の方々とも面識がないので、幹部の方に挨拶だけさせて頂いてお暇しますんで……」  やんわりと断る熊谷の手に無理矢理ジョッキを握らせ、熊谷の言葉は無視して太田は「かんぱーい!」と陽気な声と共にジョッキをぶつける。  どうしたものかと困り果てた熊谷は、店内に視線を巡らせて、ある異変に気付いた。  太田以外の幹部勢の姿が、何処にもないのだ。おまけに、香芝の姿も見当たらない。 「あの、専務……幹部の皆さんは……?」  果たしてまともに聞いているのかと熊谷は若干不安になったが、太田はジョッキを傾けながら、熊谷の言葉に大袈裟に肩を竦めた。 「あ~、今日は待ちに待った、香芝くんの『社内営業』の日だからねぇ。部長が張り切って個室に飛び込んでったから、今頃幹部陣は盛り上がってるんじゃないかなぁ」 「……社内営業? どういうことですか!?」  香芝の名前が出たことと、『社内営業』という意味深な言葉に、熊谷の胸が嫌にざわつく。  ドクン、ドクン、と不安に脈打つ熊谷の心に止めを刺すように、太田の顔がニタリと嫌らしく笑った。 「嫌だなあ、熊谷くん。Ωがウチみたいな大企業で、まともな仕事に就けると思う? どうして香芝くんが営業部なのか、ちょっと考えればすぐにわかるでしょ~?」 「………っ!」  嫌な予感が的中して、熊谷は渡されたジョッキをテーブルに叩きつけるように置くと、店内奥の個室へ急いだ。幹部連中や香芝がどの部屋に居るのかは、入り口に脱ぎ散らかされた多数の靴ですぐにわかった。  F社のような大企業で働く香芝に、何も考えずに「凄い」と言ったとき、一瞬だけ哀しそうな顔を見せた香芝。クレーム元の社員が敢えて香芝一人を寄越すように要求してきた理由も全て合点がいって、怒りと後悔に全身が震える。  そのまま勢い任せに個室の襖を開けようとして、熊谷は凍り付いた。 「……ぁ……ッ、は……! ソコ……ッ」  襖越しに漏れ聞こえてきた声に、一瞬思考が真っ白になる。幾人もの荒い息遣いの合間に「もっと」と何度も強請る、甘く濡れたその声は、確かに香芝のものだった。  …………嘘だ。  信じたくない、やめてくれ……!!  そう思って耳を塞いでも、一度聞いた香芝の喘ぎ声が鼓膜に焼き付いて離れない。  香芝を取り囲んでいるであろう幹部連中の姿を想像すると吐き気がするほどの嫌悪感が込み上げてくるのに、その一方でΩである香芝のフェロモンに身体が反応している自分自身が、何より醜い生き物に思えた。  この襖の向こうに広がる惨劇を見てはいけないと、熊谷は踵を返してそのまま居酒屋を飛び出した。  ……いや、見てはいけないと思ったんじゃない。見る勇気が、なかったのだ。  香芝はこれまで、どんな気持ちで熊谷と話していたのだろう。  熊谷だけが知らなかった。  本来、守るべき立場の弁護士でありながら、会社の『餌』として利用されている香芝に、熊谷だけが、気付けなかった。  暫く走ったところで呆然と立ち尽くす熊谷の頭上から、しとしとと冷たい雨が降り始めていた。  週明けに、熊谷はF社へと乗り込んだ。  取引先からのクレームの件で至急太田専務から会議室まで来るように呼ばれている、と受付に告げると、熊谷が顧問弁護士であることを把握している女性はすんなりフロアへ通してくれた。  通りすがりの社員を捕まえて営業部の場所を尋ね、そのフロアへ足を運んだが、広いオフィスに香芝の姿はなかった。 「あの……香芝主任は……?」  最も近くのデスクで入力作業をしていた女性社員に熊谷が抑えた声で問い掛けると、見覚えのない熊谷の顔に首を傾げながらも、女性は壁際のホワイトボードに目を遣った。 「香芝主任、今日は営業午後からなので、今は社内に居るはずですけど……」  社員が平然と言う『営業』という言葉さえ、通常のそれではないと知ってしまった熊谷は眉を顰めながらも「どうも」と短く告げて、フロアの廊下を歩き回った。  トイレにも、喫煙所にも、レストスペースにも、香芝の姿はない。  さっきの社員の口振りだと出勤していることは間違いなさそうだが、一体何処に…と思いながら通り過ぎ掛けた給湯室の奥に、一瞬チラリと人影が見えた気がして、熊谷はピタリと足を止めた。  半歩下がってそろりと覗き込んだ給湯室の奥で、グラスを傾けかけた香芝が「見つかったか」と自嘲めいた笑みを零した。グラスを持っているのと逆の手には、随分と派手な色の錠剤シートが握られている。 「香芝さん……!」  思わずその名を呼んで歩み寄った熊谷に、香芝は人差し指を自身の口元に宛がった。 「見つかると、熊谷さんが困るよ」 「俺なんかどうだってイイ! ……その薬、なんだよ?」 「避妊薬。……俺のこと、忘年会のとき聞いたんだって?」 「なんで知って……」 「太田専務が言ってた。あの人、何でもペラペラ自分で話しちゃうから」  そう言って、香芝は「避妊薬」だと言った薬を数錠、喉に流し込んだ。  もしかしてこの薬は、昼からの『営業』の為なんだろうかと思うと、腹立たしさなのか嫉妬なのか、よくわからないドロドロとした感情が腹の奥から湧き上がってくる。 「……なんで、そうまでしてこの会社に居るんだよ。ここのヤツらは、所詮アンタを食いモンにしてるだけだろ!?」  声を荒げる熊谷に、香芝は相変わらず小綺麗な顔で何でもないようにグラスを洗い、水切りにそっと伏せる。 「熊谷さんだって言ってただろ? Ωがこんな会社で働いてるなんて凄いって」 「アレは、アンタが普通に仕事してると思ってたからで────」 「普通って、なに?」  形の良い香芝の瞳が、ゆっくりと熊谷の方を向く。 「言い方、変えようか。αやβに、こんな仕事が出来る?」 「………」  射るように真っ直ぐな目で見詰められて、熊谷は思わず押し黙る。香芝の瞳には、迷いや、躊躇いや、後ろめたさといったものは一切感じられなかった。 「Ωにとっては、これが普通の仕事なんだ。むしろ、俺はこんな大企業で、大きな契約を取って、それで報酬を貰ってるんだから、恵まれてるくらいだ。だから俺は自分の仕事に、自分の身体に、誇りを持ってる。周りに何て言われようが、俺だけは、自分を否定したくないんだよ」 「香芝さん……」  力強い香芝の言葉に、胸が締め付けられるように軋む。  Ω自身ですら、身体を差し出すことを「普通」だと言い切ってしまうような社会で、弁護士の自分に守れるものなんてあるんだろうか。  ……好きになった相手さえ、守る術はないんだろうか。  無力感に、熊谷はグッと強く両方の拳を握り締める。 「香芝さん。……俺は、香芝さんに会った日から、アンタのことが気になってる。だから、アンタが例え誇りを持っているとしても、会社の都合のイイようにその身体を利用されるのは……嫌なんだ」  絞り出すように吐き出した熊谷の言葉に、香芝は少し目尻を下げ、優しくも哀しくも見える顔で笑った。 「……熊谷さんは、弁護士には向いてないかもね。利用されてるって言うけど、こうして熊谷さんと話してる俺が実は作り物で、『営業』してるときの俺が本性かも知れないよ? それに熊谷さんは、ウチの会社の顧問弁護士だろ? なのに、会社の為に契約を取ってくる俺を止めてどうするの」 「それはわかってる! わかってても……許せねぇんだ」  ギリ、と奥歯を鳴らした熊谷に「やっぱり向いてない」と苦笑して、香芝は持っていた薬をスーツの内ポケットに仕舞い込むと、熊谷の隣に並んで一度足を止めた。 「でも………ありがとう」  何が、と聞き返す前に、香芝は足早に給湯室を出て行ってしまった。  最後に見た香芝の横顔は、いつもの営業部主任のそれに戻っていた。  結局一方的に想いを伝えることしか出来ないまま熊谷が事務所に戻ると、苦い顔をした上司が熊谷の帰りを待ち構えていた。  何でも、給湯室でのやり取りを通りすがりに聞いた社員の誰かが太田にその内容を話したらしく、顧問弁護士が営業を妨げようとするなど有り得ないと、契約破棄を申し出てきたらしい。  香芝の件を知ってしまった以上、熊谷としてはこれ以上F社の顧問弁護士など務める気にはなれなかったのでむしろ万々歳だったが、熊谷の腕を信頼して後任にしてくれた上司の顔には泥を塗る結果になってしまった。  ひたすら謝ることしか出来なかった熊谷に、上司は気にするなと言ってくれたが、結局熊谷は事務所を辞めることにした。  自分が居辛かったというのもあるが、独立すれば、一個人として香芝をF社から救い出すチャンスがあるかも知れないと思ったからだ。  年が明け、季節は春へと移ろい始めた。  一先ず大学時代の先輩が構えている法律事務所の片隅を間借りする形で個人事務所を立ち上げて、熊谷は数ヶ月ぶりにF社へ連絡をした。  そうして香芝の名前を出したとき、電話に出た社員は淡々とした声で告げたのだ。 『香芝さんなら、半月前に亡くなりました』  その言葉が理解できず、馬鹿みたいに何度も聞き返す熊谷に、返ってくる言葉は同じ内容ばかりで、その内苛立ったように通話は一方的に切られた。  ツーツー、とスピーカーから聞こえる音を、ただずっと聞いていることしか出来なかった。  そのときからまるで抜け殻のようになってしまった熊谷の異変に気付いた先輩が調べてくれた結果、香芝の死因は避妊薬や、営業の為の発情促進剤など、薬物の過剰摂取によるものであることがわかったが、そんな理由は香芝が居なくなってしまった以上、判明したところで意味はなかった。  もう何をしても、香芝は戻ってはこない。  手元に残ったのは、初めて会ったときに渡された、香芝の名刺一枚のみ。  熊谷は結局、F社も、そして香芝も、何も守れなかったのだ。  ただ手を出さなかっただけで、香芝を食い物にしていたα連中と、熊谷自身と、一体何が違うというのだろう。  何も守れない弁護士で居ることも、αで居ることも、挙げ句のうのうと生きている自分さえも嫌になり、全てから逃げ出してきた熊谷がふらりと辿り着いたのは、寂れた田舎町だった────   ◆◆◆◆◆ 「……情けねぇ話だろ」  ひとしきり話し終えた熊谷が、長い息の後、苦笑いを零した。  黙って隣で話に耳を傾けていた麒麟は、無言のまま首を左右に振る。  情けなくなんかない、と答えようとしたが、言葉にすると安っぽくなってしまう気がして、麒麟は声に出すことが出来なかった。 「俺、さっきお前に、無理矢理番っちまうのが嫌で、発情中のお前を遠ざけたって言っただろ。確かにそれも理由の一つではあるんだが、お前の言う通り、香芝さんを思い出して、お前に重ねちまいそうな気がしたんだ。お前、別の相手のこと想ってるヤツに、抱かれたいと思うか?」 「……Ωだからって言っても、それは嫌かな……」 「お前はそういうタイプだと思ったから、中途半端な気持ちで手は出せねぇと思ったんだ。お前の為みたいに言ってるが、半分は自分の為でもあってな。それを、月村に説教されたんだよ。いつまでも女々しいって」  自嘲気味に言った熊谷が、軽く肩を竦める。  熊谷が過去に何かを抱えていることは薄々気付いてはいたけれど、まさかこんなにも辛い思いをして東京から出てきたなんて、思いもしなかった。  東京に居た頃の熊谷が弁護士だったというのも驚きだったが、いつも飄々としている熊谷が、癒えるはずのない深い傷を隠していたことに、麒麟は衝撃を受けた。  この町に来てから、熊谷はずっと香芝を思い続けてガラス細工を作り続けていたんだろうか。  工房中が埋まるほど溢れかえったガラス細工は、きっと熊谷の中から溢れる香芝への想いなのだろうと思うと、胸がギュッと痛くなった。  顔を歪めてシャツの胸元を握り込む麒麟を見て、熊谷が笑う。 「なんでお前の方が泣きそうな顔してんだよ」 「……熊谷さんが、泣かないからだよ」  揶揄うように麒麟の髪を掻き混ぜていた熊谷の手が、ピタリと止まる。 「そんな大事な相手のこと、忘れられるワケない。俺だって、母さんのこと忘れろって言われても絶対に忘れられないし、忘れたくない。大事な人って、そういうモンだろ」 「………」 「それに俺……香芝さんが言ったこと、ちょっとわかる気がする。俺の母さんが、そうだったから」   麒麟の母が身体を売って生活費を稼いでいることに、麒麟はある時期から気付いてはいたが、母は一切麒麟にそのことを話そうとはしなかったし、だから麒麟からも聞かなかった。  恐らく母だって、本当はそんなことを続けることは良くないと、ずっと思っていたはずだ。  だからこそ、麒麟の前ではいつも明るく優しい母親で居てくれたのだろうと麒麟は思っている。 「香芝さんが言った『ありがとう』って、それは香芝さんが胸に仕舞ってるものに熊谷さんが気付いてくれたことへの、『ありがとう』なんじゃないかって、俺は思う」  憶測だけど、と付け加えた麒麟の髪を、熊谷は目を細めてそっと撫でつけた。  熊谷の大きな手が、麒麟の柔らかな髪の上を何度も何度も滑る。  麒麟がここに来るまで、熊谷は独りの時間と癒えない傷を持て余していたんだろうかと思うと、「独りじゃないよ」と抱き締めたくなる。けれど、麒麟が熊谷と過ごした時間なんて、まだまだ本当にちっぽけだ。 「熊谷さんがこれまで作ったガラス細工の数は、熊谷さんが香芝さんを想っていた数。……だとしたら、俺はちょっと、香芝さんが羨ましい」  思わず口をついて出た本音に、麒麟はハッとして口を押えた。 「……ゴメン、不謹慎だった……」  文字通り溢れかえるほどの想いを今も尚受け続けている香芝が素直に羨ましくて、こんな話の後でも思わず嫉妬を覚えてしまう自分の狭量さが嫌になる。けれど、熊谷は少し黙り込んだ後、髪を撫でていた手を滑り落として麒麟の肩をそっと抱き寄せた。 「気にするな。お前の言葉には、時々俺もハッとさせられる。……お前は、俺なんかよりずっと大人だよ」 「ええ……それはちょっと複雑かも……」 「外見のことじゃねぇぞ!」  ゴツン、と側頭部同士をぶつけられて、思わず二人同時に笑う。  やっといつものように笑ってくれた熊谷の顔を見て、麒麟はやっぱりこの笑顔が好きだなと胸の中がじんわり温かくなるのを感じた。 「……月村の言う通り、俺もいい加減踏み出すべきなんだろうな」 「踏み出す……?」  首を傾げる麒麟の顔を見詰め返して、熊谷が頷く。 「俺も、お前に聞きてぇことがある」  改まって言われると緊張して、思わずピンと背筋を伸ばした麒麟の肩を、「尋問じゃねぇんだぞ」と宥めるように熊谷の手が撫でた。 「お前、父親の名前と、勤め先は?」 「え?」  唐突な質問に、麒麟は目を瞬かせる。  どうしてこの流れで、いきなり麒麟の父親の話になるのかさっぱりわからない。  そんなこと知ってどうするんだという思いもあったが、見詰めてくる熊谷の目が真剣だったので、麒麟は首を捻りながらも口を開いた。 「……名前は、藤堂誠。勤務先は、Mシステム」 「藤堂? 立花は、母親の姓か?」 「うん。結婚って言っても事実婚だったから、籍は入ってないんだ」 「……籍が入ってない?」  麒麟の返答に、今度は熊谷が怪訝そうな顔になる。  熊谷が一体そこから何を知ろうとしているのかが見えてこず、麒麟は思わず不安になる。 「も、もしかして、俺東京に帰されんの……?」  恐る恐る問い掛ける麒麟の肩を、痛いほどギュウっと抱き寄せて、「そうじゃねぇよ」と熊谷が笑う。 「追い返したりしねぇから安心しろ。お前はここに居てイイっつっただろ」  じゃあどうしてそんなこと…と、未だ疑問の残る麒麟の隣で、熊谷が顎に手をやって低く唸った。 「……なるほど、何となく見えてきたな。ちょっと調べてみるか」  何が?、と疑問符だらけの麒麟の見詰める先でそう呟いた熊谷は、麒麟の知らない、弁護士の顔をしていた。

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