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六話
◆◆◆◆
「それは、俺も熊谷さんに同意見だなー」
見事なまでの五月晴れで、高く澄んだ青い空の下。
麒麟が初めてこの町を訪れた日に見かけた神社の丁度裏手には、緩やかな流れの小さな川が流れていた。その川に掛かったコンクリの橋のたもとに自転車を停めた亮太が、少し遅れて真新しい自転車を停めた麒麟を振り返ると、呆れたような声を上げた。
亮太が「同意見」だと言ったのは、三日前の出来事だった────
「俺、もう十九だよ」
夕食を終え、何とはなしに見ていたテレビ番組で紹介されていた日本酒が美味そうだと呟く熊谷に、当然酒の味なんて知らないし酒に特別興味もない麒麟はピンと来ずに首を捻っていた。
そんな麒麟を見た熊谷が、「あと二年も美味い酒を味わえねぇなんて気の毒だな」と笑ったので、麒麟は既に誕生日を迎えていたことをサラリと告げたのだ。
義父は毎年、麒麟の誕生日には「欲しいものを買いなさい」と現金を渡してくれていたが、特に五年前の一件があってからはとても形式的な物に思えて、麒麟は毎年、貰った現金はそのまま店などに設置された募金箱に突っ込んでいた。
母と二人だった頃、貧しくてホールケーキなんて買えなくても、毎年ショートケーキを買ってきてそこにロウソクを立ててくれた母からの祝いの方が、麒麟にはよほど温かく思えた。
だから母が亡くなって以降、麒麟は自分の誕生日には全くといって良いほど関心もなくなっていたので、麒麟にとっては本当に何でもないことだと思っていたのだが、熊谷の方は違ったようだった。
「……お前なあ……そういう大事なことは、なんでちゃんと言わねぇんだよ!?」
暫く唖然としたように口を開いて麒麟を眺めた後、心底呆れた声を上げた熊谷から、何故か叱られる羽目になってしまったのだ。
「誕生日、いつだったんだ?」
「え……四月二十五日……」
「もう五日も前じゃねぇか!」
冷蔵庫に貼られたカレンダーに目を向けて、熊谷が溜息と共に肩を落とした。
「……お前、なんか欲しいモンとか、ねぇのか?」
「欲しいものどころか、食事付きで居候までさせて貰ってるのに、むしろこっちがお返ししたいくらいなんだけど」
麒麟の返答にガリガリと項を掻いた熊谷は、ついでにこれでもかというほど麒麟の髪をぐしゃぐしゃと搔き乱した。
「ちょっ、熊谷さん!?」
「まったくお前は……。イイ子過ぎるのも困りモンだな」
「……別に、俺はイイ子じゃない」
熊谷には聞こえないほどの声量で、麒麟は静かに呟いた。
今の麒麟が望むことと言えば、ただ一つ。
……この先も、ずっと熊谷の傍に居たいということだけだ。
けれどそれは、熊谷もそう願ってくれなければ意味がない。
自身の秘めた強欲さに視線を落とす麒麟の横で、熊谷は尚も気が済まないようだった。
結局、翌日の夕飯は麒麟が熊谷の料理の中でも特に好きなグラタンを作ってくれ、更に「ここでの生活には必需品だろ」と商店街にある自転車屋で、麒麟に自転車を買い与えてくれたのだ。
釣りに行こうと誘いに来てくれた亮太に、道中その経緯を話して聞かせたのだが、亮太もどうやら熊谷の反応に共感出来るものがあるらしい。
「正直、俺も麒麟の誕生日知ってたら、当日祝えたのになーって思う。あ、取り敢えずかなり遅れたけど、誕生日おめでとう!」
そう言いながら亮太が持参してきた二本の釣り竿の内、一本を手渡してきた。
「あ、ありがとう……」
戸惑いながら釣り竿を受け取った麒麟に、亮太がニッと白い歯を見せて笑う。
「それ、そんなイイ竿じゃないし俺のお古だけど、誕生日プレゼント」
「え、でも釣り竿って結構高いんじゃ……」
「だから、そんな高いヤツじゃないって。暇潰しにちょこっと川釣りする為のヤツだからさ。それに麒麟も竿持ってれば、これからいつでも釣り出来るじゃん? 誰かと一緒に釣りするのもいいけど、一人でのんびり釣るのもオススメなんだよ。俺も親父と喧嘩したときとか、時々一人で釣りに来る」
言いながら、亮太は地面にしゃがみ込むと、持参した釣り餌を慣れた手つきで釣り針に付ける。釣り経験のない麒麟の方にも、亮太はサッと餌を付けてくれた。
「……熊谷さんも亮太も、なんでそんな良くしてくれんの」
二人並んで、穏やかな川面に橋の上から釣り糸を垂らしつつ、麒麟はポツリと隣の亮太に問い掛ける。
「俺、発情期のとき二人に散々迷惑かけて、でも何も返せてないのにさ」
「別に迷惑なんて思ってないって、あのときも言っただろ。それに麒麟は何も返せてないって言うけど、俺が誘ったらこうやって釣り付き合ってくれてんじゃん」
「こんなの、全然お礼になってない。釣り竿だって、また俺の方が貰ってる」
熊谷だってそうだ。
麒麟は居候させて貰っている分、せめて食費くらいは払いたいと言ったのだが、何度訴えても熊谷は決して受け取ろうとはしなかった。
この町に来てから出会った人たちは皆麒麟に親切すぎて、とても有り難い反面、こんなにも甘やかされて良いのだろうかとも思ってしまう。
小難しい顔でジッと川面を見詰める麒麟に、亮太は釣り竿片手に欄干へ片肘をついて苦笑した。
「麒麟って、不思議だよな。そうやって周りにめちゃくちゃ気遣うのに、自分のことに対しては冷めてるっていうか、いい加減っていうか」
「え、俺ってそんないい加減?」
「なんて言うか……自分自身のことあんまり大事にしてない感じがして、時々心配になるんだよ。熊谷さんも、表には出さないけどちょっとそういうとこある気がするし」
「ああ……それはわかる」
香芝の話を思い出して、麒麟はアタリのこない竿を振り直しながら頷いた。
「……ていうかさ。ぶっちゃけ熊谷さんとは、どうなの」
唐突な問いかけに、麒麟は隣の亮太を見遣って長い睫毛を瞬かせる。
「……どうって?」
「いや、だから……上手くいってんのかなーと思って。……好き、なんじゃないの? 熊谷さんのこと」
ドキ、と反射的に麒麟の胸が竦む。
亮太にも見抜かれるほど、自分の熊谷への接し方は露骨だっただろうかと頭を抱えたくなった。
「……俺、東京に居たころは周りの人間に興味なかったから、恋愛感情とかもよくわからないんだ。……でも、熊谷さんと一緒に居たいとは思うし、それを『好き』って言うんなら、多分、そうなんだと思う」
相手が亮太なら変に揶揄われたり笑われたりすることもないだろうと、素直に答えた麒麟に、何故か亮太の方がカーッと顔を赤らめて「うわー!」と謎の叫び声を上げた。
「麒麟みたいなイケメンが恋愛経験ないとか……東京って怖いな……」
東京、という単語に、麒麟はふと顔を曇らせる。
気付いた亮太が、「どうかした?」と麒麟の顔を覗き込んできた。
「……最近熊谷さん、しょっちゅう東京の方行ってるみたいなんだ」
「東京に? ……なんで?」
「わからない」
熊谷が、この町からは決して近くはない都内へ、朝から夕方までかけて出掛けるようになったのは、以前麒麟の義父のことを尋ねてからだった。
最初はガラス工芸の仕事の絡みなのかと思ったのだが、余りにも頻繁に通っているようなので、さすがに気になって理由を問い掛けても、熊谷は「ちょっとな」といつもはぐらかすばかりで教えてはくれなかった。
「俺を東京に帰すつもりなのかと思ったけど、それはしないって言ってたし、だからこそ余計に気になってさ……」
「熊谷さんが今更東京に帰るとも思えないしなあ……。月村先生は、何か知らないのかな」
「そう言えば熊谷さんと月村先生って、なんで仲良くなったんだ?」
熊谷は、過去を引きずっていることを月村に叱られたのだと言っていた。ということは、月村は麒麟よりもずっと前から、熊谷の過去を知っていたということになる。
見た限りそうそう病院の世話になりそうな身体には見えない熊谷が、あんな辛い過去を打ち明けるほど月村と親しくなったきっかけが麒麟にはわからなかったのだが、亮太は何かを懐かしむように目を細めながら「ああ、それね」と苦笑した。
「熊谷さん、初めてこの町に来たとき、何日か前から飲まず食わずだったみたいでさ。駅に着くなり、ロータリーでバッタリ倒れたらしくて。それを、たまたま配達で通りがかったウチの親父が見つけて、月村病院に運び込んだんだ。そのときに診てくれたのが月村先生で、あの二人同い年な上にα同士だから、それから時々飲みに行ったりする仲になったみたい」
(飲まず食わず……)
熊谷に聞いた過去と、そのときの熊谷の状態を想像して、麒麟は眉を顰める。
ただ単にがむしゃらに逃げ出してきた麒麟と違って、きっと熊谷は身も心もボロボロだったんだろうと思うと、胸が痛んだ。
そこから今みたいに飄々として、麒麟を揶揄ったり甘やかしたり、時には叱ったりしてくれるようになるまで、どのくらいかかったのだろう。
思わず物思いに耽っていると、隣で亮太が「麒麟!」と叫んだ。ハッとなって我に返ると、川に垂らしていた麒麟の釣り糸がクイクイ、と何かに引っ張られている。
「リール! リール巻いて!」
「えっ、巻くってどっちに!?」
自分の釣り竿を足元に置いた亮太が、オロオロするばかりの麒麟を横から手伝ってくれる。
「くっそー、麒麟のが先だったか。ビギナーズラックってやつ?」
「これ、ずっと巻いてればいいのか?」
「引きが弱くなったら巻いて、強くなったら一旦止める。基本はその繰り返し」
「……何か、あんまり引き強くないけど」
軽く糸を引っ張られている感覚はあるが、リールを巻く手を止めるほどでもない気がする。「何かの稚魚かな?」と首を傾げる亮太の指導を受けながら巻き上げた糸の先、釣り針に食いついていた獲物がゆっくりと二人の方へと引き上げられる。その正体に、麒麟と亮太は思わず一瞬黙り込んだ後、同時に噴き出した。
釣り糸の先には、一匹のザリガニがぶら下がっていた。
「「魚じゃないし!」」
突っ込む声も綺麗に被って、二人して顔を見合わせてまた笑う。
「これだけ待ってザリガニって……」
「熊谷さんへの土産にしたら? 美味しく調理してくれるかも」
「さすがに遠慮しとく」
散々笑った後、川岸に下りてリリースしたザリガニが無事川に戻っていくのを見送ってから、亮太がふと安心したように息を吐いた。
「……やっと笑った」
「え?」
「麒麟、ずっと難しい顔ばっかしてたから」
麒麟は完全に無自覚だったのだが、何気に亮太はずっと気に掛けてくれていたらしい。
亮太の顔を見詰めたまま言葉に詰まる麒麟に、亮太がしょーがないな、とでもいうような笑みを浮かべた。
「あのさ、あんまり難しく考える必要ないって。麒麟は、もっと肩の力抜いていいと思う。何か返さなきゃとか、そんなんじゃなくて、俺は今みたいに麒麟が一緒に笑ってくれたら、それが一番嬉しい。それは多分、熊谷さんも同じだと思うけどな」
「亮太……」
そんなことを言って貰ったのは初めてで、じわりと胸が熱くなる。一方亮太は言ってから気恥ずかしくなったのか、居心地が悪そうに項に手をやった。
「まあ、心配しなくてももうすぐ田植えの時期だし、その時は若手は全員手伝いに駆り出されるから! 恩返しなら、その時に張り切ればいいと思う」
「田植え?」
「そう。さすがに爺ちゃん婆ちゃんばっかで田植えはキツイからさ。毎年この辺の田植えは町民総出でやるんだよ」
「……田植えの経験なんかない俺が行ってもいいのか?」
「言っただろ、町民総出って。拒否権ナシ! 麒麟の自己紹介の機会にもなるし、若手がまた一人増えて、みんな絶対喜ぶよ。熊谷さんなんか体力あるから、この時期毎年引っ張りダコだし」
「……そっか。じゃあ熊谷さんに田植えのコツ、教わっとく」
そう言って笑った麒麟に亮太もまた笑顔で頷いて、二人は橋の上まで引き返す。
「それにしても、まだ五月入ったばっかなのにあっついなー。休憩がてら、アイスでも買いに行く?」
ずっと炎天下に居たお陰で首筋に薄らと浮いた汗を手の甲で拭って、亮太が言う。
麒麟が初めての発情期を迎えてから気付けばひと月半。季節はもう初夏だ。
亮太の提案に頷き返して二人で自転車に跨った後、まだ土地勘のない麒麟を先導するように先にペダルを漕ぎ出す亮太の背中に向かって、麒麟は声をかけた。
「亮太。……俺も、亮太が友達になってくれて、嬉しい」
「………ッ」
麒麟の言葉に、キキィーッ、と急ブレーキをかけて停止した亮太が、困惑げな顔で振り返った。その顔は、照れなのか暑さなのか、耳許まで紅潮している。
「……麒麟てさあ、何か思わず抱き締めたくなるようなこと言うよな。熊谷さんに殺されそうだからしないけど。ていうか熊谷さん、よく理性保ってるよ……」
「………?」
言われた意味がよくわからず首を傾げる麒麟に、「無自覚って怖いわー」と亮太が呟いて、再び自転車を走らせる。益々首を傾げながら、麒麟はその後を追い掛けてペダルを踏み込んだ。
「ただいまー……」
中身がなみなみと入った大きな密封瓶を抱えて、麒麟は小屋の玄関ドアを肘で押し開けた。
「おう、おかえり……って、どうしたソレ?」
工房で道具の後片付けをしていたらしい熊谷が、麒麟の抱える瓶に気付いて足早に駆け寄ってくると、落とさないよう慎重に引き取ってくれた。
体重計で重さを量りたくなるほどの瓶を自転車のカゴに入れて、ここまで坂道をひたすら上がってくるのは、相当な試練だった。
思わず作業台に寄り掛かる麒麟の背を、一旦瓶を台の上に下ろした熊谷が「大丈夫か?」と軽く撫でてくれる。
「……絶対、筋肉痛になる気がする」
「これ……もしかして田中さんとこの梅酒か?」
「……なんでわかったの?」
亮太と共にアイスを求めて訪れた小さな駄菓子屋『田中商店』を営む、かなり高齢の女性に、挨拶がてら熊谷の元で世話になっていることを伝えると、それならお土産に…と麒麟は大きな瓶に入った梅酒を受け取ったのだ。
「田中の婆さんが漬ける梅酒、凄ぇ美味くてな。初めて貰ったときにそれ伝えたら、有難ぇことに毎年くれるんだよ。……お前には、ちょっと苦労させちまったな」
お疲れさん、と労ってくれる熊谷が嬉しそうに梅酒の瓶を眺めるのを見て、麒麟も苦労した甲斐があったと口元を緩めた。
「熊谷さんがそんなに好きなものなら、貰ってきて良かった」
「お前も来年は一緒に飲めるから、楽しみにしてろ」
当たり前のように「来年は一緒に」なんて熊谷が言うので、麒麟の胸はまたギュッと苦しくなる。
来年も再来年も、麒麟は熊谷の傍に居られると、期待しても良いんだろうか。
けれど、それならどうして熊谷は、麒麟に理由も告げずに何度も東京へ通うようになったのだろう。
麒麟が疑問に思っている傍から、熊谷が思い出したように口を開いた。
「ああ、そうだ。明日の朝、始発で都内まで出てくる」
「え、また……?」
「お前が起きる時間には居ねぇかも知れないが、なるべく早く戻るようにするから、留守頼むな」
「……やっぱり、理由は内緒?」
麒麟が抱える胸のモヤつきを察したのか、熊谷が苦笑しながらそっと大きな掌を麒麟の頬に宛がう。
「悪ぃ……不安にさせちまってるよな。けど、これは俺自身のけじめでもあるんだ。そろそろカタがつくから、そうしたらお前にもちゃんと話す。だからそれまで、もうちょっとだけ待っててくれ」
頬に触れる掌に麒麟はそっと手を添えて、自らほんの少しだけ頬を摺り寄せる。
「熊谷さんがそう言うならいくらでも待つけど……まさか危ないこととか、してたりしない?」
麒麟の問いに、熊谷が小さく噴き出す。
「危ないことってなんだよ?」
「なんかこう……潜入捜査的なヤツとか……」
「ドラマとか映画じゃねぇんだから、そんなことしてねぇよ。……心配すんな、これでも元弁護士だぞ。それに、危なっかしいって点で言えば、お前の方がよっぽど心配だ」
熊谷の少し固い親指が、麒麟の目尻を拭うように軽く擦った。
「明日の昼ごろに、亮太が配達に来るはずだから、受け取っといてくれ。代金はテーブルに置いておく」
「わかった。……気を付けて行って来て」
出来るならこの手を離したくない。だからせめて早く帰ってきて欲しいという願いを込めて、麒麟は熊谷の掌にほんの一瞬、唇を掠めさせてから、名残惜しい想いと共にそっと手を解いた。
────翌朝。
麒麟が目を覚ますと、時刻は七時を少し過ぎたところだったが、昨日熊谷が宣言していた通り、既に熊谷の姿はなかった。
顔を洗ってから朝食を取ろうとキッチンに向かうと、カウンターに麒麟の好きなフレンチトーストが用意されていた。
「……朝早い時くらい、手抜いてもいいのに」
どんな時でも、麒麟の朝食をちゃんと用意しておいてくれる熊谷の優しさに、愛おしさが込み上げてくる。
熊谷の料理がいつも美味しいのは、料理の腕もあるのだろうが、何よりそこに、熊谷の優しさが詰まっているからだろうと麒麟は思う。麒麟の母は熊谷と違って料理の腕前は今一つだったが、それでも母が作ってくれるものはいつだって、熊谷の料理のように温かい味がしたから。
ふわふわで程よく甘い、熊谷お手製のフレンチトーストを食べた後。食器を片付け、カゴに溜まっていた洗濯物を洗濯機に放り込む。
洗濯機が動いている間に風呂やトイレを掃除して、終わるころに丁度洗い終わった洗濯物を抱えてウッドデッキに出ると、今日も外は気持ちがいいほどよく晴れていた。
しまった、熊谷に布団を干したりシーツを洗ったりする許可を得ておけば良かったと、麒麟は悔やむ。さすがに熊谷の留守中に、勝手にロフトに上がるのは気が引けたので、風呂場やキッチンのマットを洗って干すことにした。
相変わらず熊谷は麒麟から一切の生活費を受け取ってはくれないので、どうせならこの機会に家中掃除してやろうと、麒麟はシャツの袖を捲る。
キッチン周りやリビングを一通り掃除し終えたころには時刻は十二時近くになっていたので、麒麟は日頃殆ど手伝いしかしないキッチンに立った。
最近になって熊谷が東京まで出掛ける機会が増えたので、そんな日は麒麟は昼食を一人で取るのだが、麒麟の料理の腕前は、どうやら母親に似てしまったらしい。
母が義父と結婚してからは、食事は全て雇いの家政婦が用意してくれていたので、麒麟はここに来るまで自炊の経験なんてなかった。
だから最近になってやっとまともに包丁を握るようになったのだが、いつも手伝いながら熊谷の手つきや段取りを見ていたはずなのに、いざそれを自分が実践しようとすると、全く思い通りにはいかない。
今日も、以前熊谷が朝食に作っておいてくれたサンドイッチを作ろうと試みたのだが、トマトは綺麗に切れないし、トーストの厚みも左右で全く異なってしまっているし、挙げ句にはレタスだと思って挟んだものは、食べてみるとキャベツだった。
おまけにバターやからしマヨネーズなどを塗ることさえも忘れていたので、見事にそれぞれ素材本来の味しかしない。
(熊谷さんが帰って来たら、作り方教えて貰おう……)
せめてこの程度の軽食くらい、作れるようになっておきたい。それに何より、切るのに失敗して無残な形になってしまったトマトを見ると、亮太の顔が浮かんで申し訳ない気持ちでいっぱいになった。こんな惨状を見たら、きっと亮太は嘆くに違いない。
そう思った瞬間、玄関ドアを叩く音に続いて「ちわー、三井青果でーす」と亮太の声がして、麒麟はタイミングの悪さに思わず飛び上がりそうになった。急いでトマトを全て口に放り込み、どうにか喉の奥に流し込んでから、麒麟は玄関のドアを開けた。
「あれ、熊谷さんは?」
工房にも熊谷の姿が見えないことを不思議に思ったのか、亮太が野菜の入った箱を手に首を傾げる。
「朝一で出掛けてるんだ」
「……もしかして、また東京?」
亮太の問いに麒麟が頷き返すと、亮太は「えー」と眉を顰めた。
「東京が嫌になってこっちに来たんじゃないのかよ、もー。絶対何か怪しいよな」
「……俺も正直、熊谷さんが一体何やってるのか気になって仕方ないけど、全部片付いたら話してくれるらしいから、取り敢えず待ってることにした」
「まあ、熊谷さんはその辺の嘘は吐かないだろうからなー。……熊谷さんの留守中になんか困ったことあったら、いつでもウチの店連絡してくれていいから。番号知ってる?」
「ありがとう。熊谷さんが、短縮ダイヤルに亮太の店、入れてくれてる」
熊谷が東京に通い始めたころ、留守中に何かあったら電話するようにと、熊谷は月村病院と三井青果の番号を、それぞれ短縮ダイヤルに登録してくれていた。
「そっか。あ、野菜重いから、キッチンまで運んどくよ」
そう言って慣れた様子で亮太が抱えた箱をキッチンへと運んで行く。その後を追いながら、トマトを食べ終えていて良かったと、麒麟は胸を撫で下ろした。
熊谷に言われていた通り、テーブルに置かれていた代金を亮太に支払い、玄関まで見送って、そう言えば工房は基本的に熊谷のテリトリーだからと麒麟が掃除や片付けをしたことがなかったことに気が付いた。
さすがに棚や作業台の上を勝手に弄るのはどうかと思ったので、掃除機をかけるくらいなら問題ないかと、麒麟はあちこちに置かれたガラス細工にぶつからないように、慎重に掃除機をかけていく。丁度、いつも熊谷が作業をしている場所に辿り着いたとき。バーナーの向かいにある棚に、大きさの違うキリンのガラス細工が七頭、背の順に並べられているのに気が付いた。一番大きいものでも、麒麟の小指くらいのサイズしかなく、そこからどんどんとキリンのサイズは小さくなっている。
……一体いつの間に作っていたんだろう。
まるでマトリョーシカのようなキリンたちに、思わず顔が綻ぶ。
麒麟に出会う前の作品は、恐らく熊谷は香芝を想って制作していたのだろうけれど、キリンのガラス細工は、麒麟のことを想って作ってくれた気がして嬉しくなった。
そう言えば熊谷に、工房にある作品を一つ一つじっくり見せて貰ったことはまだないし、それぞれの作品を作ったときの思い入れなんかも色々と聞きながら、いつかちゃんと見せて貰いたい。
そのまま作業台を一周するように掃除機を進めて、漸く工房の隅まで辿り着いたところで、麒麟の視界に見覚えのある白い塊が映った。
あれ?、と思って作業台の上に視線を移すと、今ではすっかり毎晩麒麟が抱き枕代わりにしているブタウサのぬいぐるみが置かれている。
今朝起きたとき、確かいつも通りにソファに置いたはずなのにどうしてここに?、と麒麟は掃除機を工房の隅に置き、リビングに続く扉を開けた。ソファの上には、やはり麒麟が置いてそのままのブタウサがちょこんと座っている。
「……二匹目……?」
最近、新しく作られたんだろうか。
工房に戻って、作業台のブタウサをそっと持ち上げる。ブタウサ一号と違って、二号はちゃんとウサギらしく耳は両方ともピンと立ってはいたが、相変わらず左右で長さがかなり違う。
おまけに鼻はやっぱりブタ鼻だし、手も足も尻尾もない。
どうして熊谷が今になって二匹目を作ったのかはわからないが、裁縫の腕前は殆ど上がっていないんだと、麒麟はそっとブタウサ二号を作業台の上に戻して微笑んだ。
そうして掃除機を拾い上げようと身を屈めた麒麟の背後で、丁度玄関のドアが開いた。
「あ、おかえり熊谷さ────」
てっきり熊谷が帰宅したのだと信じて疑わなかった麒麟は、掃除機を手に振り返った先、玄関ドアを押し開けた人物の姿に凍り付いた。
「…………義父さん……」
呆然と呟いた麒麟の手から落下した掃除機が、ゴトン、と床で鈍い音を立てる。
決して平日に仕事を休むことなどなかった義父が、何故かシャツにジャケットを羽織った私服姿で、熊谷の小屋の玄関に立っている。
どうして? どうやって? なんで?
信じたくない思いで、それ以上言葉が出てこなかった。
身動きすら出来ずにいる麒麟の目の前で、軋んだ音を立てながらゆっくりと玄関のドアが閉まる。
「……やっと見つけたよ、麒麟」
そう言って不気味なほど優しい笑顔を浮かべる義父に、ゾッと麒麟の背筋を悪寒が走る。
「……なんで……ここが……?」
震える声を絞り出して、辛うじてそう問い掛けた麒麟に、義父は更に笑みを深めて一歩ずつ、歩み寄ってくる。
「本当に、お前は何もわかっていないな……。お前がどれほど人目を惹くΩだと思っているんだ? 目撃情報に監視カメラ……お前に辿り着く術なら幾らでもある。この町の人間にお前の特徴を話したら、すぐにこの場所を教えてくれたよ。……私以外のαと、過ごしているんだって?」
じわじわと縮まる義父との距離に、麒麟は思わず後退るが、直ぐに壁際の棚へと背がぶつかって、退路が断たれる。
「……家出ごっこはお終いだ、麒麟」
それまで浮かべていた笑顔から一転して無表情になった義父の、怒気を孕んだ低い声に、麒麟は咄嗟に逃げ出そうと義父の脇をすり抜けるべく駆け出した。しかし、その二の腕が痛い程強く掴まれて、そのまま傍の作業台に身体ごと叩きつけられる。
「………ッ!」
衝撃で、置かれていたガラス細工が辺りに散乱し、床の上で次々に砕け散る音がした。熊谷の、香芝への想いが砕ける音────
怒り、悔しさ、哀しさ……色んな感情が、一気に込み上げてくる。
「……めろよ。やめろ……!!」
抑えつけようとしてくる義父の身体を、麒麟は渾身の力で突き飛ばした。丁度玄関ドアを塞ぐ形で義父がよろめいたので、一先ずリビングの方へと逃げる。
取り敢えず、亮太か月村に助けを求めよう。電話さえ繋がれば、異変に気付いて貰えるかも知れない。
そう思ってリビングのドアへ手を掛けた瞬間。
「ぐ……っ!」
背後から伸びてきた義父の腕に握られたネクタイが、麒麟の首へと引っ掛かって、そのまま容赦なく締めつけられた。
「ぅ……あ……ッ!」
必死に自分の喉を掻き毟るようにして逃れようとするが、ネクタイが喉に食い込んで指すら入らない。おまけに息苦しさで、段々力も入らなくなってきた。
「一体いつから、そんなに聞き分けの悪い子になった?」
麒麟の首に回されたネクタイを強く引っ張った義父に、床へと身体を転がされる。そこでやっと首のネクタイは解かれたが、急激に流れ込んできた酸素にゴホゴホと咳き込んでいる間に、義父の身体が圧し掛かってきた。五年前の、あの夜が蘇る。
「……少し匂いが変わったな。さては、発情期を迎えたのか? 私の居ないところで?」
どこを見ているのかわからない眼差しで麒麟を見下ろしながら、義父の手が無遠慮に麒麟の身体を這い回る。余りの嫌悪感に吐き気がした。
「やめ……っ! なんで、こんなことするんだよ……! アンタは母さんの────」
「ああそうだ、夫だった。……形だけの」
「……形、だけ……?」
「そうだよ。お前の母親は私と結婚するとき、ある条件を提示した。それはお前たちの生活を保障することと、お前を高校まで卒業させること。だから私も彼女に条件を出した。番にはならないことと、それから籍は入れないことだ。お前の母親はそれでも、お前の生活と教育を選んだ。……私の提示した条件の真意も知らずに」
「真意……?」
嫌な予感に、全身の肌が粟立つ。その予感を確信に変えるように、義父が歪んだ笑みを浮かべて麒麟の耳許へと口を寄せた。
「お前の母親と番ったり、籍を入れてしまえば、お前と番えなくなるだろう?」
「────ッ」
余りの衝撃に、麒麟はただ息を呑んで目を瞠ることしか出来なかった。頭を鈍器か何かで思いきり殴られたような気分だった。
……義父は、初めから母のことなんて見ていなかった。そして恐らく、母もそれを承知していた。
ただ、真っ当な生活を送ることが難しいΩである麒麟の生活を守り、教育を受けさせる為だけに、この男と結婚する道を選んだのだ。義父が、歪んだ欲望を抱いていることなんて知らずに────
眦から、激しい悔しさが溢れて零れ落ちた。
麒麟の零す涙を見て、義父が喉の奥で嗤う。
「お前が泣くことはないよ、麒麟。私と番えば、お前の生活は今後も保障される。私とお前の子なら、きっと優秀なαが産まれるはずだ……」
うっとりと夢でも見ているような口調で囁いて、義父の舌が麒麟の涙を舐め取る。腹の奥から湧き上がる怒りと嫌悪から、麒麟は思いきり義父の顔を張り倒した。
「……この、ゲス野郎……!!」
張られた頬を手の甲で押さえた義父が、ゆっくりと麒麟に向き直る。直後、鼓膜が破れそうな勢いで頬を叩かれて、痛みと衝撃に一瞬視界が揺らいだ。
「親に手を上げるような子に育てた覚えはないよ、麒麟」
「俺だって、お前みたいなヤツに育てられた覚えなんかない……!」
見下ろして来る冷えた瞳を必死に睨み返しながら、麒麟はどうにかして義父の下から這い出そうともがく。これ以上、指一本も触れられたくなかった。
殴ってでも蹴ってでも、とにかく逃げ出してやろうと腕を振り上げた、そのときだった。
────ドクン
突如、麒麟の心臓が大きく脈打った。
覚えのある感覚に、まさか、と麒麟は青褪める。
ドクン、ドクン、と次第に強くなる鼓動に、じわじわと熱を帯びてくる身体。浅くなる呼吸。
ついひと月半前に味わったばかりの発情期の症状に、麒麟は動揺のあまり抵抗する手を止めてしまった。
通常、Ωの発情期は早くても三、四ヶ月に一度だと聞く。けれど、麒麟は先日初めての発情期を迎えてから、まだひと月半しか経っていない。
(なんで……!?)
動悸の激しい胸元を抑えながら、麒麟は月村に言われた言葉を思い出した。
『君が信じて飲み続けていたこの薬の所為で、当分は発情期の間隔も却って不定期になるかも知れない』
……まさか薬の所為で、発情期がこんなにも早まったんだろうか。
だとしても、いくら何でもタイミングが悪すぎる。
今だけは駄目だ、とどうにか火照る身体を誤魔化そうとした麒麟だったが、αである義父が、発情期に気付かないはずがなかった。
「この匂い……! 想像通りだ、なんて良い匂いなんだ……! 私が来た途端発情するなんて、これはもう運命としか言いようがない……」
麒麟の出すフェロモンの所為なのか、恍惚とした表情で息を荒げる義父が、堪らないとばかりに麒麟の首筋へ顔を埋める。
「ん……っ!」
頭では必死で拒んでいるのに、首筋の薄い皮膚を舐め上げられて、ゾクゾクと麒麟の背を覚えのない感覚が這い上がる。
「……ぃ、やだ……いやだ……ッ」
頭を振って逃れようとしても、身体に力が入らない。それどころか、義父の手や唇が触れる箇所から確実に熱が高まって、身体が勝手に反応する。
「Ωの発情は、理性でどうにかなるものじゃない。安心しなさい、私と番えば、これからは発情するたびにお前を気持ちよくしてやれる」
シャツの裾から入り込んできた手に素肌を撫で上げられただけで、ビクビクと身体が跳ねて、麒麟は恐怖に震えた。麒麟の意思とは全く無関係に、義父の手に快感を求める身体が怖くて、ガチガチと奥歯が鳴る。このまま本当に義父と番わされるのだろうかと思うと涙が溢れた。
(……助けて……熊谷さん……!!)
辛うじて残った理性で項を両手で庇いながら、麒麟がギュッと目を伏せた、その直後。
バタン!、と派手な音を立てて、突然玄関の扉が蹴り開けられた。
麒麟は勿論、麒麟の胸元をまさぐっていた義父さえも、思わずといった様子で玄関を振り返る。
玄関口には、書類の束を小脇に抱えたスーツ姿の男が立っていた。軽く後ろに撫でつけるように整えられた髪に、精悍な顔立ち。鍛えられた身体を覆うスーツの胸元で光る、弁護士バッジ。
いつものボサボサ頭や無精髭がすっかり綺麗になっていて、麒麟も一瞬誰だかわからなかった。
見慣れたガラス工芸家ではなく、敏腕弁護士の姿をした熊谷が、まるで麒麟の心の叫びを聞きつけたように現れた。
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